2025年4月3日(木)
うーん、ようやくとっかかりを見つけたというところか。
自己を分析対象にするためには、状況の変化の中に位置付ける必要があるというわけだ。
*
人柱だなこれは。フィールドワーカーが自らを人柱にして記述を可能にしている。
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2、3日前に考えていたことは完全に的外れだったなあ。
僕はやっぱりフィールドワーカーとして妥協できないんだな。
2025年4月2日(水)
ああ、そうか。研究会で報告しておきたかったのは、嫌な思いをするためだったのか。
すんなり受け入れられることはない、理解されることはない。それでもそれを呈示する姿勢を問題としている。
2025年3月30日(日)
やっとのことで論文にすることができた。
僕にとってこのフィールドワークはこういう形でしか語りえないことだったし、何とかして語れるようにしなければならなかった。
だから、いったん書き上げておきながら、完成させるまでこんなにも苦しむ時間が必要だった。
論文としての出来不出来とは関係なしに、こういう論文として形にする必要があった。そのためのいい機会だった。
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エスノグラフィーで明らかにしようとしていることは、理論的な枠組みで端的に取り出すことができない。まったく理論的でない、出来事のディテールによって論述を埋めなければならない局面がある。
そんなことはきっとほとんどの人には分かっていない。
2025年3月28日(金)
もう少し早くやっておけばよかったとは今だからようやく思えること。
迷いもせずに書き上げてしまうのは嫌だったのだろう。
2025年3月26日(水)
4年前の夏に引き寄せたように、もう一度引き寄せればいい。4年前より洗練された形で再創造するのだと思えばいい。
2025年3月25日(火)
ああ、疲れた。なんとかまとまってきた。
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苦しい。
2025年3月24日(月)
支援者の方に関心があるんだな。支援者の支援者ではない部分。
2025年3月23日(日)
なんだか、変わってしまったな。
気付けば、同じところへ来ても、まったく違った気持ちでいる。
2025年3月20日(木)
相互行為の深みに達したいという野心なのか、語りうるようにするための必然なのか。
2025年3月13日(木)
もっと、いいように確信しよう。きっと良くなる。囚われないことは力になる。囚われがためていた力がすべからく解放される。無駄にならない。
2025年3月12日(水)
はー、疲れた。疲れる。
2025年3月10日(月)
不安になるのは必ずしもまちがっているからではない。
課題があるのは問題に取り組んでいるからだ。
2025年3月8日(土)
なぜこんなことを考えているのか。
ちょっと飛躍がある。
そんなにつらい思いをしたか?
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話しても無駄な場合があると思い知らされた程度にはショックだったな。
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まだ飛躍はある。そのようなことを考えるようになる必然性はあるとして、その結果、認識枠組みをどのように変化させねばならなかったのか。それはこの主題そのものにも関わることなのか。
そんなことではないな。全体の構想を整える際の基礎にはなるだろうけど、それは本当に基礎的なことだ。
……いや、そうなのかな。世界観を変えるようなことではあるし、人間性のとらえ方そのものが変わるだろう?
飛躍はあるけど、理由のないことではない。飛躍している分の間隙を埋めていく必要はある。
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それ今回の論文に関係あるかな。
補助線くらいとしては必要かもしれない。
大きなところでは、人間の認知能力の性質に関わるということはある。しかし、これは社会学的テーマなんだろうか。未来を構想することが現在を語れなくする。現在を語れないことが問題を未来に先送りする。
ここをクリアするとしたら自己物語論みたいな仕掛けが一つにはありうる。しかし、そこは理論的に詰められていない。
とはいえ、アイデアとして必要となれば、具体的な議論の中にそういう枠組みを作ってしまえばいいのでは。
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昨日はうまい言葉が浮かばなかったが、要するに気の迷いを無くしておかなければならない。
昨年の夏頃の時点で到達できたのがあそこまでで、それから半年の間に発展させられたのでもない以上、実際にはアイデアとしては蓄積されているとしても、自分の現在の力量はそこまでと考えておくべきだ。
2025年3月7日(金)
うーん、なんかやだな。
そろそろスイッチを入れてもいい頃か。
明日の午後あたりからかな。
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まあ負担でない程度に考えはじめるくらいはいいだろう。
いろんなことが混ざっている。内面を理解に引きずり込まなければ、語り得るほどのデータを用意できなかった。
しかし、語ろうにも語れないという事情もある。それなら先行研究を使ってそこをうまく論点化すればいいのかもしれない。
そうなると先行研究を読み込む作業を済ませる必要があるが、もうここで失敗はできない。もう少し裏をとっておいた方がいい。
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最初からそれは分かっていたはずだ。フィールドワーカーでなければ到達できない、単純でありながら語りえない真理があるのだと思っていた。それは新しいことではない。
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「反排除の野宿者運動の意義を明らかにする」だったか? 今逆のことを考えていたぞ。たぶん、表裏一体なのだろうけど、どっちが表かで書き方はかなり変わってくるのでは?
いや、あってるか。支援者側の話に違いない。むしろ、そこを強調しなければならない。
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フィールドワークの方法論の議論も混ざってるんだな。
しかし、今の時点でつめきれていないことをねじ込むのはやめた方がいいだろう。
フィールドワークというか、まあ参与観察だ。そういうことは前に少し書いた。
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というか、たぶん材料はすべてそろっている。あとはそれらをどうまとめるのかだけだ。まとめられる。ただし、まとめるためのエネルギーはそう何度も出せるものではない。ここぞというタイミングで一気に出し尽くさないといけない。
論文にするにあたってまとめ直さなければならないのは良かったかもしれない。そうでなければつまらなくて力は出ないだろう。
2025年2月25日(火)
そもそも語り得ないことなら、語り得ないことについて語るしかないのか。そのやり方を僕はすでに手にしているのだし。
悲しみのありか、あるいは囚われを捉えることなのかもしれない。
2025年2月22日(土)
どこまで語るのか。語り得ないものについて語ること。
最後にたどりつくのはどこなのか。
2025年2月13日(木)
少し休む。
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その日のコンディションを類型化しようとするなら、どんな類型がありうるか。
好調、憂うつ、不安、嫌悪、疲労とか?
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誰かに聞いてもらえないまま、聞いてもらいたい気持ちが薄れてしまうようなこと。
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囚われに気づく。そうすれば囚われの先をたどることもできる。囚われずに潜り抜ける道は囚われているからとらえられる。
2025年2月5日(水)
やっと分かったのかもしれない。
2025年2月3日(月)
もう少しな気がするのだけれど。
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自分で自分を惑わせている。自分がやっていることなら、自分で止めることもできるだろうに。
2025年2月2日(日)
そろそろ次のステップに。
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自傷みたいなこともあるのかもしれない。差し当たってどうしようもない。
2025年1月28日(火)
少し休む必要があるかなあ。
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要するに戦略が立てられないのだろう。この先、研究しつつ生活していける、仕事が得られることを両立させるために何をどうやっていくことが生き抜き戦略として必要十分なのかがつかめない。
いろんなことが分かったり、できるようになったりすることは嬉しくはあるものの、それらがすぐさま有用であるとはならない。それがたまらなくもどかしい。
もどかしくとも、そうやって得たものを最大限に活用して道を切り開くしかないのに。
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混乱を解きほぐしていくための力も必要だ。しかし、これは補助的なものに過ぎない。
自分の研究を形にしていくための知識も必要だ。仕事をしていくための知識も身につけなければならない。
仕事をしていくための知識が研究を形にしていくための知識と一致するか、関連していれば、こんなにありがたいことはない。しかし、そもそも仕事をしていくための知識が、今の仕事をするための知識でしかなく、長期的にはどこまで有用であるか。
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惑わされている部分もあるだろう。分からないと思い込んでいる。
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不安というのは実体のないものかもしれない。抱いてしまうから作用するもので、作用するから不安を感じるのかもしれないが、そもそも抱かなければ気にすることにもならない。
2025年1月24日(金)
この研究を完成させるために、あといくつ乗り越えなければならないことがあるのだろう。
2025年1月23日(木)
神様、私にお与えください
自分に変えられないものを受け入れる落ち着きを
変えられるものは変えられる勇気を
そして、ふたつのものを見分けるかしこさを[斉藤章佳『男尊女卑依存症社会』亜紀書房、2023年、p.182]
こっちの訳のほうがこなれているな。
2025年1月21日(火)
まずいなあ。
2025年1月13日(月)
何も進まない時もあるか。
2025年1月11日(土)
なかなか落ち着かない。
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分からない時間を経なければ分からないこともある。ただし、そのためには分からないままあきらめずに考えを続けていかなければならない。
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実存的な部分をコミュニタリアニズムや脳科学と進化論に担保させようとしている部分があるんだな。
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なぜフィールドワークなのか。個人主義があるんだな。個人主義でありながら、このあり方を複数の世界の往還の重なりに境界として預けているようなものだろう。
私が私であることは、私が私として確信できないから可能となるし、そうであるからこそ、不可能だということになる。それなら結局は自分の問題だということになる。
しかし、そうした自分の問題に社会性を持たせることで折り合いをつけようとしている。
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僕はそれで構わない。それで構わないところに私を見出そうとしている。そういう自分であるために、常に足場となる相互行為に巻き込まれ、意味づけを拾って現象を説明しようとする。
2025年1月5日(日)
やはりそう簡単に解決できる問題じゃない。それでも何とかしないといけない。そのためには深刻にならずに内省しなければいけない。
思えば、ちょっとした失敗に深刻になりすぎるのは昔からだった。大学1回生くらいのこと。他人に対して自分の浅はかな考えが露呈するのが怖いんだな。
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どこかで理想を切り下げる必要があるのかもしれない。コーピング的な心得として。
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神よ、変えることのできるものについて、それを変えるだけの勇気をわれらに与えたまえ。
変えることのできないものについては、それを受けいれるだけの冷静さを与えたまえ。
そして、変えることのできるものと、変えることのできないものとを、識別する知恵を与えたまえ。[ニーバーの祈りの言葉]
2025年1月4日(土)
「これが10年前に分かっていれば」と思わなくはない。しかし、この10年があったから分かるようになった、理解に至ったことであるのも確かだ。
それなら、理解に至るまでの体験を活用することがせめてもの対抗戦略になる。すでにデータは備わっているのだから、それを解体して展開していかなければならない。
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それは理解の必要性の基礎であり、必要性そのものでもある。
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もし本当にそう考えるなら、そういう戦略をきちんと組み立て、実行していかなければならない。実行する上で何が課題となり、それにどう対処していくのかも考える必要があるだろう。
そうした戦略、そうした計画の全体像を考えるなら、きっともっとも泥くさい、面倒だけどそうせざるをえないし、そうありたい理想にプラグマティズムが収まるのだろう。
*
そこに何か強みがあるとすれば、理解に至ったわけではなく、そこから理解が組み立てられるからだろう。
*
常にある程度投企する部分がなければうまく機能しないのだろうけど、それをどの程度と見積もるかが課題になるのかな。
*
文体の問題。個人としてはつぶやく場合と団体としてつぶやく場合は異なる。団体は常に目的を意識している。どこか責任を負っているし、不明瞭であってもそこへ向かおうとしている。そういうやり方の方が合ってるんじゃないか。「日雇い労働者のつくりかた」方式だ。
*
どうしてこうなったのか、どうして僕がこんなことを考えなければならないのかということもある。
きっと最初からそうだったのだろう。危機に陥るわけではないけれど、落ち着くことのできない世界。
この課題に取り組むための長い準備期間を過ごしてきた。今ようやく解決に向かおうというわけだ。
唯一無二のタイミングで行われなければならなかったことなら、これもまた計画通りということだ。
*
いやいや、そういうことじゃなくて。資本主義のあり方を考えなければならなかなったのは、寄せ場の現在と未来を考えざるを得ないからということがあるし、自分自身が生きることを考えなければならないからでもある。そそまで踏み込まなければ、野宿者支援の研究だってまとめきれない。そこから生まれた理想だってある。
もとより理解し切れるとは思えない。それでもきちんと実感に基づいた、手応えのある理解を示したいと思う。そのために無理をしてでも知ろうとしている。
根本のところにあるのは、そうした実感に基づいたものではない空論に取り込まれたくないという反発なのかもしれない。そうではない世界を作っていくシンプルだが、語りにくい方法を明らかにしたいのだろう。
それをするには野宿者運動や寄せ場だけを考えていては無理だから、光を当てられる場所を増やすためにその足場を広げようとしている。
*
すべてはつながっているはずだけど、何がどれだけ、どうつながっているのかを整理する地味な作業を進めなければならない。
「どうしてこんなことを考えてるんだっけ?」を取り巻く構造を可視化しないといけないんだな。
その辺が精神分析的であり、プラグマティズムであり、進化論的でもあるのだろう。
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昨年末に学んだのは、理解が訪れるまでは分からないままインプットを続けるしかない時間があるということ。
理解が訪れないのは、まだその過程が不十分だということだし、理解とは偶発的なものでもある。
それは必要なことだし、遠回りのように思えても無駄ではないのだが、意識的にやった方がやはり無駄は少ないように思う。
2025年1月2日(木)
唯一無二。
2024年12月30日(月)
社会問題の社会学は、クレームがなぜ作り出されるのか、どうやって生み出されるのかを扱うことができないのではないか。クレームがあり、それが申し立てられることから社会問題の構築がはじまるという構図は説明できても、そのクレームの正当性については中立的に評価しない。中立的であろうとする限り、クレームに含まれる必然性に踏み込めない。
*
社会問題構築の過程を明らかにしているようで、単なる現状追認になってしまうのでは。特に世論形成の過程に働く情報発信が多すぎるともはや、説明が成り立たなくなりそうだ。
*
分かった……。社会問題の構築主義的アプローチがダメなのは、すべてを構築されたものとして説明できるし、説明してしまおうとするところにある。構築主義的な分析を補助的に使うことはあってもいいと思うが、それだけで終わってしまうと、それは単に現実を事後的に批評したものに過ぎない。しかし、そこからはみ出すことができないのは構築主義の構築主義たる所以だ。
2024年12月28日(土)
そういう存在になっていない、そういう関係になっていないということが分かる。どうすればそうなるかは分からないし、分かっていたとしても、どうすればそうできるかまでは分からない。しかし、そうなるような機会を得るべく関わりを持つことはできるわけだ。投企みたいなことが必要なのだろう。
*
結局のところ、自分自身のやり方について、方法論的な整理が必要な作業なのだろう。そこが整理できていなければ、具体的なことを語ることができない。それはすなわち、そこが整理できていれば、いくらでも語れるようになるということでもある。
具体の中で精緻に語るエスノグラフィー的な領分を超えて考えなければならない部分がある。
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貼るカイロもシールの台紙をはがさなければ貼らないカイロとして使えることに気づいた。
*
ペルソナのことも気になる。うまく立ち回れるペルソナ。ペルソナを持たないからうまくふるまえない。うまくふるまえているようで、それはペルソナの範囲でやっていることにすぎない。
2024年12月24日(火)
読んでも読んでもなかなか読み進められない本は、いずれかのタイミングで「どのくらいまでに読み終わるか」を考えた方がいいなと思った。
自分の中に蓄積のない内容だから時間がかかるのだろうが、それは書いてある内容が難しいからではない。蓄積を作る機会を兼ねてさっさと読んでいった方がいいのかなと思う。
2024年12月19日(木)
組織の構成員は入れ替わる。組織の目的と課題が変わらないとして、構成員の生活を支えながら組織が持続していくためには、時代や状況の変化に適応していく必要がある。
しかし、適応するためには短期的、中期的、長期的な見通しを立てる必要があるだろう。そうした見通しが誰が立てるのか。あとどれくらいその組織に属するのかによって判断のありようは変わるだろうし、究極的には個人の履歴を超えた見通しと判断が必要となる。
個々人を超えた組織、あるいは社会の存続を構想し続けるためには、そのためのコミュニケーションの枠組みが必要になるだろう。
*
菊池理夫のコミュニタリアニズムの本を読み始めたのは田中尚輝の『社会を変えるリーダーになる』で言及されていたからだったな。ここで共通善の話が出てくる。
*
やっと使えそうな本にたどり着いたー! 最初からこれを読めばよかった気もするが、回り道しなければならない理由もあったのだろう。
結局、著者がサンデルの本を訳してコミュニタリアニズムにはまったということらしい。そこから「共通善」という主題をようやく取り出して一冊の本にまとめたということなのだな。
言ってみれば著者自身が混乱していたわけで、自分自身もこの主題について混乱しつつ理解していく過程を経たのは無駄ではないだろう。
2024年12月18日(水)
ちょっと待った。コミュニタリアニズムにこだわる理由はなんだ。問題としているトピックがあるはずだ。
コミュニティや連帯の問題とは別に、リベラリズム、リバタリアニズム、コミュニタリアニズムとを対比的に論じることで扱いたいテーマは何なのか。
コミュニティや連帯は形成すべき目標としてあり、そのあり方が問題となる。その「あり方」を考えていく時に考慮すべき論点がリベラリズム、リバタリアニズム、コミュニタリアニズムの論争を通して見えてくると思っているからじゃないのか。
2024年12月17日(火)
体調不良しんどい。
2024年12月15日(日)
気持ちが先走っていて楽しめなくなっている。
読みたい本を読めばいいのに。
2024年12月14日(土)
はー。なかなか自分を抑えることはできないものだな……。
*
僕の中にまだ割り切れていないものがある。今回のことはそれに気づくきっかけだったのかもしれない。
僕の中で答えは出てしまっている。そのような答えに至らせた被害の事実は厳然としてあるし、それを乗り越えるのに僕が払ってきた犠牲もなかったことにはならない。きっとその補償もありえない以上、答えは確定している。
しかし、そのような出来事や事実は気づきと理解を得るための材料でしかない。そうした個別の出来事を超えたところで、同じ状況に向き合う人々が共有すべき理想や理解を提起することはできる。ただそのようなものとして提起すればよかった。
それに気づくきっかけとなったのなら、これからはそうすればいいというだけのことだ。それが数々の誤ちや加害に対する「赦し」であり、僕もまたその一部であることを認めることなのだろう。誰が加害者になり、誰が被害者になるのかは、進行する事態の中で割り振られた役割の帰結でしかないのだから。
2024年12月13日(金)
裏切られても期待して待つことが信頼するということか。
それなら、信頼とは相手との関係で成立するものではないな。もっと広く見て判断した結果として選び取られるものだ。
そして、信頼関係とは、相手との関係というより、相手も同じような信頼を抱いていることを相互に理解している状態のことで、そこに保障を求めるのは信頼の成立条件から考えればおかしなことなのだろう。
*
新聞のあり方はもう少し考えられてもいい気がする。
速報性という点では、ウェブでの発信と並行して行わざるをえないだろう。記録としての役割も大きいから、紙面のような形で毎日まとめられる必要がある。
その上で新聞に何を求めるのか。中途半端な娯楽要素はもういらないだろう。考えうるとしたら調査報道かなあ。日常的に取材で現場に出る職業記者という存在形態自体が、ルポライターみたいなものとは違うわけだし。
2024年12月12日(木)
妙に落ち着いた気持ちになっている。
2024年12月8日(日)
「◯◯というのは違うと思う」という変な言い回し。「批判は当たらない」も似たようなところがある。
2024年12月6日(金)
少しずつ変わってきた。変えることはできる。
*
AIで得られた結果は統計的に導かれた抽象図だから、それを採用するしないの判断をするには必ず検証作業を経なければならないのが道理だが、いくらAIが高度化しても、その知見を統制下に置くために能力を要するのは変わらないし、ますますその力を磨く必要性が高まるわけだ。
*
自分の力で何とかなると思えないことが一番つらい。本当に無理なことはある。でも、その判断がつかないことがつらい。
*
AIというか、GPTか。
2024年12月3日(火)
地域から立ち上げるものであるという大前提。地域の関係者、当事者とは誰なのかという問題。
2024年12月1日(日)
今日から新しい一日をはじめよう。
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