過去ログ
2021年9月


2021年9月30日(木)

 どうにもならないなら、せめて今を活用しよう。

 結局は、自信がなくて強がっていて、誰かに任せてしまいたい。

 人は役割を引き受けることで、ようやく人になれるのかもしれない。

 うまくやれなくても、役割を担うことに違いはない。

2021年9月29日(水)

 ほぼ無関係、無収穫の作業を終えた途端に、そのものずばりの「読んでいないけど、ずっと持っていた」文献に気付くって何なんだろう……。

2021年9月28日(火)

 引き続き『支援』4号に目を通して行こう。

 話題になるのは圧倒的に障害者が多い。教育の話といっても発達障害の事例紹介から始まったり。他にどんなトピックがあったか。認知症の話も以前の号にあった。ひきこもり支援というのもある。

 被災地の支援というのもあるか。

 薬害HIV被害者の支援? 水俣病患者・被害者の支援というのもあるだろう。企業や行政を相手取った権利保障の闘いの支援。

 深田耕一郎『福祉と贈与――全身性障害者・新田勲と介護者たち』(生活書院)の書評。贈与論らしい。

 鈴木翔『教室内カースト』(光文社新書)面白そうだな。

 『支援』5号に行こうかな。

 特集「わけること、わけないこと」また「A or not A」的な表現。ジレンマの所在をあらわにしたいということなのだろうけど。

 しかし、今回のテーマは教育か? 「「教育」もまた「支援」の一部と言えるのかもしれない」[8]4号にもそんな話はあった。とはいえ、やはり障害の話にはなる。

 朝鮮学校。

 セクシャル・マイノリティは支援対象ではないけど、支援はマイノリティと関わりがある。セクシャル・マイノリティの場合、理解と社会変革が支援に関係する部分なのかな。配慮。

 セックス・ワーカー。

 「支援とは何か」というところで、大雑把な定義づけをしてしまった方が早そうだ。

 6号はこれまでのふりかえり? 特集「その後の五年間」。二つ特集があるのか。「くう、ねる、だす」。

■岩永理恵「貧困問題への「支援」という営みの周辺――震災後五年間の生活保護をめぐる話題・出来事から考える」

 別にふりかえりではないな。

■金明秀「ヘイトスピーチ問題の構成過程――三・一一以降の運動が可視化させたもの」

 幅広い。『支援』誌発刊と重なる5年間の日本社会の出来事をふりかえる、か。

 がんばって7号まで目を通してみるか。6号から特集2本体制になったのかな。特集1「〈つながり〉にまよう、とまどう」、特集2「着る、住む、買う」。

 更生保護。社会的養護。ハンセン病療養所の話。薬物依存症。ヤングケアラー。

 三浦先生の書評。出口泰靖『あなたを「認知症」と呼ぶ前に――〈かわし合う〉私とあなたのフィールドワーク』(2016年、生活書院)は面白そう。

 8号いくかー。

 それで十分かは別として、ある程度目配りしたという言いわけが自分のなかに欲しいんだろう。

 特集1「どうこうしちゃえるもんなの? 命」、特集2「みる、きく、はなす」。特集2は毎回大ざっぱだな。

 うーん。

 なんか、後半になってからブックガイドが面白い。いろんなエスノグラフィーがあるものだ。

 「支援」という括りがいいのかどうか分からないけど、議論のプラットフォームとしてはうまく機能しているように見える。特に6号以降は視野を広げる努力の跡が見られる。

 はー。常日頃からの自分の不勉強と視野の狭さが情けない。そう思うなら、これからがむしゃらに埋めていけばいい、まあそうしようとしているのだろう。

 自分の中に解釈して再構成する力を養おうというなら、その力の依代となる知識の戦略的な獲得が求められそうだ。

 依代だから、中身が重要じゃないんだよなー、きっと。

 9号までがんばってみよう。12:28

 特集1「表現がかわる 表現がかえる」、特集2「いたい、かゆい、におう」。

 トークセッション「オリンピックとジェントリフィケーション」というのがある。事例紹介すごいな。コピーしといていいかも。

■倉橋耕平「「その表現は新しいのか?」」

 面白そう。監視社会、監視テクノロジー。

 さんきゅうハウス(立川市)。なんかすごいな。よくこんなものができた。

 一冊に目を通すのに30分くらいか。12:57

 さあ、もう今日中に片付けてしまおう。10号。

 特集1「シノゴノの10年」、特集2「ぬすむ、かくす、にげる」。

 うわ、原口さんが書いてるやん。

■堅田香緒里「「声」をきくことの無理」

 野宿者の話だった。「「ホームレス」は「市民」なのか」[43]。

■原口剛「波止場の「荷抜き」と寄せ場の「キセル」」

 エッセイ?

 NPO法人女性サポート Asyl(札幌市)。

あじーるは、札幌市周辺を中心に野宿者支援を行う団体「NPO法人ホームレス支援北海道ネットワーク」が2010年に始めた女性シェルター事業が母体になっている。2015年から、「札幌市ホームレス相談支援センターJOIN」」の分室の一つになり、2015年9月14日にあじーる単体でNPO法人格を取得した。[232]

 わりと面白かった。しかし、毎号毎号よくこんなに書くことあるな……。

 11号。もう特集が何かとかあんまり関係ない。

■永井悠大「“コロナ禍”における東京のホームレス支援」

■上田假奈代「穴の話。ことばにならないことの、ならなさと、待つことの間で」

 終わり。

 今日だけで4号の後半から11号まで一気に行ったのか。疲れた。6号以降はだいぶ雰囲気が違った。編集方針が変わっている。外部の執筆者にも積極的に依頼するようになったのか。『支援』というタイトルでよくこんなに出し続けている。

2021年9月27日(月)

 決してあきらめない。あきらめていない。あきらめてこなかった。揺らぎながらでも、結果として一度として挫けていないのだから、そんな自分のことは信じてもいいんじゃないか。

 自分を信じるとか、そんなことではないのかもしれない。自分が歩んでいる道、歩んでしまっている道を、歩み方を信じればいい。自分が信じられるとか、信じられないとかではなく、大きな流れの一つを背負っていると考えればいい。

 信じようと信じまいと、自分の力のほどを知るのはずっと後でいい。できるかできないかというのも、後から考えればいいことだ。どうしたって、できることしかできないのだから、自分の役割は、ただこなしていけばいいのだ。

 いよいよ時間がなくなってきた。『支援』の3号に目を通していくか。

 結局、見るべきところは特集かな。

 家族か……。どうでもいいかも。

■土屋葉「関係をとり結ぶ自由と不自由について――ケアと家族をめぐる逡巡」

家族という関係は「棄てる/棄てない」「自由/不自由」といった二項対立の議論がきれいに当てはまることはむしろ稀であるようにも思えてくる。[36]

 まあそういう話かな。

■井口高志「閉じること/開くことをめぐる問い――家族介護を問題化する〈まなざし〉の変化を素材として」

 なんか、「ある/ない」式のタイトル多くないか。

 境界上に問題があるのかな。

■児玉真美「母親が「私」を語る言葉を取り戻すということ」

 なんかちょっと面白いかも。

■吉岡澄恵「看護職である私の「家族」についての臨床の『知』」

■渡井さゆり「家族を家族とするものは」

 前田さんがなんか書いてた。「シンポジウム報告 支援のフィールドワーク――調査と実践のはざまで」山北さんも報告していたやつ。

 4号の特集は「支援で食べていく」か。これはわりと重要な号な気はするが、今読み通そうという気にはなれないなあ……。

 こういうことが話題になるところというのは、ある程度落ち着いている場所じゃないのかな。その上で微調整したり、座りの悪さをただしたりといったことが話題になる。

 薬物依存症の話が出てきた。これまであったかな?

2021年9月26日(日)

 焦らずうろたえずにやるというのも、なかなか難しい。

少年が先へと歩み続けることができたのは、人生に対する二重の構えのおかげであり、すなわち少しずつたしかさを増す予感・夢と、厳しい現実との両方を誠実に生きる姿勢によるところが大きい。「子どもの文学」は、生に何らかの意味があるということについて、あらゆる懐疑や迷いに抵抗しながらそれを肯定し、「問いつつ答える」(清水眞砂子)ことを同時に行うべきジャンルだという。ルールの究められないゲーム・遊びを、幼い人・若い人には、最後まで遊びぬいてほしい。隠されたルールの全体像を、少しずつ、たくましく探しつづけながら。[吉田孝夫、2013『語りべのドイツ児童文学――O・プロイスラーを読む』かもがわ出版: 142]

2021年9月25日(土)

 これは結構時間かかるかも。引き続き『支援』の2号に目を通していこう。と言っても、ここまでは以前、読んだことがあるんだけど。その時はまだ2号くらいまでしか出てなかったんじゃないかな。

 やはり現場報告、コラム、書評、状況整理みたいなコンテンツもあるから、目的意識をはっきりさせて、ざっと見ていかないと、時間がいくらあっても足りない。

 昨日の冒頭の整理で、支援や制度が充実することで、存在をかけた闘いの足場が狭まっていくという気づきがあった(当たり前と言えば当たり前のことだが)。

 2号の特集は「「当事者」はどこにいる?」。結構読んだ。あの頃は僕も「当事者」性に引きずられていたと思う。「当事者」を論じる時に、「当事者にとって望ましい支援」を模索する立場がある。どうしてもそうはなる。「望ましさ」に対して「あたりまえ」の視点が前号の三井論文で示されていたわけだが。

 読み解く視点の一つとしては、「あたりまえ」の視点がどう展開されるかというところか。

 表紙をめくったところにある写真、24時間支援を入れて自立生活をしているという知的障害当事者の写真。

 24時間支援かあ、と思った。時間だけを見ると、この人1人の生活に、もう一人分の時間がまるまる費やされているように思える。誰かの時間を奪って成り立っているみたいに考えることもできる。

 しかし、そんなことを言ったら、高齢で生活保護で暮らしている人についても、時間ではないけど、お金に換算されたものとして、同じような構図が当てはまってしまう。年金の場合、社会保険だから、制度として縦の循環が枠にはめられているから、不公平感は少ないかもしれないが、生活保護となると、「タダ乗り」されているようなやっかみも招きやすい。

 大きな物語を前提としなければ、なかなか納得も説得も難しいように思われる。

 存在の絶対的な肯定、承認みたいなところから、愚直に事実を分析し、論を組み立てていくか。

■星加良司「当時者をめぐる揺らぎ――「当事者主権」再考する」

 読みはじめるとわけがわからなくなる。いったん立ち止まって、こんな話が出てくるのはなぜなのかを考えるのが、結局は早道か。一本一本の論稿の位置付けを考える。

支援者が支援を必要とする存在として立ち現れるとき、すなわち支援者が当事者となるとき、ここでも支援者の生は「支援」という行為に封じ込められていく。支援者が当事者になるということは、「他者の生を支えようとする」特定の生き方を引き受けていくことを意味する。」[星加 2012: 23]

 支援者が制度の中に閉じ込められていくし、当事者の生も、それを支えるものであったはずの支援や制度に取り囲まれるようなものになって、当事者主権を追求したはずが、自由度は高くなるものの、決められた範囲内で処理される客体になってしまう。

■高森明「当事者の語りの作られ方――〈障害者役割〉が圧殺するもの

 役割を押し付けられるという避けられない局面と、その役割を用いて対話を切り開く局面とがあるだろう。

■岡部耕典「〈支援者としての親〉再考――「当事者の自立を求める当事者の」としての」

 親か。

 まずはタイトルだよなあ。次に見出し。

 あー、生きていることが労働というのは、なんかそういうことなのかな。労働というのは、生きていくためにお金を稼ぐことなわけだけど、そこから「お金を稼ぐ」の部分、何かの対価として金銭を得る部分を切り離して、「生きていく」ことにしなければならないことの一切を労働の範疇に入れて、労働概念を再考していこうという話なら分からなくはない。

 ただし、それなら「労働は本質的に苦役であり、少ない方がいい(けれど、無くなることは決してない)」という前提を立てないといけないだろう。

 労働に価値を見出して称揚する立場には、僕はやはり共感できない。苦役の中に喜びがあることもあるだろうけど、それに縋ったり、それに価値を見出すあまり、労働そのものを理想化するのは飛躍でしかない。

■石丸偉丈「障害を持つ二人の家族と共に」

 これ面白いな。さぞ大変な思いをして、それを語れない状況を生きてきたのだろうと思う。

■寺本晃久「当事者に振り回されながら当事者になる」

 「知的障害のある人は、長い間、「当事者」として見られてこなかった」[55]。

 障害者の裏方に徹する時のやりきれなさかな。支援者が当事者の裏方である限り、当事者はいつまで経っても障害者として障害のことを語ることしかできない。支援者が当事者とともに、同じ問題と向き合う当事者として語ることができてはじめて、それぞれの差異を活かすことができる。

 僕たちはそういう局面にいるんじゃないのか。

■貴戸理恵「支援者と当事者のあいだ」

 ここまで整理できたら、残りはざっと把握できるかな。

「生きづらさの当事者」、「関与者としての当事者」という概念が提起される。

 こうきた状況を踏まえれば「生きづらさ」は、総体的には依然としてマイノリティにおいてより深刻にもたらされるのと同時に(それ自体大きな問題なのは言うまでもない)、個別的には、マジョリティにも例外なく降りかかるといえる。「生きづらさ」においては、フリーターやニートだけでなく、この社会に生きるすべての人が「当事者」になりうるのだ。[68]

ここに挙げられた「生きづらさの当事者」たちは、何か特定の社会的属性によって結びついているのではない。そこでは「ホームレス」と「リストカッター」と「公務員」が一堂に会している。結び目となっているのは、問題をやり過ごしたり、見ないふりをするのでなく、積極的に取り組もうとする関与の姿勢だろう。[68]

 なんか違うな。

 ああ、同じ問題に向き合うという意味での差異のある当事者って話だな。

それは言わば「当事者」に出会うなかで、支援者もまた、この社会で働き・人と関わりながら生きる一人の当事者となり、それぞれの立場から、ともに既存の社会の仕組みを問い直してゆく」という実践だろう。支援者は「関与者としての当事者」になる事を求められるのだ。[69-70]

 しかし、それが社会運動に直結しないのも変な話だ。「関与者としての当事者」などという概念を抽出しなければ、社会変革の領野が見えて来ず、また、社会運動の手前に止まってしまう。

■出口泰靖「“めざす”当事者と、“すごす”〈その人〉と――「認知症の当事者」と呼ばれた人とのかかわり合いで思うこと」

 この論考での「めざす」と「すごす」は、三井の「望ましさ」と「あたりまえ」に相当するようなものなのかな?

 「支援の現場をたずねて」という連載で、豊橋サマリヤ会の野宿者支援の事例が取り上げられている。

 「出会うきっかけは「ホームレス」という状態であったとしても、個々に抱えている問題は多岐にわたる」[128]野宿者問題の解消・解体。

2021年9月24日(金)

 さて、そろそろ借りてきた『支援』に目を通してしまうか。5号までしかないけど。

 あー。やっぱり府立図書館の方には最新号まであるんだな。借りに行かないと仕方ないか……。

 それはさておき、何の知識を整理したいんだっけ? 整理したいのは知識なのか? どんなふうに支援にまつわる知識が整理されているのかを知りたい。

 Vol.1はきっと根源的なことが問題提起されているはず。特集は「「個別ニーズ」を超えて」どういうこっちゃ。

 支援と運動の懸隔。支援が充実すると運動は後退していく。運動の根底にあったものは達成されないまま、見えなくなっていく。運動も、ある時期までは手弁当で用意されていた支援の制度化を迫る。獲得が闘争課題になるのだが、それは獲得自体が同時に存在をかけた闘いだったからだろう。権利を獲得していくことは何もまちがっていないし、必要なことなのに、獲得のための闘争が進展すればするほど、存在をかけた闘いのための足場が無くなっていく。そして、いつのまにか支援者が当事者に成り代わっている。

 だから、当事者と支援者の協同をとらえる視点が必要になるし、当事者の存在をかけた闘いの根底がどこにあるのかを意識する必要がある。そのような意識を持った当事者と支援者のあいだでの対話が必要になる。

 存在をかけた闘いなんて、しなくて済むならその方がいいし、しなくて済む状態にあれば、そうした闘いがどのようなものになるか、想像もつかないし、理解も難しい。理解が難しい、というのは、難解だからではなくて、それが、はたからみれば「どうしてそんなことにこだわる必要があるの?」と感じられるようなことだからだろう。「そんなことにこだわらなくても、もっと楽なやり方があるんじゃないか」「気持ちは分かるけど、本人のわがままじゃないか」などといった無理解にさらされる。

 障害者の話か。

 はー。「野宿者という属性の人はいない」というのは、そういう意味か? 野宿者のなかに障害を持つ人たちがたくさんいるという指摘があって、野宿状態にあるとしても、その人たちに対する実質的な支援は障害者支援であるとしたらどうだろう。また、失業の問題としてとらえれば、就業支援であったり、病気があれば医療支援、住むところがないという点に関しては、居住支援という分野も整備されてきたわけだ。

 つまり、野宿者問題、野宿者支援という分野は腑分けされて、あるべき支援の領野に預けられることで、解消されていったのだと。

 三井さよ「かかわりのなかにある支援」の「個別ニーズ視点」の問題点の指摘はわりと重要かもしれない。これも、問題を腑分けして解消しようとするところにある落とし穴の話なのだとすれば。

 「個別ニーズ視点」に対して「かかわりの視点」が提起されている。

 「望ましさ」と「あたりまえ」。「まだ〈わからない〉」[39]という指摘も使えそうな気はする。まちがいを選ばなければならない時がある。成否は分からない状態で決定を引き受ける必要がある。実際には常にそうだ。

 この辺りも、予め功利計算をしてしまう功利主義の根本的な欠陥につながる話だろう。

 「望ましさ」に対する「あたりまえ」の視点、そのようなかかわりの場をベースにしようというわけだ。「望ましさ」の方が説得力がある。しかし「望ましさ」が切り捨ててしまう領域があるし、それこそ「あたりまえ」の暮らしは「望ましさ」が敷き詰められたようなものではない。支援が生み出した虚構の世界、功利主義の幻想に過ぎない。

 この「あたりまえ」の部分を、目の前の関係性、日常で起こる範囲の出来事を超えたところまで、想像力を広げていく必要がある。

 フィールドワーカーが研究成果をフィールドの外の世界にいる人びとに伝えようとするように、社会運動はやはり現場の外にいる人びとに、現場の窮状を訴えて、社会を変えようとする。両者の違いは、まとめ方や訴え方の水準でしかない。

 前田さんに対する違和感はいつも、それが介助者の社会学であるところかもしれない。

2021年9月23日(木)

 今日も今日とて。

 執着を手放すために必要な理解がもう少しで得られそうな気がする。

2021年9月22日(水)

 やっぱり執着はなくした方がいいなあ。

2021年9月21日(火)

 結局、何も変わらない。僕にできることも、僕がしなくてはならないことも。こうして同じことを確認し続けていることも、何一つ変わらない。

 もともと一人でやらなければならないことなのに、救いにならないものに執着して、苦しみを長引かせてしまったのか。それとも、あまりに深い傷口を癒すためには、それでも必要な回り道だったのか。

 それなら、これは通過点に過ぎない。まだ痛みはなくならないのだとしても、少しずつ力を得ながら先に進むのが定めなのだろう。

 痛みを伴うのは、そこへ向かうのをあきらめていないからだし、時に抱かれる挫折感とは裏腹に、道筋がまちがっていないことを示唆している。

 ああ、そうか。まだ一つだけ理解すべきことがある。

 それはまた苦しみを長引かせる執着に過ぎないのかもしれない。しかし、執着を糧にしてでも、先に進むこともまた組み込まれているのかもしれない。

 理解の果てに答えはあるのだろうか。

 一つのことにこだわりすぎずに気持ちを切り替える。その必要性に気づいて、自分を変えようとしはじめたんじゃないのか。

 今日も明日も苦しくても、時間をかければいずれ越えていくことはできる。たどり着ける未来を信じればいい。現在に囚われなければできることだ。

2021年9月20日(月)

 落ち着くこと。

2021年9月19日(日)

 久しぶりに一息吐いているような日だな。

2021年9月18日(土)

 変えていかなければならないか。

 相変わらず悲しみに囚われているままだ。

 こんなものは捨て去ってしまうべきだし、捨て去ってしまった方がいいのかもしれない。

 他人を信じていないから、こんな感情に囚われているだけなのかもしれない。それはつまり自分を守っているだけで、最終的には自分だけが良ければいいという思いの裏返しであるということ。

2021年9月17日(金)

 更新を忘れていた。

 感謝しかない。これが思いやりか。

2021年9月14日(火)

 腰痛がつらい。

 気持ちを切り替えていかなければ。

 毎週毎週、何かが起こるものだ。

 今日も明日も、昨日の繰り返しではない。

2021年9月12日(日)

 どちらにせよ、このままというわけにはいかないのだから、腹をくくって臨むしかない。

 結局のところ、自分を信じるってことだ。心配しなくても、どうにかするだけの力は備わっている。失敗したって構わない。それでダメになるほど、やわじゃない。

 筋肉痛。金曜日は久しぶりに〈現金〉に行ったから。メモ。

2021年9月11日(土)

 はっ。

 昨日はここの更新など完全に忘れ去っていたな。

 今度は『ホームレスと社会』に目を通してみる。

 1号は2009年10月、派遣村が特集になっている。これは『shelter-less』とは別物だな。論文も掲載されて、雑誌としての完成度は上がっているけど……。

 これは買い揃えてもいいくらいの内容なのでは。連載の「援助技術」というのはまさに、僕が探していた話のように思える。

 しかし、終刊号の特集が「「西成特区構想」への提言」とはね……。

 違うな。そういう連載ではなさそう。

 『shelter-less』時代と比べれば、研究者も研究成果も蓄積されて、雑誌を作る下地が出来上がっているということか。

 実際に目を通すとそんなに面白いわけでもないな。最初の感触は何だったのか。

 「援助技術」というのも、援助技術というよりは、支援の戦略的な構想が述べられていたり、実践報告のようなもので、援助にあたっての技術が取り上げられているわけではない。看板がちょっと違うのではないか。

 田巻さんによる『ホームレス・スタディーズ』の書評を久しぶりに読んだ。文字数制限があるとはいえ、この書評はないだろう……。

 取り上げられているテーマは良いけど、この馴染めなさは何なんだ……。

2021年9月9日(木)

 自然体。

 それって、センス・オブ・ワンダーってことか。

 きちんと自分なりの問題意識を持っていて、状況を見て判断できる人、提案して行動してくれる人、かな。

 何を気にしているのだろう?

 最初からちゃんとできるわけないのに、ちゃんとできないことを気にしている。

 そういう自分を乗り越えるために努力をして、並以上の成果を出しているくせに、まだ不安にとらわれているのか。

 それが性格から、その性格を変えねばなるまい。心がけ一つでできることだ。

2021年9月8日(水)

 強烈に眠い……。

2021年9月7日(火)

 今日は『貧困研究』を総ざらい。

 1号の湯浅誠のインタビューは面白いかもしれない。

 すごい便利だなこの雑誌。

 3号の今野さんと藤田孝典へのインタビューも面白いかも。やはり、現場が問題をどうとらえているかというところか。

 4号のありむらさんのインタビュー。センターを防災拠点にするとかなんとかという話も出ているな。

「この拡大会議と町会と労働者世界の団体がね、一緒になって円卓会議やってる。これはね、この10年かつてない、一番の円卓会議なんですよ。労働者世界と町会世界には大きな溝があったけど、一緒になってやるというビジョンができていましてね。この中に、あいりん総合センターをどうするかという問題もすでに入っていて、例えば、耐震。防災の問題でね、あそこの耐震強度を高めれば、大きな防災拠点になるんですよ。[2010: 105]

 何を勝手なことを言っているのか。「労働者世界の団体」って何だよ。すでに釜ヶ崎の住人不在のまちづくりは民間主導で進められていた。それが西成特区構想までは、大した力の裏付けもなかったから問題にならなかった。理想化され、夢物語のように語られていた。

 雑誌を作りたいというのは、自分の視野に入る世界を広げて、つなぎとめたいという欲求なんだろうな。「派閥を作りたい」というほどではないが、仲間の範囲を広げておきたいくらいの気持ちはあるだろう。自分の関心でどこまでカバーできるか確かめたい、形にしたいという欲求。

 これがわれわれ・・・・がフォローすべき問題なのだと示し、合意を取る過程として位置付けたい。そのような社会的な装置が欲しい。

 まあ、便利ではある。

 「こういう問題を視野に入れておきたい」「こういう問題意識を持っておきたい」という誰かの考えがあって、それを具体化するものとして雑誌編集があるというのは間違いないだろう。自分一人で全部やるというわけにはいかないから、そういうことをやっている人に声をかけて、コンテンツを用意してもらって雑誌という箱の中に収める。

 9号まで見たけど、なんか計量の論文ばっかりだな。それか現場報告か。海外の事例報告、研究動向というのもあるな。

 もっとも僕自身が『shelter-less』や『寄せ場』をそういうものとして見ていた。勝手に権威を感じていて、理解すべき問題が詰め込まれたストックなのだと思っていたのだろう。

 「われわれはこういうことを考えておく必要があるだろう」という自意識の現れでもある。

 特にメモまでするほどでもないまま読み流して17号まで来てしまった。Homedoorの現場報告はいいかもな。釜ヶ崎文脈の野宿者支援から切り離せない支援機構に対する、民間ベースの野宿者支援の成功例として、モデルとして示しやすい。

 20号の「日本における貧困研究を振り返って――これまでの20年とこれからの展望」という座談会も便利かもね。

 21号の特集報告「貧困問題若手支援者・活動家からの問題提起」というのも企画としては興味深い。現状をどのような視線で見て、何をやっているのか。時代の変化と担い手、問題意識の変化を通して、何が発見され、何が引き継がれ、何が失われているのか。

 そうだな、何か刺激を受けたいという欲求はある。何か見つかるのではないかという期待感。お店の陳列棚のようなもの。買うかどうかは別にして、陳列棚のように商品を眺められれば、自分の消費欲求が吟味できる。自分がどんなものを欲しているかが整理できる。欲しければ買えるし、何が欲しいのかを考える手がかりも欲しい。雑誌の作り手にはそのような欲求に答えたいという意識があり、そういう店を持ちたいという欲求があり、冷やかしが過ぎるにしても、僕もそういう客の一人であるわけだ。

 計量的な研究報告が多くなるのは、最大多数の最大幸福、最大公約数的な制度を求められる福祉的・政策的目的意識からすれば自明なことか。

 最新の26号まで見終わった。この前の号から始まった「研究室探訪」という連載の2回目が水内研究室で、これはその場で目を通した。社会学教室が先導した野宿者調査は地理学教室にとっては不満の残るものだったが、そこからの市大地理学の躍進に市大社会学は完全にやられてしまったなという感じ。

 もっとも「市大社会学」なんて、その頃に実質的になくなっていたのかもしれないけど。

 頭痛い。もう寝たほうがいい。

2021年9月6日(月)

 少し時間はあるけど、やる気出ない。単に疲れてるんだろうけど。

 『shelter-less』うちには1号と3号がないらしい。2、4、5、6号と見ていく。

 なんか読めない……。当時もそうだったけど、どう読んでいいのか分からないよ。

 支援のあり方を書いたものを探そうと思ったんだった。「よるべなき街角から」というコーナーでは、各地の野宿者支援活動が紹介されている。9号の金沢さだ子「福祉――閉じかけた窓口へ」は、野宿者と向き合う姿勢について触れられている。

 10号の特集2「居場所―つながり―支えあい」は実践報告。

 うーん、こういうんじゃなくて……。

 36号までは全部ある。これ何号まであるんだっけ?

 36号までっぽい。

 すでに歴史的資料の域に入っているのでは……。17号の本田神父による『偏見から共生へ――名古屋発・ホームレス問題を考える』に対する書評を読んで頭がくらくらした。路上の権利にまったく理解がない。もはや誰がどんな立場でどんなことを言っていたのかを探る言説資料なのではないかという感じ。

 2007年の春号(31号)に釜ヶ崎の住民票消除の話は載っているのに、長居の代執行には一言も触れられていない。それ以降の号にも言及は無さそう。2006年の靭・大阪城公園の代執行のことは取り上げているのに。この辺で何かが変わったのかな。大阪の野宿者支援と言えば釜ヶ崎の話ばかり。住民票消除については、解放会館の名前を出さないように書いている。なんじゃこりゃ。

2021年9月5日(日)

 希望があると信じるために努力するというのにも、ほどがあるだろう。

 『shelter-less』の過去の号のチェックから始めてみるか。

 『shelter-less』の継続後誌の名前が思い出せなかった。『ホームレスと社会』だった。

 あと火曜日にでも図書館に行って『貧困研究』をチェックしようかな。

 あー、何をやっているのだろう。何をやっていたんだろう。何もやっていなかったということだけど。

 自分の関心がどこにあるのか絞り切れるまで、調べようにも調べられないというところはあるとしても、さすがに良くないよなー。

2021年9月4日(土)

 これは結構長引くのかも……。

 はー。つらくても、その都度、気持ちの整理をして、考えて問題解決していくしかないな。1ヶ月前、2ヶ月前、3ヶ月前、半年前、1年前と振り返ってみれば、格段に状況は良くなっているし、その状況改善はまちがいなく地道な努力の反映なのだから、悲観的になることなど、何一つないはずだ。

 ただ、いくら頑張っても、なかなか債務を払い終わらないことがしんどいだけだろう。実際の借金ではないが、多額の借金を返すとはそんなものだろう。落ち込む原因が出来事としてあるわけではないのだから、やり過ごして回復するのを待てばいい。

2021年9月3日(金)

 そりゃそうだ。求めているのは答えだ。他人ではない。

2021年9月2日(木)

 求めているのは答えなのかもしれない。

2021年9月1日(水)

 あー、つらい。もうどこか別の場所に行きたい。

miirakansu

return to top
Copyright (C) 2002-2019 miirakansu All Rights Reserved.