なべたにさんの2007年2月5日のレポート

当日、市職員とガードマン達が入ってきて並びだし、代執行令書を読み上げてた頃、舞台は、「ひとりぼっちの夜」で始まった。これは、シナリオにはなかった。なんでこうなったかちゃんと憶えてないが、役者全員で舞台に上がって歌ってた。


ひとりぼっちの夜には 鼻歌をうたおう
さみしい気分は飛んでゆく お月様が見てるよ
山の向こうまで 聞こえる声で言うよ

あなたが 好きです!

だけど・・・


これから力でここにいるみんなを排除しようとするひとびとに向かって、おもいっきり、好きってゆったった。対話を拒む、あたしたちを否定しようとしてくる、そうせざるをえないひとびとに向かって、ちからいっぱい呼びかけた。歌い終わって舞台を降りて、めちゃくちゃ泣いた。芝居はこれからなのに、なんか終わった気分だった。


3年前、1回目の長居の大輪まつり。そこには、京都や大阪、名古屋とかから、野宿しているひと、そこで起こっている問題にこころを寄せているひと、そんなひとが集まって、音楽やパフォーマンスで、まつりをつくりあげた。そこで出会い、つながったなかまから、芝居をやりたい、という話が出たのは2回目の大輪まつりのあたりだったと思う。それぞれ、音楽をやっていたり、すでに表現の活動をしていたひともいれば、あたしのように野宿のことに関わっていただけのひとも、そして長居や大阪城公園などで練習をしてくうち、そこで見ていた長居のなかまも出ることになった。


同じ頃、うつぼと大阪城公園の一部のテントに対して撤去の圧力が強まり、結果翌年1月30日に行政代執行を迎えることになった。そのときも、芝居に関わるメンバーのほとんどが現場に居て、テントに住む知り合い・友人とともに過ごした。それから約1ヵ月後に京都でやったその芝居「あさやけやけて」には、扇町や西成公園、長居や元うつぼ・大阪城のみんなも見に来てくれ、あたしらはここにいる!というメッセージが詰まった芝居になっていた。その中でうたった歌のひとつが「ひとりぼっちの夜」だ。芝居メンバーのひとりで、芝居時期と同じ頃たまたま長居に越してきたうたうたいの子がつくった曲だった。その芝居が終わってからも、長居でその子が歌ったりして、長居のテント村でよく口ずさまれるうたになっていた。

今回の芝居にはテント村から5人が役者として参加していた。近くで居宅生活をする元野宿のなかまも1人。そして、テント村の住人の友人である若者ら7,8人だろうか。とひとくくりに言っても、それぞれいろんな縁・つながりで集まってきたなかまだ。野宿の問題に日常関わっている者や、長居の畑を通して長居に来るようになった者、近所に住み、遊びに来るようになった者。芝居はこれまで大晦日の長居のもちつき大会、代執行前の1月21日のプチ大輪まつり、と2度上演されている。そのとき出ていて、代執行当日はいろんな事情から出られなかった子たちもいる。でも、彼らも当日、現場に駆けつけてくれていた。


「おまえはそこにいる。ということはおれとつながりがある。ということで、おれとおまえは友達だ!」

「作業の妨害となりますので、ただちに作業区域より退去してください」

「あ?つながりがないだと?あるじゃねーかあるじゃーのん!」


「おれは全世界・人類を愛してるの!」

「危険です。作業の妨害となりますので、ただちに退去しなさい」


「なぁ、ともだちよ。おれはアンタを友達と呼ぼう。それでいいじゃないか。そしておれのことを友達とさえ言ってくれれば、おれはアンタ、そう友達を、おれの命にかえても守り抜く!」


マイクを通した職員の無機質な声と、みんなの芝居の振り絞るようなセリフがからんで、そこはなんともいえない空間になっていた。

芝居は結局1回やりとおしたのち、2回目のときに役者のみんなのテントが壊されはじめ、そっちに向かったり、スクラムから引き抜かれそうになったひとが出たりで緊張状態になり、ストップしてしまった。有無を言わせないちからに対し、たたかわないための芝居。相手をクスッとさせたり、こっちの世界に引き込むための芝居。わぁわぁ怒鳴るのではなく、違う表現で自分達の思いを伝えたい、という芝居。いろんな側面があったと思うし、それぞれが芝居を通してやりたいことも完全に一致してたわけではないやろう。

ただ、決して、野宿者と支援者でつくった行政批判の芝居、ではなく、そこにあるコミュニティ、つながりのあるなかまでつくった、自分達の思いを伝えるための芝居、の方があたしにはしっくりくる。そもそもそこのテント村に住む当事者が芝居をやっていたんだ、という報道がほとんどなかった。「ホームレス」を、なにかをつくり出す主体だ、というふうに認めないメディア、社会。集まったひとにしても、東京や名古屋や横浜から、そして関西一円からそれぞれの思いを持って駆けつけたひとりひとりが、わけのわからない支援者だ、という風にひとくくりにされる。カンカン労働をしながら、アオカンをしながら応援に駆けつけたひと、不安定な労働をしながら食ってるひと、先の見えない不安を抱える学生、「運動」や「活動」をしているひとやって、そんなひとばっかりや。やからおかしいと声をあげてるんやろう。

あたしらは、ケンカしながら、笑いながら、泣きながら、怒鳴りながら、練習を重ね、最後には、芝居をやりとおしたい、というその一点のみで、撤去の瞬間まで、芝居に集中していた。テント場では、荷物を運び出したり、行き先を考えたり、仕事をしたり、ごはんつくったり食ったり飲んだり、メディアもいっぱい来る。お客さんもがんがん来る。そんな中、練習の時間をつくって、セリフを覚え、考え、アレンジし、そのエネルギーはすごかったのだと、本当にすごかったと思う。


最終的にテント村に残っていたのは7人で、うち1人は最後まで自分のテントにいた。その彼の移転先に会いに行くと、冗談の合間に「芝居やのうてテント守れよ」とか言われた。そうやでふつーテントを守りたいやろ。でも、みんなは芝居を選んだ。もう1人、最後まで残った人は、自分のテントではなく舞台のまわりに居てた。その人はプチ大輪まつりのときに一度芝居を見ていて、「せめて芝居の最後まで邪魔せずにやらせてくれたらいいのに」と代執行の前にも公園事務所にそう話した、と教えてくれた。「みんなものすごい頑張ってたのに」と。