2025年8月29日(金)
昨日また揺らいで今日また取り戻した。大丈夫かよ。
2025年8月27日(水)
やっと本当になんとかなりそう。やれやれー。
2025年8月26日(火)
もっとデータを絞り込まないとダメか。
まだ扱っている範囲が広すぎるのかなあ?
「釜ヶ崎の食をめぐる重層的な生活世界の構造と意味づけ」というところ。これは何を意味している? 食を満たすことが課題でないわけではない。しかし、食を満たすことを通してコミュニケーションしている。どのようなコミュニケーションか。
自分たちの居場所を作っている。当たり前のコミュニケーションの場を取り戻している。
「センターの日」への期待が表す意味。
*
最大限事例を盛り込む方法を考えないと。でも、多すぎてもいけないし、少なくてもいけない。結局それは事例を吟味しないといけないということ。伏線を張れる事例を選ぶことと、しっかり伏線を張り、それを回収すること。
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しんどい……。もうディテールはいいから、大筋をノートにまとめていく。その上でまたデータを一から見直して、使えそうなエピソード、使いたいエピソードを吟味していく。
論文というのはいったいどうやって書けるのかよく分からないので、今回のプロセスを記録しておこうと思った。僕の場合、何度も行ったり来たりしないといけない。大筋をつかむにはまず全体を見ないといけないし、大筋をつかんだところで、それをうまく物語るディテールを伴うエピソードで埋めていかないといけない。そうするとまた細かなところで筋を調整する必要も出てくる。その調整には問題設定の微調整も含まれてくる。
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もう当事者側の事情に論点を絞るしかない。あれこれやるのは無理だ。
2025年8月25日(月)
うーん、あとはレビューの仕方だけなんだけど……。
一番見せたいところはどこなのか。言いたいことは何なのかを考えるべきなんだろうなあ。
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えーと、釜ヶ崎の食をめぐる重層的な生活世界の構造と意味づけを明らかにしたい。
無料で食を満たしたり、物品を手に入れる機会、手段が数多くある。これらの実態を大阪城公園よろず相談の活動を事例に明らかにする。
よろずの活動。夜回り・寄り合いといった普段の活動と目的を持った企画としてスタートした「センターの日」とある。前者は寄せ場に限らないホームレス・野宿生活の食にまつわる事情を知る事例となるし、後者は寄せ場・釜ヶ崎を中心として同じテーマを掘り下げることができる。
えーと、これらの活動を通して知りうる情報は基本的に支援者の立場からのものであり、その解釈には当事者と支援者という非対称的な関係が前提となる。
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うむ。
じゃああとは普段の活動と「センターの日」の説明をして、順番に見ていけばいいのか? 「センターの日」の狙いも整理しておけば、自ずと論点も導き出せるかなあ?
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難しいのは「センターの日」の方だ。三つの時期がある以上、それに沿う流れにならざるをえないところもある。しかし、第3期はさほど重要ではないかも。2024年12月から2025年7月まで。回数にして7回(1月は中止)。
センターが閉鎖され、センターの敷地自体なくなってしまった状況。テーマが食から逸れてしまう。センターがある意味について語るには重要な時期ではあるとしても。
そもそも「センターの日」に対する反応を整理する必要があるかなあ。読者(聴衆)にこの「センターの日」なるものを追体験させることを通して、寄せ場の食事情を飲み込ませていくわけだ。
仕切り、情報共有、「ありがたい」という反応。運営側のジレンマ、炊き出し嫌悪。人を集め、語りを促すための演出。
ああ、第3期になって、炊き出しに終わってしまうこと、やはり人が立ち寄りにくくなってしまったことが挙げられる。16時からの支援物資の配布に雨の日でも13時頃から並んでしまう風景。
かき氷、焼き肉、ホットケーキ、お好み焼き、たこ焼き、からあげ、提供するものによって異なって現れる状況。反応。
*
結論では何が言えるだろうか。食を満たすにも不十分、居場所や社会関係を結ぶ場としても不十分。信仰を持つに至らない人たちにとっての救済のあり方。
……みたいな?
ホームレス問題以後の社会でのことであるということ。貧困を可視化する場でもあると。
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そんなバカな。このフィールドワークで言うべきことなんて一つしかない。反排除の野宿者運動がなぜ必要なのかだ。
2025年8月19日(火)
「センターの日」を通して見えてくる釜ヶ崎の食事情――というのでも十分話は作れるけど……。
2025年8月15日(金)
うーん、どうしたものか。
まだ、全体を引っ張っていってくれる中核になるものが見えていないのかな。
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そうか。何か探り当てられていないもの、探り当てたいものがあるんだな。どうすれば探り当てられるのかは分からないけど、どうにかして探り当てなければならないものがある。
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違うか。
これを機会に全部飲み込んでしまいたい。すべて理解し尽くしてしまいたいと思っている。この忌まわしくもとてつもないデータの蓄積を。乗り越えるきっかけにして、乗り越える術を得て、乗り越えてしまいたい。
2025年8月13日(水)
うーん、できるかな。
2025年8月12日(火)
フィールドワークは明日から始まる。フィールドワーカーは永遠に現在にたどり着けない。過去となる現在を生きる。
2025年8月11日(月)
データに頼るな。記憶の中から呼び起こせ。
2025年8月8日(金)
あ、そうか。
反排除の思想の意味を問い直せるかもしれない。船本思想をうまく位置付けられればあるいは。
2025年8月2日(土)
憂うつ。しかしまた、憂うつにとらわれることに意味はないのだろう。
*
どんなことが起きてもどんな思いを抱いても、きちんと受け止めて受け入れていけばいい。必要なものだから苦しいこともある。苦しかったり悲しかったりするのはいけないことではない。背負ってきたものは消えたりしない。
2025年7月31日(木)
「ここにきて 建前で剣を振るってなんかいられない」
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社会の見え方は信念のありようで変わってしまう。
自明なものとして正体を紛らわせてしまえるものに合わせていれば、いつのまにか取り込まれていても気付けない。信じ込んでいるだけなら見失ってしまう。どこかで言葉にしておかないと。たとえそれが誰の関心も引かないとしても。
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自分の得意なやり方を活かすしかないし、そのための戦略もお互いにあるのだろう。
2025年7月24日(木)
すべては終わりに向けて動きだしていた。その中で僕は別の可能性を探ろうとしてきた。探るべき局面でもあり、探り当ててもいた。
しかし、それを共に探ろうという仲間はいなかった。
出来事に求心力のある時期はとうにすぎていた。すぎているからこそ、探らなければならなかった。しかし、すでに下降線をたどる一途では、そのために動員できる資源もなかったのだろう。
もともと人間はそんなに優秀じゃない。計算したとおりにものごとは運ばない。勢いがある時にはうまくいっているように見えるだけのことで、常に問題は起きている。その問題すらもいい方向に働く。
一つの時代をカバーするような大きな出来事を分析の射程に収めることで語れる普遍的な真実というものもありうるだろうし、それを示すことには意味がある。うまくいってはうまくいかなくなる。成功と失敗を繰り返し、しかし、その繰り返しすら思い込みに過ぎないことに気づかなければならない時がある。
2025年7月23日(水)
もう何もかもぶっ壊れている。
それなら、この状況を見すえて細くても途切れずに切り抜ける道を見出さなければいけない。
*
すべてその機会だと思えばいいし、今から始めるならそれくらいのスケールでないと、これまでのことも嘘になってしまう。
示さなければならないのは正解ではなく、真実を探り当てるために世界を見る方法、世界を見る意志であることだ。
*
そうか。僕が何か絶対的に他者に抜きん出ることができるとすれば、そういうものを持ちうると自覚しておかなければならない。
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経験値か。
確かにそれならちょっとやそっとでは。さらに自覚的になれるなら。
2025年7月18日(金)
うーん、なかなか、難しい。
*
少しずつずれていってしまっている。
ずれているうちに気づくこともある。
一致を求める必要のないこともある。
2025年7月11日(金)
何かを推測する根拠にはなっても、それ自体で何かを証明した根拠にはならない。そこから根拠を引き出すには、そのような推測を行う研究主体が社会的文脈に埋め込まれ、かつそれを提示できる必要がある。
2025年7月9日(水)
原因はどうあれ、結果ははっきりしている。しかし、原因が分からないと結果を受け止められないということがある。それなら仮の原因を設定することで結果にうまく対処できるようになる。しかし、その原因は仮のものであることを見失うと対処も歪んでしまう。
2025年7月8日(木)
そうか、脳科学や進化論のアプローチが野宿者運動のラディカルなアプローチと似ているのかもしれない。存在肯定の理念は正しいが、その正しさはあらかじめ証明されていない。外れているかもしれないリスクを承知で踏み込まなければならないようなところがある。
アプローチそのものに真理は宿っているし、論理的帰結を示すことはできても、常に結末を確かめられない不透明さが残る。
あの議論の中ではマニングがブラックボックスだった。だからマニングを仕込まなければならなかった理由の理解は、それ自体、「議論の背景にそもそも説明のつかないブラックボックスがあり、その中身が分かった」という話でないといけなかったんだな。
それなのに、単に「議論の背景にもブラックボックスがあって、そのブラックボックスを抱えたまま書かなければならないから、ああいう書き方になった」という事情を明かしているだけになってしまっている。
では、議論の背後にあったブラックボックスとは何だったのかと言えば、「野宿者の存在肯定の理念を追求する野宿者運動が理念を振りかざして運動の仲間を傷つけてしまう理由」だった。そしてそれは脳科学的なアプローチと似たジレンマに陥ったがゆえに起きたことだった。
だからブラックボックスとしてマニングを仕込んだのは、まったく的外れということはなかった。ブラックボックスを抱えたまま答えを出すことは、いずれブラックボックスの中身を解明するためにも必要なやり方であるということだ。
2025年7月7日(月)
その結末はどうなの?
*
なんかおかしくないか?
2025年7月5日(土)
まちがった選択でも、選ばなければ分からないことはある。まちがえなければ気付けないこともある。
2025年7月2日(水)
赦しか……。
*
自分がしんどいから?
2025年6月30日(月)
うーん、しんどい。時間が足りないよ。
*
先週は先週で忙しかった。決して怠けているわけではない。
2025年6月29日(日)
ここに来て選択肢なんてないよな。
2025年6月27日(金)
自分の中から言葉を引っ張り出すのに時間がかかりそうだ。
*
寄せ場のフードセキュリティ。このフレーズから何を連想するか。都市下層の世界。都市下層の世界の食の問題を扱うのだろうなと思うし、セキュリティという以上、日常的な食自体が危機に瀕していることを暗に想定しているのであろうことがうかがえる。
人が生きて行くために食べることは欠かせない。しかし、お金がなければ食にありつくことができない。食にありつけないことは、職にありつけないことの帰結でもある。寄せ場の日雇い労働者は潜在的なホームレス状態にあり、ホームレスとは失業の問題であった。
2025年現在、労働市場としての寄せ場は衰退を続けており、釜ヶ崎では行政からの働きかけを受けたまちづくりが進んでいる。生活保護の積極的な運用と路上からの排除政策により、ホームレス数は大きく減少している。
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都市下層とは生活構造論によって作り出された操作的な概念だとすれば、問題としているのはこの社会にに排除の圧力が働き続けていることを示すためだ。
中川清が索出した戦前の都市下層は下層社会を喪失してこの社会の中に紛れて行く。しかし、中川が切り離した単身者こそがまた下層社会を成し、現代日本の都市下層として結実する。
中川は社会に紛れていく都市下層が、下層社会の共同性を失っていくことを強調している。しかし、その共同性の実態に触れようとはしない。それこそが排除に抗する力でもあるのに。
*
現代日本の都市下層としてとらえられた寄せ場労働者は、寄せ場という下層社会の解体とともに消えさり、寄り場を失った都市下層はまた社会に紛れていきつつある。
しかし、寄せ場はまだ無くなってはいないし、野宿者の姿が無くなったこともない。この端境期にある都市下層に働く排除の圧力をとらえるためには、その排除に抗う共同性の実体をとらえる必要がある。そして、その抗いは食にかかわってくるはずである。
ゆえに、本報告では、寄せ場と野宿の生活世界における食にまつわる相互行為と意味付けを追っていきたい。
2025年6月26日(木)
誰もが何もしない言いわけをする。大義がなければ何もできないのか。
2025年6月22日(日)
というか、このスケジュールはしんどいよ。無理だよ。
2025年6月20日(金)
何かつかめそうでつかめない。
2025年6月16日(月)
うーん、なんか気持ちが落ち着かない。
2025年6月13日(金)
どいつもこいつもでたらめやないか……。
それが分かるようなデータをふつう保存していない。
どんなに一生懸命やっていても、他人がどれほどいいかげんでも、自分自身がでたらめでいい理由にはならない。
2025年6月12日(木)
作業してたらどうしても目に入ってきてしまう。
*
食にまつわるエピソードで使えそうなものは案外少ないのか。
2025年6月9日(月)
過ちを認められなければ正解に到達することはできない。
*
なんか酷い話だったなあ。
2025年6月6日(金)
僕に何か力があるとすれば、それは僕の力ではない。誰かから、何かから授かったものであるということだ。
知りえないものもあるのか。語りえないものがあるように。
2025年6月4日(水)
うーん、しんどい。
2025年5月23日(金)
どうしてこんなにやる気が出ないのかな。
*
僕たちはどちらも答えを持っていない。どちらも不十分なのだと思う。僕らのどちらも、今持っているものでは正しい答えを出せない。
2025年5月19日(月)
自分で納得できるようになるまでの時間がかかるんだな。
2025年5月13日(火)
心配するほどでもないことを心配しすぎない。不安になっても、思い悩まずに必要な範囲での準備をすればいい。むずかしいことはない。
2025年5月10日(土)
心配しなくてもすべてのことはうまくいく。気に病めば気に病んだだけ苦しみが増えるだけのこと。
避けられない苦しみもある。しかしそれは息切れほどのものだ。
*
無理をしなくても力は引き寄せられる。道の上に用意されているものを先取りすることはできない。
2025年5月8日(木)
最先端のものを追っていなければ評価されないのであれば、研究の蓄積には何の意味もないだろう。
2025年5月5日(月)
まずはやるべきことを整理しよう。
2025年5月3日(土)
社会で起きていることへの自然な関心の高まりなんてなかったよな。
新聞の読み方、ニュース番組の見方なんて分からない。身近なことに感じられない。
今でこそ、ある程度の距離感を持って受け止めてはいるものの、それは十分な把握は不可能だと見限った上でのことだ。
*
道は選べないのかもしれない。
道が人を選んでいるのだとしたら、問われるのはそこに意志を示されるか。
2025年5月1日(木)
相変わらず何もやる気がしない。
少し落ち着いてどうしたいのか考えてみよう。
2025年4月29日(火)
やばいくらい何もやる気がしない。
現実逃避して本を読みたくもならない。
2025年4月27日(日)
昨夜は何か更新しようとしてし忘れてしまった。
*
そうか、日記形式の物語があるなら、フィールド日記を元にした論文もすでに物語なのか。
2025年4月26日(土)
2025年4月21日(月)
このタイミングで虚しさに囚われるのは必然だろうか。
どちらにせよ、受け止めつつやり過ごすしかないのだろうけど。
*
花粉症じゃないなと思い切ったのは、まだ先週の話だった。
まだまだ新学期でもある。
2025年4月17日(木)
これは疲れる。
2025年4月15日(火)
もう花粉症ではないなあ。まだ一週間しか経っていない。しばらくしんどい時期が続くのかな。
*
意識魂というのは、後でも説明しますが、一口で言うと、「人間は努力する限り迷うものだ」というゲーテの『ファウスト』の言葉に代表されるように、努力し、迷って生きていることに生きがいを感じる魂のことです。[高橋巌、1990『シュタイナー教育を語る――気質と年齢に応じた教育』角川選書: p.153]
2025年4月14日(月)
なんだろう、この気持ち悪さ。
*
まだ何か苦しんでいることがあるのか。
2025年4月12日(土)
これまで踏み間違えて無理をしてきたことがあるなら、取り戻していくにもしばらく痛みがともなうこともあるか。
*
マスコミは出来事を伝えなければならない。発信された以上扱わないわけにもいかない。そこに付け込んで世論を操作しようという企みを避けられない。
であれば、マスメディアとはそのような道具だし、マスコミはその縛りを避けられないと受け手が心得ておかねばならない。しかし、この単純なことが理解されていないわけだ。そこにまた付け込まれているというのに。
2025年4月6日(日)
疲れるとネガティブになるから、疲れないようにしたい。
2025年4月4日(金)
つまり、人柱として殺されるための時間だったのか。
2025年4月3日(木)
うーん、ようやくとっかかりを見つけたというところか。
自己を分析対象にするためには、状況の変化の中に位置付ける必要があるというわけだ。
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人柱だなこれは。フィールドワーカーが自らを人柱にして記述を可能にしている。
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2、3日前に考えていたことは完全に的外れだったなあ。
僕はやっぱりフィールドワーカーとして妥協できないんだな。
2025年4月2日(水)
ああ、そうか。研究会で報告しておきたかったのは、嫌な思いをするためだったのか。
すんなり受け入れられることはない、理解されることはない。それでもそれを呈示する姿勢を問題としている。
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