2023年11月29日(水)
フィールドワーカーの倫理ということだ。
2023年11月28日(火)
それからでも2年かかった。つまりは、あきらめることもなかった。
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境遇がどうあれ、達成していくべき課題は変わらないんだな。そう思っていればいい。たとえ他の誰一人そうは思わなかったとしても。
フィールドワークとは個人としては世界と向き合うことであり、それは本来人として当たり前のことなのだから。
2023年11月26日(日)
状況が感性を形成する側面もあるか。
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そして、与えられれば拒む理由もないということもあるだろう。
そういう意味では、キャンバスそのものに自ずと備わった特性もあり、その特性によってキャンバスの用途が選ばれる側面もある。
2023年11月25日(土)
飯場日記形式の文体で詩を書くような気持ちで物語を編むことはできるかもしれないな。
そうか、飯場日記はそもそも出来事を物語るための文章か。
2023年11月24日(金)
もし野宿者運動が、ある特性を持つ人たちの集合であるなら、それは変革の契機でもあろうが、それ以前に生き抜くための戦略を要するし、そのことに自覚的であらねばならない。
さもなくば、身勝手な善意と意地の寄せ集めの中で潰れていくだけだろう。
そして、僕がその集合に、たとえ周縁的な形であれ関わっているのだとしたら、自分のためではないにしても、自分の仕事として引き受けなければならないことはあるのかもしれない。
2023年11月21日(火)
iPadキーボードつけたらすごく仕事しやすい。火曜日はキーボードつけて持っていこう。
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揺れ動きがなければ気づくこともできない。しかし、揺れ幅が大きすぎても何が起きているのかを見失ってしまう。
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時には自分を守ることも必要だ。弱さを受け入れることで苦しみをともなうとしても。
過ちを犯した人は、余裕を取り戻さなければその罪と向き合うこともできない。そうなるのを待たなければいけない時もある。人は変われるのだと。
罪を犯し傷を負った人がすぐに変われなくても責められない。信じてやらなければ待つことはできない。
信じることは自分のためでもある。たとえ傷付けられても、その関係からこれまでもたらされたものもある。関係性を正否で切り捨てることはできない。ここまで自分を連れてきてくれたのは、自分自身であるとともにその歩みをともにした誰かがいた事実は否定できない。否定してしまえば、この先の道をまた同じように否定される定めのものにしてしまう。
自分の中にも変わらなければならない部分がある。それは相手のためではない。相手のことも排除せずに生きられるようになっていない。人はまちがいを犯す。まちがいを犯すから気づくこともできる。まちがうことはお終いではない。まちがいを終わりにしてしまえば、気づき自体を歪めてしまう。
自分にとってもそうであるように、他人にとっても、両者の関係においても、まちがいは終わりではないのだ。
しかし、自分を守るために距離を置くことはあってもいい。それは逃げることでも卑怯なことでもない。
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境界を越えて思考する振幅にフィールドワーカーの魂は宿るのだから。
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そうだな。僕個人のことで言えば、何も恨むようなことはない。誰からでも、何からでもなく、与えられたものは僕の手の中にあるのだから。
一番欲しかったものを手に入れた。それをどう使うのかだけが問われている。
2023年11月19日(日)
正しい答えが決まっているわけではない。しかし、世界と向き合うことを知らなければ、答えを模索することもできない。
2023年11月15日(水)
今度の「センターの日」、食べたいものを作って、ゆっくり食べるとかでいいか。
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他人がどうあれ関係なく自分の判断をしていかなければならない。他人を言いわけにした判断をしないこと、他人を言いわけにしている自分に気づきながら、それを切り捨てていくためには、そういった決断をしていくしかない。
言いわけを作ってしまうことは弱さに他ならない。自分もまた情けない言いわけをしてしまう程度でいる。そうした弱さに与してしまうことのないものにならなければならない。
自他の境界は確かにあるけれど、境界が引けないような状況はある。自分の中に他者がいるし、他者の中にも情けない自分がいる。それなら、状況そのものを変えていけるところで自他の境界をはっきりさせなければならない。
そして、それは決断のあり方であろう。
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人が集まってくる場にしなければならない。関係と場所を作っていくこと。目的と関係と場所が一体となって力が生まれる。
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君をとらえるものは君がとらわれなければとらえるものではない。君がとらわれるのは君をとらえるものではない。
2023年11月13日(月)
10日は金曜日。11日は土曜日。そして日曜日。物事はなかなか……きれいに変わってはいかない。
完璧を求めていては何もできない。
2023年11月9日(木)
そもそも「センターの日」とは何か。対抗的なものを目指していなくはないけど、到達目標がはっきりしているわけではないし、はっきりした到達目標を持つことはできないと思っている。それは、対抗的な意味を持つものにいたる道筋を描ききれないことの裏返しでもある。
よろずの寄り合いのように、よろずの活動に所縁のある人が集う場であってもいい。しかし、「センターの日」という枠をはめる以上は、そこをはみ出すものがないと取り組みとして成り立たない。
まずはそういうことをビラで考えてみるか。
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どうすればこの不愉快な状況を抜け出せるかを考えよう。不愉快な人間関係を断ち切る道筋。
もうやつらとの関係に未来はない。未来のないところに現在もない。
そんなことはもう分かっているし、分かっているのに断ち切れないのは、断ち切れない理由があるからでもない。きちんと断ち切らないからだ。
よろずも「センターの日」ももう終わりだろう。続けても、もはや得るものがないし、与えられるものもない。
12月か。12月になったら終わらせることを表明すればいい。それが区切りになるだろう。
終わらせることだけを考えられるような終わり方を考えよう。余計な考えがわいてくるような終わり方では断ち切ることができない。
やめてしまっても、研究に専念するだけの時間は存分に必要になる。しばらくはフィールドワークから離れてしまってもいいだろう。
どちらにせよ、僕には書かなければならないことが山ほどある。ためらいや執着や未練はすべて言いわけでしかない。あとは僕だけの仕事だ。書くための時間に置き換えていく。今はもうフィールドから得られるものはないし、得られるものがあるとしても、今はその時ではないだろう。
考えなければならないことが山ほどある。知らねばならないこと、気づかなければならないことがたくさんある。すべてそのためにやってきたことだ。
研究者だからそうするのではない。フィールドワーカーだからそうしなければならない。フィールドワーカーはフィールドワーカーの責任を果たさなければならない。そうでなければフィールドワーカーではいられない。そうでなければそもそもフィールドワーカーではなかった。明日もフィールドワーカーであり続ける約束がその人をフィールドワーカーにする。
そうしなければ他人を評価することもできないか。
2023年11月7日(火)
どうしてこんなにつらいのか。
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バタイユやられた。
周縁にいたからか、フィールドワーカーであったからか、フィールドワーカーでありながら、最後までフィールドワーカーであることを貫き通したからこそ、僕だけが気づくことができたのか。
完全であろうとしてそうはなれない。そうはなれないことに肝心なところで向き合えずにいた。そのスタート地点に立ったに過ぎないことを見誤ってはならない。
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僕はもちろん、一人でここまで来られたわけではない。
それが分かるならもう、これまでのことはすべて許すことができるのだろうか。
許すとか、許さないとか、そんなことはどうでもいいと思えるなら、許せなければいけない。
2023年11月4日(土)
いいかげん気分も変えていかないとな。
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なんかもう過去ログも出してもいいのかなあという気持ちになってきた。すべてはもう過去になりつつある。
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禁忌を破って、少しだけ。
いや、そうだな。否極泰来。それだけのことを乗り越えてきた。
もう分かっているはずだ。自分のことだけを考えていては開けない道があると。
まだ見落としていることがある。それを見出すためにフィールドワークがある。答えは自分の中にあるし、それは社会の中にあるんだ。
誰のために? 何のために?
そんなことを考える必要もないのか。過去も未来も、確かなものは絶え間なく更新されていく現在にしかない。
常に生み出しては失っていく。でも、それが明日につながっていくのか。明日もまた現在の一部を成す。そういう過誤を、そういう過誤に苦しむことも、いずれ来る現在のためになる。
まちがうことを恐れず、まちがうことに傷つきながら進めばいい。誰しもそうやって生きてきていることは否定しようもない。
依代になればいい。
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