2019年4月30日(火)
■論文 #15
時間かかりそう……。見通しが甘かった。
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禁止生活のアイデア考えるの面白い。学生にやらせるだけでなく、僕も何かやってみようかなと思う。
講義の後にご飯食べられるところを探していて、チェーン店でないところで、多少美味しくなさそうでも試しに入ってみようと思って、三宮界隈をウロウロしたが、なかなか見つからない。高架下はシャッターが目立ち、ほとんど潰れてしまっているような雰囲気。
チェーン店でごはんを食べない、仕入れないようにしたらどうなるだろうと考える。個人営業主がやっている店で食べる。弁当もコンビニやチェーン店のスーパーでは買わない。
一瞬検討してすぐに不可能だなと思った。自分の昼食くらいならともかく、夕飯の材料やお惣菜をチェーン店でないところに仕入れに行く時間的な余裕がない。お遊びでそんなことをやるにはきつすぎる。
食べるところを探していて、居酒屋がランチをやっているところを見かけたが、入る気がしない。こういう形態のランチは夜に人が来てくれることを期待して採算度外視でやっているみたいな話を聞いたことがあるし、実際入ると自分と店主以外誰もいない狭い店内のカウンターでごはんを食べるのははっきり言って落ち着かない。
同じような携帯でも、表通りに面していて、店頭で音楽を流しているような店はぐっと入りやすい感じがする。こういう演出は大切だなと思うと同時に、味とか値段とかより、「気を使わないで済む」ことが重要なんだなと気づく。
単に外で仕事ができればいいだけならマクドナルドやスタバに行ってしまうのは、この「気を使わないで済む」ところが核心にあるように思う。個人商店に入って何も買わずに帰るのは気づまりだ。
そんなことを言われても困るだろうけど、もはやそういうふうに身体が躾けられてしまっている。
2019年4月28日(日)
つ
ら
い。
■論文 #14
まったくやる気が出ないが、数日中に完成させないといけないのでいいかげん追い込まれた。
どの辺まで書いたらいいのかなーっと。
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なんか、あれだな。もはや当たり前のことをどう説明していいやらわからない。というより面倒くさい……。
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うーん、なんか、論文調で気取った文章書くこと自体にうんざりしているのかも。思い切って一人称で書いてやろうか。
2019年4月27日(土)
イタリアつながりでグラムシ読んでみようと思い、どれを読めばいいのか本屋に見に行ったが、『獄中ノート』だけで何冊もあるっぽいし、全巻そろってるわけでもなかったから手を出せなかった。
『はじめて出会う社会学』で紹介されているのが三一書房のものなので、これを古本で検索したらわりと安く手に入った。
訳者の凡例と、最初の数ページを読んだだけだけど、ひょっとしてこれものすごく面白いのでは。
2019年4月26日(金)
つ
か
れ
た。
2019年4月25日(木)
場所性。空間の生産と言ってしまえば話は早いけど、それだけでは何も言っていないに等しいだろうし……。
場所の固有性が関係形成の条件となる。この中身を具体的に語れたら面白い。
2019年4月23日(火)
うーん、朝から面倒くさい……。
疲れている。疲れているんだ。
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すぐさま安心して休める場所が欲しい。
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哲学とは何か。哲学を名乗るとき、あるいは説学と呼ばれるときは、例えば経済学、社会学といったジャンルからはみ出すものが含まれていることを示しているように思われる。
人類学だけは哲学を超えている部分があるかもしれない。フィールドという縛りはあるものの。
2019年4月22日(月)
■授業 #2
45人程度だと、スライドより板書の方がやりやすい気がする。それとも説明しづらい内容だっただけなのか。たまたま調子が悪かったのか。
2019年4月21日(日)
■論文 #13
2000年前後の野宿者問題の社会的位置付けを敷衍しつつ、現状を踏まえた再定位と意義づけのようなこともした方がいいかもしれない。
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しかしまあやる気は出ない。
2019年4月20日(土)
結局、データをまとめるのにまた2時間、3時間経とうとしている。疲れる。
2019年4月19日(金)
すでに倒れそう。
■イタリア #13
結局イタリアで感じたのは「別の社会のあり方は可能なのだ」ということだったのだろう。それをイタリアの街並みやインフラの仕組み、生活習慣などを思い起こしながら確かめようとしている。
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専門学校を除いて全ての非常勤先から毎日のようにメールが届くと。「◯月◯日までにウェブで回答してくれ」みたいな依頼も紛れ込んでいる。一つ一つは大したことではないようで、細切れの時間を乗っ取るかのように奪っていく。
細切れの時間でがんばってやってしまった方があとあと楽になると思って、少し無理をして済ませてしまうのだが、はたして「あとあと」など存在するのだろうか。
ベルクソンが時間の感覚について批判的に論じているように、そもそも存在しない仮構の時間が取り引き材料にされてしまってはいないか。
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こんなんどうでもええんちゃうか、もう降りた方がいいんじゃないかという逡巡は、降りるか否かという直接的な決断というより、今ある状況の再解釈作業として意味があるのだろう──などと思ったり、思わなかったり。
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感想は一言二言でコメントできるやつと、回答しないわけにはいかないやつに絞るべきだな。「何となく気になる」程度のものは取り上げない方がいい。
2019年4月18日(木)
■漢方薬
咳の原因はアレルギー性鼻炎ではないかという。鼻水がのどに流れ込んで咳を誘発しているとのこと。
ほとんど慢性鼻炎のようなものだと思う。しかし、何もしないでがまんしてやり過ごせるほど軽くはない。試しに市販薬を調べたら平気でエフェドリンとか入ってるものが多い。日常的に飲むなら漢方薬にしておいた方が無難だろうということで、行きつけの漢方薬局へ。
鼻水がのどに流れ込んで咳が出るというのはよくあることらしい。こちらの薬局で独自処方している薬をまず出してもらった。鼻水を痰に変えて咳を防ぐというもの。
もう一つ、炎症を抑えるものとして荊防敗毒散というのを出してもらった。とりあえずこれで様子を見る。
2019年4月17日(水)
すでに疲れているのか。
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なぜこんなに疲れているのか。
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こんなものもう降りてやれと思っても、思ってもいないものがこんなものに含まれていると、降り方を見直さねばならない。降りることは降りない部分を残した降り方を見いだすことなのだとすれば、納得がいくようにはなかなかいかないかもしれない。
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疲れている時にがんばろうとしてもがんばれないし、焦っても余計疲れるだけで何もいいことはない。
そうは思っても、ちょっとした空き時間にできることはないか、できることをしない手はないと思って、あれこれやろうとしては結局うまく行かなかったり、予想した以上に手間がかかって、明らかに過度な疲労を負ってしまったりする。これでは元の木阿弥どころか、さらに事態をこじらせている。
結局、失敗を繰り返しながら、力の抜き方を覚えていくしかないのかもしれない。
■かばん選び
出かけるときは必ず持ち運ぶかばんの使い方、選び方にいつも迷う。
さっき思ったのは、さっと出し入れできないと困るものとそうでないものとで収納場所を分ける必要があるということだった。
財布、スマホ、カードケース、眼鏡ケース、印鑑、ボールペン・シャーペンなどは、かばんの内袋に入れておけば出し入れしやすい。AirPodsも内袋に入れておかないと困る。
一方、USBフラッシュメモリスティックなど、使う時はパソコンに向き合うような改まったシチュエーションに決まっている。大きさからいえば内袋に入れたくなるが、ペンケースとか、何か小物入れに収めてかばんに詰めておけばいい。
そうなると、小物入れには何を入れるべきかという別の方針が整えられそうだ。家の鍵はすぐ出せるようにしたいが、週に何回かしか行かないようなところの鍵は小物入れでいいだろう。モバイルバッテリーも小物入れで良かろう。
あとかばんに入れなければならない、入れたいのは文庫本とか、出さないといけない郵便物とか、そんなものだろうから、これで問題は解決する気がする。
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スマホのホーム画面に何をどう配置するかという問題に通ずるものがある。
■英語 #3
英語で長々と書かれたダメ出しメールに返信しなければいけない。面倒くさい。ちゃんと目を通したい気持ちはあるが、そんな時間的な余裕ねぇよっての。
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ページトップにジャンプするリンクを付けていたが、再読み込みした時に変になるからもうやめることにした。
2019年4月16日(火)
慢性のものかと疑っていたせきが、1週間経って薬が切れるころにはちょうど治ってしまったかと思ったが、先週ほどののどの痛みはないものの、今朝はやはりせきが止まらない。飲み続けて効くのであろうアレルギーを抑える薬の効果もあったのかもしれない。とりあえず夕方受診しよう。
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無い袖は振れぬ。無理なものは無理。
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イタリア旅行中にはあまり読めなかった『善悪の彼岸』をまた読んでみる。第2篇は断章っぽくなって読みやすく、また面白い。
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移動中に勉強なんかできないよ。読みたい本でも読むよ。
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何が学問か。これからは対等に話をしよう。
■英語 #2
訳そうと思って読むのと、何が書いてあるのか内容を理解したいと思って読むのとでは自ずと読み方が変わってくる。前者と後者とでは使う脳の部位が違うんじゃないかと思うくらい。そして、どうせなら後者の読み方がいいなと思う。
判断を下そうにもその内実を知らぬものについて確信は持てない。
2019年4月15日(月)
今年から月曜日はまた大変なんだ。
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朝から何がというわけでもなくけったくそ悪い気分。なんだ?
■はじめて出会う社会学──社会学はカルチャー・スタディ
この教科書初めて読んでから10年くらい経って、今回ようやく第1章の意味がまんべんなくわかった気がする。バフーティンやイーグルトンやという文学研究にからめたあたりがさっぱりわからなかったのが、ふつうに理解できるようになっている、また、社会と文化の関わりで社会学を理解していくという構成もようやく飲み込めた。
1998年刊行のテキストなので、さすがに古さにためらいを覚えなくもないが、結局何が言いたいのかわからない教科書が多いなか、おそらくはカルチュラル・スタディーズを意識した批判的な論調が使いやすいのだと思う。
批判的な教科書という意味では『社会学をつかむ』もある。しかし、あれは批判の姿勢がゴツゴツしすぎてて、もう一つ肌に合わない。
■授業 #1
今年度の授業はとにかくていねいに説明して、わかるように言葉をほぐすことに神経を使ってみようと決めている。
まだ数回しか授業をしていないが、これはわり大切なことかもしれないとすでに手応えを感じている。これまではがんばる方向がまちがっていた。授業でしゃべることそのものがカタルシス、何かの発散になっていけばこれまで負担だった部分が、負担どころかプラスに変わっていくのだが、そんなにうまくいくだろうか。
2019年4月14日(日)
昨日の花見は盛り上がった。楽しかった。
2019年4月12日(金)
昔のラベルは消してしまえばすっきりすることに気づいた。ペーパーレスがんばろう。
2019年4月11日(木)
空き時間を見つけたと思ったら翌日の準備をするにはその空き時間くらいしかないことに気づく。
2019年4月10日(水)
疲れが溜まってるのかなあ……。
メンタルから疲れているのかも。
2019年4月9日(火)
今朝はせき止めの効きが悪い。
■イタリア #12
そういえばローマでもトリノでも、都市高速や電車の高架が街中を遮断している風景を見なかった。たまたまそういうところに行き当たらなかったのか。
歴史ある石造りの古い町並みのなかに高速道路や電車を通すのは難しそう。
2019年4月8日(月)
とりあえずのどの薬をもらってきた。14時半くらいに仮眠したら、ガツンとしんどくて90分くらい寝てしまった。時差ボケまだあるのかな。それとも薬の影響かな。このまま薬がすっと効いてくれると嬉しいが。
2019年4月7日(日)
イタリアから帰って、南海本線で新今宮駅に降り立ってすぐに空気がくさいと思った。まあ新今宮だからかなと思ったが、天王寺駅もくさかった。空気への違和感に続いてせきが出始めて、その後は止まらない。ああ、そうかこれはぜんそくなのかとようやく腑に落ちた。
慢性的な体調不良、のどの痛みはいつのまにかぜんそくになっていたからだと考えれば不思議はない。月曜日は病院に行くか漢方薬局に行くかしようと思う。
2019年4月6日(土)
■イタリア #11
出発までにイタリア語の勉強はまったくしなかった。前日にイタリア語会話のハンドブックを買って、飛行機の中で初めてまともに眼を通した。しかし、こんなものまったく覚えられる気がしない。
それでもとりあえず覚えておこうと思ったのはあいさつやお礼。昼間は「ボンジョルノ」、夜は「ボナセーラ」。服飾のブランドにもある「ボナジョル
ナータ」は「Have a nice
day」的な言葉だと知る。英語と併記されているところはこのハンドブックのいいところだった。ありがとうは「グラッチェ」。
入国管理局イタリアの玄関口。夜に到着したので、パスポートをチェックする職員に「ボナセーラ」と挨拶すると「ボナセーラ」と返してくれた。
最初はとにかく「グラッチェ」を使う場面が多い。しばらくすると「すみません」みたいな謝罪の言葉が使えた方がいいなと思うようになる。公共交通
機関でぶつかったり、避けてもらったりした場合にひとこと言えないと気まずい。調べると「ミ・スクーズィ」というらしい。トリノであちこち案内してくれた
知り合いに「スクーズィ」と言えばいいことを教えてもらう。「ミ」はあってもなくてもいいらしい。親しい同士では「スクーザ」と言ったりもするとのこと。
冠詞のルールがよくわからない。「トイレはどこですか?」という表現は韓国でも使った。「ドヴェ・イル・バンニョ?」という。「イル・バンニョ」が「トイレ」だと思うのだがハンドブックを見ると「イル」ではない時がある。「ミ」はどこへ行ったのか。
文法的な文脈はわからないまま、場面場面の文脈で覚えたフレーズを使ってみる。それでも意思疎通ができたと感じる時があるのが面白い。「グラッ
チェ」に対して「プレーゴ(どういたしまして)」ということはハンドブックで確かめていてももう一つ覚えられないし、使えない。しかし、現地の人が使って
いるのをみると、なるほどこんなふうに使うのかと腑に落ちる。
大勢で買い物するときは他人任せで気楽に会話を試みることができるが、一人だと緊張感がある。泊まった宿のガスコンロは着火ボタンの効きが悪くて、ライターで着けなければならなかった。喫煙者ではない僕はライターを持っていなかったので、現地で調達したいと思った。
イタリアにはコンビニみたいなものがなくて、「ミニマーケット」という雑貨屋がそこここにある(これらを営業しているのは移民らしき中東の人た
ち。品ぞろえのいいチェーンのスーパーマーケットになるとイタリア人が働いている)。「◯◯はありますか?」は「アヴェーテ◯◯」となる。ライターのイタ
リア語を調べてカウンターで訊いてみたら、目の前にあった。一生懸命イタリア語を調べて使ってみるも、中東の人たちイタリア人より格段に英語を使える。
「グラッチェ」と言おうと構えていても、「サンキュー」と言ってくれる。
イタリア人はほとんど英語が使えない。宿の受付の人は英語で対応してくれようとしたが、自ら引き受けてくれたわりにたどたどしい英語で親近感を覚
えた。英語をしゃべれないのは日本人ばかりではないし、まったく学んだことのないイタリア語をハンドブックで調べて会話を試みる程度のやりとりがとても楽
しい。文法から学んで単語を覚えるような語学より、実際に接し、生活しながら言葉を身につけていくほうが断然楽しのだとわかった。
文章を読むのにはまた別のリテラシーが必要らしい。イタリア語が堪能な現地の知り合いも、新聞を読むのはまだ難しいようだった。会話から入るようで実際はリーディングを学ぶ学校でやっているような語学教育が必要なのはこういう場合なのだろう。
しかし、語学の学習にももっと自由度があるのだと知れた。ところどころ英語でコミュニケーションをとる場面もあって、ネイティブの英語の話者と話すより気楽に会話ができたし、その場その場で必要な言葉を選択的に用いることができている手ごたえも感じた。
語学の面でもいろんな気づきがあって、副産物としてもとても有意義だったと感じる。もっと楽しみながら、世界を広げるために語学に向かい合うこと
ができそうだと思った。文法的な部分での疑問を解消するためにも基本的なイタリア語の勉強もしてみたい。英語の勉強も、これまでとは違った角度から柔軟に
スキルアップを図っていけそうなヒントがあったと思う。
「ピアチェーレ・ソノ・◯◯(はじめまして、私は◯◯です」も覚えたけど、使う機会がなかった。「ソノ」はともかく「ピアチェーレ」は忘れかけている。「チャオ」は便利だ。「オッケー」も「オッケー」の意味で使える。「◯◯プレファヴォーレ(◯◯下さい)」も多用する。
2019年4月5日(金)
■イタリア #10
異国の地で移動と食事のことを考えていればよかった10日間に頭も身体も染まりきっていて、普通の暮らしに戻るのがしんどい。リズムが違いすぎて
戸惑っている。旅行仲間と子どもたちとは旅先の出来事についてばかり話していたし、片言のイタリア語と英語で解決できる程度のコミュニケーションを必死で
こなしていたので、生活に必要なスキルが偏ったところで濃密に凝縮されてしまっている。
旅行の楽しさ、異文化の人びと、街並みから受ける刺激というものはもちろん強烈にあったのだけれど、このような過ごし方自体が初めてのものだったで、何を経験してどういう状態にあるのかわからなくなっているのだろう。
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ちょっと休憩、食事時となればビールやワインを飲む。そんな時間もたまらなくぜいたくだった。コーヒーといえばエスプレッソで、最初は量が物足りなくてカプチーノを頼んでいた。
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時差ボケもあってかみ合わない感覚のずれが苦しいような戻ってしまうのが惜しいような。
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路上駐車が凄まじかった。バスの運転が荒い。ローマとトリノのバスと地下鉄、路面電車共通の料金制度が面白い。90分1,5ユーロ、24時間7
ユーロというふうに、移動の単位ではなく、時間単位で切符が切られる。10歳以下は大人1人につき1人無料。地下鉄は入場時には切符を機械に通さなければ
ならないが、退場時にはバーを回してでるだけ。日本はしつこいくらい厳密だ。バスも乗る時に自分でリーダーにタッチする仕組みだが、やはり降りる時に運転
手にチェックされるということもないので、無賃乗車もやり放題。
2019年4月4日(木)
10日間でイタリア行って帰ってくることができた。この長旅を無事終えられたことに改めて驚く。
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午後から何か反動のように苦しくなる。時差ボケ?
2019年4月3日(水)
■イタリア #9
仁川空港で乗り換え待ち。
2019年4月2日(火)
■イタリア #8
トレビの泉に行こうとするも、地下鉄の駅がいくつか閉鎖されていて、止まらない。なぜかわからない。
2019年4月1日(月)
■イタリア #7
有料トイレだった。
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