過去ログ
2019年2月

2019年2月28日(木)

 5時台に目が覚めたらのどが気持ち悪くてうえっとなる。

 続いてくしゃみが。花粉症の漢方薬飲んでみる。

 こっちは効き始めるまで少し時間がかかるという説明だったな。

 ひげそりの充電したのいつだったかな。先々週の土曜日か日曜日か。2週間もたなかったなと思ったのと、その日のうちに充電完了するようなタイミングで充電開始して、充電しすぎてしまった記憶がある。ということは17日の日曜日かな。

 びっくりするくらい仕事が進んでいない。いや、こんなもんか。

■論文 #5

 昨日の続き。しかし、僕の関心はそういうところともまた違うのではないかと昨夜寝る直前に思った。何だったっけ。

 文字通りの意味で、具体的な内容まで掘り下げた気づきではなかったかもしれない。

 野宿者運動については『寄せ場』の林論文というのもあった。

■新聞 #11

 ここ数日はとりあえず一面右サイドバーの目次から目を通すことにしている。

 図表付きの記事は、本文に目を通さなくてもポイントがつかめるようになっている。

2019年2月27日(水)

 花粉症の薬もらいに行こう。

■吉岡隆編、1997年『援助者のためのアルコール・薬物依存症Q&A』中央法規

依存症には、酒や薬物、食べ物のように明らかに何に依存しているのか分かりやすい「物質嗜癖」と、ギャンブルやカード、借金癖のように分かりにくい「プロセス嗜癖」、適切な対人関係の距離がとりにくい「共依存症」というものがあります。(吉岡隆編 1997: 10)

 ジョンソン(1990=2010)では、アルコール摂取が依存症になるには段階があって、酔いが覚めて気分がプラスから平常値に戻る段階から、マイナスにふれはじめ、飲んではじめて平常値になる段階に至ると説明されていた。

 ハームリダクション(Harmreduction)。

 酒を飲まなければ平常値に戻れない人が酒をやめて平常値に戻ることができるというのはどういうことだろう。

 アルコールの摂取が何かからの逃避になっていて、どんどん問題がふくれあがってしまうために、慢性的な気鬱がもたらされるという機序なのだろうか。

 そうなると依存症からの回復は、生活上の問題の除去とともに行われねばならないのだろうか。もっとも、依存症に陥った時には、生活上の問題もかなり入り組んだものになって、単純な差し引きで解決するものではなくなっていそうだけど。

 ジョンソン(1990=2010)では「アルコール依存症になりやすい人に共通しているのは、彼らがachiever(何かを成し遂げる人)だということ 」と書かれていたけど、こっちの本では性格特性は無いように書いてある。


 娘はグラタンが好きであるにしても、グラタンパンではなくグラタンが好きなのだということがわからないつま。

■感情 #12

 自分が連れていくっていったんだから、予約も自分でしろよ。確かめもしないで「インターネットの予約のやり方がわからない」と言いわけをすることに腹を立てているということをいつまで経っても理解しない。

 やはりこれでは腹が立つ。なぜだろう。

■論文 #4

 全然進まない読まないといけない論文を読むところからはじめるか。

 室田大樹「寛容な場としての路上──野宿者の生活保護利用が進むなかで路上生活を肯定すること」(『理論と動態』10号、2017年)からかなあ(緊張する)。

 あー。そういえばこれは支援団体についての論文なのか……。

 とりあえず問題関心がかぶることは無さそうだ。

 運動史を詰めないといけないと思ってたけど、そんなに力を入れる必要はないかも。よろずの活動が生まれた背景として押さえておく必要はあるにしても、今回の主題ではない。大阪の野宿者運動が釜ヶ崎の労働運動とのかかわりが強いことに触れる。しかし、考えてみれば社会企業的な野宿者運動(というより、野宿者支援?)は釜ヶ崎の労働運動の系譜に連なるものではないのか。釜ヶ崎の労働運動の系譜にありながら社会企業に接近していったものもあれば、ホームドアのように社会企業志向が核にあるものもある。

 「路上の権利」に言及したのは平川論文だったか。青木論文での位置付けもあったかなあ?

 伴走型支援か。

 山北論文のこの位置付け方はちょっと強引なのでは……。

 僕の関心は野宿者運動にあるわけではないのだから、野宿者の「コミュニティ」ないし意味世界の議論もふまえる必要がある。妻木さんの『ソシオロジ』の論文だったり、その前に北川さんや山口さんが触れていることとか、丸山さんの本も参照したらいいかも。

2019年2月26日(火)

 つらい。

■感情 #11

 バーノン.E.ジョンソン、1990年(滝直子訳、2010年)『明日こそ止めるさ──アルコール依存性回復への実践ガイド』(琉球ガイア出版部)を読みはじめる。第4章まで読んだ。アルコール依存症怖い。ブラックアウト、記憶の楽天怖い。

 アルコールで起こした問題を指摘されて否認したくなる感情に妙に共感してしまう。何だろう。一生懸命やっているのにうまくいかないことへのいらだち? 自分に対して言いわけしたいと思っているからだろうか。

 どうにもならないという思い。孤立感? 理解してもらえないという感情。しかし、それは自分の問題と向き合うことを避けているがゆえに起こっている。

 自分の問題って何なんだろう? アルコール依存そのもの? それともアルコール依存に陥る原因となったものの方なのか?

 アルコール依存に陥る際には、危機的な状況に取り巻かれているという話ではなかったか。

 いや、違う。危機的な状況に取り巻かれているのはアルコール依存症から抜け出そうと決意した時の特徴だ。なぜアルコール依存症になるかは「わからない」とされている。同じような状況に置かれて、同じようにお酒を飲んでいても、決してアルコール依存症にならない人もいるという。ただし、アルコール依存症になりやすい人に共通する特徴はあるらしい。

いろいろな性格や道徳観の人がアルコール依存性になります。しかし、結局この病気は、すべての犠牲者に破壊的な非社会的行動をとらせるようになります。観察していくうちに分かったのは、アルコール依存症になりやすい人に共通しているのは、彼らがachiever(何かを成し遂げる人)だということです。面白いことに、冷淡な人は酒や薬物の依存にはなりにくいようです。彼らは生活していく中で日々のイライラに影響を受けることはありません。もちろん酒にも左右されません。道徳と行動の葛藤を避けるもうひとつの方法は、そのことを気に留めないということです。(ジョンソン 1990=2010: 3)

 助けを求める叫び。しかし、やはりわからないのが、ここでの敵はアルコール依存なのか、アルコール依存に陥らせた原因なのか。

 両方かな? もちろん、アルコール依存自体が厄介なものであり、アルコール依存そのものよりは解決が容易だとしても、アルコール依存に陥らせた原因も同時に解消する必要がある。

 何が原因であるかは助けを求める叫びの中に、もとい、叫びを上げなければならなくなるような指摘にかかわる出来事の中にあるのはまちがいないだろう。

 もしすると原因は複合的なのかもしれない。原因が複合的、というよりは、いくつかの要因が折り重なった副次的な効果、状況が生み出しているのかもしれない。誰かが悪い、これが悪いと一つ一つを原因として特定していけるようなものではなく、「何が悪い」のかを説明しづらいような独特の状況があるのかもしれない。

「彼に必要なのは、飲むのを止めることだけである。」ここまで本書を読んでこられた皆さんなら、これが皮肉な思い違いであることがお分かりになるでしょう。また、誰でも抱くこの考えがアルコール依存症の仕組みを正しく理解することからは遠くかけ離れていることもご理解頂けるでしょう。断酒することだけが治療の目的ではありません。本当の目的は、アルコール依存症者がもう一度人生にしっかり向き合っていくのに必要な自我の力を取り戻すことです。(前掲: 79)

 これだな。

 第7章からはじまる治療のプロセスを見ていると、治療が進むということは自分の過去をすべて捨てさせられてしまうことのように感じられてしまう。これもまさに防衛機制そのものの理解にかかわることなのだろつけど。

 防衛機制(起こりっぽさ、恨みがましさ)に守られているのは「ぽさ」とか「らしさ」ではない怒りや恨みそのものであるということ?

 「怒り」や「恨み」は価値と行動の不一致と重なるもののようだ。

 うーん、何が引っかかるのかな。


 花粉症だ。

2019年2月25日(月)

 古い油で揚げ物しても美味しくないな。

■引越し #4

 粗大ゴミチケット購入。いったん帰宅したら棚の方は玄関の外まで出してしまいたい。

 この2時間くらいの記憶がない。物をどかして運んでただけのような。

 あー、いやいや、その前にプリントアウト用のフィールドノートの加工をしていたんだった。

 ソファなかったら広いな。

 どこに座ったらいいかわからない。くつろげない。


 凹んでいる。やばい。

 そうか、ちょっとはいいのではないという期待があったんだな。その落差にショックを受けているのか。初めての年だったことは割り引いて考えないといけないにしても。

2019年2月24日(日)

■橋下ワクチン

 Tumblrがおかしくなって、Tumblrの記事として作成してリンクを貼っていた橋下ワクチンが表示できなくなってきた。何かの嫌がらせかと思うような出来事だった。ジオシティーズの閉鎖もそうだが、無料のウェブサービスを利用する危うさを感じた。その方が便利だし面倒くさいからとブログでサイトを運営していたりすると、ある日突然使えなくなるかもしれない。ジオシティーズの閉鎖と忍者ホームページへの移行作業にあたって他のページも確認していて、昔リンクを貼ったブログがなくなっているのを見つけたのもショックだった。面倒でも自分の著作物は自前で管理した方がいいなと思った。

 ということで、少しずつ橋下ワクチンを復旧していこうと思う。第一弾として「橋下ツイッターを読み解くためのコツ 」を作り直した。古くなっている部分もあるので、ついでに解題を書き足していくつもりだ。

2019年2月23日(土)

■新聞 #10

 基本的には前日までの続報として記事が掲載され、したがって、掲載される記事にパターンがあると理解した上で読むと、長い文章でも新しい情報は何かだけを意識して拾い読みすればよいと受け止められる。あるいは、議論、状況に進展があったのだなという理解だけで十分な場合もあるだろう。

■感情 #10

 「見てないならテレビ消してよ」とか遅く起きてきて偉そうに言うなよ。お前らを起こすためにオンタイマーでつくようにしてあるんだよ。

 起きぬけで寝ぼけていて、大して考えせずに反射で言っているのだろうが、いまいましい。

 しかし、こんな生理現象みたいなことに腹を立てるのもアホらしいといえばアホらしい。

 水を入れて電子レンジにかけるインスタント食品の作り方の字が小さいから見てくれと言ってきて、返す時に水がこぼれた。水が入っているとも思わなかったが、こぼれてしまったことは取り戻せないので、流石に悪いとは思って謝る。

 謝られても機嫌が悪くなるのは仕方ないとは思うが、子どもたちを怒鳴って起こしたり、八つ当たりをしている。

 ソファにこぼれた汁は拭ったが、床のマットにもこぼれていたらしく、また文句を言われる。洗濯機の中にはまだ洗濯物が入っていて、物干しにはまだ洗濯物が干されていて、洗濯物を取り込もうにも布団はまだ敷きっぱなしなので、まず布団をたたんで洗濯物を取り込むスペースを作らねばならない。そんなこととは知らないので、洗わないのか、使い捨てにするつもりなのかとわけのわからないことも言ってくる。

 こういう質問に答えるのがもう面倒くさいんだけど、説明しないほうが悪いのか? 説明した方がいいということはわかるが、面倒くさいを通り越して腹立たしい気持ちとの折り合いはどうやってつけるのか。

 電気の消し忘れ、テレビの消し忘れなど、瑣末なことが気になるのは疲れているからなのだろう。疲れている時にイライラを増すことはないのだが、全く理由のない怒りでもない。

 廊下の戸を閉め忘れるとか、自分でもしょっちゅう忘れてるくせにその時だけ居丈高に言われるのも腹が立つ(こっちは言われる立場からの感想)。

 上着や靴下を脱ぎっぱなしで放っておく、使ったものを片付けていないなどといったことも、疲れている時のイライラブースターになる。

 家事に関して何度となく触れてきたように、生きている時間の違いがここでもかかわっているとは思う。物事に取り掛かるタイミングというものがあるのだから、そのタイミングの認識に時差があるような場合が考えられる。

 しかし、もはや時差の問題ではなく、いくら待っても手につけることなどないと分かりきっているからこそいらだつのだ。これまで「予期的な負担感」「予期的な嫌さ」と言ってきたように、これを「予期的ないらだち」というように概念化することもできる。

 疲れている時になぜ予期的なマイナス感情が抱かれるのか。家族生活の中で起こる問題の解決を自分自身が負わねばならないノルマと思っているからだろうなあ。

 どうせやらねばならぬなら、疲れていなくて調子のいい時にやればいいと先延ばしにする思い切りができればいいんだけど、疲れていなくて調子のいい時などいつ訪れるかわからないし、そうして課題が降り積もる方が怖い。

 しかし、それはテレビを消してないからどうとかいうことに関しては当てはまらない。そもそもこれはテレビを消していないことにイラついているのだろうか。

 そういう意味では、まず感情の仕分けをしないといけないのかもしれない。

 また言ってる。そんなに気になるならテレビつけるなよ。

 うざいから30分の無操作オフ設定にしてやった。


 溜まりに溜まった2月分のログを移してトップページをすっきりさせたいとうずうずするが、2月が終わって欲しいわけではない。

■家売るオンナの逆襲 #3

 留守堂謙治の正体がわかって、敵から協働の相手になるというのは、特別な回かと思ったが、後半のパターンになるっぽい。しかし、そうすると「逆襲」はどこにかかることになるのだろうか。

 いや、今回は協働しているわけではないのか。むしろ対立していて、結局三軒家万智が総取りしているのだから、逆襲っちゃ逆襲なのか。

2019年2月22日(金)

■引越し #3

 梱包しても置くところがない。とりあえず廊下に置いていたが、粗大ゴミ出すためにいったん避けなければならない。思い切って捨てることにした資料もあるが、それでもまだまだある。やばい。

 ブックオフに本を売りに来たが、50冊のうち半分し引き取ってくれなかった。

 もともとブックオフは売れ筋のマンガの新しめの巻しか売れないと思っていたのを思い出した。最近はもう全然新しいマンガを買わないから感覚が鈍っている。

 25冊で730円。一番高いのはマンガ文庫で150円。大半は5円。これでは買取額アップのクーポンとかもらってもバカバカしいなあ。バイト代にもならない。

■新聞 #9

 今日の朝刊を読む前に、どう読むのか少し考えてみる。大阪関連の記事、労働関係の記事を拾うのは決まっている。一枚めくると総合面があって、政治・経済・国際という今ひとつとっかかりのないページが続いて、真ん中のくらし・スポーツ・株価みたいなページをめくって、ラテ欄、地域面、そして社会面で終わり。

 特別楽しみにしているところはないなあ。編集委員の解説やオピニオンのところは、今日のテーマは何だろうくらいの関心はある。

 そうか、その時話題になっていること、毎年話題になることはある程度決まっているのか。読むときにはその経過を見るといったふうにパターンができれば読みやすいのかもしれない。

 朝刊一面の右サイドの目次、夕刊一面やはり右サイドの変な短文は「今の話題はこういうものですよ」というメッセージのようなものなのか。夕刊のそれは内容がなんとなくわかるし、すでにわかっている人にも楽しめるようなひねりが加えてある。

 わりと読みやすかった。一つ一つの記事の形や大きさにも意味があるのだな。四角くコンパクトにレイアウトされているものは、あるトピックについてまとまった解説になっている。見出しは何段かに渡っていても、だらーっと配置されている記事は追加情報を扱ったもの。

 くらし面は現在進行形の出来事というより、世相、それこそくらしにかかわるトピックを扱っている。スポーツ面も、スポーツに関心がなく、よくわからないからと言って、それほど構えて読む必要はない。それでもいくつかタイプはあるはずで、「今こんな競技の大会をやってるんだな」とか、「この人が活躍してるんだな」とか、事実関係を知る程度で構わないはず。「読む」というより、「見る」「見かける」といった感覚。

 新聞について抱いていたモヤモヤが晴れてきたような感じがあるけど、それまでに2年くらいかかってるな。ここで毎日更新のトピックの一つとして扱っていることも意味があると思う。気づきを活性化させるツールとしてのウェブサイト更新という感じだ。

■論文 #3

 えーと、どんな論文だったっけ?

 場所性。

 都市下層にかかわる近年の状況の変化をふまえながら、大阪城公園よろず相談の野宿者支援活動を事例として、野宿者の生活の場であり、かつ運動の拠点となる場所性の内実を問い直す。

 〈拠点〉云々についても触れねばなるまい。ある程度解題で述べられているにしても、自分なりの位置付けは必要だ。

 査読を意識して。なんかひねってないと軽く見られるから「この時代状況で路上に何が見出せるのか」というところの演出をうまく。

 野宿者をめぐる状況。寄せ場。「もはや寄せ場ではない」状況を経て、その寄せ場すらも新たな状況に飲まれようとしている。

 テーマはいくつもある。ここでメインに据えるべきはやはり路上の権利か。路上の権利を主題にするなら、山北・室田論文を踏まえないわけにはいかないだろうなあ。

 この方向で絞っていっていいのかな? 場所性の話はどうなる。繰り返し訪れ、出会うことで場所の特質が生まれる。そう、それこそ空間の表象としての場所の特質に対する空間的実践による空間の生産。大元の発想はこっちにあって、路上の権利の議論は派生して出てきたもの。

 表象の空間としての大阪城公園。かつてテント村があった。仮設一時避難所があった公園。市民の憩いの場としての大阪城公園。トイレの汚い、薄暗い公園。

 主題となりうるものはいくつかあるにしても、データとの適合性を慎重に見極めないといけないだろうなあ。

 データからすれば路上の権利を掘り下げる方が無難だろうなあ。場所性にかかわる話はよろずの実践を通して見えてくることで、よろずの実践の先に路上の権利の理解が来るのだから、どちらも無理なく射程に入れるのが自然な気がする。展開の順序と着地点をまちがえなければよい。

 野宿者の絶対数が減った状況下での野宿者運動の現実を示す(ふりをして、よろずの実践のユニークさをアピールする)。

 ツンデレエピソード。路上の権利。どこにでも権利はある。どこであっても権利は守られなければならない。なぜならどこにあっても人はその承認を目指すからだ。

 重要なのは「路上」ではなく「権利」の方だとすれば、そもそも路上で問われていた「権利」とは何だったのか。

 それはそれこそ先行研究から整理しておく必要がある。そこに何を付け加えることができるか。

 見失ってはならないもの、問われているのは何なのか。そこにこだわるからこそ路上にこだわっていたはずなのだから。

 そこにある社会学的な意義は何だろう。共同性か。公共性と共同性。社会統合が問題となる。

 うーん。人間性を問題としていいのだろうか。人間が権利の承認を求める性質とは何なのか。なぜ権利の承認にこだわるのか。権利とは何か。

 ここを脱構築したい。関係を拒みつつ受け入れる。拒みつつでなければ受け入れられない。苦しい状況。救いをもたらしてくれるわけでもない他者。そこで充足しているものとは。

何かが混じり合っているのか? えーと、そうか、そもそも支援を必要としていない、支援として役に立たない、支援として来て欲しくないのに、支援としてやってくるわけだから、そこを否定しなければ、素の関係を始められない。

 路上の権利を持ち出す前に何かもうひと回り大きな位置付けができないかなあ。現代社会を語る切り口としての路上の権利、野宿者問題というふうに。都市下層の位置付けそのものが変わりつつあるとしたら、それも論点になりうるのかなあ。社会的排除という文脈で論じることができる?

 ありきたり。もっと大きなところで都市の統治構造が変わっていて、それは政治のあり方にも組み込まれている。押し出すならそっちの方ではないか。ハーヴェイの『反乱する都市』も念頭に、都市への権利の一つとして路上の権利を位置付けてみるとか。

 なじまなさそう。都市への権利はちょっと違う。今回の論文は野宿者運動の戦略がデータの主だったところなのだから、プライバタイゼーションとは別の方向から攻めるべきだ。空間と権利の関係? どこであれ、権利を充足させるには必要な実践がある。「どこにいるか」としてすり替えられがちな問題について、「どこであれ、どうあるかが問われる、権利というものの根本的な条件」を明らかにする、みたいな?


 お腹すいた。

2019年2月21日(木)

■家事 #4

 風呂の湯を抜くのが面倒くさい。洗濯に風呂の残り湯を使って、洗濯が終わってから風呂の湯を抜いて、風呂を洗う。湯が抜けきるまで、洗剤を吹けないので、すぐに洗う作業に入らない場合でも、先に風呂の栓を抜いておいた方が効率がいい。ただ待つ時間というのが家事における苦痛の一つなので、こういう工夫が大切なのだが、その工夫をしなければならない感じが苦痛だ。


 オフタイマーを設定してラジオをかけて寝ると寝起きがすっきりする?

 郵便局。図書の返却。ダンボール箱買いに行く?

 ダンボール箱も10箱、20箱となると高い。

 あとは郵便局だが、今日行かなければならないわけでもない。ちょうど寄り道できるところにあればいいのに。

 した。

■論文 #2

 1月末に「論文は2月中に完成するつもりで」などと言っている。マジか。

 とりあえず本の梱包を進めつつ部屋を整理しながら、どんな作業が必要か、何からはじめるか考えよう。そうしないと何も手につかない。何がどこにあるのかすらわからない。


 やってしまった。アップロード失敗して消えてしまった。スマホでじかにサーバーのファイルから編集するからこういうことが起こるんだな。

 かったるいけど少し復旧しておかないと。

 もうえっか……。

 iMacで開きっぱなしにしてたブラウザから17日まではソースを取得できた。18日以降はiPhoneで開いていたページからテキストのみから復旧。しかし新聞について書いていたことがまるまる消えてしまった。

■新聞 #8

 気を取り直して復旧しよう。

 スクラップしても面倒くさいのは変わらなかった。

 大阪関連の記事をスクラップすると言っても地域面には毎日「大阪府」の記事は乗るので、大阪市に住む人が関心を持つ範囲の縛りはするようにした。あと、労働関係の記事は入れるようにした。外国人労働者に関わることとか、高齢者の雇用、求人倍率がどうとか。

 まったくスクラップする記事がない日はなかなかないなあと思っていたら、昨日の夕刊は該当する記事がなかった。逆に今日の朝刊は多い。少し選別しようかという気もするが、当面はとりあえず全部スクラップすることにしておく。

 吉田寮関連の記事があったらスクラップしておこう。労働者に訊かれることがあるから。

 スクラップしていると「なぜこんな記事があるんだろう」とか、「こういう連載あったな」とか、気づくことがある。能動的に読めるようになる気がする。しかし、これは能動的ではあるが、「読む」とはまた違う感じがする。二次的なものであるものの、情報を「加工」している。地方政治にまつわることも、流れとして受け止めるようになる。

 「れとろ探訪」が掲載される頻度はどれくらいなのか。

 こうやって考えてみると、やはり新聞を読むには自分なりの技術が必要な気がする。

 新聞に載っている情報が自分に必要な情報なのかどうかもわからない。何らかのスタンダードとして提供されているのだろうけど。いろんな連載や、記事のカテゴリーがあって、なぜこれがこんなに大きく乗るのか、あるいはこの小さい記事は何だと疑問に思えるような記事もある。そういう記事は、情報を散らばらせるために流し込まれているようなものなのかもしれない。

 スクラップしていると、ごく自然に記事のつながりを意識する。何日か前の記事の続報だなと思う。こういうふうに何らかの方法で記憶に留めておかないと記事と記事の関連なんて意識しない。これは何だろう。

 読んでるだけだとちゃんと読まないんだろうなあ。きちんと読む、読まないの判断は普段からしているはずだけど、おざなりになってしまう。

 あるいは、バラバラの情報に自分なりの意味づけをしているから印象に残っていくのか。「センターの日」で共有することを目的に、この記事でどんな意味があるかなと考えてみる。スクラップするかしないかの判断をするためにも、中身について考えなければならない。

 「この記事続報があるな」というだけで、「わりと重要なニュースなんだな」と感じる。

自分が求めている事実について調べている時には、必ずしもこれという情報が得られるわけではない。いろんなものに目を通して、これは関係がありそうだとか、これは直接の関係はないが興味深い側面をかいま見せるとか、問いそのものを練り直しながら情報を集める。読まねばならない教科書のように目を通しているとつまらないが、新しい事実を発見するために読んでいる、そして、その新しい事実は自分の中で作り出しているものでもあると考えると面白みが増してくる。


 ようやくマッピングに着手できた。

2019年2月20日(水)

■家事 #3

 生協の宅配を取り込んで、風呂を洗って、お湯をはって、洗濯物をたたんでと、次から次にならないといけないことを連鎖的に思い出すと嫌になる。

 連鎖的に思い出さなければさほど嫌ではないのだろうか。これも予期的に嫌な思いをしているだけなのか。

 本読みたい。

 まったく読めない……。

2019年2月19日(火)

 さあ論文執筆体制に入らないとなあ。

 しかし、今日は何も手につかなさそうだ。

 旅行保険入った。

2019年2月18日(月)

 レジュメできた。午前4時になってしまった。

 発題はコメンテーターとなっていたから、変なのと思いながらもそうなのかと思っていたのに、会場を確認しようと数日前のリマインドメールを見たら、やっぱり発題はパネリストになっていて、どんな見まちがいじゃ頭おかしいなと焦った。

 しかし、もっと前のメールを見たらやはりコメンテーターが発題すると書いてあった。よかった。ボケてなかった。

 おお、Permanote便利だ。本文のマルチファイル検索できるとは。Textforceは置換ができる。うまく使い分けるとどちらも有用じゃないか。

2019年月2日17日(日)

 筋肉痛が気にならなくなるまで1週間くらい。

■感情 #9

 電気消し忘れたくらいでいちいち文句言うなようっとうしい。一人で遊びに行ってたくせに、子どもにご飯食べさせて帰ってきたのに、その上嫌味を言われなきゃいけない理由があるわけ?

 だいたいいつも気を付けてるし、あんたよりよほど節電に神経使ってるし、電気代払ってるのは僕なんだから、わざわざ夫婦喧嘩の種をまくようなことをしなくてよかろうになんでその程度のことがわからないんだろう。どう見たってズボラな人間に細かいこと言われるアホらしさ。

 これを昨日の整理で理解すれば、すでにイライラしているところでくだらないことを言われるのがムカつくということ。昨は疲れてフィールドノートをまとめずに寝てしまったから、その整理がまだ終わっていない。それならそのイライラを弱める方向に気を向けるのもやり方ではあるのだろうが。

 わかってなかったり、バカな勘違いしてたりするのに上から詰めてくるのも腹立たしい。金のことにこだわるくせに誰が何を払ってるのかもきちんと把握していないし(何度も言ってるはずなのに覚えない)。

 そういうスペックならそういうスペックで仕方ないといえば仕方ないのかもしれないが、まだわりきれない。そりゃわりきれるはずないな、わりばかり食うんだから。

2019年2月16日(土)

■引越し #2

 本ではなく、コピーした資料とか、報告書とかを梱包してみた。データのあるものは思い切っていったん捨ててしまった方がいいかもしれない。

 捨てようと思って選別してたら捨ててしまうのはもったいなく思えてきた。紙の方が読みやすいのは絶対そうだし、じゃあ読むかと言われると読まないだろうし……。読まないよな。

■感情 #8

 引越しするから冷凍食品買うなとか、アホか。

 山籠りでもするつもりか。

 一事が万事ずれてて呆れる。

 僕の都合で早く終われるものじゃないと言ってるのに「遅くしないでね」って何? 勝手な都合や思惑を押し付けられているようで腹が立つ。「なるべく早く帰ってきてね」とか、「終わったらすぐに帰ってきて欲しい」というならともかく。他人の都合を考えてくれているとはまったく思えない。

 体調が思わしくない子どもだけでも迎えに来て欲しいとか、こちらの都合を考慮してくれているならいくらでも提案の形はあるはずだ。それが出てこないのは全然考えていないためであるのは明らか。

 しかし、どうせこんなことを言っても考えようともしないのもわかりきっている。怠惰、図々しい、無神経。そんな言葉でしか言い表せない。

 相手の都合を考えないのはすでに自分のことで頭がいっぱいだからかもしれない。昨夜も遅くに仕事から帰って、子どもの連絡帳の担任のコメントを誤読して何やら憤っていた。水曜日、木曜日と洗濯物をたたんだり、夕飯を準備したりと変に物分かりのいいことをすると思っていたが、要するに仕事がないから心の余裕があっただけなのだろう。

 それを聞く僕の方も、いうことを聞かないのに好き勝手なことを言う子どもたちにイライラしていた。結局互いに余裕がない時に嫌なことになる。

 最悪に嫌なことになるのを避けるために、ただただ嫌でしかないことに耐える。それしかないのか。そう思えば耐えられなくもないのか。

 早めに帰宅できた。何をイラついているのか。お菓子箱のふたが閉められていないとか。食事だと言っているのにいつまで経ってもゲームをやめないのはともかく。

 そういう僕もちらかしっぱなしにしていることにはイラつく。やたらと咳をしていることにもイラつくのはなぜか。理不尽だとわかっていてイライラのドライブがかかるのを感じる。手がかかることを予期するからか?

2019年2月15日(金)

 やはり日帰り広島出張の後は疲れが出るんだな。

■新聞 #7

 前々から考えていたことだったが、西成中華街構想の記事がちょうど掲載されていたので、これをきっかけに「センターの日」に展示するスクラップ記事コーナーの作業に着手しようと思う(2019.2.14毎日新聞夕刊「 ニーハオ 大阪・西成に「中華街」構想 華僑ら100軒計画 」)

 西成区や釜ヶ崎に関する記事だけだとあまり数が集まらなさそうなので、大阪関連の記事も拾っていこうと思う。そう思って今日の朝刊を見ていたら、予算案関連で2つほど記事が出ていた。

 中身をよく読みもしないで切り抜きをスタートさせていることに気づき、改めて内容を確認する。こうすると記事に向き合う姿勢が変わってくるのを感じる。これを労働者に見てもらってどんな話ができるだろうと考えながら読むことになる。

 大阪関連の記事だけでなく、紙面の他の記事についても自ずと意識が変わっているのを感じる。自分なりにテーマを持ってスクラップしようと思って向き合うと、読みきれないほどの得体の知れない記事が毎日大量に掲載されているように見えていた紙面も、必要な情報を最大限見出そうとして、むしろ厳選された記事が限りある紙面につめこまれたもののように思われてくる。これはちょっと面白い。

■疲労

 ツイッターばかり見てしまう時は休んだ方がいいくらい疲れている。

 休むとは何か。

 まず寝たい。頭がスッキリしたと実感できるほど寝たい。その上でゴロゴロしたい。 読みたい本を読んで満足したい。

 すべて忘れてリフレッシュしたい。しかし、リフレッシュしたいのは仕事をするためで、早く仕事に復帰しなければと思うとすべて忘れて休むことができない。

 この難題をなんとかしないといけないが……。

■理論と調査と理論

 すき間を埋めるもの。全体を見渡すための道具。

 しかし、ある程度読んでいなければ、単なる妄想みたいなものになってしまうから、提示される意味がない。

 理論と調査。理論はあくまで調査から生まれるという立場をとるなら、調査にもとづかない理論らしきものは話のとっかかりでしかないのだろうか。

 その場合、理論というのは思い込み、あるいは常識のようなもので、探究の動機として並べられるものなのか。

 理論と調査をどのような関係で扱うかにはレトリックがかかわっているように思える。レトリックの種類は、その探究の種類でもあるのだろうが、あまり意識的には扱われていないかもしれない。

 フィールドワーカーであることを見失ってはならない。フィールドワーカーにはフィールドワーカーの知のあり方があるのだから。

 仮説的理論から出発して、調査から理論を生み出す。仮説的理論の部分を単なる常識や思い込み、思いつきにすることもできるだろうけど、「いくら何でも少しくらい調べてからにしろよ」という話になるだろうから、まったくの思いつきで論をはじめることは実際にはなさそう。

 人それぞれ得意分野があれば苦手分野もあるのだから、得意分野を活かすのが現実的。

■引越し #1

 ぼちぼち取りかからないとやばそうなので、読めなくても問題なさそうな本から段ボールにつめはじめる。

 本棚ひとつにつきSサイズの段ボールが4箱は必要になるようだ。一つの棚に2列にしてしまっているところもあるので、実際はもっと必要になるはず。僕の本棚だけで8台あるから40箱くらいは必要かなあ……。

 家族用の本棚がプラス4台くらいか?

 食器はどれくらい段ボールが必要になるだろうか。本棚と同じように考えれば4箱か5箱?

2019年2月14日(木)

 冬キャンプというのも365日24時間観光・レジャー開発の一つなんだな。

■190319研究会

 さあ、今日明日は研究会の報告についてまとめてしまわないと。

 告知出てた。テーマは「 質的調査における〈現実の多義性〉と〈解釈の複数性〉──矛盾と葛藤のなかの認識枠組み生成の現場から」、企画主旨は以下のように説明されている。

 今回の研究会では、研究者が実際にフィールドで、認識枠組みを変容させたり、異なった認識枠組みにであったりするプロセスに注目しながら、いったいどのように〈現実の多義性〉や〈解釈の複数性〉と格闘しながら(もしくは、折り合いをつけながら)調査結果を作品化していくのか、といった点に力点をおいていく。研究会の進め方としては、豊富なフィールドワークのご経験があり、すでにエスノグラフィーを刊行されているお二方に30分ほどご報告いただき、それぞれ研究領域の近いコメンテイターの方からの発言をはさみつつ、フロアー全体でお二人の知見や問題提起を共有していくことをめざしたい。

 認識枠組みを変容させたり、異なった認識枠組みにであったりするプロセス。〈現実の多義性〉や〈解釈の複数性〉との格闘(折り合い)。最終的な作品。

 あー、いかん。『フィールドワーカーズ・ハンドブック』参照しようと思っていたのに持ってくるの忘れた。

 うーん、なんかいろんな言葉が挙げられているけど、結局、フィールドワークをどんなものと考えていて、そのフィールドークを通してどうやって研究成果をまとめ上げるのかという話にしかならないな。そして、その道のりは険しい。

 「私エスノグラフィー」もとい鵜飼さんの『大衆演劇への旅』が参照点の一つであることはまちがいない。『大衆演劇への旅』というか、鵜飼さんの大衆演劇のフィールドワークの調査報告は、基本的に参与観察のみで構成されているところに特徴がある。

 ここをどう扱うか。ああ、そうだ、「参与観察のみ」ということに加えて、24時間ほとんど切れ目なくフィールドの中にいて、調査と日常の境目が存在しないところがポイントなのか。

 このフィールドワークの入口のところをうまく言語化するのが大変そうだ。面白そうだと思ったところ、興味をひかれた人や場所に行って、その生活を学ぶ。弟子入りする。フィールドで過ごすなかから問いを立ち上げて、論文を書く。

 言ってしまえばこれだけのことで、その中にいろいろ学術的なテクニックが活かされるというだけの話なのかもしれない。学術的なテクニックが活かされるか否かは、フィールドに入る前の事前学習が十分かどうかによると。

 しかし、なかなかしっくりするテクニックなど見つからない。シンボリック相互作用論からはじまって、ラベリング論、ゴフマン、構築主義、エスノメソドロジー、状況学習論など、小集団を分析するための方法論にはひと通り見てきたはずだ。

 『飯場へ』の中に「気づきを理解に変えるために」というコラムがある。この「気づき」が方法論の中では語られない。「オープン・コーディング」「選択的コーディング」といったコーディングを進めるなかで「ひらめく」ものが「気づき」として語られるのがせいぜいだと思う。

 説明しようとするとどうしても「それだけの話」になってしまう。インタビュー調査でも、話を聞きながら面白い、使えると思ったり、わからない、不可解だと感じた語りについて掘り下げて考えることで、「気づき」が形になるということはあるかもしれない。

 ここで見えづらいのは、インタビュー調査の場合、面白かったり不可解だったりするのは相手の「語り」であって、「気づき」は「語り」の解釈を通して形になっていく。

 しかし、参与観察データの場合、「語り」という分析の対象物が切り離されていない。フィールドでの出来事を分析するためには、文字化するかどうかはともかく、その出来事を言語化しなければならない。出来事の言語化を行うのはあくまで調査者自身なので、「分析の対象物として切り離す」ことが難しい。なぜなら、出来事の言語化はいかようにも変わりうるからで、言語化が不十分なままに出来事を対象化してしまえば、データは薄っぺらいものになってしまう。ある出来事について考察を深めるなかで、出来事の言語化が不十分な部分が発見されれば、データそのものを書き換えなければ(語り直されなければ)ならない。

 事実関係を説明することはそう難しいことではない。鵜飼さんの論文でいえば『ソシオロジ』掲載の「大衆劇団における人間関係──市川H劇団の事例」がある。制度的な特徴や現地の人びとがしたがっているわりとはっきりした形式は説明しやすい。

 「データを書き換える」こと自体はよく語られている。分析が進むにつれて出来事の言語化をやり直されねばならないことは公然と認められている。

 しかし、やはり「書き直す(語り直す)」ことをコーディングによる必然的な発展のように語られるとつらいものがある。

 質的データのコーディングのルーツは、グラウンディッド・セオリー、訳書では「データ対話型理論」になるんだと思うけど、データ対話型理論はデータ以外のものと対話する装置はあるのだろうか。もちろん、仮説そのものを見直すことが語られているのは知っているけど、この理論は、量的データに対する質的データの信頼性を高めるところにその眼目があるはず。そう考えると、コーディング技術以前に確かめておかなければならないことが見落とされているように思えてならない。

 そろそろエピソード記述の話をしても大丈夫だろうか。エピソード記述という言葉を初めて目にした時、この「エピソード」という単語が強烈な印象を受けた。エピソード記述という言葉を目にした瞬間に「これは僕の求めていたものだったのではないか」と思い、すぐに本を入手して読みはじめた。

 飯場での出来事をエピソードとして語るのはたやすい。ある日の仕事でこんなことがあって、とても嬉しかった、腹が立った、困った、という具合に、エピソードとはそのような実感のともなう出来事だからだろうか。

 実感のともなう出来事を出発点とすれば、その実感を読み解く形で、その他の事例についても解釈を広げていける。このやり方がありなら、いくらでもデータを活用していけると、天啓を得たような気持ちになった。

 しかし、このエピソード記述の決定的な新しさはこれだけではもう一つ伝わらないように思う。なぜだろう。人によっては、エピソード記述で行われている作業は、論文を書く以前、調査を始める以前に済ませておくべき作業と思われているからだろうか。

 方法についての記述で言及される参与観察は「予備調査」に位置付けられ、「事実関係の記述のための総合的な情報収集の手段として役に立った」ものとしか扱われない。調査の本番は「インテンシブな聞き取り調査」によって行われる。エピソード記述で行われるような作業は主役にはならない。「インテンシブな聞き取り調査」を行っていない研究は、問いと調査設計が練られていない、二流、三流の研究者のやることなのである。

 実際、エピソード記述だけで面白い論文、基本的な形式を満たした上で読める論文を書くのは簡単ではない。まず、それなりのデータ量が必要になる。「これは面白い」「これは使える」という出来事にそうそう出会えるとは限らない(サンプリングと調査設計で確率は変えられるかもしれない)。また、いくら面白いエピソードが集まったとしても、それを論文の形式の中に位置付けるのはそう簡単ではない。「きちんと問いを立ててから調査をしないとダメだ」というのはもっともなアドバイスではある。

 エピソード記述(関与観察)の提唱者である鯨岡峻自身、「エピソード記述は鯨岡の名人芸で、誰にでも可能な方法ではない」という意見への反証として方法論の本を書いたことを述べている。鯨岡はそう言うが、やはりエピソード記述できちんとした論文を仕上げるところまで行くのは、かなり難しいことなのだと思う。

 これとは別に、ジャンルの問題もあった。まず書かれた「エピソード記録」があって、気づきや違和感を元にしたメタ観察を経て、「エピソード記述」に書き換えられる。この気づきや違和感を掘り下げる作業は、関与した相手がどう感じたのかを考察する手がかりとして行われる。心で心を推し量る、発達「心理学」だから許される方法なのではないかという懸念があった。

 しかし、「心で心を推し量る」といっても、実際は心と心が直接やりとりしているわけではない。自分自身の心と、想定される相手の心理状態とを手がかりに実際に分析されているのは、相手と自分という関係や状況なのだ。心理学の場合、相手の心理状態を説明するために自分の心と関係・状況を材料のするわけだが、社会学が関心を置くのは関与・状況の方であり、その先にある社会構造とのかかわりであるということになる。

 鯨岡はエピソード記述が明らかにしようとしている領域を「間主観性」なのだと説明している。「間主観性」という言葉自体、つかみどころどころがないが、要するに関係を読み解く際に〈相手の心─出来事─自分の心〉という一体的な図式を想定する立場によって導き出される解釈が「間主観性」であり、その解釈の力点の置き所が心理学と社会学では異なるというだけの話なのだ。

 こういうふうに考えてみると、データ対話型理論とエピソード記述は似ても似つかない、まったくの別物だと分かる気がする。

 もちろん、メタ観察を進めるプロセスや、発見した事実を整理する作業の中でコーディングが役に立つことはあるだろう。しかし、やはりデータ対話型理論というのは質的調査のデータの信頼性に眼目があるのだろうし、エピソード記述はデータの信頼性云々は最終的にはほとんど放棄している。例えば鯨岡は客観性を担保するにはメタ観察を十分に行うしかなくて、その解釈が共感を得られる根拠を類的同型性に置いている。

 科学的な厳密さにこだわったらいつまで経ってもとらえられない領域がある。もちろん、科学的な厳密さなど二の次で良いというつもりはない。しかし、「科学的に厳密な研究以外すべきではない」というのは科学者として正しい態度なのだろうか。方法的な限界を飲み込んだ上で解明を模索するような部分がなければ、いずれ科学的な取り組みなど行きづまってしまうだろうし、科学的に厳密で操作しやすい領域ばかりが幅を効かせるようになれば、逆に科学自体が歪んでしまうことにもなりかねない。

 とかなんとか力説してみたけど、そんな冒険しても、研究成果を手堅くまとめるという意味ではリスクでしかないんだから、方法を熱く語るというのはどこか白けるものでもある。

 自分でタイトルに入れた「私エスノグラフィーの向こう側」の説明が入ってないな。この辺は話のとっかかりにして、これまでに書いたことをメインに据えればいいだろうか。「参与観察の20年」の方はどうするんだろう。これもとっかかりにうまくまとめないと仕方ないかなあ。

 質的調査、フィールドワーク、参与観察、ライフヒストリーが興隆を見せていた時代の入口に立って、何を目指して研究に取り組むようになり、その頃に目指していたものや時代の空気は、今見るとどんな発展ないし帰結を迎えたのか。

 この時代の空気の中で、参与観察にこだわることにどんな意味があったのか、みたいなことは書かないとダメかな。

 現実的な問題として、調査の前に問いを立てるなんていう器用なことはできなかったよ。事前に問いを立てられないんだから、半構造化インタビューとかできないし、そりゃ参与観察するしかないやん。

 それから、結果論に聞こえるかもしれないが、やはり僕が明らかにしたかったことは参与観察を通して得られるデータでなければ扱えなかったのも確かだ。実体はないのにまとわりついてくる「空気」を可視化するところに関心があったのだから、最初から最後までやり抜いたと言えなくもない。

 まだまだ整理しきれていない部分が残ってるな。一つのお題に回収しようとしない方がいいのだろうか。

 人類学のフィールドークと社会学のフィールドークのずれについても気になるけど、テーマが漠然としてしまう。そもそも人類学のことがわからないもんな。人類学的フィールドークと社会学の相性が悪いということははっきりしている。しかし、その原因となるとよくわからない。人類学的なフィールドークが社会学の中でできないわけではない。しかし、それを社会学として表現しようとすると途端に壁にぶつかる。しかし、僕が人類学の中で同じことをやれたかというと自信がない。ここでは別の壁にぶつかっていただろう。。ということは、問題は人類学と社会学の違いではないのかもしれない。

 ところどころ危うい物言いがある。レジュメにまとめる時は論旨はともかく怪しい根拠は用いないように気をつけたい。

 方法について話すのだとすれば、エピソード記述を知る前と後ではまったく異なるのだから、エピソード記述を中心において組み立てればいいわな。エピソード記述を意識した社会学者なんて僕以外に見たことないし。

 昔のフィールドノートを読み直してみる。メタ観察をしてエピソードを書き換えるというけど、ほとんど書き換えていない気がする。いろんな事例から解釈をふくらませた上で事実関係を参照する程度に引用しているエピソードも多そうだ。

 それから、当時はあまり面白みがないと思っていたフィールドノートも結構面白い。当時の僕はわからずに書いているエピソードでも、「これはこうなんじゃないか」とやりとりの相手の意図が読める。

 「認識枠組みを変容させたり、異なった認識枠組みにであったりするプロセス」というのがわかるようなわからんような、フィールドで認識枠組みを変容させる」とは? 認識枠組みを変容させるというより、フィールドの人びとの認識枠組みを理解するのが先なんじゃないかな。「こうかな?」と理解したものがまちがいで、適切なものに修正する(変容させる)ということはあるか。「異なった認識枠組みにであう」というのは、理解したものがまちがっていた場合に相当するかもしれない。

 〈現実の多義性〉や〈解釈の複数性〉 というのはなんだろう。固定層と流動層とでは見ているものが違う。そういう意味で〈現実は多義的〉〈解釈は複数ある〉というふうに考えることはできる。

それらと「格闘する(折り合いをつける)」というのはどういうこと? 「格闘する」のは「調査結果を作品化していく 」ための作業なのだから、「どういうふうに論点を定めて事例を分析していくか」を問われているのか。

 それを探っていく作業は結局、出来事と違和感を手がかりにしていくことでしかない。

 事実関係の整理もそこから派生して形になっていくわけで。

 この本、というか、博論が完成するまでのプロセスを話せばいいんだろうか。

 後半だけでは博論にならなかった。「下層労働者の排除の構造とメカニズムの解明」の構造的な議論をするためには前半が必要だった。「下層労働者の排除の構造とメカニズムの解明」と言った時に、このテーマは本文の中で三つくらいに分かれて重なり合っている。まず、寄せ場の衰退にともなう労働力調達と労務管理の仕組みといった構造的変容の実態を明らかにする部分で、ここは先行研究にある労働力需要の変容の議論が肝になっているので、3章・4章の労働実態を淡々と描く章が必要になる。もう一つは相互行為の中での排除行為の分析で、これは行為としての排除のメカニズムと機能を明らかにするもの。そしてこの排除行為の分析は、排除の実践がマクロな排除の構造の帳尻合わせをしていることや、その帳尻合わせの領域そのものが変容してきている可能性を指摘している(また、勤勉と怠けという視点から労働概念にまつわる議論にも取り組んでいる)。

 これらを「飯場の社会学」としてくくることで、何とか学位論文としての一体的な議論が可能になった(作品化された)。

 飯場の実態についてはほとんど明らかにされていなかったから、ありのままを描くだけでもとりあえずのオリジナリティは担保されているというアドバンテージはあったと言えるかもしれない。また、飯場の実態を明らかにすることで下層労働市場(寄せ場)の変容にまつわる議論の欠けたピースを埋められるという見込みもあった。その上で、自分がもっとも取り組みたかった相互行為の分析にも着手できた。『理論と動態』11号の西澤さんの書評へのリプライでも触れたように、先行研究との関連で勤勉と怠けというテーマと接続できたのは幸運だったと思う。そういう意味でこの本はいろいろな条件に恵まれていた。

 それでも、ずいぶん時間がかかってしまった(子どもが生まれたり、入院したりしたことを差し引いたとしても)。

 本になるときに付け加えたエピソードがあった。そのおかげで「フィールドワークとは生き方の問題である」というところにも着地できた。

 「博論が出来上がるまで」と「本ができあがるまで」とを分けて、それぞれの節目に触れるという構成もありうるが……。しかし、今回は本づくりの話というより研究成果の話かな。

 本を読んでいない人もいるだろうから、本の概略についてもまとめた方がいいのかな。タイトルに入れてしまったんだから、研究の歩みのような話もないとまとまらない。

 あら、準備会の発題はコメンテーターになっている。僕らはレジュメだけ用意していけばいいのか。なんだ。

 2017年の合同書評会のレジュメに「私エスノグラフィー」云々をもう一山盛ればいいか。あの時のレジュメは結局ほとんど活用されていないし。

 メモ「技術的な差はあるとしても、読むことと書くことに研究者であろうとなかろうと変わりはない」。

 うーん、なんか無理やり考えた感が。

2019年2月13日(水)

 時間に余裕のある時期なはずなのに絶え間なくノルマがあるのはなぜだろう。

 言葉を探してしまう。

 ついついツイッターを見てしまうな。何も気乗りしない時の症状だ。もったいない。

 エアコンのフィルター掃除した。前回は1/28だったようだ。やはり2週間に1回は掃除しないといけないペースで埃がたまる。

■家事 #2

 今日は何か知らないがつまが仕事が休みだということで、朝から洗濯物をたたんでくれて、夜は外出するのでと夕飯も用意してくれるらしい。

 いつもなら誰の洗濯物でどこにしまうのかを考えずごちゃまぜにたたまれても迷惑、たたむだけたたんで放置されても負担感は無くならないなどと思うところだが、今日はきちんと分けてたたむだけでなく、タンスにしまうところまでやってくれた。夕飯はシチューか何かを作るつもりらしく、買い出しに行っていた。

 予期的な負担感を募らす反射を少しずつほぐしていければいいがと思う。

■木田元『ハイデガーの思想』岩波新書、1993年

 「ハイデガーも面白いのかな」と思っていて、しかし、『存在と時間』に手を出す余裕はないというのが正直なところで、古本屋で見かけて木田元の本なら読んでみようかなと思った。

 ハイデガーの取り組んだ「存在」という課題は、結局ベルクソンの「持続」や「直観」の取り扱いと似ているように思われた。「実在」をどうとらえるかをめぐって、主体の位置付けと認識の役割として理解しようとしたもの。

 ベルクソンでなくハイデガーでなければならない理由があるとしたら、どこにあるのだろう。そこまではわからない。とりあえずハイデガーはおいといて今はもっとベルクソンを読みたいと思った。

 しかし、哲学者が芸術に向き合う態度がよくわからない。

2019年2月12日(火)

 筋肉痛3日目。引きずる疲労感。広島日帰りしんど。

 さくらで帰ります。

2019年2月11日(月)

 引き続き筋肉痛。

 筋肉痛のせいか、悪寒がする。全身が炎症状態なわけだから当たり前か。

■アーネスト・ヘミングウェイ『老人と海』

 昨夜何となく読みはじめたら面白い。特にがんばらなくても読みきれそうな。

 単純な話だった。使っている単語も少ないだろう。三人称で書かれているけど、著者が主人公の半ば一体化しているような書き方だなと思っていたら、訳者解説にもそのようなことが書いてあった。訳しやすいとか。

■他者性

 前に「大阪城公園に屋根はいらない」という記事を書いた。「公園に雨を避けるところは必要ないのか」という問いかけを、そこが野宿生活者の避難場所になっていることを重ね合わせるのは、まあレトリックに違いない。

 雨を避けて駆け込んだ東屋に野宿生活者がいたらぎょっとするというのはわからなくはない。たぶん、誰がいたとしても多少気まずい思いをするに違いない。異質な他者を許容してやり過ごしながらでなければ社会生活は送れない。

 「他者性」という視点で少し掘り下げてみようと思ってここまで書いたけど、なんか違った。

■家事 #1

 家事の何が面倒くさいって、ふんぎりをつけるのが一番面倒くさい。やらないといけないなーと思いつつ、今やってる楽しみを打ち切りたくない。ゆったりした時間を打ち切らなければならないことが家事にともなう如何ともしがたい最大の苦痛といっても過言ではない(のかな?)。

 ゆえにまとめてやってしまいたいとか、ゆったりした楽しみには使えない断片的な時間をあてがって、負担感を低減したいとか、何かいくらか楽しいことをしながら済ませてしまおうなど、様々な苦痛回避の工夫が試みられている。

 それでもなお、「もういい加減やらないといけない」というふんぎりをつける時間は無くならない。この苦痛は誰かが背負っている。例えば、誰かがふんぎりをつけてやり始めたのに後から乗っかるのは、自分でふんぎりをつけるのに比べると、さほど苦痛ではない。換言すれば、「自分の気持ちを自分で切り替える」のが辛いのであって、誰かにつられて気持ちを切り替えるのとは根本的に異なる経験なのだと言えよう。

 家族で出かけて僕は車を運転して帰ったし、つまが夕飯はどうするか相談してきて、カレーうどんを提案するも、煮込みラーメンにしようと言い出したのだから、それくらい作ってくれる気があるのかと期待した。すでに19時前だし、帰宅したらすぐに作ったほうがいい。ところがやつは「ちょっとドラマ見てから」と横道に逃げたので、これはあてにならんなと思った。

僕もすぐに調理に着手したわけではなかったが、うんざりしつつもふんぎりをつけて立ち上がった。調理を始めようにもダイニングテーブルが散らかっているのをあらかじめどうにかしておかないといけないので、つまが化粧していつもほったらかしにしている鏡を片付ける。

 すると、僕が立ち上がったのを追ってきたようにつまもごそごそと何やら片付けをはじめる。もしかすると作業を代わってくれるのかなと思わないわけではない。しかし、すでに「ふんぎりをつける」という初期コストを払ってしまった以上、たとえここから代わられても何となく損した気持ちになる。

 「ふんぎりをつける」時には、作業全てを終わらせるまでの面倒を引き受ける覚悟を決めたということで、この時点で面倒の8割は片付いたようなものなのだ。ここで代わってもらったからといって、払い戻しされるのは残り2割分のふんぎりに過ぎないので、そんなら別に代わってくれんでもええわアホくさというようなものなのである。

 だいたい、ふんぎりをつけるまでの「ゆったり過ごす時間」の中でも、「そろそろやり始めなければならない」とずっと気にしている状態なので、「別に急いでやらんでもええわ」と軽く考えている場合とは、過ごした時間が異なるのだ。ひとがやっているのを見て「何か手伝おうか」などとノコノコ現れられてもかえってムカつく。

 そんな意固地にならずに厚意を受け止めればいいではないかと思われるかもしれない。しかし、別に普段から手伝ってくれるわけでもない人間が、たまたま気が向いたか、ご機嫌取りの必要を感じて手伝いを申し出てきたとしても、何を今さらと腹が立つ。腹が立つには腹が立つだけの仕込みがすでに成されているのだ。

 「感情 #6」で「家事に携わるものとそうでないものとでは、同じ時間、同じ場所で過ごしていても流れている時間が違う」と書いたが、この「同じ時間、同じ場所で過ごしていても流れている時間が違う」という感覚についてはきちんと検討されるべき論点であると思う。

 この「ふんぎりをつける」というやつは、仕事術について考える際にも関わりがありそうな視点かもしれない。

2019年2月10日(日)

 筋肉痛。

 今年もチョコレート作りをしなければならないので電子温度計を取り出してみたらうんともすんとも言わない。

 電池切れかと思ってボタン電池の型番を調べたら買い時があるやつだったので放っておいたのが良くなかった。いざチョコレート作りをはじめようと電池を交換してみても、デジタル文字が一瞬表示されるだけで、まともに動作しない。

 なるべく個人商店で買い物しようと、去年バイト先の近くの商店街で買ったものだ。まさに「何年も売れずにほこりをかぶっていた」という感じの品物だが、意を決して購入した。実は昨年の時点で半分壊れているようなものだった。温度計の他にタイマー機能がついているのに、劣化していて通知のアラーム音がほとんど聞こえない。鳴ると意識しているとかろうじて「ピピピッ……」というか細い音がする。そして一年経って久しぶりに使おうとしたら完全に壊れていた。仕方ないので大急ぎで近所のスーパーでありあわせのアナログ温度計を買ってきた。

 最初から電子温度計など買わなければよかったのかもしれない。割れなければ使い続けられるアナログ温度計に比べれば電子温度計の寿命は短いし、電池が切れて使えなくなることもある。しかし、最初から劣化したものをつかまされたのは個人商店の商品管理上の問題であるのも確かだ。

 とはいえ、品揃えや商品管理といった部分を比べれば、個人商店より大規模チェーン店に分があるのは当然なのだから、こんな形での比較をするのは本末転倒だ。

2019年2月9日(土)

 雪山登山。

■オートエスノグラフィー #2

 あれは「なぜこんなことが気になるんだろう」という理解のプロセスに意味を見出しているんだろうな。

2019年2月8日(金)

■スケジュール管理 #2

 午前中に済ませるのは書類の作成までが限界だった。確定申告は午後にやるか……。あれを郵送まで持ってくのがまた面倒くさい。いったん帰宅して作業して郵便局によるついでに外出して届け物をするか。

 本当は確定申告の書類まで外で済ませてしまいたいが、ノートパソコンのバッテリーが保たない。

 この書類を作成するのに2時間くらいかかる。確定申告の書類は2時間もかからないだろうが、気力体力を考えると2時間くらいかかってしまうだろう。

 こういうふうにかかる時間を勘定に入れてスケジュールを組んでいくと、よりやりやすくなるのだろうが、例えば論文はどれくらいあれば書けるのか。

 論文をいくつかのパーツに分けて、それぞれを仕上げるのに相応のエネルギーが必要になる。そのエネルギーを出しきるためのまとまった作業時間を確保する必要がある。まとまった作業時間をいつ取れるか、少なくとも何度取る必要があるかを考えでスケジュールを割り振っていく。

 しかし、そういうふうに作業時間の割り振りはできても、論文はその通りに完成していくかはわからない。

 この5年くらいはもうとにかく時間がないまま締め切りが来るので、できるできないではなく、この範囲内で「やるしかない」という感じになっていて、「やるしかない」でわりとやれるなという手応えも得られるようになってきた。

 時間がないからふだんからまとめる構想は練っている。ところどころ文章化する作業もしている。実際まとめに取りかかってみて足りないところの帳尻合わせのようなこともできなくはない。

 結局、まとめの作業に取りかかった段階でも、小分けにした各工程を順番に詰めながら、同時に全体の構成を固める作業も探り探りやっているんだな。いくらスケジュールを組んでも、こういうしんどさは払拭されるわけではない。

 論文の論理的な構成、展開があり、また、字数を埋めるために何を書くかという打算もある。もちろん、「これは書かなければならない」「ここが論文の売りになる」というアイデアがあってこそのことなので、すべての文章が打算なわけでもない。

 論文というのは(図表が入ることはあるにしても)文章で作り上げるものなので、展開上書かなければならない、手間はかかるしそんなに面白くもないような文章も含まれる。どんな地味な文章でも一から書き上げるのはしんどいから、日頃から気分が乗ったときに形にしておくと後々助かる。

 確定申告の受付は16日から?

 「センターの日」の報告を書くのは無理かもしれない。

 夕方子どもを病院に連れて行ったら1時間半くらい待った。かなりうんざり。そんなに待っていなさそうだったのに見えない待機者が控えていたようだ。ここはいつもそうだと忘れていた。

■Apple製品 #2

 AirPodsの左だけバッテリーの減りが早い。何か別の仕事をしているのだろうか。

 「左だけ」という言い方は変だ。左以外には右しかないのだから「左」でいい。しかし、実感としては片方だけ不具合を抱えているように思われて、不具合となると単なる相対的なバッテリー容量の差とは受け止められないのだろう。

2019年2月7日(木)

 もう日付をまたいでしまった。

■仕事術

 仕事術というほどの話ではないが、見出しをつけるならそうだろうと思ってつけた。

 海外宛に郵便物を送る。ふつうに郵便局に行って海外用の伝票に記入すればいいだけなのに、何となく面倒くさくて後回しになる。

 一つには料金が高いということがある。一番安いのは船便だが、仕事に関わるやり取りを1ヶ月かかるような船便でするわけにもいかない。EMSは高いし、ふつうの航空便も安くはないのでせめてSALでとなるが、SALも安いわけではない。といってもSALで送るしかないとわかっているから、送ると決めた以上、迷っている場合ではない。

 梱包するのも面倒くさいし、伝票を書くことそのものも慣れないし、住所を書きまちがえて着払いで送り返されてくる可能性を考えると緊張する。いくつもの「面倒くさい」が思考を妨害して手続きに取りかかるのを遅らせる。

 昨日ふと思ったのが、とりあえず梱包したものを持って郵便局に寄ればいいということだった。梱包済みの品物がなければ何も始まらないし、何かのついでに郵便局に寄ること自体はそんなに難しいことではない。伝票の記入も、郵便局まで行ってしまえば、面倒くささはあるものの、あとは記入するだけだ。

 そんなふうに作業を小分けに認識して、とりあえずこれをやって、ここまでやれば、あとは済ませるだけ、というくらいに組み立てるようにすれば、面倒くさくて手につかないことも片付けていけるのではないかと思った。着手から終了までのイメージを完成させれば、あとは早いのではないか。

 ほらやはり仕事術というほどのものではないが、自分が仕事を片付けていく時に楽になるための覚え書きという意味合いで、このような気づきを書き留めていこうと思う。

 初めて国際郵便を利用したのは2010年で、何をどうしたらいいのかよくわからないので、郵便局で見つけることのできたEMSの伝票で送ったらバカ高くて、しかも宛先不明で返ってきやがった。送り直すときには船便にしろと念押しされたので船便で送った。EMSだと5,000円弱、船便だと2,000円くらいだったか。

 郵便局で訊けば良さそうなものだが、そうやって職員に質問することをためらってしまう。とりあえず送れればいいし、外国からのお客さんに送るものだから速く届けるのが礼儀かなとも思った(しかし、よく考えると本人からすれば別に大したものではないし、世界を飛び回っている人からすれば、1ヶ月後に届こうが数日で届こうがほとんど関係ない。たとえ届いていたとしても本人がその荷物を開くことができるのはかなり先のことと思われた)。行きがかり上僕がやらされることになった仕事で、送料を負担してくれるのかどうかもわからなかった。イベントまでは浮かれていた上司も、終わってしまえばすでに忘れてしまった厄介ごとのような態度。やらせる人間も中身についてはろくに考えていない。

 しかしこの面倒くさい気持ちには限りがない。

■新聞 #6

 豚コレラ。トランプの一般教書演説。とにかく壁をつくる。ジョシュア・トランプくんがとばっちりでいじめを受けている。「いじめ」は「いじる」から派生して江戸時代後期に発生した言葉であるとか。石炭発電に課税するのかな? 北方領土の日らしい。

 夕刊では橋爪大三郎が橋本治の追悼記事を書いていた。そういえばこの人も最近対談本を出していたなと思い出した。買おうかな。

■スケジュール管理

 やることいっぱいなので明日からまた気を取り直して仕事を片付けていかないとやばい。

 研究会の報告が来週休み明けにあるからその準備もしなければならない。来週末はまた「センターの日」だからブログを更新してビラを作らなければ。その次の週明けはまた別の研究会の打ち合わせがある。研究員の業績報告書と来年度の申請書類も出さなければならない。これは今月末締め切りだから、もう明日やって判子もらう調整をした方がいいだろう。

 確定申告もやらなければならない。もう源泉徴収票も揃っているはずなので、これも明日やってしまえるといいなあ。この二つを明日午前中に片付けて、午後は新しくできたブックレットを謹呈しに出かけて、ついでに「センターの日」のブログを書いてしまえると助かる(しかし、土曜日の雪山登山の準備は大丈夫だろうか)。

 研究会の準備はもう月曜日の夜にでもやるしかあるまい。「センターの日」のビラの印刷は水曜日の午前中に預けられるようにしたい。すると来週の木曜日と金曜日はわりと余裕がある。余裕があると言っても週明けには研究会の打ち合わせがあるので、木曜日には少なくともドラフトを仕上げて、金曜日を予備日くらいに考えておくべきだろう。

 研究会の打ち合わせが終わってから、3月の研究会本番を除けば、それほど神経を使うことはない。と言っても引っ越しの準備と引っ越しにいくらでも時間を取られるだろうけど。旅行の準備もしておかなければならない。3月頭にフィールドワークもある。とはいえ、とにかく論文を仕上げることが最重要課題だ。

 論文を仕上げるスケジュールについても詰める必要があるが、とりあえず再来週頭までは直近の課題を片付けてしまおう(この間に追試の採点とかも入ってくるなあ……)。

 こうやってその都度スケジュール管理を考える時間を作ると良さそうだ。

 健康保険と旅行保険の手配も。国際SIMカードの事前入手。

2019年2月6日(水)

■感情 #7

 昨日の夕飯。鍋の締めに煮込みラーメンを入れてほしいと息子が言う。この「煮込みラーメン」は固有名詞としての「煮込みラーメン」であって、単に「鍋の締めに麺を入れてほしい」という意味ではない。

 しかし、つまは「さりめん」という韓国製の乾麺を入れようとしているので、息子に「煮込みラーメンじゃなくて普通の麺でもいいのか?」と確認した。希望通りのものでなければあとで文句を言ったり、最悪いらないといい出したりする可能性があるからだ。案の定、少し言い澱みながら「えー、だったらいい」と息子がいう。するとつまが「余計なことを言わないで!」と怒る。

 ここでも、配慮を広めに取ったがゆえの判断を理解の浅い人間にとがめられるという不愉快なことが起きている。余計なことも何も根本的なことのはずだが、彼女はもう自分が麺食べることの方に気持ちが行っているので、そういうことはわからない。あるいは、麺に変わりはないということなのだろう。

 子どもの希望など親の勘違いや思い込みで満たされないのが当たり前なのかもしれない。しかし、そんなことを言ったら、ものを考える意味などない。

 まだまだ書き加えたいことはあるが、材料が足らないのでいったんやめておく。

 よく言えばおおらか、悪く言えば大雑把で無神経。

 そのような根本的な性格の違いとして受容できるか否かという問題なのだとすれば話はそう難しくはない。しかし、そう難しくはない話が難しくなってしまうとすれば、そこにもまた解きほぐされるべき問題はある。問題というより、そのような行き違いが起こる転換点がどこかに見出されうるのではないか。

■新聞 #5

 今日の朝刊は何が載っていたかな。来日中のメルケルが慶応大学の学生と会ったとかなんとか。

 ふー。

疲れた。何も決まらない会議だった。

2019年2月5日(火)

■リニューアル

 地味にリニューアル。

 半月分しかないのに1月のログだけで結構長い。2月も途中でログに回さないと追いつかないかもしれない。

■さんすう #2

 娘はまだ600円、900円がどれくらいの金額なのかわからないようだ。1000円札に象徴される1000円はわかっているのだから、1000円札に収まる範囲の金額であるとか、100円玉が6枚、9枚であるとか、わかりそうなものだが、どうやらわかっていない。

 小学校の宿題を見ていると、まだ1の位と10の位を教えようとしている辺りのようだから、100の位、1000の位といった繰り上がりについて理解できていないのだろう。

 答えが二桁になる足し算はすでにやっているから、二桁の数を処理することはできるようだ。しかし、位という考え方はそれとは別らしい。

■メモ

 電気シェーバーの充電をする。前回が1月20日なので、およそ2週間に1回のペースは2012年の購入当初と変わりないようだ。

■感情 #6

 固まった砂糖を砕いてから補充しないからお前は砂糖を補充するなとかよく言えたものだと思う。発想から発言に至るまでの過程が歪みすぎていてよくわからない。

 こうして言葉にしてみると大したことではないようにも思える。この「大したことではないようにも思える」ところと、それゆえに言葉にしにくいところに何か大きな溝がある。

 もう少し詳細を書いておこう。夜更かしして眠く、朝8時に小学校に行かねばならないと追い立てられるように洗濯物を干そうと寒いベランダに出たところで、何やら叫んでいるので聞くと、「あなた砂糖の補充しないで! 固まってて取れない! 私補充する時袋をもんで砕いてからやってるんだから!」という。

 自分では思いもつかないような細かくてどうでもいい訴えをわざわざ聞かされてうんざりした。ふだん料理をして調味料を使うのは圧倒的に僕の方が多くて、調味料の補充の頻度だって頻繁に使う人間の方が高いだろう。僕がまるでよそ様の台所を間借りして調味料を使わせてもらっているかのような物言い。

 こんなことを言われても相手の思い違いだとしか思えない。思い上がりだとさえ思う。家事に関して対等にものを言われる筋合いはない。しかも「するな」と命令するということは対等どころか、下位に見ているということの表れである。

 笑い話のようでもあるが、それだけに腹立たしくもある。

 ムカつくのでビニール袋に砂糖を移して木槌で叩いて粉々にしてから容器に戻してやった。

 たまに調理にかかわる分には細かなことまで力を入れてやろうという気になるのかもしれないが、毎日のように切れ間なく家事をしている人間からしたら、そんな細かいことの優先順位はかなり低い。そうした方が合理的だろうと頭ではわかっていても、気力面からは適当に済ませてしまった方が総体として合理的ということもある。

 家事に携わるものとそうでないものとでは、同じ時間、同じ場所で過ごしていても流れている時間が違う。→家事 #1

 なんかムカつくこといっぱいあるけど、流れる時間が違うのでは仕方がないと思うしかないのか。

 流れる時間が早いのは、勘定に入れている要素が多いからで、それは配慮の結果だと言ってもおかしくないのに、他人より配慮を多くしている人間が考えの浅い人間にその配慮を考えの足りないこととしてとがめられるというのは理不尽というほかないように思える。

 出口はあるのだろうか。嫌でももめ出すのを必要悪としてつきあうのがまた誠意ということもあるのか。

■新聞 #4

 今日も朝刊を読みそびれた。夕刊と一緒に読みにかかるのが面倒くさい。この面倒くささはなんだろうかと思って書き始めてみる。

 そもそも面倒くさいから遅くなればなるほど面倒くささは増す。

 今日はあれはどうなったかなと何かの動向を気にして読むことはほとんどない。だから新聞を読むことが受け身になってしまうんだな。週ごとに楽しみにしている連載でもあれば話は違うのかもしれないが。

 なるほど、それはあるかもしれないと腑に落ちる反面、ますます読む気が失せる。新聞に掲載される範囲で積極的に社会動向を追いたいようなテーマがどれほどあるものか。もちろん、たまに目を引く記事はあるけど、大半は「よくわからないけど載っているから読まないといけない」ようなもの。

 予測していたことといえば「小泉進次郎のパフォーマンスやはりうっといしい」くらいのもので、別に期待もしていない。

 ネットで話題になっていた麻生の「子どもを生まない方」云々がどういう話だったのか新聞で確かめた。夕刊では謝罪したらしいことが載っていた。どうしてそんな変な比較をわざわざするのか謎だ。

 父親による虐待死の続報も載っていた。統計の不正。

2019年2月4日(月)

 うつは寝て治せ。

 低空飛行。

 アプリが重たくなってきた。テキストが増えただけなのになあ。過去ログを切り分けなければ。24,000字。31,000字。

■シンポジウム #7

 言葉でいくら説明しても説明した先から意味を絡め取られていく。ゆえに事実の積み重ねから現象を説明しなければならない。事例と事例の並びから意味を読み取り、理解を得てもらう必要がある。

2019年2月3日(日)

■シンポジウム #6

 緊張して持ち時間をまちがえてしまった。15:40から16:20までのところ、16:00までとかんちがいして大急ぎでやってしまった。せっかく準備したことが台無し。一人虚しい。

 うっかり報告の組み立てそのものがまちがっていたのかと反省しそうになる。いや、そもそもケアレスミスを引き起こすような緊張を招いたのは何か根本的な心得違いがあったせいではないかとも思う。

 「現場からの報告」というスタイルでどう報告したらいいものかつかめず、総論的な組み立てにしてしまった。それが企画意図を満たしているのかどうか自信がなかった。「現場からの報告」という意味では、大阪城公園の 事例だけにしぼって、エピソードを詰め込んだ方が良かったのかもしれない。

 しかし、研究報告的な組み立てをせずに事例報告だけをするのはためらいがある。とりあえずでも問いと答えを用意しようとしてしまう。

 また、事例報告といっても、そんな大々的な闘争をやって成果を上げているわけでもない現場の話をしようとすれば、抽象化して解釈する必要がある。

 最初からやりづらい企画構成だったという結論に甘えてしまっていいかな。

 現場で活動しているとどこまで行っても挫折はわいてくるし、きれいな結論を出されるとひとことふたこと言いたくなるようなものかもしれない。正解があったとしてもそれはその都度の正解でしかないので、やり続ける限 りまた解決のできない問題は生まれてくる。

 研究は科学的な手続きで「正しいこと」を証明しようとするが、まちがったことを言わなければ抽出できない社会的事実もあるように思う。まちがってると言われることを承知で光をあてるために努力する。どうやったって試合には勝てないとしても、別の戦いの可能性を捨てない。

 まちがった言葉を使いながら正しいことを言う。「その言葉の使い方はまちがってる・問題がある」と言われつつも、描き切る、論じ切った先にあるものを見せる道を開かねばならない。

2019年2月2日(土)

■都市のコモンズ

 とあることをきっかけに関係が深まり、生活保護を受けてアパート生活へ移行しようとしている人がいる。

 野宿生活から生活保護を受けるようになって初めてアパート生活を経験するという人は少なくない。この人の場合、それに加えて閉所恐怖のようなものがあって、これまで建設日雇労働で暮らしていたが、狭い個室に入らね ばならない飯場では働いたことがないという。同じ理由で、釜ヶ崎のドヤにも泊まらず、ずっと野宿生活をしてきたというのだ。

 これを言葉通り受け止めていいのかわからないが、独特の生活世界が広がっていることは確かに思える。彼が寝床にしていた近くで別の人がまた野宿生活をしていて、彼とは20年来の知り合いなのだという。この人はもう見た目がすごくて、普通の人は怖がって近づこうとしないと思う。森の中に隠れ住むように暮らしていたのが、最近追い出されて公園事務所の玄関口で寝るようになった。夜回りの時に声をかけても、目線は合うし、うなずきを返してくれることはあるが、声を聞いたことがない。聞けば、この人も昔は普通にコミュニケーションが取れていたそうだ。

 野宿生活のなかに文明観を揺さぶるような生き方の片鱗を見ることがある。本人たちにとってはそれが当たり前で、直接的な言葉にすることは難しいかもしれない。しかし、都市空間の隙間にはまだ別の生き方、現代社会で は見えづらくなっている人間性の別の側面が息をひそめている。

 この書き方ではあまり伝わらないな。無理やり書いてしまった。

■感情 #5

 腹を立ててもいいけど、自分が腹を立てることも抑え込まなくていいと考える。あるいは、腹を立てられても気にしない代わりに、腹が立ってもそれをぶつけないようにする。

 別に両者間で合意があるわけではなくとも、いったん自分の中でルールを作ってみると、感情の理解が進むかもしれない。

 まるでアンガーマネジメントのようなことを考えているな。

2019年2月1日(金)

■シンポジウム #5

 夜回り中止になった勢いでがんばってスライドまで完成させてしまった(休めばいいのに)

 さほど難しい話ではなかった。図表を作ったらわかりやすくなったと思う。

 やらんでもいいのにスライドを直しはじめたら2時間以上経っていた。図を入れるとわかりやすい。

 平日金曜日の昼間のマクドナルドは客が少ないのかな。ここの店舗だけなのか、たまたまなのか。お昼時になっても空いている。

■感情 #4

 愚痴や批判を口にするのは別に問題解決したいわけではなく、面倒くさい思いをしながら、みんなのために働いているアピールをして満たされたいのだなと気づく。

 もつれた糸を解くのに感情的になってはいけないのは心の場合も同じこと(本当か)。

 理性とは何か。感情と理性が対立的なものというより、一つのものが状態を変えているととらえるべきではないのか。

 何かが起きた時に、嫌なことを先取りして予期してしまい、回避行動に入ることが事態をややこしくする。本当は回避するほどでもないのに、嫌な思いをすることへの忌避感情が優ってしまう。一度転換して、もう一度その 「嫌さ」を解読する材料とすべきだろう。

■家売るオンナの逆襲 #2

 これ三軒家万智が負けたことになるんかな。

 予告だと昔の恋人か何かみたいになってるし、物語の主題は家を売る手腕の対決というわけではないのかな。

■難しいお年頃

 夕食で今日は学校はどうだったかと問われて息子が「休みたかった」、「せっかく学校が早く終わったのに何で学童に行かないといけないのか」云々。

 そもそもそのように問われること自体が気に入らないのかもしれない。続いて「食べたいものがない」と言ってご飯を食べない。さっきまでお腹が空いたから早くご飯食べようと言っていたのは自分だろうに。

 冷凍の唐揚げを解凍してもらって、勝手にヨーグルトを食べたら、テレビを見ながらご機嫌そうに一人でつっこみを入れたり、盛り上がったりしている。

 別に学校に何か原因があるわけでも、学童に行くのが嫌なわけでもない。多少のかかわりはあるにしても、不満をさらけ出すのにちょうどいい口実として利用しているだけなのだろう。何が気に入らないのかと思いもするが、別に何が気に入らないというわけでもない。このような状態を指して「難しいお年頃」などと言うのだなと思う。

 実際にはそんなに「難しい」わけではなく、わかってしまえば何のことはない理由だったりするのかもしれない。発生機序はわりとシンプルなのではないか。成長する中で誰もが通るような当たり前のささいなことが引っかかってしまうのが今だというだけの話。しかしまた、それと付き合うのはわかった上でも面倒くさそう。本人もどこかで自分の中で折り合いをつけられるまで、不愉快さに苦しむ時間を過ごさねばならない。成長とはそんなものだったかなぁ。

 ベタなツッコミを入れたり、一人で作品解説みたいなことをしたりということもだいぶ増えた。最初はYouTubeから仕込んでいるなという感じだったが、学童で上級生から影響を受けることもあるし、最近ではテレビ を自分から積極的に見るようになった。

 パッケージ化された安手のコミュニケーションの型にはまって、わざわざ個性を潰しているのに、自分では気の利いたことを言っているような気になっているところを見ると白けて仕方ない。しかしまあどういうものに影響されるかの違いはあれど、こういうふうになる時期というのはあるのだろうと思う。

 というか、われわれ大人だって彼ら以上にベタなコミュニケーションの型を組み合わせながら生きている気もする。そうしないとやり過ごせないものを抱えるようになっているという考え方もできる。

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