過去ログ
2019年11月


2019年11月30日(土)

 原稿2を提出した。本当につらかった。

2019年11月29日(金)

 カステルは、現状分析は細々としているくせに、対抗的な戦略については単純で楽天的な言い方をする。

 めちゃくちゃ疲れてる。寝るしかできない。

 そんなに寝てないか。

 しかしまあ疲れてないわけないな。もっと疲れているだろう。

2019年11月28日(木)

 今日もスライドの手直しに3時間もかかった。そりゃかかるだろう。

 疲れには勝てない。木曜の午前くらいしか休める時間がないのだから仕方ないか。今週末も休めないし。

 今日もつらい。

 カステルのフローの空間の整理を読むと、ルフェーヴルの書いていることはもう少しわかりやすくなる気がする。ルフェーヴルはなぜあんな曖昧な書き方をするんだろう。探り探り書いているからなのか、何か含蓄があるのか。

■原稿2 #19

 ようやく書けた。ひたすら苦しい二ヶ月だった。

2019年11月27日(水)

 頭回らない。フラフラだ。

 どういう問題意識なのかよくわからない。

 自選論文集だったのか。

 とりあえず8章を読めばいいのでは。

 都市社会運動の可能性っていってもなー。日本でそんな議論できるのかな。

「われわれは、社会構造の一要素として空間を定義することが必要である」[Castells 1999=1999: 255]。

 この辺に書いてあるっぽいなー。

社会理論の観点からみると、空間は、時間分有的な社会的実践の物質的支持基体である。ここで、いかなる物質的支持基体も、つねに象徴的意味を帯びていることをとくにつけ加えておく。時間分有的社会的実践ということでは、時間的に同時生起するそれら実践を空間が一つに結び合わせるという事実を指すものとする。空間に社会とかかわる意味を付与するのは、この同時性がもつ物質的接合関係である。[前掲: 256]

 用事を済ませに出かけたら、なんだか気分が悪くなった。ゆううつ。

 こんなやり方は他人には理解されない。ただ結果だけを形にすればいい。そのことは織り込み済みなのだから、こういう気持ちとの付き合い方も研究のうちだ。

 どこから自分の力を伸ばしていくのかは人によって違うし、よくある道もあれば、あまり知られぬ道もあるだろう。

 ああ、なんか嫌な気持ち。

2019年11月26日(火)

 惑わされるな。今必要なものをとことん探っていけばいい。そのための力はすでに授かっていると信じるのだ。まだ不十分なら、これから伸びていく。

 排除を読み解くとは理論をふまえていれば、そんな簡単なことなのか。理論的な視点から見れば明らかであっても、それだけでは不十分だから人は排除に巻き込まれるのではないか。

 まったく時間ないんだから、今悩む意味ない。

■薬物依存 #2

 タバコに「吸えば吸うほど気持ち悪くなる」特性があるなら、アルコールにも同じような依存性の効果があるのかもしれない。「今飲んでもおいしくないだろう」と思いつつ飲んでみて、実際おいしくなかったり、飲んでいる間は酔えても、次の日に響いたりする場合はよくある。こういう場合、依存性から抜け出して、健康体を取り戻すことにシフトした方が絶対にいいと思う。

 しかし、依存症は「ほどほどの付き合い」が成り立たないことになっている。そうなると究極的には断酒するしかない。自分は薬物依存体質だと自覚して、いっそ酒を丸々やめるのもありといえばありかもしれない。もしかするとその方が楽しい人生であってもおかしくない。

 理論家はそんなに世界のことが見えているのか。見えて、それでどうしているのだろう。

 お手軽メニュー。ミルフィーユチーズ鍋。ハヤシライス。牛丼、親子丼。ときどり。かぼちゃのおやき。シチューオンライス。ポークチャップ。たこ焼き。

 必ずしもお手軽ではないが子どもも文句を言わないメニュー。鶏胸肉のピカタ。ハンバーグ。ぎょうざ。

 他人の理論を理解するというより、自分なりの理論的仮説をイメージしながら読み進めていくのがいいのかもしれない。

 カステルが情報科学技術革命を重視したというのはもっともなことだが、いいかげんそれだけで済ますわけにもいかないだろう。それに加えて、そのような社会体制下にある結局は生身の人間の理解が欠けている。「フローの空間」「場所の空間」という枠組みは空間を軽視するものでもある。

 理論の背景には理論家が見た具体的な風景がある。僕は「フィールドワーカーとして理論を読む」というつもりで読んでみよう。

 解説を読む。カステルこんなこと言ってたのか……。『都市・階級・権力』から呼んだ方がいいかな。

2019年11月25日(月)

 やる気がまったく出ない。

 差別発言の弁明をTwitterで済ませようとする姿勢が問われる社会になって欲しい。

 発言する場のルールのないところで、不特定多数に受け入れられたことを正統性の根拠にしようとする。「市場原理」といえば聞こえはいいけど、「結果オーライ」くらい意味のない言葉だ。

 やはりタバコはダメだ……。吸えば吸うほどしんどくなる。

 何も悲観することなどないのに、何度となく惑わされる。

■薬物依存 #1

 昨日は寄り合いでなんとなくもらいタバコをしてしまって、そのタバコが軽いやつだったので、きちんと吸いたいと思って、帰りにコンビニで昔吸っていたショートホープを買った。当時二箱の値段が一箱になっていた。

 その夜は一本、二本、三本吸ったのか。酒が入っていたせいもあって、久しぶりなのにむせもせず美味しく吸えた。しかし、イタリアでもらいタバコで吸った時と同じように、吸った後の口の中の気持ち悪さはすごかった。帰宅してから寝るまでも吸いたい気持ちがあって、とうとうスリップしてしまったかと思う。今夜わざわざ吸いに出るようならもうやめられない、今すぐ残りのタバコを捨ててしまえば、まだ何とかなる分かれ道だと悩むが、それでも吸いたい気持ちがあった。

 今日も昼まで寝ていて、そろそろ仕事しないといけないと昼前に起きて、まずタバコを吸うことにする。甘い考えだなと思いつつも、買った一箱だけ吸い切ってから考えようと。吸い終えた後のフラフラする足取りと頭痛にデメリットを感じつつも、昼日中から気分転換できるドラッグに惹かれる。

 それから仕事がひと段落しそうなタイミングで吸いたくなり、その後にいらっとすることがあって吸った。

 そろそろ夕飯を作りに帰らないといけないが、帰る前にあと一本吸いたい気もするが、今吸ってもおいしくないだろうなという予感がする。こういう「おいしくないと分かっていて吸ってしまって後悔するのがもう嫌だ」と思ったのが、前にタバコをやめた理由だった。買い物をして帰宅するともうゆっくりタバコを吸えるような時間の余裕もなかったので、先に調理を済ませてしまうことにした。急ぐべき用事を優先できるなら、タバコとの付き合い方も考えられるかなと思った。

 それで夕飯を先に作る。わりと早くできたので、じゃあ一本吸ってもいいかと吸いに出る。

 ところがこの一本がまったくおいしくなくて、気持ち悪さの方が圧倒的に優っていた。「ああ、やはりタバコというのは吸えば吸うほど、まずくなっていくんだなと痛感して、残りのタバコを捨てる決意がついた。そして、出先のコンビニのゴミ箱に捨てた。

 またスリップしないとも限らないが、とりあえず今回はやりすごせた気がする。昨夜のような吸いたい気持ちは無くなった。

2019年11月24日(日)

 ひと昔前のカステルの本を読んでいる場合ではないような気がする。

 ジェントリフィケーションと空間論とあるけど、そこに焦点化していいのだろうか。他に理論的な枠組みを探した方がやりやすいんじゃないかという気も。

 ジェントリフィケーションや空間論をやるというより、それらの穴を探して、その穴を埋める部分を理論的、方法論的に詰めるというふうに戦略を立てて行った方が現実的なんじゃないか。

 もしかするとこういう発想自体、社会学的ではないのかもしれない。

 どう過ごしてもつらいのは変わらないだろう。

 ジェントリフィケーションや空間論は背景にあるもので、理論的に詰めるとすれば相互行為論みたいなところに力を注ぐべきなのかなあ。単に査読を通すための論文を描くためにやるのだとしたら。

 他の人間と比べて、僕が理論的に頭ひとつ抜け出せる領域があるとすれば、ジェントリフィケーションや空間論ではなく、そこだろう。領域として、ということもあるが、そこを語りうるだけの、理論を越えた経験値としても。

 かと言ってオートエスノグラフィーの議論に巻き込まれると厄介。一線を引かないといけない。

 孤独感を抱えているようだ。

 どうしようもないところまで来ているのか。

 生き方は変えられないよ。

 そう、どのような不条理も起こりうる限りにおいて必然である。ただ受け入れればいいだけの話だ。

2019年11月23日(土)

 納得したくない気持ち。

 境界を越えて思考する振幅にフィールドワーカーの魂が宿るなら、何も。

 空中戦をやっていてもガス抜きにしかならない。

 何の話かと思ったら就職の話だった。

 疲れているだけなんだ。疲れていないはずはないのだ。

 背負うものは一つではない。歩みを進めていくことに変わりはない。

2019年11月22日(金)

 授業どうしよう。もう根本的に作り替えてしまいたい気分だ。

 今期はもうこのまま行くしかないだろう。

 この燃えたぎる苦しさは 明日も続くのか

 わからない。僕が過敏に反応しているだけのようにも思える。歯車が合わない。

 噛み合わずにいるのは些細なことなのに、ずっと小波が立って、明るくても水底が見えずにいるかのようだ。

 次に僕がやらなければならないこと。もっと広く見ていかなければならない。過去についても、理論的にも深いところまで。

 一つひとつ、気づきをもたらすためにこの苦しみがあるとして、いつか視界の開ける場所にたどり着ける日が来るのだろうか。

2019年11月21日(木)

■原稿2 #18

 本稿が見てきたのは、生活の領域から労働の領域が排除される過程である。「隠蔽された外部」とはまさに、労働力として集約された存在が、生活の領域から隠蔽された結果として生み出されるものであった。しかし、そのようにして排除され、隠蔽された労働の領域が都市空間に凝集されて現れた時に、生活の領域とも重なり合うものとなったのが寄せ場であり、労働者の街である釜ヶ崎であった。その釜ヶ崎から再度、労働の領域を排除し、不可視化する過程がジェントリフィケーションであり、まちづくりというわけだ。

 結論のところ、何をどう書いていったらいいのかわからないので、とりあえず思いついたそれっぽいフレーズを並べてみた。

 しかし、寄せ場研究、都市下層研究も、生活の領域と労働の領域の相克の向こうへ到達できたわけではなかった。寄せ場の文化構造、寄せ場労働者の意味世界を対抗的に提示することは、排除と向き合うための準備段階にはあるものの、それだけでは相手と組み合うことはできない。ここには都市社会学や地域の社会学と労働社会学といった、本来便宜上のものでしかないはずのジャンルの分類による溝もまた広がっている。筆者もまた、寄せ場の変容を見ながら、下層労働研究の発展を期したつもりで、都市社会学を労働社会学に置き換えることで、下層労働者をめぐる状況の一部を取りこぼしてしまっていた。

 排除と組み合うためには、関係のなかに分け入っていかなくてはならない。そして、関係のなかに分け入っていくことは、場所(空間)に依拠することでもある。もっと正確にいうならば、依拠する、しない以前に、関係を取り結ぶところには必ず場所があり、その場所とは、関係を取り結ぶ人びとに影響を及ぼすものであるとともに、取り結ばれる関係によって影響を受けるものでもある。

 もちろん、研究を発展させていく手立てとして、便宜的なジャンル分けが有効に働くことは確かである。しかし、現実の問題と向き合うときには、ジャンルを越えてその解決を模索する姿勢が根本にあらねばならない。

 無理に書くのやめよう。

 それはフィールドワーカーとしてのあり方にかかわっている。単なる現地調査がフィールドワークなのではない。調査者として、その場に身を置く、その場に身を置かねばならないことを、必然性として意識するところから、空間をとらえる視座が生まれてくる。多様な視点、矛盾しあい、対立するものと同時に向き合うことは、それらを併存させる場所、空間の特性によって可能になる。

 重要なのは、空間を語ることではなく、空間で語ることなのだ。

 もうちょっと丁寧に整理した上で、空間については慎重に書かないと危険だな。

 ジェントリフィケーション、都市空間の商業化、消費の論理の浸透。

 結論のところはこんなことを書いてもいいとして、地味に本論をまとめた文章もないとわけわからないな。


 答えは見えない。答えはまだこの世界に存在しない。だから探っていく。

 つかれた。付き合いきれん。

 やはり今週も繰り返し繰り返し落ち込みを迎えるのか。

 状況は悪いのかもしれない。しかし、こんなものは状況の悪化のせいではないだろう。悪い状況なんていくらでもあった。しかし、もう活路を見出そうともしていない。放棄してしまっている。

 放棄というとまた違う気がするけど、なんなのこの感じ。

 ただ状況が悪いだけなら僕はこんな気持ちにはなっていない。

 それでも書かなければならないこと、取り組まねばならないことは僕のなかではっきりしている。たとえ、これがどうなったとしても、僕は次の課題を見つけていけるだろう。ただ、今何が起きているのかだけがわからない。

2019年11月20日(水)

 寒い。

 得体の知れないこの思い。何をどう感じているんだ。どこに向かうんだ。

 この感情に答えなど無いのかもしれない。答えはこれから作っていくもの、これから知っていくもので、その道標としてある。もともとそのようなものとして、とらえてきたのではなかったか。

 結局こんな時間だな。

2019年11月19日(火)

 本格的にあかんかも。休まないとやばい。

 眠気を作り出すメラトニンは、元気物質のセロトニンから生成されるらしい。お酒を飲むとセロトニンが減る。メラトニンは日光を浴びると生成されるとテキストにはあったが、まずセロトニンが生成されるのではないか。

 泣くと涙と一緒にとストレス物質が一緒に排出されるらしい。苦しければ泣いた方がよい。

2019年11月18日(月)

 疲れがたまってやる気が起きない。

■原稿2 #17

 やっと終わりが見えてきた。あとは結論部分だ。金曜日の夜に死にそうな思いをしながら書くだけだ。

 つらい。泣きたい。何でこんな悲しい思いをしながら書かないといけないのか。

2019年11月17日(日)

 第5章読んだ。

 イディオムと操りの力。読んでいて、これはカテゴリカルな排除のプロセスそのものではないかという気がした。確かに言説そのものには意味がなくて、排除の力学を作用させるために、共感が利用され、言説が弄ばれる。それを「操りの力」などと称賛して良いのか。

 あるいは、これを強者に対抗するための、強者に対する排除、権力に対抗するための排除であるとして肯定的にとらえると、こういうとらえ方になるのか。確かに都市のコモンズにしたって、弱さを盾にした一種の居直りを、共感を獲得していくことで転倒する試みであると言えなくもない。

 現実には「地域エゴ」みたいなレッテルを貼られて、バッシングを恐れた転向が起こる可能性がある。理論的には構想できても、この視点を実際のフィールドワークにおいて、説得力のあるものとして提示できるのか。これはもう、フィールドワーカー自身が操りの力を発揮し、共感の得られるイディオムの構成を導き出せるか否かという試練になってしまうのではないか。

 操りの力が弱者に向かうことだって考えられるわけだからなあ。

 いつか悲しみもなくなる日もあるか。そもそも何が悲しいのかよくわからない気もする。

 小田亮の書評でも触れられているけど、やはり6章は違和感あるよなあ。5章の後に来るのがこれかという感じがするし、20年前に書かれた5章がやはり秀逸なんだな。

 調子悪い。がんばれない……。

■原稿2 #16

 何とかがんばって原稿を書き進めてみて、この路線でこの節は書けそうだなという見通しがつきそうだが、書き通す勢いが出てこないので、今日はもう休むことにする。

 ここは一つの節で二つの項にするつもりだったが、この分量だと、節を分けた方がいいな。

 なかなか書けないのは、やはり整理しきれていない部分、把握しきれていない部分があるのと、それを整理したり把握したりする時間的な余裕がないせいだなあ……。つらい。

■センターの日 #1

 「センターの日」のしんどいところは、関係の萌芽が見られても、それを思うように伸ばせないところにあるのかもしれない。確かな手応えがあるのに、一瞬一瞬の幻のように遠ざかってしまう。そのもどかしさをお互いに感じているのが「センターの日」ではないかと思う。そうした関係のあり方は一通りではないだろうし、「センターの日」だけでもないだろう。釜ヶ崎のなかに、路上に形成されるものだ。

 『日常人類学宣言!』読み終えた。疲れた。

2019年11月16日(土)

 まだ飲むんじゃなかった……。

 本章においては、日常性に依拠して世界を展望する人類学が必要とする二つの認識論的問題を検討してみたい。一つは、この立場が想定するフィールドにおける人間についての認識論(人間観)であり、もう一つは、日常人類学の知識に関する認識論である。人間観といっても、哲学的に人間の原存在から考察しようというのではない。フィールドワークに従事するなかで調査者の五感で感じた人間認識が、これまで社会科学や社会理論が前提にしていた人間観とずれている点があり、それを手がかりにして、あくまでもフィールドから発想した人間認識の議論を試みるのである。この人間認識の考察は、必然的に、現場で紡がれる夥しい数の語りをつなぐ作業にたどりつく。それは、これまで首尾一貫性や整合性、あるいは真理を基準にして取捨選択され整除されてきたものだ。しかし、人間認識の新たな展開は、こうした語りを整序し理解する母胎としての知的枠組そのものも更新してしまう。本章においては、生活世界のなかで生成され日常世界で活用されている知的枠組をとりだして、生活知として分析してみたい。[松田 2009: 147]

 フィールドワークの位置づけが弱い社会学では、こういう視点自体にリアリティが持たれていない。

 しかし、そういう僕も、この後に続くであろう議論にはついていけないものを感じていた。

 この道はどこへ続いているのだろう。


松田素二、2009『日常人類学宣言!──生活世界の深層へ/から』世界思想社。

2019年11月15日(金)

 ローティ読める。

 実際に形にできたことと比べれば、僕が苦しんでいることなど、コップのなかの嵐に過ぎないか。

 今日まで生き抜いてきたことそのことを共通体験として肯定する共同性の可能性などというものが成り立つだろうか。

 同じだけとは言わぬまでも、苦しみもせずにたどり着ける真理があるものか。何一つ思い通りにいかないとしても、正しい方へ向かって歩みは進んでいる。

 そうした共同性の力を実体化させる鍵となるのは僕たちなのかもしれない。僕たちは今日まで生き抜いてきた人たちのことを知っている。日々の地道な活動の中で出会うこと、知ること、出会い続け、知り続ける主体がいることで、そのような生がつながれていく。そのような生をつなぎ続けていくことが、共同体の外延に実体を与えるのではないか。

 実践コミュニティの議論は空間論に活かすことができるのだろうか。

2019年11月14日(木)

 そんないい話ではない。

 「何もかもうまくいっているのかもしれないが、何一つ思うように進まない」、あるいは「何もかもうまくいっているかのように見えるが、何一つ思うように進まない」か。

 「何もかもうまくいっているのに、何一つ思い通りにいかない」でもいいような気がしてきた。

 あれー? 『日常人類学宣言!』ものすごく重要なことが書かれているのでは?? こんな議論にまさか僕が足を踏み入れる時が来ようとは……。

 普通に暮らしていたら使わない筋肉まで使っているような状態なのかもな。

 ならばこの筋肉を鍛えて普段から使えるようにしてやろうじゃないか。しんどいけど。

2019年11月13日(水)

 自転車の修理で一日が終わったような気分だ(17:01)。

 何もかもうまくいっているのに、何一つ思い通りにいかない。

2019年11月12日(火)

 チョコだと思って買ったら飴だった。

 ビラを2つ書く。

 『アルジャーノンに花束を』を読み終わる。「つながりがないだと? あるじゃないか、アルジャーノン」との関係はわからなかった。

 こういう状態を理想だと思っていたんじゃないのか。それならここからまた始めればいい。もう始めているだろう。

 どうせ限界は見えていたのだから、その先を見るためにこうなる必要があった。

 またこんな理想を燃やして明日にはまた壊れるのだろうか。しかし、繰り返しに意味を見出してもきた。

 ああ、そうか。『アルジャーノンに花束を』を読み終えて、人が何者かであることなど、幻想にすぎないのかもしれないと思えたのかもしれない。自分が何者かであり、何者かであり続けられると安定して信じられる人もいるのかもしれない。しかし、自分が信じたい自分、肯定的に評価できる自分の実体など、どこにも存在しない。明日、明後日にはもう二度とそこへは戻れないような状況に陥るかもしれない。

 それなら、何の慰めもない、何の救いもない状況でも、今できるベストを尽くすしかない。生活と学問とを分けられない状況を生き抜いてみせよう。そこから新しいものが生まれてくる。そのようなことを考えていたら「『日常人類学宣言!』って何だったのかなと、ふと思って本棚から引っ張り出して読み出したんだった。

2019年11月11日(月)

 日付変わっていた(01:05)

■原稿2 #15

 違うな。

 どこから語りはじめればいいのかが、まだ見えていない。

 まちづくりを通して地域から労働が排除されることが言えればいいかと思っていたけど、どうもそういうわけではなさそうだ。

 依然としてイデオロギー的な排除の構造にからめとられている。

 空間論につなげないといけない。労働者の姿が見えてくる場所。野宿者や生活保護受給者と地続きで労働者の姿をとらえるまなざしが成立する場所と関係性。潜在的な層の厚みを可視化する場所でもある。

 関係を持つことで見えてくるものがあり、そうした関係を成立させるための場所がある。場所と関係は、それが偶然であれ必然であれ、同時に成立するものである。そして、そこから見えてくるものに気付くためには、まずは空間に入っていかなければならない。入っていった空間で、場所と関係によって開ける風景を捕まえていくことが空間を論じることではないだろうか。

 「隠蔽された外部」で示されていたイデオロギー構造が、現在の釜ヶ崎においてどこに作用してどのような帰結を生んでいるのか。

 「隠蔽された外部」をアップデートするための取り組みが、かつての「隠蔽された外部」のなかで行われている。

 着地点が見えない。

 思い切って「センターの日」のことを真正面からぶつけるしかないんじゃないの。

 「センターの日」の位置付けをきちんと論じられるかどうかが肝になるのだろうか。

 西成特区構想に至るまでの釜ヶ崎の変容を論文の背景として、まず提示し、それを受けて、これまでの都市下層研究が寄せ場をどのようにとらえ、研究してきたのかを振り返るとともに、現在起きている出来事をいかに読み解くべきか、その視点を示す。そのうえで、釜ヶ崎のジェントリフィケーションの展開過程と、「センターの日」の取り組みの内状とを通して、まちづくりを介して作用する排除の構造とメカニズムを明らかにする。

 研究の目的をもう少しシンプルに言えないか。

 本稿の目的は、釜ヶ崎で進行するジェントリフィケーションの分析を通して、「地域」の枠組みが都市下層を排除する構造とメカニズムを明らかにするところにある。

 少しWordに落としてみた。

 また同じような文章を書かないといけないことが苦痛。書けなくはないだろうが体力が続かないだろう。

 何とか吹っ切って論文を書くことはできるようだ。しかし、ひと段落したところで、やはり揺り戻しはある。

 風邪も治らない。つらい。

2019年11月10日(日)

 答えの出ないまま日々は続いていく。

■原稿2 #14

 問いはシンプルに。「大阪の寄せ場・釜ヶ崎の変容を、ジェントリフィケーションの視点から分析し、現代日本社会における下層労働のゆくえを論じる」?

 シンプルにというなら「大阪の寄せ場・釜ヶ崎の変容を通して、現代日本における下層労働のゆくえを論じる」の方がシンプルだろう。

 書けそうなのに書けないの繰り返し。

 地域という閉域。空間は揺らぎのあるもの。安定したものと想定された「地域」。

 んー? 分析枠組みできたのかな。

 コンディションの程度を問わず、それまでの試行錯誤すら断ち切って、深く沈み込むような思索にいったん入ることができれば、それほど難しいことではないのか。

2019年11月9日(土)

 気力がない。

 今何を考えてもダメだろう。

 一時的にでもいいから、もう解放されたい。どうすれば解放されるのだろう。無心にやるべきことを前に進めていたい。

 簡単だ。少しずつでもいいから考えないようにすればいい。

 真に受けなければいい。期待をしなければいいし、もうあまり期待もしていないように思う。観察と分析の一部だと思えばいい。

 この風邪が治れば何か変わるかな。

2019年11月8日(金)

 面白くもなんともない。

 なんとか昨日の記録をまとめおえた。

■新聞 #25

 もうしんどくて新聞読む気がまったく起きない。文章が頭に入ってこない。明浄学院の話とか、近所だし、気にならないでもないが、読み込む気になれない。

 「余録」とか、短いし、導入が面白いから読んでしまうけど、読み進めるとしらけるけど、まあこういう部分も、長文読む気力のない人向けのパーツなのかなとか思う。

 「見出しだけ読む」というのが最低ラインだと思うが、見出しの意味を理解するのすらもう苦痛だ。

 新聞紙を広げるのがもはや苦痛。iPadで読もう。

 朝刊夕刊合わせてまともに読んだのは夕刊に載っていた、バブル崩壊後に管理放棄された淡路島にあるという観音様の塔の記事だけ。なんでこんなもんニュースになるんだろうという気もする。野宿者の死体が見つかったとも書かれている。「ホームレス」ではなく「野宿者」なのはなぜだろう。

2019年11月7日(木)

 これが「裏切られた」という気持ちなら深く傷つくのは当たり前だ。

 障害の受容過程を示したモデルがある。否認、怒り、逃避、受容。3ヶ月余りの長い否認の段階を経て、怒りの段階に差しかかったということなのだろうか。

 「ショック期」「否認期」 「混乱期」「解決への努力期」「受容期」というのもあるな。これでいうと「混乱期」ということになる。受容過程の定義にもバリエーションがあるようだし、「ショック期」「否認期」「混乱期」に起こることや思考は重なり合うのが実際ではないだろうか。

 医療や介護分野にある危機理論とか危機モデルというジャンルのようだ。

 しかし、この感情に名前をつけるべきではないのかもしれない。

 わざわざ傷つきにいくのはやめようと思いはじめてるところは「解決への努力期」の兆しであると位置づけられるのかな。

 ちゃうやろな。

 援助者のためのモデルに多くを求めるのもよくないだろう。

 

2019年11月6日(水)

 体調が悪かったらしい。これは治るまで数日かかりそう。しかし、休むに休めない。

 何度折り合いをつけたつもりでも違和感に襲われる。その違和感がなくなるまで折り合えるところを探すことで真理を求める。

 記録をとって分析することが研究者の研究者たる所以なのだとすれば、究極的には研究者は無私でなければならない。記録は嘘をつかない。記録に嘘をつかせてはならない。記録に嘘をつかせないことは記録を扱うものに課された前提である。そうでなければ記録そのものが記録としての意味を失う。しかし、そうすることで記録はさながら意思を持った主体のようになる。ゆえに記録を扱う主体であるはずの研究者は、半ば記録と一体化し、無私の主体となる。

 公平無私などというのは、無私であることが公平さに通ずる一つの条件であるからだろう。

 しかし、私が無くなるわけではない。無私であろうとする意志の裏に、誰にも気づかれることのない私がいて、どうしようもない孤独感を抱えてる。

 つまりは、研究者であることの何たるかを知るためにこの出来事はあったというのか。

2019年11月5日(火)

 どういう状況なのか。何が変わったのか。何が見えるようになったのか。僕にできるのはそうやって理解することだけだ。

 甘っちょろい理想でやっていられた時期と、大きく状況が変わったうえに、具体的な人間関係に振り回されるようになった現在と、対照できるような状況が重なりあってようやく見えてくるものがあるはずだ。

 そうか、自意識に目を向けるためにこんなことをしているのか。

 大変苦しい。

 なんて酷い方法論なんだろう。感情の振れ幅で状況を理解する手かがりを得ようなどと。

 旅行中にたまった新聞を読む。

2019年11月4日(月)

 また酷いことになったなー。

 結局どう思えばいいんだ?

 とりあえず体力回復してから考えればいいんだろうけど。

 まあ何にしても乗り越えて進まないといけないことだ。

 すべて僕が選んだことだ。自分の感情をデータに織り込んだ理解を目指す以上、ときに苦悩を抱えることもある。

 自分の気持ちまで利用しているのは自分なのだから、それこそ自業自得だ。

 それも思ったな。結局、僕は西成公園のときと同じことを繰り返している。また同じような失敗をしている。飯場の調査のときもそうだったかもしれない。違うのは、今はそれすらも研究の糧にするつもりでいることと、そのための経験も積んできたということ。

 ある意味、骨の髄まで研究者であろうとしていると言えなくもない。しかし、こんなことは誰にでもできることではない。「誰にでもできることの大切さ」とは、だいぶ無責任なことを言ったものだ。

2019年11月3日(日)

 更新飛ばした。

2019年11月1日(金)

 荒れている。荒れているかいないかで言ったら荒れているな。

■原稿2 #13

 全然書けないな、この原稿……。

 まとまった時間が取れないというのは困ったものだ。

 記述の基軸を定めないことには書き始められない。

 「地域の変容」というようなテーマだから、寄せ場であり、日雇労働者の街である釜ヶ崎の話をすればいいはずだ。そして、基本的には折り重なって釜ヶ崎を取り巻く社会状況と政治状況を読み解きつつ、「センターの日」を媒介にして、労働と空間について問題提起する。

 大体、問いをシンプルに表現できればあとは簡単なものなのだが、ここを焦ると逆に袋小路に入り込んでしまうからな。

 「労働と空間について問題提起する」という部分。空間は生活と労働で切り分けられるから、両義的な存在は排除されやすい。しかし、両義的であるからこそ、そこは多義的な場所になりうる。

 となれば、空間を均質化する過程としてジェントリフィケーションを最初に持ってきた方がやりやすいだろうか。

 結局、これまでに語り逃しているのは「都市のコモンズ」の実体をどうとらえるかというところ。ここを一歩進めなければならない。

 どうせなら、議論をふくらませるためのネタを新しく組み込みたいところだが、それは原稿3の内容を流用すればいいのかな。

 街の名前、表象についても整理してもいいかもしれない。もともと「原稿3を論文調に書き直せば、原稿2は書けるんじゃないか」と感じたのは、書き出しの呼び名の部分だった。原口論文もいくつか組み込めるかもしれない。

 「地域という神話」に自己完結しようとする空間に裂け目を入れる、すなわち都市のコモンズを創出するためには、その空間に生活と相反する要素を持ち込む必要がある。それが労働なのではないか。あるいは、生活に欠けているものを持ち込むこと。この点はロワー・イーストサイドの事例をもう少し踏み込んで分析する必要があるか。

 縮小されようとされまいと、労働者の街であることに徹底的にこだわって抗う必要がある。野宿者や生活保護受給者を労働者から切り離して語ってはならない。この点は野宿者における都市のコモンズに関連する話でもある。野宿者も働いている。そして、野宿者にとっての都市空間は生活の場でもある。労働と切り離して階級を語ることなど不可能だろう。

 ジェントリフィケーション、階級闘争、都市のコモンズと来て、階級闘争の拠点である都市のコモンズの性質を問う。

 ならば、この論文の問いは「階級闘争としてのジェントリフィケーションにおいて、その拠点となる都市のコモンズの性質を明らかにするところにある」ということになろうか。

 都市社会学批判も組み込んでおいた方がいいが、どう接続するか。地域と空間の視点として議論に盛り込むか。樋口論文と西澤論文をうまくミックスさせる必要がある。樋口論文では、領域横断的な議論をするために空間に着目する必要性を説いているが、そもそも空間をどのようにとらえるのかには言及していない。2012年の西澤論文では、貧困と社会的排除を空間論においてとらえる意義が提起されている。西澤論文では社会的排除というカテゴリカルな関係性を読み解く分析枠組みが提示されているから、複数の主体間で働く社会的な力学をとらえていく道筋を読み取ることができる。

 西成特区構想が地域に焦点化された政策であること、ゆえに日雇い労働者の街において、労働がまちづくりの手段的にとらえられ、中身のないまま縮小の方向やスケジュールのみが定められていってしまうこと、「地域という神話」に縛られたまちづくりは、都市のコモンズとしての釜ヶ崎の性質を必然的に縮減してしまう。防犯カメラを増やし、ゴミを片付け、「あるべき街」の形式だけを強めていく。

 また、まちづくり検討会議は、その存在自体が釜ヶ崎のなかにカテゴリカルな排除を持ち込む装置として機能している。地域と労働を切り離す、階級闘争を無効化するための装置ともなっている。

 階級闘争の主体としての釜ヶ崎の労働者はすでに層としての厚みを保てないのかもしれない。しかし、そこに階層の広がりがあることを見逃してはならない。この階級闘争の担い手たる主体は釜ヶ崎という「地域」の境界を越えて広がっている。ただ、その主体が釜ヶ崎という場所を見出して集結できるかどうかが問われている。

 ジェントリフィケーションが階級闘争であるなら、階級闘争はジェントリフィケーションにとどまるものではないし、ジェントリフィケーションに類するような力はすでに都市空間全体に入り込んで作用していると理解すべきだろう。

 都市を空間として理解するとは、どういうことなのか。都市を空間として理解するとは、固有の場所における主体間の行為をとらえる視点であろう。そのような行為は場所に備わる機能としてとらえられるようなものではない。空間としての理解は、その場所に関わる主体によって見出されるものに他ならない。したがって、空間を問うことは、同時に場所に向き合う研究者の主体を問うものでもある。主体なき研究者に空間は理解できないし、空間をとらえるには研究者自身の主体をいかに織り込むかが問題となる。

 空間は、まずは矛盾し合うものを共存させる器であり、異質な者同士の相互行為から、新たな主体のあり方を創発する場所として固有の性質を持つようになる。

 それは、社会の動態をとらえるための格好の素材ではあるが、変化そのものであり、変化の兆しでもあるような動態をとらえるには、それを見出す主体が必然的に求められる。

 都市と労働を横断してとらえる主体的な位置を、僕はかつて放棄して、野宿者運動を経由して空間を意識するようになり、センターという場所で改めて成立させようとしている。

 労働社会学と都市社会学の分断を接合する必然性があるとすれば、それは具体的なフィールドの人びとと向き合うからだし、人びとと向き合うのはまずはいずれかの空間であり、そこを固有の場所として見出す主体となるからだろう。

 具体的な事例はどこまで入れればいいのかな。西成特区構想の展開過程まではいいとして、「センターの日」については、どこまで書いていいやら。あまり多くは盛り込めない。他人事のように大まかな経緯だけ紹介するか。「他人事のように」語りつつも、やはり自分がどう関わっているのかも組み込まないとダメだよな。まあでも、具体的な事例はこの二つしかありえない。原稿1と原稿3をこの原稿でもう一歩前進させるという感じか。

miirakansu

return to top
Copyright (C) 2002-2019 miirakansu All Rights Reserved.