フィールドワーク論

第8回 『方法としてのフィールドノート』を読む

■フィールドノートの魔術

 今回は『方法としてのフィールドノート——現地取材から物語作成まで』という本を見ていきます。

 この本はまずタイトルがいいなと思います。原題も“Writing Ethnographic Fieldnotes" で、エスノグラフィーを書く技術として、フィールドノートに注目した本なのだと分かります。

 フィールドノートという言葉には、フィールドワークという言葉と同じような魔術的な力を感じます。私が学部学生の時に移籍した人類学ゼミでは、フィールドワークに出る際に深い緑色のハードカバーの手帳が支給されていました。

 商品名としてはコクヨの「測量野帳」というもので、表紙には金字で「SKETCH BOOK」と書かれています。縦長の細い手帳で、中のページには水色で3ミリの方眼が入っています。

 最近では、これの装丁違いのカラフルな手帳がおしゃれな文具屋に並んでいるのを目にするようになりましたが、昔はこんな手帳はふだん見ることがなく、これを持っていると、いざフィールドワークに挑むのだという気持ちにさせられました。

 しかし、この手帳をフィールドワークの時に使うかというと、私立探偵か刑事のように聞き込みをするわけでもなく、きちんとした記録をつけるには小さすぎるので、あまり使わなくなりました。

 一日の終わりに調査の日記をつける時にはコクヨのB5のキャンパスノートを使うようになったし、今ではスマートフォンでDropboxと連携できるテキストファイルのエディターアプリを使うようになっています。

 この手帳の支給はゼミの先生が学生を惑わすためのトリックでもあったのだと思います。それでも、今でもこの手帳には愛着があります。

 しかし、はっきり言って、フィールドノートを書くというのは地味で地道なつらい作業です。それでもフィールドワーカーはフィールドノートを書くしかないのです。

 簡単なメモを取るだけでは、後で見ても何が何やら分からないので、ある程度まとまった文章の記録を書く必要があります。現地で資料を集めたり、写真を撮ったりすることもあるでしょうが、それらがどのような性質のものであるかも、結局は文章化しておかないと把握できなくなってしまいます。

 思えば、フィールドノートという言葉に魔術的な作用があるのは、その正体が地味で地道なつらい作業であるがゆえなのかもしれません。地味で地道なつらい作業でしかないフィールドノート作成が、世にも見事な面白いエスノグラフィーにつながっていると思えばこそ、そこに魔術的な力が宿っていると思い込みたくもなるのでしょう。

 それでも、フィールドノートをテーマにした本となると、魔術的な力を引き出すようなフィールドノート活用法があるのではないかと期待が高まるのがお分かりでしょうか。

■本としての使い勝手

 しかし、結論から言うと、期待だけかきたてておいて、この本はほとんど役に立たなかったなと苦々しい思いがあります。私自身は結構一生懸命この本を読んでいた時期があったので、余計そう感じるのかもしれません。

 今回読み直していて、大学の院生室でこの本を精読していたら、遊びに来た別の教室の友人が見るなり、「その本、全然使えないよね」と言うので、脱力したのを思い出しました。また、大学院の先生の研究会で交流のあった別の大学の先生からも、別の機会に「あの本参考にならないよね」という評価を聞いたことがあります。

 もちろん、この二人や私の受け止め方だけでこの本の評価が決まるわけではありません。巻末の訳者解説では、この本の活用法や、なぜ翻訳しようと考えたのか、その背景が紹介されています。

 訳者の一人である佐藤郁哉さんは、大学で現場調査の実習を行なう際に、学部生にも手軽に使えるマニュアルが無いために、不便を感じていたそうです。そんな時に、この本の著者の一人であるエマーソン教授から譲り受けた、この本が刊行される以前の授業資料段階の草稿がとても役に立ったのが翻訳に至る経緯であったと語られています。

 なるほど、すでに本人がフィールドーカーとして十分な訓練を積んでいて、学部生を指導する際の教材として重宝したという話なら分かる気がします。しかし、初学者がこれを読んでフィールドノートから最終的な報告書の完成までたどり着く参考になるかと言われると、かなり厳しいと思います。

 今の私が読んでも、この本を読み通すのにかなりの労力を要します。訳者自身が解説でこの本の活用法を付け足していること自体が、そのことを物語っているように思われます。

■基本的な姿勢

 この本の構成を外観するには、まず目次を見るのが良いと思います。

第一章 民族誌的調査におけるフィールドノーツ
第二章 現場で——参加し、観察し、メモを書く
第三章 フィールドノーツを書きあげる(一)——現場から書斎へ
第四章 フィールドノーツを書きあげる(二)——ページ上に場面を再現する
第五章 メンバーたち固有の意味づけを明らかにしていく
第六章 フィールドノーツを加工する——コーディングとメモをとる作業
第七章 民族誌を書く
第八章 結論

 目次をざっと見るだけで、メモをつけるところから始まって、フィールドノートをまとめ、徐々に分析を進めていって、最終的にはエスノグラフィーを完成させるまでの手順を扱っているのであろうことが分かります。

 第一章には、そもそもフィールドワークとは何か、その最終報告書であるエスノグラフィーとはどのようなものであるかといった、基本的なことがまとめられています。

 この章に書かれていることは、とても共感できました。例えば次のような記述です。

フィールドワーカーの仕事は、現場に出かけていって他者の活動や日常の経験に密着するところにある。「密着」というからには、現場の人々の日常的な生活と活動に物理的にも社会的にも接近することが最低限必要になる。つまり、他者の生活における重要な場面や状況を観察し理解するためには、そのただ中に身を置くことができなければならないのである。[Emerson, Fretz and Shaw 1995=1998: 24]

 これまで、参与観察にこだわる理由は、状況に巻き込まれなければ明らかにできないことをとらえたいがためであることを繰り返し言ってきましたが、同じことがはっきりと書かれています。

 また、次の箇所では、観察者である自分自身にも意識を向ける必要性が強調されています。

フィールド調査における現場への溶けこみには、他者とともに生活と行動をともにすることによって、出来事が起きる時に他者がどのようにそれに対して反応するのかという点について観察する作業と、自分自身でそれらの出来事とその背景となっている状況要因を体験する作業の両方が含まれているのである。[前掲: 25]

 こういったことはフィールドワークにおいて基本的なことであり、当たり前のことであることが分かります。

 インタビュー調査に対する参与観察の有効性、必要性についても言及があります。

対象となる社会生活に参加している人々自身が、まさに社会生活というものがもつこのような側面について言葉で表現することについて意欲的でありまたその能力もある場合には、インタビューは有効なやり方であるかもしれない。[前掲: 41]
しかし、フィールドワークの真骨頂は、参加者の視点から行為を十分に理解し解釈するために、長い時間をかけて彼らの日常生活のさまざまな局面に密着して参加するところにある。[前掲]

 また、今回読み直してみて驚いたのは、私が後々に、別の本を読んでいて「これだ!」と興奮したのと同じようなことが、この本にすでに書かれていたことです。それはフィールドワーカー自身の感情に関することです。

このような見解からすれば、「個人的な」感情や反応をも含むフィールドワーカー自身の行為は、他者が関与している出来事や事件とは独立であり無関係であると見なされる。この場合、他者が関与している事柄の方は、フィールドノーツには「知見」や「観察」として記録される。[前掲: 45]
この種の区別にとって前提になっているのは、「主観的な」反応や知覚は、「客観的」で冷静な記録と切り離されることによってコントロールできるし、またそうすべきだという仮定である。[前掲]
そのようなコントロールはフィールドにおいて必須の条件であるとされるのだが、それは個人的で感情的な体験というのは無価値なものであり、その場における重要なプロセスについての洞察を導くというよりは客観的なデータを「汚染」するものであると考えられているからである。[前掲]〔下線筆者〕

 これを読むと「個人的で感情的な体験は、客観的なデータを汚染するものではなく、その場における重要なプロセスについての洞察を導く価値のあるものである」と言いたいのだと思うのですが、この本は決してそのような書き方をしません。

 この本には「おっ」と思うようなことがところどころ書かれているのですが、その箇所を読み進めていくと、わざとやっているのかというほど、話が脇道に逸れて、もやっとした気持ちにさせられることが少なくありません。

 もちろん、フィールドワーカーの感じたことがそのままフィールドの人々の考えや行動を説明するものではありません。それは、あくまで事情をよく知らないアウトサイダーの偏見まみれの勘違いであるかもしれないし、仮に当たっているとしても、それだけではその根拠を欠いています。

 逆に言えば、根拠を用意すれば、フィールドワーカーが何を感じたかを理解のきっかけにしても構わないはずです。ある状況を記録に残せるのは、その出来事、その場面がどこか引っかかるものだったからです。意識にとまらないことは、そもそも気づくことがなく、気づくことのないことは記録することができません。

 おそらく、この本の著者たちも同じように考えているはずなのです。

フィールドワーカーが何を見いだすかは、彼がどのようにしてそれを見いだすかということと不可分に結びついているのである。したがって、このような意味での方法は無視すべきではなく、むしろ、フィールドノーツの中の重要な部分として記録にとどめておくべきなのである。つまり、自分自身の活動、その状況、そして感情的な反応を記録にとどめるべきなのである。というのも、これらの要素は、他者の生活を観察し記録するプロセスのあり方を規定するからである。[前掲: 44]
出来事の直後に書かれたフィールドノーツの中では、それぞれの出来事の独特の性質や性格が鮮やかに描き出されており、後になってコーディングと分析のためにそのノーツを再読する際にはそれらの出来事に関する鮮やかな記憶と生き生きしたイメージが喚起されるのである。[前掲: 49]

 「自分がその時、どう感じたかといったことも、後で分析する時の役に立つから、フィールドノートに書いておけ」とはっきり言えばいいようなものです。しかし、なぜかそういう言い方はしません。それゆえ、この本の記述はまどろっこしい、よく分からないものになってしまっています。

■書き方を教えてくれない

 参与観察のデータとはどういうものか、どう活用すべきかを力説した第一章があり、第二章からはいよいよフィールドノートの書き方に入っていきます。しかし、この本は、フィールドノートの書き方を教えてくれるようで、実は肝心なことはまったく教えてくれません。

 この本では「フィールドノート」ではなく、「フィールドノーツ」という複数形が用いられています。訳語・用語解説によれば、「調査地で見聞きしたことについてのメモや記録(の集積)」の全体を含むので、日本語としてはなじみはないけれど、「フィールドノーツ」を訳語としたということです[前掲: ⅸ]。

 第二章では、文章化された記録をまとめる前段階として、メモをつける行為について書かれています。

 ところが、ここでは「メモの付け方」というより、「フィールドでメモを取りにくい事情」ばかり書かれています。最初のページからして次のような調子です。

現場をただ単に定期的に訪問しているだけというのではなくて、現実にその場に住み込んでいるような場合、特にそれが言葉も日常の生活パターンも異なる非西欧圏の社会の場合には、その場で書くという作業は当面さし控えて現場に密着して参加する以外の選択はないかもしれない。[前掲: 57]

 また、メモを取ること自体がフィールドでは悪目立ちしてしまう懸念もあります。

彼らは、記録優先型のスタンスや記録行為が非常に人目につきやすいものであり、また対象者との関係に重大な影響を及ぼしかねないということに関して、かなり神経質になることも多い。[前掲: 61]

 とはいえ「記録優先型のスタンス」というのもありうるので、このやり方を取る場合のメモの取り方が解説されていくのですが、やはり書かれていることは「メモを取りにくい事情」にまつわることです。

オープンな形でフィールドワークをおこなうと、メモをつける上での時間、場所から、方法の面での自由度が増すものである。人の見ている前でメモをつけても構わない場合も少なくない。そのような場合であっても、現場における通常の人間関係やできごとにとって支障になったり、それらに干渉することのないよう細心の注意を払うべきである。[前掲: 66]
要するに、人前でメモを書くときには、それがその場で進行している社会的相互作用というコンテクストにとってどのような意味をもつかという点に十分配慮しなければならないのである。[前掲: 70]

 それなら「できるだけメモは取らない方がいい。それより目の前で起きていることに集中すべきだ」と言ってくれればいいようなものです。

 この章に書かれていることが面白くないわけではなく、むしろその通りだと思います。しかし、フィールドノーツの書き方という話からは遠ざかってしまっています。

■順序が混乱している

 後の章にも引っかかるところがたくさんあります。フィールドノーツを段階的に仕上げていく過程を扱っているような章立てになっているのですが、内容を見ていくと、必ずしもそういう順序にはなっていません。

 第三章が対象にしているのは、一日の終わりに日記ないしエピソードをまとめる段階です。

 しかし、書かれているのはやはり、フィールドノーツをまとめる際にかかわってくる様々な事情であったり、書かれた記録はどのような性質を持つのかといったことです。

 例えば「フィールドノーツを書きあげる際に誰に向け、したがってどのように書くべきなのかという問題」[前掲: 112]が指摘されています。しかし、この段階のフィールドノーツとは、自分自身の覚え書きであり、誰かに読ませることを想定したものではないはずです。この時点で「想定する読者のタイプ」について議論するのは急ぎすぎだし、混乱を招きます。

 いくつか見出しを拾っていくと、「目的と文体の多様性」、「話法と視点の多様性」、「『リアルタイム』の記述と『最終時点』の記述」といったトピックは、『フィールドワークの物語』の議論や、私自身が指摘してきた「どの時点の自分をどの時点の自分が見たものなのか」という話と重なるものです。

 しかし、このような議論は調査の直後のフィールドノーツをまとめる段階で気にするようなことではありません。分析を進め、解釈を深める段階で意識すればいいことであって、なぜここでそんな話をするのかさっぱり分かりません。

 第三章のまとめに「筆記モード」と「読解モード」の違いについて書かれているので、本当は著者たちも意識しなければならない段階が違うことは分かっているはずです。

実際にテクストができてしまった段階で、はじめて、フィールドノーツ全般にわたってみられる記述の複雑性について本当の意味で考察を加えることができるようになる。詳細なフィールドノーツがあってはじめてエスノグラファーは読解モードに移れるのであり、その記録内容が、出来事に対してどのように参加し、またどのように書くかという点について自分がおこなった暗黙のうちの選択によっていかに影響を受けているものであるかについて考察をめぐらすことができるのである。[前掲: 149]

 第四章は、自分の発見を読者に伝えるための「読ませるエピソード」を書き直す作業の段階を扱っています。最初の「自分用のまとめ」は覚え書きに過ぎないので、他人が読んでもよく分からなかったり、何が重要なのかが見えづらいものになっています。そこで、伝えたいことに合わせて場面を描き直す必要があります。

 しかし、「読ませるためのエピソード」を書き直すのは、すでに論文や報告書の筋が固まって、最終的な文章化をする段階であるはずです。したがって、この章のタイトルが「フィールドノーツを書き上げる」なのはちょっと変です。正確には「最終的な研究成果を構成するエピソードを書き上げる」だと思います。

 この章では、その完成版のためのエピソードには、どんな書き方がありうるのか、いくつかのタイプが例示されています。それは「対話」「人物描写」「スケッチ」「エピソード」といったものです。これらも、対象と自己の位置付けとして理解することができると思います。

 エピソードというのは、一つの場面で完結するものではありません。いくつかの場面を照らし合わせることで、その背後にある事情が浮かび上がってくるものです。

エスノグラファーは一般にフィールドノーツにおける物語を一つの統一された物語としてではなく、むしろ、互いに何らかの関連性をもつ一連のエピソードとして書くことになる。[前掲: 198]

 ここでは、そのような「一連のエピソード」をどのように配置していくのかが説明されています。また、単にエピソードを再現するだけでは伝えたいことを伝えきれないことがあるので、その場合はエピソードについての補足や解説を添える必要が出てきます。「わきゼリフ」「注釈」「同時進行的なメモ」がそれです。

フィールドワーカーはフィールドに入っていくと、当然のように自分が経験したり観察したことについて考察を加えたり解釈したりしはじめる。すでに指摘したように、フィールドノーツを書くという行為は、こうした解釈と分析のプロセスにスポットライトをあて、より効果的なものにする作業である。[前掲: 220]
さらに、選び出したエピソードや物語を読み返し、それらがどのような構造を作りだしているのかその効果に注目することで、自分がフィールドノーツの中の出来事や行為をどのように呈示したり、順番に並べたりしてきたのかについて考察を加えるようになる。[前掲]

 繰り返しになりますが、この章で扱われているのは、自分のための覚え書き的なフィールドノーツを読み返しているうちに得られた気づきにもとづいて、どのようにエピソードを書き直していくかといったことです。これは必要な作業だし、その通りだと思います。

 しかし、そのような気づきはどのようにして得られるのかは説明されていません。単にフィールドノートを読み返したり、書き直したりしていれば自然と浮かんでくるというようなものではありません。

■気づきはどのようにして得られるのか

 第五章と第六章は気づきを得るための視点と、気づきを膨らませ、整理していくテクニックを扱った章だと言えるかもしれません。

 第五章では、フィールドの人たちの間に見られる固有の意味づけを明らかにしていく方法について書かれています。フィールドの人たちの意味づけを明らかにするような記述の仕方を解説していると言ったほうが正確かもしれません。

 その際、注目すると良い場面についての指摘もあります。例えば次のようなものです。

メンバーが互いに呼びかけたり、あいさつを交わしたりする仕方は、調査者にとってもっとも容易に気づきやすく、また、いろいろなことがわかる種類の会話である。[前掲: 244]

 しかし、そういう場面を選んで読み返したからといって、気づきが得られるというものでもありません。ここで解説されているのは、気づきを得た際に、それを説明しようとすれば、そういった場面が手がかりになりやすいということであって、そこから気づきが得られるという話ではありません。

 第六章で解説されているのは、コーディングという作業です。コーディングというのは、要するにデータに目印をつけていく作業です。

 これも必要な作業ではあります。「こういう事例に注目していけばいいのではないか」という着想があって、関連しそうな出来事を拾っていく過程があるのは自然なことです。また、そうやってデータに目を通しているうちに、着想がふくらんだり、別の着想が得られたりといったこともあるでしょう。

 しかし、それはやはり着想、つまり気づきがあってのことなのです。気づきがあって、それをどう具体化するかを考えていくことは、さほど難しいことではありません。方法とは、目的に応じて取捨選択していけばいいものだからです。

 著者たちも、このことは分かっているのだと思います。第六章の終わりあたりに次のような記述があります。

たしかに、フィールドノーツを注意深くまた反省的に読む最中にはしばしばそうしたノーツに含まれるデータの中から「理論を発見」しているように思えることがある。しかし、実際には、ノーツに組み込まれた、フィールドワーカーが以前からもっていた分析的な立場や、読む作業に対してエスノグラファーが持ち込む理論的関心や立場、観察され書かれた他の「同様の出来事」との結びつきからのみ生じるのである。[前掲: 353]

 つまり、気づきというのはあくまでフィールドワーカー自身の内省的な営みなくして生まれるものではありません。そして、フィールドノートはあくまで内省的な営みの補助にとどまるものであり、気づきを発展させ、具体化していく手段でしかありません。そういう意味では『方法としてのフィールドノート』というタイトル通りの本だと言えるでしょう。

■フィールドワーカーの心得

 原題も“Writing Ethnographic Fieldnites”で、別に特定のフィールドノートの書き方や分析の仕方に従えばエスノグラフィーが書けるなどとは一言もいっていません。

 それでも、何となくこの本に期待してしまったのは、最初に述べたように「フィールドノート」という言葉の魔術のようなものに加えて、この本の分厚さと難解さが影響していると思います。

 この本が難解なのは、余計なことが書かれすぎていたり、説明の順序が混乱しているためだと思います。フィールドノーツをどのように付けるか、それをどう加工していくかという技術的な話なら、こんなに厚い本を書く必要はないはずです。

 もちろん、随所に書き込まれている「フィールドワーカーの心得」のようなものも、共感できるし、納得のいくものです。しかし、方法の話をしている時に心得の話を場当たり的に持ち込まれても、読みにくいだけです。1)

 おそらく、フィールドワーカーの心得のような部分は、どのようにして気づきを得ていくのかと関わっているのだと思います。しかし、この本には、どのようにして気づきを得るのかは直接的に扱われていません。

 「フィールドノートの活用法の本だから」といえばそれまでですが、あくまでフィールドノートの活用法の本に徹するスタンスを取ったのは、気づきの問題に直接踏み込むことを回避するためだったように私には思われます。

 フィールドワークとは何か、フィールドワーカーは何を目指すのかをはっきりさせた上で、方法の話に入っていけば、途中でいちいち脱線して心得の話をする必要など無かったのではないでしょうか。

 とはいったものの、この本の第一章は「フィールドワークとは何か」といったことを意識した内容になっていると思います。フィールドワーカー自身の感情の問題にも言及があります。しかし、その感情とどのように向き合ったら良いのかは語られていません。

 これには、「研究者の問題意識はさまざまだし、そこに枠をはめようとするのはおかしい」という反論があるかもしれません。しかし、本書自体が感情的な反応を無視すべきではないと述べています。

 つまり、フィールドワークにおける感情の位置付けについては、大切だと意識されつつも、なかなかこうと語りにくいものであるようです。(2023年4月18日(火)更新)

参考文献

Emeson, Robert M., Rachel I. Fretz and Linda L. Shaw, 1995, Writing Ehtnographic Fieldnotes, The University of Chicago Press, Chicago.(佐藤郁哉・好井裕明・山田富秋訳、1998『方法としてのフィールドノート——現地取材から物語作成まで』新曜社)

第9回 『感情とフィールドワーク』を読む

 

■別に読まなくていい今回の独り言

1)しかし、こうやって記述で知見を織り込もうとするところは、エスノグラファー的な志向の現れなのだろう。『フィールドワークの物語』にしても、結局、過剰な語り(エピソード)をつなぎ合わせて意味を浮かび上がらせようという、エスノグラフィーのテクニックを用いているし、それ自体パロディかユーモアのつもりなのかもしれない。それは、真剣ではない(お遊びである)ことの表れにもなってしまうけど。肝心なことを語ることを避けているから饒舌になるし、晦渋になる。