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2026年9月5日(土)

 答えはいつも心の中にある。

 というより、より正確に言えば、答えの中には心が必ず潜んでいるのだと思う。

 なぜそれを問わねばならないのか、答えを求める心がなければ問いも存在しないのだから、心がとらえるのでなければ答えもありえない。

 うっかりすると答えは問いによって技術的に引き寄せられるものだと考えてしまう。しかし、実際には答えとは問いに合わせて作り上げられるものだし、実際に作り上げられるところに答えの答えたる所以がある。

 集められたデータが指し示すものが答えであることは確かだが、それらは集められなければ何も指し示さなかった。データを集めようとするところにすでに根拠はあって、その根拠を炙り出すために答えを出す必要がある。

 えーっと、つまりこれはフィールドワークのデータをどう位置付けるのかという技術的な問題を整理しようとしているわけだが、「こういう資料が必要だ」「こういうふうに資料を見ていく必要がある」という着想そのものはフィールドワークの中から立ち上がっている以上、そこを切り離して抽象的な枠組みで資料を読み解いて良しとするのは、答えというものの性質を取り違えてるよねと言えるようにしておきたい。

2026年9月4日(金)

 言葉をどこに落とせばいいのか分からない。

 どこかで一区切り付けなければいけなかった。それがいつになるのか、2019年あたりには当然見えていない。

 それでも無理やりにでも書かなければならないタイミングではあった。

 排除に腹を立てなければならないのはなぜか。

 膨大なデータ。自分で取りためなければ得られないデータ……と言っていいのだろうか。

 自分で記録したものを自分で分析している。手間が2度かかるうえに、2度目にたどり着くまでの道程も長い。

 自分で記録したものを他人が記録したものと同じように分析するためには、自分の執着を無くさなければならない。執着という執着をすべてデータ化しなければならない。

 自分で記録したデータの有効性は拡張性の高さにある。しかし、「これ以上は何も思わない」ところまで拡張しつくさないと曖昧さが残って分析にかけられない。

 だって、自分の為の思想ってないし、「こういう風にすれば通っていくかもしれないからそういう風にする! ただ自分だけで分かるのじゃいやだ! 多分これがみんなで昔ワイワイガヤガヤ言ってたことの答の一つかもしれないから、とりあえず提出するけど」って、そういう形で、一般的でもありながら個人的でもあるようにっていう両方の構成で書いちゃったんだよね。
 でも、そういうことって、あんまりみんな理解してくれないんだよね。なんかとんでもないヒドイ言われ方しちゃったなあ、っていうのがあって、まあ、悔しいは悔しいんだけども、とりあえずここで自分の思想っていうのが出来ちゃったから、「ああ、ここによっかかってればすごく楽だ」っていう風になっちゃったから、制度に縛られなきゃ何か出来ないっていうことが、僕には分かんないのね。ルールって、自分で作ってけばいいんだし、ルールを作ってくには、一歩をまず踏み出してしまったその足が何を、どっちの方向を指すかっていう、そういう方向が分かってさえいれば、ルールになるものが自から出てくるものだもん。それを信じてるのが人生なんだもん、っていうのがあるから、自分の論理っていうのは自分の生きてく方向にすっと出てくんだよね。(橋本治『僕たちの近代史』1988年、主婦の友社、pp.204-205)
 僕達はなんでそれが可能だったんだろうっていったら、原っぱがあったからなのね。なんの意味もないただの空き地だったんだけど、僕達がそこにいることによって、そこが僕達の世界に変わってった。だからつまり、世の中がいくらぎゅっと縮まってっても、原っぱがありさえすれば、そこにいさえすれば、人間って、なんとかなるようなものっていうのは作れるかもしれないと思うのね。だからその、みんなで作ってく混沌を平面に存在させる場所っていう、そういう原っぱっていうのがなくなっちゃ駄目なんだよね。でそれは、原っぱじゃなくても、一つの概念でありさえすればいいと思うのね。(前掲、pp.207-208)
 〈原っぱの論理〉っていうのは、場所の論理であって、人の論理であって、時間の論理であってって、その三つっていうのが全部一つであるっていうのは、自分っていうのは色んな要素から出来上がってるから、“色んな要素の中の何か一つ”ではなく、色んな自分――その自分の手を取ってくれる他人っていう形で広げていかないかぎり、目って何も見えないと思うの。(前掲、p.212)

2026年8月25日(火)

 疲れてるだけだな。

2026年8月18日(火)

 呪いを解除する仕掛けというわけか。

 そして、それは呪いであったと。

 呪いが祝福にはなるまいね。

2026年8月17日(月)

 今は考えるのやめないと。もう完全にエネルギーはゼロだ。昨日までのことしか考えずにひたすら動いていたから、このタイミングでこうなるのは当たり前。

 こういう時に潔くスイッチをオフにしてしまえない。何もできない、何も考えられないのに。

 ちゃんと休めばこんな状態がずっと続くことはない。無理せず休めばいい。

 この1週間で文化の違うところをいくつも渡り歩いたから心がびっくりしているのかもしれない。

2026年8月7日(金)

 うーん、なんだか気が狂いそう。

 なかなか体調はよくならないし、やることばかり。

2026年7月31日(金)

 うーん、まったく頭に入ってこない。

 少しずつとらえ方を変えていこう。

 やることをただこなしているだけで、やり終えても何もやりようがないのはつらい。

 ある程度の安定がなければ、考える余裕もなかったのか。

 というか、安定というのは必ずしも経済的なものではなくて、いつ、どれくらいの力が捻り出せるのか予測できないとがんばりようがないってことだ。

2026年7月5日(日)

 何でかわからないけど、少し落ち着いた。

 大切なのはまず集まることが楽しいということ。集まって楽しい人たちの暇つぶしがまちづくりになり、組織として支えるようになる。

 フィールドワーカーはやはりどこまでも物事の根本に立ち返る。忘れ去られてしまった、失くしようもない本質を呼び起こすのがフィールドワーカーの役割なのだ。

 どうしたらその楽しい場所を作れる? それはセンスと技術によるものだ。

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