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2025年12月18日(木)

 法則は発見される。しかし、発見するためにいろんな前提が作り出される。結局場当たり的なものに思える。

2025年12月7日(日)

 また荷物が多くなっている。

 帆布のかばんだと重いものを入れるとしんどい。

2025年11月30日(日)

 少し疲れたかなあ。

 でもこれからだ。これまでは機会を与えられてすらいなかった。

2025年11月24日(月)

 まったくやる気がしない……。

2025年11月7日(金)

 対話がうまくいかない。そもそも対話していない。意見を闘わせる場ではなく、相互行為そのものから、個別にやっているだけでは見えないものがそれぞれ見出せるような場を作るにはどうすればいいのか。

 協働する前に、お互いがどんな関係にあるのかが見えていない。

 これは世界を見る意思であるということと無関係ではないように思う。

 2019年段階で僕は何を見ようとしていたのか。労働者の声が無視されていることは分かっていた。どうすればそのことに気付かせられるのかということだったのだろうか。

 でもあの時の切実さはまた別のところから発していたはずだ。まだまだ先へ行けるはずだった。そう思っていた。その先導役として見えていた世界があった。理想があった。

 断ち切られそうになっている理想を追う希望をつなぎとめたかったのだろう。

 その理想はなんだったのかと考えれば、対立関係そのものがそもそも二義的なものだったし、理想の実現への道がもう変わったととらえてもいいのかもしれない。

 批判し合ったところで、僕が得られるものやそれを分かち合う相手はいない。「その気」になれない話をすること自体が無駄だと思う。「その気」になれるようなものがそもそも今は存在しない。それなら存在しうるかもしれないことを試みるべきだろう。

2025年10月30日(木)

 うーん、なかなか前に進まない。

 まあでも、何も悪くなっていない。少しずつではあれ、良くなっている。道のりはただ長いけれど。

2025年10月28日(火)

 向き合うということには、ただ傷を負うことかもしれない。しかし、そうやって片付けていくことに意味があるのだろう。

 すべてのことに意味があった。こうなることは必然だった。そう考えるためにはまちがいをまちがいのまま認めていかなければいけない。

 でも、そのためにはまちがいとまちがいでないものをきちんと見分けられなければならない。まちがいを認めることは自己否定に陥ることではない。

2025年10月22日(水)

 脱成長は方向性や状況証拠、個別事例ばかりで、理論的な枠組みがないのかもなあ。

2025年10月21日(火)

 進化経済学というのは要するに経済学に埋め込まれた社会学ということなのでは。

 どの本で読んだのか思い出せない。資本主義の原理をすっぱり切り捨てて共同性こそ社会の基盤であると言い切るような内容。やっぱり『市民的コモンズとは何か』かな。

2025年10月16日(木)

 ブルデュー便利すぎ。理論はここぞというところで終生ぶれない覚悟で使わないと嘘になる。

2025年10月10日(金)

 疲れがたまった。疲れがとれない。しんどいー。

 腰が痛い。一昨日寝る時にズボンがずれていたのが直接的なきっかけにしても、疲労蓄積のせいもあるだろう。

2025年10月8日(水)

 現場を知っているからといって現場の人間がきちんと分かっているかどうかは分からない。もちろん研究する側が分かっているわけでもないのだが、分かっていないからといって現場が分かっていないことを指摘できないわけではない。説明できるかどうかは、説明できていないことを指摘できる条件ではない。

2025年9月27日(土)

 違った。テキストを信頼できていないだけだった。

2025年9月26日(金)

 「ホームレス問題の30年」のテキストをあらためて読み直してみた。これは講義で使うにはボリュームがありすぎな気がする。

2025年9月23日(火)

 可能性のない運動にはついていけない。

 可能性がないばかりか自己満足でしかない。

 それも身勝手な自己満足。

 自己満足としては意味があるのかもしれない。

 しかし、そんな自己満足に付き合う義理も理由も意義もない。

 また探すさね。こんなものは未練にすぎない。

2025年9月19日(金)

 授業始まってしまった。

2025年9月17日(水)

 うーん、いろいろ整理つかなくてエンジンかからないのか。

2025年9月16日(火)

 閉室日だったのか。

 レポート読んでたら少し落ち着いた。

 連日飲み過ぎ。しんどい。飲むのやめよう。いいかげん落ち着け。

2025年9月13日(土)

 どうにも調子が狂ってしまったな。

 相互行為と意味づけの分析。

 基本的にはその醍醐味を描いたつもりだったのだけれど。

 バイキャメラルマインドか。描き出す力だ。しかし、その力はインプットがなければ働かない。最初に計画を立てて証拠を集めていくのは〈科学の知〉に則ったやり方だ。

2025年9月12日(金)

 結果はともあれ、ようやく一息つけるなー。

2025年9月8日(月)

 一つ一つ達成されていくか。

2025年9月5日(金)

 うおー、しんどいー。こうなった時、文章を書くのは肉体労働だと感じる。

 書き進めるたび、言葉がきれいに出てくることの充実感、組み立てられていくものへの期待感がある。しかし、その過程は全部徒歩で一歩一歩進めなければならない。そんな感じ。

 今出しても明日出しても、出さなければならないエネルギーの総量は変わらないのだろうから、本当なら休み休みやれたらいいんだろうけど。

 もうひとがんばりした。えらい。手応えも感じられる。まだ大変だろうけど。

2025年9月4日(木)

 結局出ました「日雇い労働者のつくりかた」方式。

 もうこれをしないとどうにもならないのかもねー。

 というか、調査のやり方がそうなってるからじゃないのか。エピソード記述、データを提示しようと思ったら、データを記述した自分自身を準拠点にする以外ないわけだろ。

2025年9月3日(水)

 うーん、結局しんどいから逃げているだけだったのか。愚かだ。

 なんとか活路が見えてきた。つか何度目だそういうの。

 乗り越えてみると、しんどくて逃げたくなる気持ちも分かる。何度も行ったり来たりして修正と微調整を繰り返さなければならない。このやり方は問いが先に立てられない。見えてきたものを通して最後に、それを論じ切るのにふさわしい問いを見つけ出さなければいけない。

 このやり方だと精緻な理論的な枠組みは使えない。あらかじめあたりをつけて仕込んでおくのにも限界がある。すごく不利なやり方だ。

2025年9月2日(火)

 群れの観察のようなことをしている。これは大丈夫なのか。

 人類学者というか、生態学のようなことをしている。

 うーん、どうしてこういうふうになるんだろう。

 いや、まあ理由なんてない。たまたまそうなっただけだ。

 山極寿一『争いばかりの人間たちへ ゴリラの国から』(毎日新聞出版、2024年)を読んでいる。ちょっと実証のレンジが広すぎて応用しきれていない印象。

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