過去ログ
2020年5月


2020年5月31日(日)

 本読めない。

■待島聡史・宇野重規編著『社会のなかのコモンズ――公共性を超えて』(白水社、2019年) #1

 今回入手した本のなかではこの本が一番新しいのかな。

 何となく嫌な予感がする。

 なんだこの対談。

 宇野重規「第1章 コモンズ概念は使えるか――起源から現代的用法」。オストロムについて。

彼女によれば、フォーマル・インフォーマルな制度を活用することで、地域コミュニティによる共同管理はなお可能である。適切な制度の下では、資源の日常的利用の中でルール違反が相互監視され、資源の状態に対して柔軟に対応することができる。鍵となるのが地域コミュニティ内のソーシャル・キャピタルであり、信頼と互酬生であるという示唆は、多くの反響を呼ぶことになった。[20]

 これは因果関係が逆なんじゃないのかな。

レッシグによれば、コモンズが悲劇をもたらすとは限らない。重要なのはコミュニティの規範であり、コミュニティがその規範をいかに組織するかが鍵を握る。[29]

 やはり因果関係が逆な気がする。コミュニティの規範がコモンズを維持するというより、コミュニティの規範がコモンズを必要とする、コミュニティがコモンズを構成要素として規範を維持する、コミュニティが規範を維持するためにコモンズを必要とする……。

 この辺の表現が難しい。「規範」というとネガティブなイメージ、外在的なもの、必要悪のように聞こえてしまう。しかし、この規範そのものが利益そのもののである場合、なんと言ったらいいんだろう。

 「コミュニティ」というところにすでに問題があるのだろうか。「コミュニティ」以前の集まりの中に、必要な場所=秩序を確保する必要がある。だから、コモンズとは場所であり、秩序でなければならない。「共有地」であるだけではいけないし、「管理の仕組み」だけが重要なわけでもない。

 知的財産にまつわる議論をどのように位置付ければよいのか。「技術者のコミュニティ」のようなものが想定されている。また「技術」そのものが場所性を持っているのかもしれない。擬似的な場所性。どのように擬似的なのか。使用価値?

 新旧のコモンズ概念に一貫しているポイント。「第一に、コモンズとは何らかの資源を共同で管理するための仕組み」「第二に、コモンズを支えるのは何らかのコミュニティである」[35]、「第三に、コモンズを支えるのはコミュニティのメンバーによって共有されるルールと規範」「第四に、コモンズに特有なインセンティブな仕組み」[36]。

 ある人にとってのインセンティブが別の人にとっては逆に作用することもありうる。

2020年5月29日(金)

■三俣学・菅豊・井上真編著『ローカル・コモンズの可能性――自治と環境の新たな関係』(2010年、ミネルヴァ書房) #4

 第1章からちゃんと読んで行こう。齋藤暖生・三俣学「第1章 地方行政の広域化と財産区――愛知県稲武村の事例」。

 この入会林野というテーマは、法的な枠組みがからんでくるところにコモンズ論としての存在感があるのかな。

 結構面白かった。

 泉留維「第2章 里道が担う共的領域――地域資源としてのフットパスの可能性」。出たフットパス。

 『道の文化史』なんて本があるのか。

 ……結構面白そうやん。

 フットパスの話になった途端に脱力する。

 観光をコモンズの効用に組み込むのは危うい。外部とのかかわりが共同性のなかに公共性を生み出す回路となるところに面白味を見出したくなるのはわかるが、何のことやわからん公共性が生まれればいいというものではない。「公共性=いいもの」ではないだろう。

2020年5月28日(木)

■三俣学・菅豊・井上真編著『ローカル・コモンズの可能性――自治と環境の新たな関係』(2010年、ミネルヴァ書房) #3

 終章を読もう。コモンズ論は公共性の議論と切り離せない感じ。

 内山節が出てきた。

 誰もがアクセスしうる空間であり、オープンで閉域を持たないというのとが、「原義的な公共性」の定義であるとすれば、なぜ、私たちはコモンズというかなり狭く小さな空間(閉域)のなかに、「公共性」と呼びうるようなものを見出そうとするのか。[205]

 「慣習」の存在が「ローカル・コモンズの持つ公共性を形作っていると考える第一の淵源である」[205]。

ローカル・コモンズという閉域における公共性は、その成員個々の利益を極大化する方向(合理的経済人としての個々人の自由則すなわち“私利私欲”を最大限に認める市場原理)にではなく、エコロジーの教えるある一定の利用制限を受忍しあうことによって、コモンズ全体の私益(=公共性)として立ち現れてくるものであるといえよう。コモンズの構成員個々人の私的世界と村全体の公共性とのバランスが保たれて初めて、コモンズは持続可能であったわけである。[206]
ローカル・コモンズの公共性の淵源を形成する第二は、ローカル・コモンズとして慣習に従って自治的に利用・管理されてきた「環境資源そのものの持つ性質」にある。[206]

 この辺の整理は使えそうだ。

 入会林野とか興味ない……。

 この本の事例はきちんと読んでもいいかも。終章できちんと議論を回収しているようだし。

 研究なんて何の意味があるのか。そう感じながらも思考を広げていく時間を作ることが、何かを変えていくエネルギーを生み出している。そんなふうに感じられたら。

 「お勉強」ではなくて、自分の内面を、感受性を刺激するような形で知識と向き合えたら。

 結果を求めない。結果なんて求めなくても、その途中経過にこそ意味がついてくる。形になるもの、結果に見えるものとは、先へ進むために作り出した工夫に過ぎない。

2020年5月27日(水)

■三俣学・菅豊・井上真編著『ローカル・コモンズの可能性――自治と環境の新たな関係』(2010年、ミネルヴァ書房) #2

 なかなか読めない。「第I部 コモンズのもつ公共性」ってすごいなと思ったが、改めてとりあげてみるとふつうな気もする。

 この本事例ベースの本だな。姉妹編の『グローバル時代のローカル・コモンズ』から読んだ方がいいのかも……。

■井上真・宮内泰介編『コモンズの社会学――森・川・海の資源共同管理を考える』(新曜社、2001年) #1

 こっちも事例ベースといえば事例ベースな本。というか、コモンズ関係の本を探すとだいたい事例集みたいなものが多い気がする。

 シリーズの刊行のことばを読んで、環境社会学とは何だろうと思う。環境社会学は環境をどのように定義するのか。「都市のコモンズ」の「自然のコモンズ」を対照しながら見ていく場合、コモンズが社会的に構築されたものであることは自明なことで、それなら自然のコモンズ、すなわち環境も社会的に構築されたものとしてとらえられているのだろうか。

 序章と終章を先に読んでみるか。

 「序章 自然自然の共同管理制度としてのコモンズ」。

 「これまでのコモンズ論の焦点であった「所有」制度の類型から話を始めたい」[9]。非所有(オープン・アクセス)制度、公的所有制度、共的所有制度、私的所有制度。

 所有ではなく、管理の側面に着目する。

 「以上より、ここではコモンズを「自然資源の共同管理制度、および共同管理の対象である資源そのもの」と定義する」[11]。こうしてしまうと、場所の議論ができなくなってしまう……。機能主義的なやり方。

 どんどんわけがわからない話に……。

 ある程度類型化しないと議論が進まないのはわかるけど、何のための類型化なのかよくわからない。ローカル・コモンズとグローバル・コモンズの対比、公的所有制度と私的所有制度の中間項としての非所有制度、共的所有制度。

 管理の仕組みと制度は別物じゃないのか。「このように管理してうまくいっている」という仕組みと、「このような制度でうまくいく」こととは別の話で、結果と原因を同一視してしまっているように思える。結果的にうまくいっているものを「仕組み」として把握することと、そのような仕組みをうまくいくための「制度」と位置付けることとは、同じことをやっているようでまったく異なる。

自然利用の方法は、つねに対象とする自然の性質にたいする明示的な知識からなる技術を基盤としているとは限らない。意識されない知識、すなわち暗黙知に支えられている技術もある。また、技術とはいえないような偶発的な利用方法が出現することもあるだろう。このような思考を経て概念化されたのが、「持続的利用の三類型」である。[16]

 この話は面白い。しかし、著者の問題意識はどこにあるのだろう。現地の人々の権利回復なのだろうか。

 「意識的な持続的利用」が見られるものを望ましいコモンズのあり方だととらえているのだろうか。

 p.15の「普遍的な価値を地域に持ち込むのが「よそ者」」であるという視点は面白い気がするのだが、それが研究者のことを指すのであれば、何だそりゃという感じがする。

では、普遍的な価値として多くの人の合意を得やすい2つの基準を設定して、コモンズの機能について検討してみよう。/第一の基準は共同管理資源の持続的利用の達成である。これはコモンズの有する生態学的機能の評価基準である。第二の基準は資源管理精度による民主的社会秩序の維持である。これはコモンズの有する社会文化的機能の評価基準である。[18]

 なんか評価の水準が入り混じったまま抽象化されている印象を受ける。

 これはあれか、いつもの僕のスタンスか。コモンズをひとつの状態ととらえて、その評価は行わず、別の問題を掘り起こす手がかりにする、というような。

 というより、コモンズを共同がうまくいっている指標と見なす(『飯場へ』の最後では、共同性そのものを指標であるかのように位置付けたわけだが)。コモンズを何か理想的な状態に近い度合いを示す指標のように位置付けるとすれば、問われるべきは何がそれを破壊するのか。

 僕は、理想的な状態を達成する必要十分条件を明らかにすることなど不可能だと思っているし、そんな考えをもつべきではないとすら思っているのかもしれない。理想の内実を問うことなく理想の状態は存在しうると仮定している。

 コモンズ論の理論的な支柱である経済学による「数学モデルを活用した抽象的な議論」[21]に対して、フィールドワークによるアプローチが現れた、という位置づけなんだな。

本書では国有化や私有化とは別の資源管理のオルターナティブとして、CPRsの共同管理制度すかわちローカル・コモンズに着目したいのである。[23]

 図式としてはわかりやすいけど、図式化にはまってしまうという罠はあると思う。図式化が「資源管理のオルタナーティブ」を錯覚させてパークマネジメントにお墨付を与えてしまうような意図せざる結果もあるだろう。

 「seinの研究」(〜である論/存在の研究)と「sollenの研究」(〜べき論理/当為の研究)[23]と言っているけど、後者について定義できるのは「〜すべきではない」ことを絞り込んでいくことでしかないように思える。

 p.30に「よそ者」について解説がある。やはり「よそ者」とは研究者のことらしい。

 「終章 地域住民・市民を主体とした自然資源の管理」を読んでしまおう。

 なんかどうしても政策提言の話になる。「参加型資源管理論や住民主体型資源管理論はコモンズ論に包含されるのである」[214]というが、それらにコモンズ論が取り込まれるといった方が適切ではないだろうか。

ローカル・コモンズを(再)構築するためには、管理の主体としての集団が存在しなければならない。管理の主体が存在しなければ、自然資源を共同管理することは不可能なのである。[214]

 主体って何だ。

 この強烈な違和感はなんなんだろう。そんな話ならコモンズなんてどうでもいいよという気持ちになる。ということは、僕が想定しているコモンズはこれらとはまったく別物だということなんだろう。「管理の仕組み」というのは根本的におかしい。

 まず第一にコモンズは人びとが共に暮らすために「必要なもの」であるということ。そして、それは集合的な実践を通してその実質を確保するし、維持されるものであるということ。

 ならば「いかなる意味で必要なのか」が問われねばならないのか。必要性の実体はさまざまであっていい。その必要性を満たすためには、固有の場所が必要とされる。また、その場所の管理のされ方、その場所にかかわる集合的な実践のあり方が重なり合わなければならない。

 物的な資源をめぐる話に止まらない。社会関係やアイデンティティ形成に寄与する場所のあり方として読み解かねばならないし、物的な資源をめぐる話ではないにもかかわらず、実体としての場所を必要条件とする。

 ものすごい思いつきで言ってしまえば、コモンズは、物的な利益を得られる場所であり、独特の管理の仕方を備えているのかもしれないが、実はそれは表面的な役割でしかなく、物的な利益を得られる場所の独特な管理の仕方を要求するのは、その背後にある社会的、文化的な利益なのかもしれない。

 国家や市場の介入は、資源の持続的な管理を破壊してしまうのはもちろんだが、より深刻なのはその背後にある社会的、文化的な利益とそれを維持している関係性を破壊してしまうところにあるのではないか。グレーバーが「資本主義とはせいぜいのところ共産主義をまちがっ たやり方で組織化する方法なのである」と言っていたことと通ずるものかもしれない。

 この手の論が制度化にこだわるのは、制度化によって政府や市場に対する防波堤を作りたいという思惑があるせいなのかもしれない。だが、その思惑に反して、政府や市場が介入する格好の口実を制度的に与えてしまっているのではないか。

鬼頭秀一(環境倫理学)は、地域社会を重視しつつも、人と自然とのかかわりを、経済的・社会的リンクと文化的・宗教的リンクという二種類のリンクの不可分性などの関係のネットワークにより動的にとらえる「社会的リンク論」を提唱している。[230]

 そういうことを言っている人はいるようだ。

 この辺を扱った実証的な先行研究がないか見ていかないといけないな。

2020年5月26日(火)

■三俣学・菅豊・井上真編著『ローカル・コモンズの可能性――自治と環境の新たな関係』(2010年、ミネルヴァ書房) #1

 少しずつ読んでいくか。

誤解を恐れずごく手短に彼女の問題意識を述べれば、それぞれの福利を高める協調行動はいかなる条件下で達成されるか、ということになろう。[ii]
同じ行動をメンバーがとれば、そうしない場合よりも置かれる状況が改善されるにもかかわらず、実際にはそういう方向へ向かわない現状が多々見られる。[iii]
このような内容を検討する段階に達すると、コモンズ内部の制度設計に着眼の重きを置いてきた傾向を強くもつコモンズ研究は、望ましい組織間調整を主たる考察の対象に据えてきた環境ガバナンス論にたいへん接近した領域を形成しはじめるようになる。[iv]

 自然のコモンズの場合、共有されている資源が明確なんだな。あるいは、共有されているものの実態にはあまり焦点が当てられていないのかも。

2020年5月25日(月)

 元気が無い。

 すべて今日やってしまう必要はない。土曜日までは引き延ばせる。今日できるところまでやる。今日できることはどこまでかを決めてしまえばいい。

2020年5月23日(土)

 New Commonsの議論はあんまり関係ないかも……。伝統的なコモンズを都市になぞらえたケースだけ見ていけばいいのかな。

2020年5月22日(金)

 いらつく。やる気出ない。

 理由なんてないのかもしれないが。

2020年5月21日(木)

 どうもめちゃくちゃ不愉快らしい。

 むしゃくしゃする。

2020年5月20日(水)

 しつこい風邪がなかなか良くならない。

2020年5月17日(日)

 休んでも休んでも落ち込みがとれない。

2020年5月16日(土)

 なんか憂うつ感がある。

 憂うつなのかしんどいのか。

2020年5月15日(金)

 今回の禁煙はうまくいってないな。

2020年5月14日(木)

 タバコをやめた。やれやれ。

2020年5月13日(水)

 今日はだいぶがんばった。

 「センターの日」の準備も済ませたし、授業の動画も録った。そんなもんか。でもこれがあと数ヶ月続くと思うとこんなものはがんばったうちに入らないのかも……。

2020年5月12日(火)

 もう今日がんばるのやめよう。

2020年5月11日(月)

 思ったことをそのまま口に出すには技術がいるのかもしれない。その内容の成否は問わずに、まず自分がどう思ったのか、感じたのかを自覚し、それを加工して言語化するプロセス。

 面倒なことになったな。

2020年5月10日(日)

 体調わるい。ゆううつだ。

2020年5月9日(土)

 変な夢見たなあ。

 zoom研究会での報告終わった。とても疲れた。

 もどかしい。僕の中でまだ満ちていない部分がある。器が大きすぎればいつまでも満ちることがない。小さすぎれば溢れかえってしまう。

 季節はまだ一巡りしはじめたところに過ぎない。相変わらず先は見えない。しかし、たどり着く先がないとは思わないし、希望が抱けないわけでもない。

 もしかするとそもそもそういうものではないのかもしれない。一つひとつ力を得ていけば、気付けいてみればすでにそこにいた。そのようなものなのかもしれない。

 あるいは、たどり着くことなどないのかもしれない。一筋の道の先に答えを期待するような思考をしてしまっている。

2020年5月7日(木)

■「センターの日」論文化 #5

 家で仕事したくなくて、どこか開いている喫茶店がないかと、いつも行っているところを回ってみたが、どこも開いているわけがなかった。

 ちょっと外れにあるたまに行く喫茶店のそばに史跡公園があって、人気がなく、木陰もあるので、そこで作業することにする。

 フィールドノートを開いて見直しはじめて、こういう場所は実は得がたいものなのだと思う。センターも多分そういう場所で、必然的にコモンズとなっている。

 ほぼ常駐している野宿の人もいる。一人で何かに腹を立てて怒鳴り散らしているということなどもある。それでも誰も気にしない。それに怯えるということもなく。

 女性がいやすい場所ではないだろう。「センターの日」でも立ち寄っていく女性はいないわけではなかった。しかし「女がいるからおかしくなった」と意味不明なバッシングを受けていた。一方でずっとセンターにいる人もいる。

 仲間が集まる場所だという暗黙の合意がある。自分と同類が集まる。労働者が集まる場所。それを前提としてセンターに出入りするアウトサイダーの類型もあるだろう。僕たちが「センターの日」をやっていて「キリストか? NPOか? 市大か?」と訊かれるのはその類型を端的に表している。行政関係者や管理者もその中にか含まれるろう。何らかの「支援者」もいれば、「見学」に訪れる人もいる。「見学」はフィールド・ツアーの団体である場合もあれば、「ディープな場所」に興味を惹かれて訪れる個人でもある。

 「見学」の個人と「流れ着いた」人との見分けがつかない場合もあるだろう。しかし、ふるまいを見ていればわかるはず。所在なげに留まっていたら見学者ではないだろう。そんな人がいたら、誰かが話しかける(手配師も話しかけるだろうけど)。「ちょっかいをかける」と言った方がいいかもしれない。そこから「ツレ」ができる。

 コモンズといったとき、そこは単なる共有地ではなく、何らかの利益が得られる場所を指すわけだが、その利益とは何か。自然のコモンズは狩猟採集や自然資源がその資源に当たる。

 そういえば、センターは洗濯ができる(水場がある)という点が重要だ。トイレというのも大きい。日陰がある。座れるところがある(その気になれば寝転がれる)。

 「センターの日」の準備、片づけの大変さ。意味のある場所を作るというのは大変なこと。そのための道具というものがある。ちょっとこれをしようと思っても、結構大変。展示物一つでも、コンパネ1枚用意することは簡単ではない。展示のためにセンターの壁を使った。そういう意味では、構造物としてのセンターは「いろいろ使いやすい」モノなのかもしれない。

 建造物としてのセンターの特徴、立地状況なども。

 堀川三郎、「場所と空間の社会学――都市空間の保存運動は何を意味するのか」(2010年、『社会学評論』60(4))を読んでみよう。

 「誰が、どのように抵抗しているのか」「いかなる人々が変化に抵抗しているのか、いかに変化を正当化する物語に抵抗しているのかを分析する」[517]――そもそもその抵抗の足場をとらえようとする論文ではないということかな。

そうであるなら、今問うべきは、いかなる人々が変化に抵抗しているのかであり、何が棘を抜いているのかであろう。筆者が関心をもつのは、近代的時空の揺らぎを前提として、空間化に抗う運動はどのようにして棘を抜かれ変化の正当性に寄与させられていくのか、いかにして棘を棘として生き続ける運動が存続しうるのか、といった問いである。

 抵抗論なのかな。なぜ抵抗するのか。守られなければならないのはなぜなのかを問うわけではない?

 やっぱり特集論文か。「記憶と場所――近代的時間・空間の変容」とある。

 この論文の事例となる小樽運河問題は、行政と保存運動との対立? 行政と協調する「まちづくり」的な運動体もあるのだろうか。

 むしろ運動体の方が「まちづくり」を要求しているのか。アイデンティティ、観光資源であり、まちづくり。なんかぼんやりしてるな。

 計画変更と観光開発が行われた後の展開があるわけか。

 「経済活動の器」[521]という言葉が当初の再開発のスタンスをうまく表している。この段階では「観光産業」は、行政や経済界の思惑で着手されるような目玉ではなかったのではないだろうか(1970年代? 1960年代か)。

 保存運動前期(1973〜76年)は文化財保護運動だった。

 保存運動後期(1977〜84年)はどうか。イベントを開催している。

運動は文化財保護的な運動方針から決別し、歴史ある都市を再生する「街づくり人づくり」運動であることを明快に宣言する。その後、この保存の論理は、運河を「観光資源」ととらえ直し、観光開発による再活性化を、と展開していく。[523]

 利害が錯綜して採集的には分裂してしまったわけか。

 〈空間〉と〈場所〉概念の扱いが素朴すぎる……。それぞれをまなざし(立場)の違いに当てはめてカテゴリー化してしまうのでは、分析の奥行きが無くなってしまう。

 だれが保存を叫んだか。(1)耽美派、(2)純粋保存派、(3)まちづくり派、(4)伝統的左翼運動派。

 耽美派にとっての〈場所性〉が置き去りにされていったことが、この運動の展開過程に大きく関係しているのではないか。

つまり、「変化」をめぐる小樽での対立過程の含意の1つは、社会学にとっての伝統的な諸変数――階層、学歴、保守/革新――では保存問題の分岐点が把握できないことを示唆していることであるように思われる。主体のもつ空間認識の差異という、身近な都市環境の認識や主観的意味規定を加えて分析しなければならないということだ。[531]

 うーん……。

2020年5月5日(火)

 調子の悪いばかりの日もある。

2020年5月4日(月)

■デヴィッド・ハーヴェイ『ポストモダニティの条件』(2000年、青木書店) #5

ヨーロッパの封建制での相対的に孤立した諸世界(熟慮のうえで複数形を用いる)において、場所は社会諸関係と、おおまかに定められた領土の境界内部での共同体の相対的自律性を示す明確な法的、政治的、社会的意味を帯びていた。[309-310]

 場所というのは、大がかりな移動をともなわずに完結した範囲のことなのかな。

 あー、まさに場所の空間というわけか。

2020年5月3日(日)

 もう5月3日か。ゆううつ。

■デヴィッド・ハーヴェイ『ポストモダニティの条件』(2000年、青木書店) #4

 ううぅむ、面白い。フーコー、セルトー、ブルデューと、こういうふうに理解すれば良かったのか。さっさとハーヴェイを読むべきだった。

 しかし、重要なのはこういった議論をどういう道具立てでデータをもって語り切るか。

 時間と空間は切り離して考えられないものなのかな。時間と空間は切り離して考えられないにもかかわらず、社会科学のなかでは空間が軽視されており、その意味を掘り起こすためにもこの両概念の考察が必要となる?

 しかし、ここまででは空間とは何なのかがもう少し分かりにくい。ここから展開していくのか?

 待てよ、もうハーヴェイとセルトーで行けるんちゃうか? 空間的実践は語りえないものであること。そこに空間の領有や支配といった観点を差し込んでいけば、データはぐっと奥深いものになる。

2020年5月1日(金)

■デヴィッド・ハーヴェイ『ポストモダニティの条件』(2000年、青木書店) #3

 第一部、第二部とだいぶ読み進めてきたのだが、論文執筆の都合上、第三部を先に読んでおくことにする。

 すごい使いやすそうなことをたくさんいっている。面白い。もっと前にまずここを読むべきだった。

 時間と空間の対比はしっかり押さえておかないといけないだろう。

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