過去ログ
2020年7月


2020年7月31日(金)

 フィールドワークに踏み出した時、僕は何を目指していた?

 こんな話を誰かとしたことなどない。誰かに共感できることもない。

 しかし、真理とは他人に承認してもらうものではないし、一度つかんだからといって永続するものでもない。

 あー、もう。どうしよう。どうしようもない。

 一つひとつ乗り越えて、片付けていけば、一つひとつ過去のものになる。片付けないから、いつまで経ってもつまずく。

 タバコもやめてしまえば必要なくなる。

2020年7月30日(木)

 常につらい。

■家中茂「生成するコモンズ――環境社会学におけるコモンズ論の展開」松井健編『開発と環境の文化学――沖縄地域社会変動の諸契機』(2002年、榕樹書林、pp.81-112) #1

 コピーしたのはだいぶ前だったがようやく読める。

 問題関心は良さそう。

 まず「共的資源管理システムとしてのコモンズ」。経済学的な問題提起を受けての議論という意味では、宇沢弘文の「社会的共通資本」の話になるわけか。

 前に別の本でも出てきたけど、松井健の「マイナー・サブシステンス」は重要な概念になる気がする。

 「生成するコモンズ」。

 うーん、面白そうな話いっぱいあるなあ。コモニングに類する議論はすでに伝統的コモンズ論の中である程度出ているのではないか。

 いや、本当にコモニングを論ずる理論的な枠組みは環境社会学の中にストックされているのでは……。

2020年7月28日(火)

 ボロ雑巾のようだ。

2020年7月27日(月)

 ものすごくしんどい。考えてみればそれが当たり前のスケジュールだったのに麻痺していた。

 強くならなくてはならないのだとすれば、強くなりたいのだとすれば、この道を歩みはじめることが勇気だ。

2020年7月25日(土)

 自分の力を信じればいいのに、自分には力など無いような気持ちになる。

2020年7月24日(金)

 やる気ゼロ。

 別にこれ以上、何が悪くなるということもないのに。もうすでに十分悪いのだから。

2020年7月23日(木)

 物語、意味を求めている。

2020年7月22日(水)

 ヘロヘロ……。

2020年7月21日(火)

 海外では当たり前にあんな話ができるんだなー。うらやましい。

2020年7月20日(月)

 どんな恵まれた暮らしにも浮き沈みはある。どん底の暮らしでも、沈みっぱなしということはない。

 逆に、どんなに望ましい選択の中にも不安がないわけではない。揺れ動きながら越えていくのが生きるということだ。

 何をこんなに落ち込んでいるのだろう。確かに前向きになれる要素なんて何一つないけどな。

 13時6分。なんかどうでも良くなってきた。

 行くところまで行くと苦しむエネルギーすらなくなるのだろうか。

 実家に電話した。あちらも少し落ち着いた感じ。

2020年7月19日(日)

 また落ちてきた。

 というより、上向きであったことなどないのではないか。ただただノルマをこなしてやることが変わっているだけで。

 新しい道を行こうとすれば落ち込むことはついてまわる。新しい道を行くから落ち込むこともある。落ち込むことにくじけていれば新しい道を行くことはできない。新しい道は落ち込みながら行くものだから、新しい道を行くなら落ち込んでなどいられない。

2020年7月18日(土)

 天気良かった。

 なんかもう嫌だな。

2020年7月17日(金)

 疲労がやばい。

2020年7月16日(木)

 自然体で関わりつつも熟考するという難しさ。

2020年7月15日(水)

 今一瞬見えかけたな。「センターの日」としてのかかわり。どうしても非対称的な部分はある。そこに相互的なものを見分けていけばいい。非対称的な部分を中和する仕掛けを設けた上で、相互的なものを抽出していけばいいんだ。

 最初から正解を想定していたのでは何も分からない。間違いながらでも続けてみることでしか分からないことがある。

 それは、その時、その場所で見えていたものとは異なるかもしれないが、その時、その場所でしか見えないものであることも確かだ。

2020年7月14日(火)

 疲れもすごい。先週の過ごし方がよくなかったか。

2020年7月13日(月)

 胸が張り裂けそう。

 苦しくても毎日のやらないといけないことを片付けていかなければいけない。そうしながら少しでも前に進めるように。

 誰がはじめたわけでもない、自分ではじめたこと。何かが得られるも得られぬも、誰が悪いわけでもない。むしろ、そこから何かを見出す自分の力量が問われているだけのこと。

 データを読み込めていないことも分かっているし、分析枠組みが見えていないこともわかっている。まだはじまるのはこれからで、行き詰まってすらいないのに。

 行き詰ってるのは生活だ。倦まず弛まずなどというものの。

 日常に普通に会話できる相手がいないことも問題だ。

2020年7月12日(日)

 本当の心なんて無いのだろう。

2020年7月11日(土)

 切ないな。

2020年7月10日(金)

 はー、せつない。

 湧き出る力に満ち、しかし、溢れず。

 そうであるなら、天佑は得られるであろう。

 おかしいな。あの夏の時点で僕はすでに似たようなことを言っていたんじゃなかったか。

 そうは言ってなかった。データすごいな。

 思い出せ。

 呼び起こせ。

 新しいものを見ている、見ようとしている。

 信じる。自分の感覚を、関わってきた人たちを、出来事を。

 同じことなど、決して起こらない。僕はすでにこの道を歩んでいる。

2020年7月9日(木)

 酒が残っているのかな。やはりやる気にはなれない。

 虫歯じゃなかった。よかった。

■高村学人「多極化する都市空間のガバナンス――境界を開く法の役割」大沢真理・佐藤岩夫『ガバナンスを問い直すII 市場・社会の変容と改革政治』(2016年、東京大学出版会) #1

 気が重いけど読み進めていくか。

 アメリカの話か。

 こういうことをさらっとまとめられるだけで、しんどく感じる。

本章では、統一的・均質的な政府(Goverment)に取って替わって、多極的にルールづくりとサービス提供がなされている状態を「多極的ガバナンス(Polycentruc Governance)と呼び、このガバメンズの構造を、アメリカのBIDの実態調査に基づき法社会学的に分析していくことを課題とする。[48]

 批判と肯定。ここでハーヴェイに言及されるけど、即座に無効化されてしまう。

しかし、先のハーヴェイ(2013, p.147)は、オストロムが唱える多極的ガバナンス論に対して、小地域単位でのルール形成がどのようにして広域的なルールへと接合していくかが示されておらず、小地域単位のルールも広域的なルールのいずれもがどのようにして形成されるかが明らかになっていないため、多極的ガバナンスが民主主義的統制に開かれたものになっていない点を批判している。[50]

 本当にこういう批判なのかな。

 根源的な批判をすぐに制度論に落とし込んで、話を逸らしてしまう。

 フリーライダーの何が問題なのか。一定割合以上の不動産所有者達の同意が必要であったとしても、BIDの負担金を強制徴収する必要があるのか。BIDの事業を行う組織体である非営利活動法人の運営が、不動産所有者達を中心とした理事会によるものである点に問題はないのか。

以上のようにBIDは、公民協働(Public Private Pertnership)に基づくハイブリッド組織である。公権力を用いて負担金を安定的に集めることができ、運営においては民間の経営感覚を発揮させることができるので、高いパフォーマンスを示している。[52]

 いかなる意味でこれらが「上手くいっている」と言えるのか。

オストロムは、地域共同管理の利点として、1)ルール進化の柔軟性、2)モニタリングコストの低さ、3)信頼的コミットメントを挙げている(Ostrom 1990; 高村 2012, p.14以下)。この3点をBIDに当てはめてみると、次のように説明できる。[52]
これらの批判の検証には緻密な経験的調査を要するために他日を期すことにして、以下では、当初の設定通り、ニューヨーク市とサンフランシスコ市のBIDを比較素材として、BIDの運営スタイルに法がどのように作用しているかを検討していく。[53]

 結局コモンズのそもそも論が必要なのかなあ。

州法と市条例のいずれも、BIDの運営の非営利法人の理事会は、1)不動産所有者、2)商業テナント(店舗の借り主)、3)居住者、、4)公的諸機関の4つのカテゴリーから理事が構成されるとし、1)の不動産所有者の理事の数が過半を占めねばならないと規定している。[55]

 はたしてこれがコモンズなのか……。

裕福な商業エリアだけでなく、後述するTenderloin地区のように困窮者が集まっている地区でも結成され、コミュニティの改善に資そうとしている点にサンフランシスコの特徴がある。[61]

 そもそも地域格差を改善するものではないわけだよな。単に行政の権限を委譲しているだけではない。

創設の際の所有者合意の要件を下げたかわりに、会議への住民参加を十分に保障するというのが市の考え方である。市条例では、不動産所有者ではない地域のテナントや住民を、20%の割合で理事として置くことを求めている。[61]

 「かわりに」というのがよくわからない。30%の同意でBID指定できるということは、不動産所有者は同意しなくても負担金を強いられる割合が高くなるということだろう。そもそも不動産所有者の負担金を財源とした活動であるという点は見過ごせない。

 不動産所有者にしてみると、金は取られるわ、代表権は得られないわで、不満が高まるだけではないのか。また、負担金の大きい不動産所有者ほど、権利を主張する(理事になりたがる)のは自明の理ではないか。

しかし、従来、清掃や治安の状況が良くなかったエリアにも同じような管理水準を実現するためには、これまで以上の資源の投下が必要となり、かえって従来のエリアへの対応が手薄になってしまった。[64]
BIDが組織され、上手く継続するには、地域に同質性が先行して存在することを前提とせざるを得ず、BIDが拡大し続けていくことで市全体が改善されていくというロジックには限界があることが露呈しつつある。[64]

 富裕層のコモンズと貧困層のコモンズ?

この地区では、アフォーダブル住宅という低所得車向けの低廉です良質な住宅を供給しているNPOが、かなりの土地を所有しているが、所有者合意のハードルは、これらNPOの参与によってクリアできることになった。[65]

 ここだけみるとBIDにも階級闘争の余地があるのかもしれない。しかし、その他の不動産所有者はどんな人たちなのだろう。

 なんだ、こっちのCBDも別に上手くいっているわけではないのか……。

 なるほど「ガバナンス」って感じの話だな……。

 「BIDが創設されたり、その区域を拡大したりするには、その地域に何らかの同質性が先に存在している必要がある」[69]このまとめなんか変じゃないか? 「都心の公共空間を利用するものの多様性と、そこを管理・運営する者の同質性という両者のずれ」[69]この対比もおかしい。「多様性」と「同質性」という用語を並べるとあたかも対にして扱われるべき論点のようだが、何の対比にもなっていないだろう。別にこんな難しいこと言わんでも「BIDは一部の利益を代表する仕組みにしかなり得ない」ことはわかり切っていることなのでは。それは「法によるBIDへの民主主義的統制が、異なる価値の間での対話をもたらし、ガバナンスの健全化に寄与することができるかどうかが重要な論点になる」[69]というが、本当にそんな問題なのか? 制度の根本的な限界をよく言えば和らげる、悪く言えばごまかすものに過ぎないように思える。

 大阪市エリアマネジメント活動促進条例。

大阪市でも日本型BIDとして、エリアマネジメント団体の結成を促進する条例が制定された。しかし、条例や審議会の議事録を読む限りでは、エリアマネジメント団体のガバナンスを、条例によってどう規律づけするかという観点は弱い。審議会で議論されたのは、エリア内の地権者から負担金を強制徴収する一方で、マネジメント団体に公共空間の無償占有を許すことを通じて、ファッションショー等の収益事業を行ってもらい財源を確保させるには、現行の国家法をどのように組み合わせていったら良いかという論点である。[70]

 公共空間の無償占有を許し、収益事業による回収の権利を与えるという点はPMOを彷彿とさせる。負担金を強制徴収するという点がPMOの納付金とは異なるものの、公共空間の無償占有が勝手に取り引き材料にされているのは、責任の所在がより曖昧になっている点でPMOより悪質な気もする。

■宮内泰介「コモンズの社会学――自然環境の所有・利用・管理をめぐって」鳥越皓之編『講座環境社会学3 自然環境と環境文化』(有斐閣、2001年) #1

 あー。環境社会学の視点が入ると、コモンズに環境保護は前提になって来るんだな。これはちょっと気をつけた方がいいかも。価値的な評価の視点が入ってくる。生活者の視点からずれてくるところがあるんじゃないだろうか。

 そうか、コモンズという視点自体が複層的な構造を読み解く立場に過ぎないんだな。人と場所とのかかわりを基軸に、人と人とのかかわりや社会のありようを見ることでしかとらえられない構造やメカニズムがある。そのような対象に挑むための道具がコモンズなのだろう。

 田んぼは自然か人工物か。生態系のなかに歴史的な視点を持ち込むのがコモンズ論かもしれない。「第三紀型の水性生物相」[26]ってなんだろう。

 パッシブなかかわり。

人間と自然との関係を、人間と人間との関係のレベルで議論できる、とした。そこにハーディンの議論の意義があった。[29]

 土地所有の曖昧さを都市のコモンズで語ることはできるだろうか。

地域住民の重層的な環境利用があり、それに対応するかたちで重層的な所有権ー利用権がある。重層的な所有権ー利用権というのは、一見なじみにくい考え方かもしれないが、じつはそれほど珍しいことではない。[33]
カミでも、領主でも、所有主体氏族でもいい。要は、その地域が土地や環境を管理する自治的な秩序、まとまりをもっているということかま大事なのである。そうした自治の秩序のありようは地域によって違っており、外からみると無秩序にみえることもある。そこに外からの(一見わかりやすい)秩序を導入しようとすることはよほど慎重にならなければならない。[35]

 センターを事例にで自治の秩序を描けるだろうか。

 「周辺の自然環境がみずからの生業・生活と直接関係なくなってしまうとコモンズは崩壊する」[35]。

これは、所有者に非常に排他的な権利を認めるものである。自分が所有するものだったら、法律で制限されないかぎり何をやってもいいということである。[38]

 法がどうあれ、まだ文化的な規制が利いていたのかもかもしれない。ポストモダン化する中で、法が法文通りに解釈され、悪用されるようになった。

 「相対的所有権」[39]。

早い者勝ち、という言葉はネガティブに使われる場合が多いが、コモンズを考えるとき、これはひつとのありうべきルールである。別の言い方に直すと、「実際に(深く)かかわってきた者たちand/orもっとも深くそれを必要としている者たちの権利をまず認めること」ということになる。[41]

2020年7月8日(水)

 またこんな季節に風邪を引きかけているな。

2020年7月7日(火)

 つらい。

 つらいばかりだ。

 こんなものしばらく良くなるわけがないぞ。

 ヘルパー資格を活かせば仕事は何とかなりそうだと分かったことで、かなり気が楽になった気がする。

2020年7月6日(月)

 つらい時は寝てやり過ごせ。

 この先の5年、10年をどうやって生きていくのか、どう生きていきたいのかという観点から考えないといけない。

 正解が何もない世界でも。

 止まらない限り道は続く。

 そんな見通し立つはずがない。立つはずがないけど、今やらなければならないことは思いつく。

 単なる執着に過ぎないのなら、早いうちに手放してしまった方がいいに違いない。

 こだわる意味など無いことはわかっていてもこだわり続けることを執着というのだろう。

 自然治癒力に任せてうろたえないことも自分を信じることなのだろうか。

 どうしようもない閉塞感と挫折感。今はただどん底に慣れるまで沈み込んでいるしかないのか。もうがんばらなくていいんだろうか。

 自分の無力さをただただ思い知るだけの時間なのだろうか。

 何もかもその一点に始まる過ちのように思える。

 ほとんど無駄だった。実質膨大なマイナスでしかない。

 立ち直ろうとすればするほど、積み上げたのと同じ力で一瞬にして、また底辺まで押し潰される。

2020年7月4日(土)

 この繰り返しか。

 結局、自活できていないだけか。

 何のために。

 失敗することが正しい道なら。

 世界は平等ではない。平等であるはずがない。それを知った上で何ができるか。

 本当は当たり前のことなんてどこにも存在しないのに。

2020年7月3日(金)

 何をやっているんだか。

 何をやっているんだか。

 しかし、見なければいけないのはその向こうか。その先を見ることが僕の望みなんじゃないか。

 結局、虫のいいことを考えているからダメなんだな。

 勇気とは、孤立を恐れないこと。

 孤立を恐れずに、誰かのために声をあげられること。

 バカにされても、逃げないこと。

 しんどい。どうすればいいんだ。

 正解なんてないんだ。正解がつかめるような力を高めていくしかない。虚勢を張ってでもがんばっていれば、それが本当に力になっていく。そうやって生きる覚悟を持つ。結局は続けることなんだ。

■尾崎一郎、2016「「ネットワーク社会」における「都市コモンズ」について」吉田克己・角松生史編『都市空間のガバナンスと法』信山社、pp.267-286 #1

 書き出しから文章長っ。

 がんばって読んだ。結局ハーヴェイだ。

2020年7月1日(水)

 何ということはない。

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