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2026年3月17日(火)

 うーん、しんどい。。

 あー、僕自身の当事者性をどう位置付けるかが見えてこないんだな。

 あー。うーん。出来事は出来事としてあるが、それを出来事として理解する時には必ず歪められてしまう。歪めながらでしか理解できない。だからその歪みを読み解くことが必要となる。

 これは人の認知能力のたどる当然の帰結だが、普通はそれを忘れていることも含めて災いの種となる。

 常に歪みがある以上、読み解くことは常に可能である。ただ読み解けるかどうかが課題となるだけで。

2026年3月10日(火)

 うーん、苦しい。

 しかしまあ、投げ出せるわけでもなし、苦しみなしで到達できるものもなし。

2026年3月9日(月)

 何か大きな理解が訪れているようだ。

 根本的なところで世界の見え方を変える気付きの依代がすでに用意されているということなのだろう。

2026年3月6日(金)

 全然余裕ないな。1)統治のあり方が変化したという話。2)それぞれの時期に誰が何に対応していたか。3)現在どのような状況にあるか。

 状況の変化を枠組みに入れないとダメだな。

 労働運動の時代があり、野宿者問題への対応をめぐる混乱期があり、対応が制度化された現在がある。

 それぞれの時代に誰が何をしていたか。そして現在何をしているかを見れば、通時代的な要素がとらえられるのでは。

 「釜ヶ崎の労働運動の中に野宿者運動の系譜を探る」のはいいとして、それを明らかにしてどうするのか。

 結局排除を止められない。反排除だけが等閑視されていく。反排除とはなんだったのか。「野宿者運動の系譜を探る」というより、釜ヶ崎の労働運動の中に反排除があるとしたら、それはどのような形であるのかを明らかにしたいわけだよな。

 なんとかなりそうだー。

2026年3月5日(木)

 やってると少しずつずれてきてしまうな。

 「寄せ場の労働運動が野宿者運動に切り替わった時期、それ以前とそれ以後について見て行く」というところを意識すればいいのか。

 まあ各団体の概要も要るか。

 しかし肝心なのは、それを見ていくことで何が分かるかだよなあ。

2026年3月4日(水)

 少しずつでも整理していかないとなあ。

 とりあえず寄せ場に問題設定をしぼって考えよう。まず方法論的に都市下層に直接的にアプローチするものではない。

 都市下層に直接的にアプローチした研究というのは具体的には何になるのか。都市下層を観察し、聞き取りをして都市下層の立場から考察した研究というのはあるだろう。しかし研究だって、相手そのものになれるわけではない。

 どこかに代弁の水準があるのだから、その限界を意識しながら語りかたを工夫するしかない。そういう意味では研究者も活動家も変わらない。また、当事者と言っても多様なはずで、誰かがその代表を務めることがあったとしても、やはりどこかに「代表の水準」のようなものはある。

 まあだから遠慮せずに活動家の語りを手がかりに寄せ場を論ずれば良いということになるか。

 それは寄せ場の現在にも関わることになる。運動との関係なしに寄せ場の現在を示せなくなっている。そのこと自体を批判的に提起する必要がある。

 全体の枠組みではなく自分のところをまず考えよう。

 「野宿者運動の系譜を寄せ場の労働運動の中から探る」みたいなことは最初から依頼文に含めてあったのか。ならそこをしないとおかしい。

 寄せ場の労働運動が野宿者運動に切り替わった時期、それ以前とそれ以後について見て行くということになる。

 その団体についての活動歴として見ていくとしても、語り手の関わり、語りをある程度組み込む必要はある。

2026年3月3日(火)

 疲れが取れていない。昨日も大して休んでないし、無理か。

 金曜日はわざわざ夜中に本を買いに行ったんだっけ。そして土曜日、日曜日と飲んでいるし、月曜日もあれこれしていたのだから、まともに動けるわけはないのか。

2026年3月1日(日)

 当事者性にこだわりすぎない方がいいというのはそうなのだろうが、反排除の野宿者運動の隘路がそこにあるわけだから、意識しておく必要がある。ただ、寄せ場のみを語る時には強調する必要はないということか。

2026年2月27日(金)

 状況が変わるとそれまで言っていたこととはまったく異なる方向から言説を導き出してくる力学を松田素二の生活環境主義の論文とか、三浦先生の評論の論文では扱っていたんじゃないか。

 後期の講義はどうしてうまく乗れなかったのかなあ。

 整理しきれていない過去に関わる構成になっていたからかなあ。

2026年2月26日(木)

 こういうことに時間を費やす余裕がなかったのは確かだけど、こういうことに時間を費やすことに意義を見出したのも今だからだろう。

 単なる教養として知るのは無理だったんだろうな。

 行動様式は変わらず、表現の手段が違うだけなのだとすれば、何がその行く先を変えるのか。

 コモンズ論に寄せれば、どのような価値を誰と構築するのかというところにあるのだろうけど。

 では、なぜ今になってなのかは考えておく必要があるだろう。

 経験が一回りしたということはあるのかもしれない。

 認知革命をどうとらえるか。認知能力を超える勢いで知識があふれかえる。しかし、知識を得なければ社会を作ることができない。

2026年2月17日(火)

 結局僕はどうありたいのだろう。最初からフィールドワーカーになりたかったわけではないし、フィールドワーカーでありたかったわけでもない。それ以前にこうありたいというものがあって、それに近づくための修練ないし代替案としてフィールドワーカーとしての成熟をひたすら追い求めてきた。

 フィールドワーカーとして成熟するためにはフィールドワークの成果を学問として成立させると必要があり、そうする過程ではフィールドに対して誠実である必要があり、フィールドに対する誠実さが呼び込む面倒なことはまた別の課題として独立して混乱を招くようにもなる。

 どうありたいかは分かっているのかもしれない。しかし、それが現実にどうあることなのかは分からない。だからその理解に寄与する総合的かつ融通無碍な理解のノウハウとしてのフィールドワークを選ぶのが必然であった。もっともフィールドワークの成果を学問として成立させることは、業界の都合に合わせる必要があったからで、それ自体は本来の目的ではない。

 すべてはつなかったものではある。ここ最近の自分の用語で言えば依代なのだ。すべてを依代として解釈の手がかりとするためにフィールドワークがある。これは学問と切り離されたところでもそうだし、だからこそフィールドワークとは生き方の問題であるというのも嘘ではない。

 「どうしてそれができなくなっていたのか」という方向から考えてみるのもいいかもしれない。

 もっとも、それがいつだってできていた時などないのかもしれないが、つゆとてできない状況に陥っていたとすればまったく別の問題である。

 理解を阻むものや判断を保留させるものがあまりに多かった、あるいは大きかったからだろう。それは必ずしも能力に欠けていることを意味しない。障害を障害として意識できることもまた理解力のなせるわざではある。

2026年2月15日(日)

 大丈夫、僕は自分の力に守られている。自分でそれを損なうようなことをしなければ。

2026年2月10日(火)

 戦前、戦中、戦後史に加えて知識階層のあり方というのも関わってくるだろう。

 教養というものを定めて共通基盤としようとした人たち、共通基盤としてきた人たちがどのようなあり方をしてきたのか。

2026年2月3日(火)

 何でもコモンズと言おうとすれば言えてしまうから、なぜコモンズ概念を使うのかをしっかり考えておかないといけない。

 せめぎ合いをつかむための概念か。

 そのせめぎ合いに意味を見出すための枠組みが別に必要になる。

2026年1月28日(水)

 混乱か。

 大きな転換点が見えるでもなく、局面は変わっていくのか。

 ああ、いろいろ見えるようになってきた。よくここまでたどり着けた。

2026年1月27日(火)

 考えるべきはじゃあどうしたいのかってことだろう。

 やりたいことをやる力も機会もすでに手元にあるとして、ずいぶんと時間は経ってしまった。それでももう遅いということはない。ないけれども、活かし方を考える必要はあるだろう。

 FTPManagerの中で新しいファイルを作ってコピペしても文字化けしなくなった。なぜだ。

 つまり、もうああいうものに付き合う必要はないんだなと分かった、そう思えるようになったということ。能力の限界はもちろんあるだろうけど、問題はそういうことではなくて、自分に責任があるわけではない他人の問題を気にかけて取り違える間違いはもう犯さないようにしようということだ。

2026年1月25日(日)

 ちょっと休もう。無理だろう。

 ふー。なかなか大変だ。狼狽えずにやっていかないと。

 うーん、混乱していることを少しずつ正して行かなくてはとは思うが、気が散って仕方ない。

 寒いし、眠い。

2026年1月21日(水)

 ふー、がんばれない。

2026年1月13日(火)

 再配達を待つ時間の長さ。

2026年1月11日(日)

 お互いに自分たちの失敗を受け入れていないから、相手を認められないのか。

2026年1月9日(金)

 やばいなおい。

 主題が何なのか分からん。だから詰め込みすぎなのか。

2026年1月8日(木)

 やめたいと言いつつ、格好つけて現実的な判断にまでは踏み込めなかったということだろうか。

2026年1月6日(火)

 2014年9月3日「まち・ひと・しごと創生本部」を閣議決定、11月21日「まち・ひと・しごと創生法」ほか地方創生関連2法案が成立、創生本部の法定化。その年末に「まち・ひと・しごと創生長期ビジョン」「同総合戦略」が閣議決定、政策の具体的な方向性が示され、補正予算によって具体的な事業がはじまる。

 仕事がないではなく成り手がいない。それなら、その仕事を魅力的なものにすることがすなわち仕事づくりにもつながるのではないか。

2026年1月3日(土)

 いくつもやらないといけないことはある。

 たどり着きたい場所はどこなのか、自分で決めなければいけない。そうでなければいつまでもさまよい続けるだけだ。もう終わらせなければならない。

 そういくつも手ごまがあるわけでもない。

 この期に及んでこれまでのように乗り越えなければならない試練もない。もう終わりは見えている。

 コモンズを語ることはモラルを語ることでもあるのだろう。

 理論的な大枠としてコモンズを語れるようになる必要はある。

2026年1月1日(木)

 全然毎日更新じゃないな。

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