過去ログ
2022年7月-2022年12月

2022年12月31日(土)

 闇の中で闘い続けた日々は、決して君を裏切らない。

 あかんやん。心が壊れそう。

2022年12月30日(金)

 なかなか苦しみから逃れられない。

2022年12月29日(木)

 一瞬、答えは分かるのに。

 道なるものは須臾も離れざるなり。離るべきは道ならざるなり。

 そうすることが、期せずとも調和を引き寄せる技であるなら。

 そう、悪いことなど何も起きていない。何もかもうまくいっている、それを引き寄せたのは他ならぬ、僕の力なのに、何が不満だというのか。つまらないエゴでなぜ台無しにしてしまうのか。

 信じる。信じなければいけない。いけない、などということはない。それが当たり前の人の姿なのだと受け入れればいい。受け入れられる。

 自分を救って、他人も救う。これに勝る道はない。

 真理は常に両輪を成す。

 自分を信じるのも同じ強度で、同じやり方で他人を信じられればいいのに。

2022年12月28日(水)

 ふー。やるべきことをやるしかないな。

 急ぐ必要はないのか。

2022年12月27日(火)

 それなのにどうしてこんなに苦しいのか。

2022年12月26日(月)

 そうか、これまでは自分のためにがんばっていただけだったのか。

 おかげでそうじゃないところへ行ける。

2022年12月25日(日)

 この1年。

 道を切り開いてきた。

2022年12月24日(土)

 書き出せばいくらでも書けてしまうし、そのすべてが意味を持つのだろうけど、今は言葉にならない。

2022年12月23日(金)

 あー、そうか。研究対象にしてしまえばいいのか。

2022年12月21日(水)

 不思議な夢を見た。

2022年12月20日(火)

 科学的客観主義の思い込み。目の前にあるのに、あることに気づいていない。見ようとしない、見えないことにしている。

2022年12月19日(月)

 森ノ宮駅で思い浮かんだことだったかな? 参与を超えて、参加者の一人になっても観察は可能だ。

2022年12月18日(日)

 参与観察もさらに踏み込めば社会なるものと直接交わるところに足を踏み入れるはずだ。

2022年12月17日(土)

 昨日の授業では案外大事なことを言ったのかもしれない。労働と怠けは切り分けられない。勤勉と怠けが地続きであるように。本を読むことは怠けることだが、それを仕事のうちだと言いわけしている。同じように「センターの日」も「研究のためだ」と利己的な動機に帰することで納得しようとしている。

 もしも、僕にそんな力があるなら、人には元より備わっているなら、なすがままになせばよいはずだ。

2022年12月16日(金)

 何だかとてもつらい。

 何でこんなにつらいのか確かめるのを楽しみにして進もう。

2022年12月15日(木)

 まあ、分かるっちゃ分かるか。

 1年前に比べれば、格段に良くなっている。悪くなっていることなどない。それでもまったく足りない。望むところに少しも届かない。

 いつかたどりつくことを信じて今はまだただ歩むしかない。

2022年12月14日(水)

 人はみな、そんな深く考えておらず、自分勝手に良し悪しを判断しているだけなのかもしれない。それくらいに思っておいた方が自己理解も他者理解もたやすい。その辺りで自分のなかの意見を調和させていて、状況によって凝集したものが、結果的に合理的判断と見なされる。しかし、合理性とは状況依存的に組み立てられるものだし、ほんの一部分でしかないのかもしれない。

 可能性を担保しつつ、利己的な計算を働かせながら判断を保留しておきたいのが人情というものなのだろう。そのような人間観を持っておくくらいが、自ずと気づきをもたらしてくれそうだ。

 臨床社会学がそこにいるように、愛が何なのかを急いで確かめる必要なんてない。

 道をたどることでしかたどり着くことはできない。未来は見えなくても、今歩む道を信じることはできる。

 たとえばそれは偶然にしかすぎない。必然的に用意されていたものではない。

 それでも、必然などなくとも、この道を歩むためには代わりなど利かない。

 我も彼も、強くはない。

 それでも、思いやることはできる。その意志は、意図を超えていける。未来はいつも救いでなければ。

2022年12月13日(火)

 ものすごくしんどい。飲んで、徹夜して飲んだら、いくら休んでも回復しきらない。

2022年12月11日(日)

 劣等感。自分の中の劣等感に気付いた。歪められた自己評価。うろたえなければ、そう判断の難しくないことを見誤ってきたがゆえに何もかも台無しにしてきたわけだ。

 もう何がつらいのか分からない。

2022年12月10日(土)

 つらい。つらい時にはセルフケアを。

2022年12月8日(木)

 いくら寝ても楽にならない。たった20分、電車の中で瞑想した方が元気になれた。これからは睡眠時間を気にせず、瞑想を習慣化した方がいいのかもしれない。

2022年12月6日(火)

 これが吉だというのか。

 これが吉と思えるようなことなのだと理解すれば良いのか。

 これより酷いことは、もうこの件では起こらない。酷くないことはないけれど、すでに乗り越えてきたようなことでしかない。ただ理解だけが得られるだろう。

 そこに立てるところまで来た者にしか見えない世界はある。そこが孤高の場所であるなら、見えるものをあるがままに受け入れるのは、己だけだと知らねばならない。

 今日が良くても明日が安泰であるわけではない。それが当たり前のことなのだから、受け入れてしまえばいい。

2022年12月5日(月)

 「反乱を撲滅する」というのは、そもそも前向きなことではない。力任せに片付けるということだ。何の咎もない。別に得るものもない。しかし、結果としては吉であるわけだ。

2022年12月4日(日)

 考えようともしない人たちのために、自分の中の黒いものに向き合わなければいけない。

2022年12月3日(土)

 内在化したものを外在化するのがエスノグラフィーというものだなあ。

2022年12月2日(金)

 防衛機制があることを理解した上で、ごまかしなく、こうしたいという自分の欲求はどのようなものなのだろうか。

 フロムは実存的な生き方を提唱していたし、それは一つの解答ではあるのだろうが、それが抑圧の結果のつじつま合わせになってしまっては意味がない。

 どこに吐露して語るべきか。

 そもそも僕は長いこと恋愛感情など抱かずにいた。抱かずとも良かったのだと思う。しかし、恋愛をしなければ、人として一人前ではないように扱う社会的圧力はやはりあったのだろう。

 いや、あるいは恐れていたのか。どうかなー。

 自分の中の欠落があって、その埋め合わせを異性に対して見るのが恋愛だとしたら、行動力を生み出す言いわけに利用したのが本当のところではないか。

 少し落ち着いてきた。

 失敗を気に病むことはない。次も失敗するかもしれないが、次も失敗するというわけではない。

2022年11月30日(水)

 睡眠時間が足りてないことはないはずなのに頭が痛い。

2022年11月29日(火)

 このままでは僕は壊れてしまう。

 壊れてしまうことなんてない。壊れても何の意味もない。深呼吸していったん放り出してしまえばいい。

 この課題と向き合うのに、そんなことも学んできた。

2022年11月27日(日)

 これまでだって、耐えられない思いに耐えてきたし、たとえその時、挫けたとしても、耐えられない思いなどというものはない。

 本当に耐えなければならないのは、もう一度向き合おうとする時だ。その時まで「耐えられない思い」は存在しない。その未来において過去の中に創り出されるものを、その時に感じているだけなのだ。

2022年11月26日(土)

 ホットカーペット温かい。

2022年11月24日(木)

 執着は判断の目を歪ませる。判断の目の歪みは執着を強める。どちらも捨て去ってしまえばいい。

 結局、不満を抱え込むのは僕の都合で、勝手な思い込みに過ぎない。思いやりが足りていない。思いやりというのは、ただ相手を思うのではなく、そのように自分を操作しておくことも含まれているのだろう。

 そんなバカな。お人好しすぎるだろ。

2022年11月23日(水)

 苦しくても気付けてしまう。気付くための苦しみだったことに気付く。

2022年11月22日(火)

 とらわれからは離れた方がいい。近づくからとらわれる。とらわれているから引き寄せられる。求めているわけではない。

 もしそれが正しいとして、どこへ向かうのだろう。あるいは、どこかへ向かう必要こそ、もともとないのかもしれない。

2022年11月21日(月)

 一進一退も、意外な出口、か。

2022年11月19日(土)

 いい気なものだ。

2022年11月18日(金)

 つらい。何がとは言えないけど。

 困難の中に機会を与えたまえ。

2022年11月17日(木)

「だって…他にはどうしようもなかったもの。馬鹿みたいでしょう。愚かだと思うでしょう。私の好きな人が、別の女の子に好きだと伝えるのを待つために、私は、長い間何も話さなかった」

「予定通りに彼女を助けるんですよ。予定通り相麻菫は傷ついた、だから僕は予定通り彼女を救わなければならない」

「浅井ケイ、君は正義ではないね。善でも純粋でもない。でもきっと、ヒーローではあるんだろう。夢のように万能を望みながら、万能にはなれない。どれだけ弱くて残酷でも、はたからはとてもそうは見えなかったとしても」

「僕は、ただわがままなだけです」

「浅井、そのわがままを、人は努力と呼ぶんだ」

2022年11月16日(水)

 今日はちょっとやばいかも。

 まだ一人一人がごまかしていること、語っていないことがあるのかもしれない。

 何だろう。ものすごく不愉快だ。いつまでこういうくだらない意地の張り合いに付き合わされるのか。情けないものをさも大事のように見せつけられないといけないのか。

2022年11月14日(月)

 10月の忙しさは異常だったな。これくらいゆっくり休めれば何とかなるんだけど。

2022年11月11日(金)

 失敗しても自分が困るだけだし、失敗を否定していたら何もできない。好きにやってやろう。

2022年11月9日(水)

 あとで帳尻合わせに協力してくれるだろうという期待を、事後的に信頼関係と言っているに過ぎない。

2022年11月8日(火)

 いずれかき消され、消え失せるものだとしても、そうだからこそ、今この時に抱かれる思いに価値があるのではないか。そんなものにこだわるからこそ、そんなものにこだわるこその価値がある。それは語り得ないからこそ、価値があり、その価値は語る必要がない。

2022年11月7日(月)

 なんだかなー。

2022年11月6日(日)

 僕は、もっと広いところから世界を見れるようにならないといけない。

 世界を見る意志であるとは、自分自身を可能性に捧げることに救いを見出すことだろうか。

 ただ世界を目にすることと、世界を見る意志であることは異なる。それは、自分を捨てること。自分を捨てながら意志を持つこと。意志であること。それは、その限りで世界であること。

 この世界に、かつてどんな優れたものがあったとしても、今を生きる者がその価値を分からなければ可能性は閉ざされる。

2022年11月5日(土)

 あーもう、何なんだろう。しっかりしろよな。

2022年11月4日(金)

 つらくなった。

2022年11月3日(木)

ところが、同じ男女の信頼関係でも、それとはまるで性格の異なる関係がある。それは、二人あるいはそれ以上の人間たちが深い信頼や友情を感じつつも、お互いの感情を確かめあうことに関心を向けるのではなく、基本的な信頼関係を基礎にしながら、外の世界に働きかけ、何かを協同で成し遂げたり、運動したりする関係だ。つまり、二人が特別な関係であるかどうかに関心があるのではなく、この世界で生きるために支えあう関係として相手を見るのだ。正面に向きあうのは、この世界という伴侶であり、それと格闘しているときに、一緒に「横に並んで」同じく道を切り開こうとする仲間だ。[佐藤和夫、2004『男と女の友人主義宣言――恋愛・家族至上主義を超えて』はるか書房、p.128-129]

2022年11月2日(水)

 体調がだいぶひどい。木曜から日曜にかけてとにかく休み倒そう。

2022年11月1日(火)

 小さな村の反乱らしくなってきた。

2022年10月30日(日)

 うーん、記録集の論文はやはり、バランスの取り方が難しい……。

2022年10月28日(金)

 思っている以上に疲れがたまっているらしい。

 大丈夫、まだまだどうにもなっていないけれど、やりはじめる前より、はるかに良くなっているのだから。

2022年10月27日(木)

 語り得ないことをあやまって語らないこと。語り得なくとも語りたいという思いはあるし、語りたいことは語ろうとしていることのなかにはない。

2022年10月26日(水)

 困難の中に機会をあたえ給え。

2022年10月25日(火)

 嬉しかろうと辛かろうと、やるべきことをやらないといけないことは変わらない。

2022年10月24日(月)

 いつも振り返られるぐらい頼られる存在であれ。

2022年10月23日(日)

 こういう日もあるか。

2022年10月21日(金)

 みんなろくでもないところを持っているけど、善意が持ち寄られることでできた場所が潰れるのを、見過ごすわけにはいかない。

 あー、そうか。ジンは幽助なのかな。

 そもそもに立ち返れば、本質的なものにこだわっていたはずだ。学問というものがありうるとすれば、それはこういうことの先にあるものなのではないかと。

 結局はその道の上にあるのなら、選ぶことはできなくとも、与えられたものではあるのかもしれない。

2022年10月20日(木)

 昨日のボディスキャン。やっている間は気持ち良かったのだが、終わった後の手足の爽快感はなかったなあ。頭の辺りに来ると、一昨日以上に雑念が湧いて、全然進まなかった。結果的に、45分どころか1時間くらいかかっていた。

2022年10月18日(火)

 ボディスキャンやってみた。35分くらいか。すごいリフレッシュした感じがある。頭の辺りに来ると雑念がすごく湧いてきて、なかなか進まなかった。

2022年10月16日(日)

 のえさんにはすべて分かっていた。分かっていてもそれを形にすることも、伝えることもできなかった。記録集はその機会を与えた。のえさんから身を挺してこの世界に捧げられた贈り物だった。僕は何も分からずに、そんな本を作ってしまっていた。

 人は自分の身を投げ出して世界を知る機会を作る。しかし、理解には必ず時差があるから、常に分からないまま終わる部分が残ることを覚悟しておかねばならない。理解は自分のためだけにあるのではない。現在にとらわれてもいけないし、確かなのは現在しかないことも知っておかねばならない。

2022年10月13日(木)

 風に揺れて希望の花咲く。

2022年10月10日(月)

 ふー、つらい。

2022年10月8日(土)

 2011年頃って、ものすごくイライラしてツイートしていたな。その前に、イライラが酷くて、心療内科に行ってみたこともあった。まあ、原因ははっきりしているんだけど、つまらないことだった。しかし、本当につまらないことだったのだろうか。

 きちんと修正がきくのだと確信したくて、スライドとレジュメを手直しして再収録したのだろう。小さなことからコツコツと修正していくしかないか。

 今はまだ、そうやって修正ができるようになったことを喜ぶべきだろう。

2022年10月7日(金)

 僕は自分の内面に踏み込まれたくないと思っているから、社会学的な視点に留まろうとするのだろうか。

2022年10月5日(水)

 感情に飲み込まれないこと、自分がしてきた努力と成果、それらに裏打ちされた能力を疑わないこと。そして、最終的にはその感情にすら対処していかなければいけない時が来るのかもしれない。

2022年10月4日(火)

 更新忘れていた。だんだん吉兆が見えてきたかなあ。

2022年10月2日(日)

 僕はようやく長居公園テント村について語れるところまで来た。

2022年10月1日(土)

 僕はフィールドワーカーであることを降りるつもりはない。誰に強いられるわけでなくとも。誰に求められるわけでなくとも。

 いかんいかん。囚われてはいけない。囚われるのは疲れているから。囚われて執着してしまっても何もいいことはないし、囚われなければつかめるはずのものもつかめなくなる。

2022年9月30日(金)

 落ち着いて考えれば、他人は自分の邪魔をしていない。邪魔になっている者のことを邪魔をしていると主体化してとらえているだけだ。

 そのような主体化による誤解がありもしない問題を作り上げて、何の必要もない対処に取り組ませる。そういうものを暴いて取り除いていけば、つまらない諍いは無くしてしまえる。

 社会が良くなるか悪くなるかに携わることなど、はたして人にできることなのか。僕たちにできるのは、悲劇をなくすことだけだ。

 ピアース・ブロスナンの007は、ジェームズ・ボンドによるダイ・ハードみたいなものなのかな。

2022年9月29日(木)

 心にどんな感情の波が荒れ狂っても、乗り越えてきたことと身につけてきた力は飲み込まれたりしない。決してなくなったりはしない。その荒波もまた、力が備わっていればこそ抗えないほどに激しくなる。どちらも自分の力の現れであるなら、たとえ不完全でも、その力で進んでいこう。

 天の命ずるをこれ性と謂い、性に率うこれを道と謂う。道を修むるこれを教えと謂う。

 なるほど、教えることもまた、道を修めるところに続いているのか。

2022年9月28日(水)

 ハードワーク。

 何かつかんだかな。成功すれば吉?

2022年9月27日(火)

 少しずつまちがいを正していけるだろうか。

2022年9月26日(月)

 なんとか落とし所を見つけて、とりあえず人心地つく。

2022年9月25日(日)

 僕だってつらい。どうしようもなくつらいのに、きっと誰にもわかってもらえない。

 他人に無関心なのではなく、構って欲しいから独りよがりにふるまう。でも、どうして欲しいのかは分からないから、救いを求めては裏切るしかできない。

 やっぱり僕はこの思いを捨てればいいのか。

 そういうこともあるのかもしれない。そうすることで、何もかもがうまくいって、みんな幸せになれるのかもしれない。

 道は選べない。

 それなら、僕はこの道を受け入れるしかない。そうすることで自分が失ってしまうと思っているものは、もともと得ることはないのだから、最初から失うことはない。最初から通過点でしかなかった。今は見えなくても、道はその先にあるはずだから、僕は未来を忘れよう。

 本当は未来なんて存在しない。忘れるものも存在しない。

 僕は何を望んでいたのだろう。

 望みなんてアプリオリに存在しない。それでも道は続いていく。一人ひとりがそれに気づくことはできる。

2022年9月23日(金)

 僕が野宿者運動に対して期待する理念がまずあったのか。なぜ僕は一年前、そうすることになったのか。

 事業自体が形成期にあったことを僕は認識していなかった。形成期においては理念が問われることもない。もちろん、それぞれに理想や目標はあり、それらはゆるやかに尊重されてはいただろうが、まずは事業として成功させることが第一の課題であり、運動を意識して何ができるかは試行段階にとどまっていた。

 さいわいにも形成期を抜け出せたなら、何ができるのかを考えなければいけなくなった。事業を安定的に継続するという現実的な課題を伴うことは変わらないとしても、ようやく確保できた基盤を元に、理想と現実のすり合わせをしながらの運動の方向性を定める必要性が出てくる。目的と結果の整合性を検討するという課題に取り組むべき段階が訪れ、理念が問われるようになったというわけだ。

 しかし、理念を問う段階への切り替えがどうにもうまくいかなかった。

 僕がこんなものを背負う必要があったのだろうか。

 代執行。長居公園テント村の強制排除。誰がその記憶を受け止めたのか。その時にもう、すでに僕は選んでいた。なぜか。

 自分で思っている以上に僕はフィールドワークを引き受けていた。

 フィールワーク。フィールドワーカーとは何か。

 マイナーな問いだ。そんな大胆さは僕にはなかった。しかし、それゆえに、それゆえにここにいる。

 本当にくだらないことだけど、人は過去を省みない。過去を省みるよすがを持たない。

 やはり、フィールドワークは明日からはじまるのだと思う。

 フィールドワーク、フィールドワーカー。そんなにメジャーな言葉ではない。真理を以て、その価値を示すほかない。

 接点がないんだな。フィールドワーカーと君たちとの間には接点がない。

 君たちの中にはフィールドワーカーという概念がない。

2022年9月22日(木)

 語りえないことにも「その時は」語りえないというものもあるだろう。あるいは「自分自身については」語りえないというのも考えうる。

2022年9月21日(水)

 被害の実態を明らかにすることから、なぜこのような事態に陥ったのかの解明に検証課題をシフトさせよう。

 自分のなかで自分を捕らえようとするものを感じる。

 それは自分なのだと思っていた。でも、いつも胸の内から湧きあがってきて、自分をがんじがらめにする。そのことで頭がいっぱいになる。それは囚われでしかない。

 胸の内から湧きあがってきて自分の中に充満するものが自分でないはずがない。しかし、その自分に振り回されているのもまた自分でないはずがない。

 自分を振り回すものに抗えない。しかし、自分を振り回しているのもまた自分なのだと思えば、抗うもなにもない。振り回すのをやめればいい。そういう自分を鎮めるようにすればいいはずだ。自分で鎮まればいい。

 本当は何だってできる。十分に経験を蓄えてきたし、その経験は使いこなすだけの力を身につけることと並行して備わったものだ。その経験と力を使わせないようにしているのも自分なら、自分を守ろうとするのをやめればいい。そんなものは捨ててしまえばいい。捨てたとしてもなくならない。それが自分というものだ。

 誰かのために問題を解決したいと思うなら、誰かのせいにしてはいけない。誰かのせいにしようとするのも自分なら、自分に囚われていることで得られるものなどない。やっぱりそんな自分は捨ててしまった方がいい。憎しみや嫌悪も、自分が抱いているものに過ぎない。

 それは自分の感情を軽んじることではない。しかし、それは常に絶対ではない。

 「そのことを考えないようにする」というのは一番簡単な解決方法だ。本当は誰にでもできることなのに、思い込むほどに忘れている。

 分裂した自己を縫合する、誰にでもできて簡単な唯一の方法は自分を捨てることだということなのか。

 もちろん、それは言うほど簡単なことではない。しかし、簡単なほど難しい説明は必要としない。

 つまるところ、社会と個人とを矛盾なく縫合する方法を求めているのかもしれない。

 相互行為論はその試みの一つであって、個人と個人を相互行為という糸で縫い合わせようとする者が社会を語ることができる。つまり、ここでの社会学者はもう一人の関与者であり、相互行為ならぬ次元を異にする関与がずらす像に社会を見つけようとする。

2022年9月20日(火)

 その先に行くためにはどうすればいいか。

 社会学者であることだろうか。

2022年9月19日(月)

 ちょっと気持ち悪い。

2022年9月18日(日)

 伸び進むのに何の支障もない。

 「センターの日」もやり方を変えてもいいかもしれない。毎回、楽しそうなことを実験的にやってみる。

2022年9月17日(土)

 悲しみの囚われ。

 語りえないものは自分の中にある。他人の中にもある。それらを語れるようにするにはどうすればいいのか。

 僕の中の語りえないものは僕だけのものではない。他人の中の語りえないものも、その人だけのものではないから、ともに引き受けなければいけない。

2022年9月16日(金)

 寝不足になるほど本読んだらあかんて。

2022年9月15日(木)

 いろんな屈折が重なり合って実体がつかめない。

 一つひとつ解決していくしかないか。

2022年9月14日(水)

 同じような振幅に陥るのだとしたら、そこで見出さなければならないのは、僕にとっても物語の再生であり、それは具体的な共同の模索を通してでなければ進行させられない。

2022年9月13日(火)

 やはり「語りえないもの」がテーマなんだなあ。

2022年9月11日(日)

 やっぱり僕は荒れている。そうならざるをえないところもある。何もしていなければ反動もない。しかし、それに甘んじていてもいけない。

宇川「それで、君はどうするの?」
ケイ「予定通りに彼女を助けるんですよ。予定通り相麻菫は傷ついた、だから僕は予定通り彼女を救わなければならない」
宇川「浅井ケイ、君は正義ではないね。善でも純粋でもない。でもきっと、ヒーローではあるんだろう。夢のように万能を望みながら、万能にはなれない。どれだけ弱くて残酷でも、はたからはとてもそうは見えなかったとしても」
ケイ「僕は、ただわがままなだけです」
宇川「浅井、そのわがままを、人は努力と呼ぶんだ」

2022年9月10日(土)

 ねむい。

2022年9月9日(金)

 布団かぶって寝たら、気持ちよかった。もう夜はかなり寒いんだな。

 小さな村の反乱と言えども、どうやら反乱と呼ぶにふさわしいだけの混迷を極めるほどにはなっていた。

 反乱を撲滅することに成功すれば吉。何の咎もない。

 まあ、望んでも得られない困難に立ち向かう機会となっているのは確かだし、僕はそれが嫌ではない。乗り越えた先で、どのような経験になるか。その吉凶は定まっていないけれど、道は選べないし、歩むしかないと心得る以上、やるということは決まっている。

2022年9月8日(木)

 頭痛い。せきが出る。

 何かに気づきかけている。

 属人的なもの、属地(地位・役割)的なもの。

 説教されるのは女だから? 男が男に対して、上下関係のないところで全人格的な批判をすることはない。しかし、男から女に対してであれば、水平的な関係であっても、あるいは上下関係を逆転させて、特権的な立場からの批判がなされがち、なのだろうか。

 二つの水準があるのだろうか。男女という関係性に落とし込むことによって、社会的な背景や地位とは切り離された1対1の水平的な場面が現れる。しかし、その場面における男と女の1対1の関係は、人と人の水平的な関係ではなく、1対1でなおジェンダーバイアスを帯びていて、結局は男女の非対称性を呼び戻す。

 もう一つの水準は、男性中心社会における社会関係であり、年齢や地位を凌駕して男女の非対称的な影響力下にある。

2022年9月7日(水)

 しんどくてうんざり。

2022年9月6日(火)

 37℃出てた。なんだこのしつこい風邪。

2022年9月5日(月)

 必要に迫られれば頭は良くなるものだな。

2022年9月4日(日)

 何もできなかったな。

 そうだな。

 道は須臾も離れざるなり。

 どんな身分、どんな境遇であれ、道は歩まなければならないし、歩んでしまう。選べるのは、その道をどんな気持ちで歩むかだけで、結末が決まっているとしても、その意味を選ぶことはできる。たとえ、それが悲劇でも、喜劇でも、ろくでもなく、受け入れ難いものであっても、選ぶことはできる。

 そのようにして貫いたものを、示すことはできる。示すことしかできないのだとしても、貫いた果てにある。

2022年9月2日(金)

 囚われていてもいい。囚われていることに気づき、理解していけるなら。しかし、そうでなければ、ただ苦しいだけだし、気づいていても苦しい。それでも、理解するとは、そのような道の歩みかもしれない。

2022年9月1日(木)

 傷付いているのは僕もそうだったはずだけど、向き合うヒマもないな。

2022年8月31日(水)

 酒を抜いてみても結局しんどい。

2022年8月29日(月)

 つらいけど、まあいい。どこへ行き着こうと。

 思いつきや衝動に任せて行動した結果、直前で思いとどまるというのも、一つの帰結として無意味ではないか。

2022年8月28日(日)

 思いつきや衝動に任せてしまっている時もある。

2022年8月27日(土)

 たどり着いた場所が廃墟や荒野でも、それはそれで意味がある。

 それもまた研究者冥利に尽きるというものだろう。見ることに意志をともなうだけで最後まで役割をはたせるところに立っているのは僕だけなのだから。

2022年8月26日(金)

 まず休むか……。何もかもつらい気分。

 言葉ではなく、行動で示さなければならないという原則もあった。答えはなくとも、道を歩むことはできる。道が通ずる場所もあろう。

 判断できる場所に行かなければ判断できないこともある。難しい判断でなくとも、確かめられる場所まで行かなければ、分からないこともある。きっと今もそこへ向かう道を歩んでいる。そこへ向かう風景を見ている。

2022年8月25日(木)

 変な汗かく。後頭部あたりで汗が流れ落ちると変な感じがする。体調悪い時に特有の部位。

2022年8月24日(水)

 ふー。頭が痛い。

2022年8月23日(火)

 体がだるい。つらい。

2022年8月22日(月)

 ろくに夏休みらしい気分もないまま、授業再開してしまった。

 おかしいな。病み上がりでつらいだけなはずにしては、また心が壊れそうになっている。何がそんなにつらいというのか。

2022年8月20日(土)

 もう日付が変わってた。

 夏が終わる。

 性に従う、これを道という。道に従う、これすなわち教えという。道なるものは須臾も離れざるなり。離るべきは道にあらざるなり。ゆえに君子はそのみえざるところに戒心し、そのきこえざるところに恐懼す。隠れたるよりあらわれたるはなく、かすかなるより顯かなるはなし。ゆえに君子はその独りを慎しむなり。

 「天の命ずるをこれ性と謂い」か。性に率うこれを道と謂う。道を修むるこれを教えと謂う。道なるものは須臾も離るべからざるなり。離るべきは道にあらざるなり。是のゆえに君子はその睹えざるところに戒心し、その聞こえざるところに恐懼す。隠れたるより見わるるは莫く、微かなるより顕かなるは莫し。ゆえに君子はその独りを慎むなり。

 この2年足らずをふりかえって、想起されるのがそれなら、まったく悪くはない。力が欲しいと願って、その道を誤らなかったのなら、これまでのようにそれを信じていけばいい。

 まちがえながらでなければ開けない道がある。それは正しい道だ。たとえはたから見てそうは思われなくても。自分の利益だけを考えていては道は見えてこない。

 誰しも、自分を救いたいという部分があったはずだ。その背景はまったく異なるにしても、それがどこか一致するところがあったからこそ、運動となりえた。そんなところも明らかにしていかなければいけないのかもしれない。

2022年8月19日(金)

 しんどい……。これが倦怠感か。むしろ終わってからじゃないか。

2022年8月18日(木)

 もう寝ていいかな……。

2022年8月17日(水)

 荒れた気持ちはやり過ごすしかない。自覚的にやり過ごすことが求められている。

2022年8月16日(火)

 見方を変えるなら判断も変えなければいけない。判断を変えるためには見方も変えなければいけない。見方を変えるから新しい判断もできる。

 これまで通りではどうにもならないところに来て、これまで通りのことに心を乱していてはいけない。心を乱されながらでも、見ることを疎かにしてはいけない。気付くことは理解に先立つものだし、行為にともなうことであり、行為は意志に導かれる。

 そして、意志とは見ようとすることで、観察と意志は一体となって成り立つ。直観としてしか始まらない。

2022年8月15日(月)

 終わってみれば、結局、最初から最後まで正しい行いをしていたのは僕だけだったということなのか。

 いや、僕も個人的感情で動いていただけなのかもしれない。

2022年8月14日(日)

 うまくいかない可能性を考えても意味がない。結果的にどうなるかは可能性を考えることとは関係がない。それならその時間を考えうる有益なことに費やした方がいい。

 同じ先行きの見えなさに時を費やしているつもりでいろ。

 1mmずつでも、より望ましいように判断を正して前進しておけ。

 勝ち負けではないけれど、あきらめたり、根負けしたりすれば、そこからずれていく。たとえあきらめるとしても、すべてが終わってからでいい。

 世界を見ようとする意志であることが、僕にできることに関わっているはずだ。

 世界を見ようとすれば一人になる。フィールドワーカーは一人になることを引き受けるつもりで世界に挑まなければならない。

 まあ、落ち着けなくて当たり前ということか。

 そういう身勝手な男なら、こうまでは気にならないかもしれない。

 それなら、そういうバカな男を愛するとはどういうことか、という話でもある。

 自分を過信しているから、他人を軽んじる。だからしくじるのに、それを改められない。きっと「よくある話」だと受け止められるし、そういう男は矯正されない。

2022年8月13日(土)

 この3年を思い返せば、気付くと信じられないくらい成長しているのに、それがまったくというほど報われないまま、苦労だけが増えているじゃないか。

 喜んでいいはずなのにつらい。つらいばかりだ。

 成長するだけの努力もしている。苦しみにも耐えてきた。しかし、こんな苦労する意味あるのか。

 報われなさをエネルギーにするってこともあるだろうけど、ここまで押し潰されそうになってしまうなら、どこか見直した方がいいのかもしれない。

 スキーマか。

 あれ、でもこれをスキーマという言葉で理解すると、悲観的になるのがスキーマであって、やっていることは別に気に病む必要はないってことじゃないのかな。

 結局、こんなところに気持ちを吐き捨てるしかない。

 今以上を求めるなら、今までのように考えていてはいけない。必死になるとしても、今までのように必死になっていてはいけない。

2022年8月12日(金)

 すでに条件は備えているのなら、あとは認められるのを待つだけで、それなら結局のところ、やるべきことをベストな形でやっていくだけの話だ。

2022年8月11日(木)

 今はまだ悲しみにとらわれることがあってもいい。それを力に変えていけるのなら。

2022年8月10日(水)

 この状態からどれくらいで復旧できるかなあ……。

 いつからでも、ゼロからはじめればいいのだと思い切れば、そこから力が湧いてくるはずだ。自分のその場面に必要な最大限を引き出すためには、いつだってこのやり方しかない。

2022年8月9日(火)

 37.8℃の熱を下げられるタフさ。

2022年8月8日(月)

 広島行ってよかった。

 何かと気づきを得られる経験になった。

2022年8月7日(日)

 依代に価値があるように思えるのは、そこに魂が宿っているからで、だからといって依代に価値がないわけでもない。

 魂を宿すものがなければまた、魂もありえないのだから。

2022年8月6日(土)

 広島市はトリノのようだ。

2022年8月5日(金)

 まずは気づくところから。気づくこともできない者に変えていくことなどできはしない。

2022年8月4日(木)

 省エネで過ごさないと。

2022年8月2日(火)

 いいかげんしんどくて1日寝ていた。

 これが良くなったら、気持ちを新たにやっていこう。

2022年8月1日(月)

 気持ちを切り替えていかないと。本当は研究は楽しいもののはず。楽しいことをすればいい。楽しいと思ってやればいい。

 今以上を求めるなら、今までのように考えていてはいけない。必死になるとしても、今までのように必死になっていてはいけない。

2022年7月31日(日)

 コモンズの理論的検討なんかしてる余裕ないんじゃないか。

 まじめに締め切りを守ろうと思ったら、一昨日書いた原稿を論文に仕立て上げるほかない気がする。

 そんなことできるのか? 表向き、野宿や飯場のことを出さないような書き方はできなくは無さそうだけど、それならそれで、公共性とは何かみたいな議論を盛り込む必要が出てきそうだ。公共性というか、公共空間?

 以前、そういうことを書こうとした時の蓄積でなんとかなるだろうか。

 自分で思っているより、はるかに僕は荒れているみたいだ。

 誰も受け止めてくれないのに、誰もともに歩んでくれないのに、正しいことを言い続ける意味があるのか。

2022年7月30日(土)

 いい原稿が書けてうれしい。

 この6年の積み重ね、特にここ数ヶ月で結晶化させたものの集大成のような見解を示せた。これを書けるのは僕以外にはいないだろう。

 しかし、結局は宛名のない手紙のようだ。

 つまるところ、猫のようにふるまいたいし、猫のように扱われたいというわけだ。

 語り得ないところへ行き着くためには、無用な語りは慎まねばならない。

 そういうことなのかなー。

 使えるものは何でも、自分のために、目指すもののために使うことを考えればいいのかもしれない。

 それなら、構想はもっと大きく、しっかりしたものを描けるようでなければいけない。

 使うようでないとダメなのか。

 アナーキーにやっていい、アナーキーにやった方がいいってことか。

 それが僕の得た気付きであるなら、もう事態は次の段階に移っていて、結果は吉だと考えていいのかもしれない。

2022年7月29日(金)

 解釈労働であり、解釈労働をする立場であり、解釈労働をさせる立場でありたいのか。

 もちろん、解釈労働をさせる立場にある者は、解釈労働をさせているとは思っていないし、解釈労働が何かなんて考えたことすらない。そういうものだ。

 社会学者がそこにいることで、解釈労働の役割をになってしまったとしたら、現実に影響を与えてしまっている。なら、分析する際には、そのことをきちんと示しておかねばならないし、考慮しておく必要がある。

2022年7月28日(木)

 世界を見ようとする意志とは。

 見ることとは、これすなわち意志である。しかし、世界を抜いて、見ようとする意志では何を言っているのか分からない。

2022年7月27日(水)

 世界を見ようとする意志であるように。

2022年7月26日(火)

 頭が働かない。まずは休ませてくれ。

 命の燃やし方が分からない。もう命を燃やすしかないのに。

2022年7月25日(月)

 ずっとそんなことを考えていた。苦しんだ果てにそこにたどり着いていた。それなら、今度こそはそれを形にする時だろう。

 なんだろう。とてつもなくつらい。

2022年7月24日(日)

 また僕は悲しみに囚われている。しかし、それもある程度は仕方のないことと思って、目の前の課題を片付けていこう。

2022年7月23日(土)

 苦しんで済むことなら苦しんでやり遂げればいい。もっと苦しいことを乗り越えてきた。

 もう苦しいことはいいんじゃないのか……。

2022年7月22日(金)

 待つこともまた愛なんだな。

 待つということは信じること。信じることに、報われる時はありえても、終わりはない。これはもうほとんどそういう宇宙観だ。

 信じなければ待つことはできないし、たとえそう意識していなかったとしても、待つことは信じていることを必然としてともなう。

 自分の利益など捨ててしまえばいい。

 そうすることで育つもの、守れるものがあって、その価値を認めているなら、見返りは副産物で構わない。

2022年7月21日(木)

 かき氷食べ放題の家。

2022年7月20日(水)

 まずは頭皮のマッサージとため息が良さそう。

 研究者はほんの少しだけ広い世界を見ている。

 ちょっと違うな。

 ほんの少しだけ広く見えた世界に執着し続ける。

 その執着を活かせるのは研究者の資質ではない。

2022年7月19日(火)

 僕は寂しいのか。

 リラックスしてきた。

 大きな感情に巻き込まれてしまっていた。

 もともと僕は感情の処理に難を抱えているのだろう。周りがビビットな反応を示していても、自分が何を感じているか分からずに戸惑っていたことがよくあった。

 それは一見「鈍さ」のようで、実は「繊細さ」でもあるのだろうが、その場では実体がつかみきれずに、対応が後手に回るということが、常に起こっていた。僕はまちがっていないはずなのに、後になって「やっぱり」ということはままあった。

 そういう意味でフィールドワークは常に修行だった。大きな感情の波に飲まれても、最終的には語り切れるようになるための修行だったし、実践そのものでもあった。

 しかし、この修行はもともとの僕の課題を解決していくためのものとしては、過大なものだったように思う。もっとささやかなで細やかさトレーニングで十分だったんじゃないだろうか。それが見つからなかった、見つけられなかったがゆえに、わざわざフルコースのめちゃくちゃしんどい修行に足を踏み入れてしまった。

 もちろん、それをやりきる力量があったから、やれてしまったのだと思うけど。

 何かこの辺に僕が研究者として器用に立ち回れない原因があるのかもしれない。

 「能力がありながら最底辺に甘んじ」だ。

2022年7月18日(月)

 復旧できた。4月〜6月分は過去ログに移行、7月分はトップページに戻した。

 まだ見えていないもの、まだ気付けていないことがあるのかもしれない。そう思って進まなければ、何も見つからない。そう思って進むことで見つけることができる。

 あるがままを受け止めて、そして分かるようでなければ、いつまで経ってもこんなところでつまずいていることになる。

 そうか、みんなで成長しなければならないのかもしれない。生まれたばかりだった野宿者運動が、大人になろうともがいている。

2022年7月17日(日)

 index.htmlのファイルがサーバーから消えてしまっていた。なんかうっかり操作ミスで消してしまったのかなあ。

 さいわいテキストはバックアップできたけど、これをまたhtmlに置き換えるのは面倒くさい。3ヶ月半分くらいある。

 iPadのSafariに残っていたキャッシュからWeb アーカイブ形式でバックアップを取ることはできた。これをそのままhtml形式に変換できれば話は早い。

2022年7月15日(金)

 こんなことは耐えられるようになればいい。そうすればその先が見える。こんなところはさっさと通り抜けてしまえばいい。

2022年7月14日(木)

 囚われから自由になるためのステップなら、むしろそれが吉ということなのかもしれない。

2022年7月13日(水)

 小さなことに囚われていてはいけない。とりあえずそういうことでいいや。

2022年7月12日(火)

 あーもう、次から次へと……。

 疲れた。

2022年7月11日(月)

 結局はどんな思いも飲み込んで進むしかない。

 いちいち悲観するようなことが起きているわけでもない。

2022年7月10日(日)

 自分を捨てて相手の気持ちになることを考える。

2022年7月9日(土)

 僕もいい加減この気持ちに決着を付けなければいけない。そのための機会だったんだ。困難の中に機会がある。

2022年7月8日(金)

 ゆっくりしていようか。

2022年7月7日(木)

 反乱を撲滅するまでは余計なことは考えなくていい。どうせそれは変わらないことなのだから。

2022年7月6日(水)

 胸が張り裂けそうな思い。

2022年7月5日(火)

 僕はまた厄介ごとを抱え込もうとしているのか。

 僕は、理念を曲げられずに孤立してしまう人たちのことを愛している。でも、それだけではその人たちのことを守れない。

 強いから理念を貫けるわけでもないし、弱いから貫けないわけでもない。でも、理念を貫くことから逃げてしまう弱さはあるのだと思う。

 そういう弱い人たちを守りたいという気持ちも分かる。そう思う人もまた弱い人なのだ。弱い人を守るために強くなろうという人もいる。

 僕たちは守ろうとしているものが違う。その違いを分からなければ、両方を救うことはできない。そういうことだったんだ。

2022年7月4日(月)

 理念なき実践は空虚であり、実践なき理念は無力だ。

 力の限りを尽くしたけど、ついには守ることができなかった。

 僕の力はフィールドワークを通してみんなからもらったものなのに、この力ではみんなを守りきれなかった。もっとやりようはあったかもしれないのに。

 一人で生きることはできない。誰かを助けるのだって、自分が生きるために必要なことであって、そうやって自分が助けてもらっている。

2022年7月3日(日)

 まだ終わっていない。それなら、今すべきことは何か、今動くところに自分を持っていくかどうかが問われている。

 好きなものは好きだからしょうがない。

 それが地獄への道行であっても、道なるものは須臾も離れざるものなれば、常に今を生き切るのだと思えればいい。

 そうだな。僕もそこに立たなければ、何も守れない。守れないし、守ることで求めるものを得られるのは僕だけなのかもしれない。

 つねに今目に映るものがすべてなのだとすれば、判断を誤らぬよう。

 どうしてなのか分からない。苦しみを胸に抱いても生きていくことはできる。そうして生きていければ、また道はそこにある。

 そうだな。どうせ1ヶ月前、2ヶ月前もそんな気持ちだった。それなら、同じように見えても、今はそれとは違う。

2022年7月2日(土)

 胸がざわつく。

2022年7月1日(金)

 思いだけでも、力だけでもいけない。

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