2024年9月29日(日)
夢や理想があるなら、そこへ近づくことは難しくても、それを現実に近づけることは容易いはずだ。
*
今は赦せないこともある。でも、そんなことはどうでもいいと思える日が来るかもしれない。そうであったらいいと思う。それは自分のために。他人を信じられない自分もまた変わる日は来るのかもしれない。今はできない。それでいいのだろう。
2024年9月28日(土)
ひたすらフィールド日記を読む。情報量が多すぎて気が狂いそう。
すごくがんばっている、がんばり続けてきたことが分かる。しかし、これをまとめるためにはまだまだ相当の労力を要することも分かる。
2024年9月20日(金)
強さとは、弱くないことではない。弱さを認められることを言う。
2024年9月19日(木)
気持ちが落ち着かないなー。
*
気持ちが落ち着かないというより、考えがまとまらない。
2024年9月18日(水)
希望は忍び寄ってくる。何もかもが台無しになってしまったとき、希望がそっと後ろからやってきて「ひょっとして、ひょっとしたらだけど、事態は変わるかもしれないよ」とささやきかける。
希望こそ、その夜ハリーがくれた贈り物だった。その人がそばにいてくれるだけで、自分は守られていると思わせてくれる。世の中にはそういう人がいるものだ。社長も言っていた。
「あの男はいつもああなのさ。『希望』の代理人ってとこかね。何があったにしても、暗闇なぞ物ともせずに笑いとばすことができるんだよ」
それは、暗闇をよく知っているからかもしれない、とあたしは思った。知っているからこそ、暗闇に打ちかつ方法がわかるのだろう。[ジョーン・バウアー(灰島かり訳)『靴を売るシンデレラ』小学館、2009年、p.238]
*
ただ待つしかない時もあるか。
2024年9月17日(火)
関係ないと思ったところは見てない。まして関係ないと思っていることに気づいていない。
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すぐに他人のせいにしてしまいがち。自分はちゃんとやっているという意識が強いことの裏返しか。
2024年9月16日(月)
何もかもがようやく追いついて来た。これまでどうしようもなかったことのすべて。
2024年9月6日(金)
進化は目指して達成されるものではないのに、「◯◯ラーメンの進化系」などと表現してしまう。それを価値あるものと評価するまなざしが「進化」という言葉を選ばせるのか。
2024年9月3日(火)
繰り返すことに意味はない。しかし、繰り返すことで見えてくること、繰り返しがなければ気付けないことはある。いつかたどったこの道をどんな気持ちでたどったかを思い出せるのは、今日の日にまたたどっているからだし、今日そんな気持ちになる意味もまた、かつてたどったことがなければ意識できない。
2024年9月2日(月)
野宿者は野宿者なりに追求していることがある。しかし、それは決して語り得ないことで、語れずにいることに気づけない人々は、ジレンマに気付けず、野宿者を追いつめる。
*
とてもそんなふうには考えられない。何か犠牲にしているものがなければ、あるいは犠牲になったものがなければ、とてもあんなふうにまで考えていない。
*
裏切り。裏切られた。
2024年9月1日(日)
途中で逃げ出していれば、ここまで来ることはなかった。
それなら、あとはもう、ただ使命を果たせばいいのかもしれない。
*
そうか、そういうことにしてしまいたいのか。自ら望んではじめたことだったとしても、ここまでやるのは自分の意志を超えている。たとえうまくいかなくても誰かがやらなくてはならないこと。僕にはできる限り上手くやろうとするくらいの裁量しかない。そういうものを引き受けた。
2024年8月31日(土)
疲れているのに眠れず、余計なことをしたくなるのは、満足したと思えないと眠りたくないからなんだろうなあ。
2024年8月29日(木)
相互行為と意味付けによって現実も社会も作られているのだとすれば、いかに整合的に現象を説明できるとしても、相互行為と切り離されたところで組み立てられた抽象的な立論は、常に虚構を強化するものであるか、「よりマシな虚構」を曲解の余地を広げながら追求するものに過ぎないように思える。
2024年8月26日(月)
本当かなー?
2024年8月25日(日)
僕は、こんなにも胸を痛めていても、それを感じたままに表現しながら、データとして即物的に扱っている。依代に意味が溢れていても、依代自体に魂があるわけではない。
*
それでもやはり、僕の中にやりきれなさは残っている。だから、まとめようとしてそのたび上手くいかない。苦しんでいる。たぶん、一気にまとめられなくても当たり前なんだ。
*
なかなか進められない理由が分かった。考えがまとまってないからでも、まとめる力がないからでもない。こんなこと、平然とまとめられるわけがない。
むしろ、よくも一度はまとめきったものだ。だからこそ、僕はまだ未来をあきらめずにいられる。
*
2024年8月23日(金)
ふー。嫌なことでもやらないといけないものだ。
2024年8月20日(火)
僕はもう、自分自身の考え方をしなければどうしようもないところまで来ている。
個々の論文の帳尻合わせなんて小さなことだ。
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僕はなぜこんな研究をしているのか。どうしていつまでも寄せ場や野宿の問題にこだわらなければならないのか。
これまでとは根本的に違うステージへとステップを踏まなければならない。そうしなければもう何もできないようなところへ来ている。
2024年8月17日(土)
やはり気持ちを落ち着かせることか。
2024年8月14日(水)
何も失ったものはない。むしろこうして得てきたものがある。まだそう思える。そう思えれば、そうなる。
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人が認知能力を正しく使えれば、無駄にはならない。実体のないものを語らなければ、過去も現在も形を成さない。
2024年8月13日(火)
答えを見出さなければ先へは進めないか。
*
しかし、この場合の答えとは、どのスケールでのことなのか。
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そうか。判断のスケールを広げることそのものが必要とされているのか。
2024年8月5日(月)
転移と逆転移か。
語り得ないことは語り得ないままで。語り得ないことは語り得ないままでいて、ようやく語り得ることもあるのかもしれない。
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守るべきものは無くなってしまったのに。
2024年8月2日(金)
めちゃくちゃしんどい。なんで。
2024年7月29日(月)
共感できない理由は明らかなんじゃないか。
寄り添っているように語りながら、常に一歩引いてみている。その姿勢がいちいち透けて見える。口で言っていることやっていることが微妙に違っていることをごまかそうとすればするほど、ラディカルなことを言う。そういうのが欺瞞に感じられる。
それなら、ラディカルな部分はラディカルな部分で、よくできた部分はよくできた部分として認めた上で、その点の疑問だけをくっきり提示すればいいのか。
2024年7月28日(日)
きっと、どうにもならないことだってある。
誰でも最後に自分の命を使うことはできる。
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きっと、小さなことでも命がけでやらねばならない場合はある。それを忘れるために文化があるのかもしれない。
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理解の方法論みたいな解き方をすればいいのかな。
その上でこの本固有の要素を論じられないとダメかなー。
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本の構成を読み解くようなことではダメなのかな。「こういう主題であるはずなのに、なぜここでこんなことが語られるのか。そのわけは実は……」というふうに。
2024年7月27日(土)
逃げるか逃げないか。
逃げないためには逃げていることを自覚しなければならない。逃げないことは必ずしも闘うことではない。目の前に敵がいるとは限らないし、打ち倒せるものがあるとも分からない。
「逃げなかった」ことは、事後的にしか分からない。同じように「逃げてしまった」ことも、逃げてしまった場合には分からなくなってしまう。
現状にとどまるとは、過去にこだわるということだ。すでに起きたことの範疇に安住していたい気持ちだ。
もちろん、経験の積み重ねから危険を察知し、安定を築こうとすることはまちがっていない。しかし、その過去とは選別されたものだ。その安定は、あるもの、あったものを切り落として成り立つ。
逃げることと安定を保つことは紙一重であり、過去にこだわることが逃げることにつながっているとすれば、逃げないこととは、不安とともに生きることだ。
逃げないことは、勝利につながっているとは限らないし、逃げなかったからといって、解決があると約束されているわけでもない。
逃げてしまってもいい場合もあるだろうし、逃げることにはならないこともあるかもしれない。しかし、それは、とにかく「逃げない」ことを選ばなければ判断できない。一つ一つ確かめていくしかない。
*
当たり前のことは語られない。当たり前のことを語っても、それそのものからは新しいものは出てこない。しかし、当たり前のことが成立する過程とそのメカニズムを詳らかにすることで、語られていないものを浮かび上がらせることができるし、無いことにされているものから、別の世界を作っていく可能性が見出される。
新しいものが出てこないとしても、そういったことは常に試みられなければならない。そうしなければ語られないものは見えてこないからだ。まずはそういった営為を認めさせるところからはじめなければいけないのが、エスノグラフィーの困難ということだろう。
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そうか、授業とかもそうなのかも……。当たり前のことを問い直すと語られていない部分まで見えてきて、そういう時に学びがあるのかもなー。
2024年7月21日(日)
方法論的な確立も必要だったんだな。
これは既存の理論だとどこになるのかなあ。
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データを作る時にも一貫性が必要だし、読み解く際の分析枠組みにも一貫性が必要だ。「データを作る」際の一貫性とは、データの付け方もあるが、自分がどのようにかかわるかによって出来事は変わるのだから、行為の一貫性も関係してくる。
2024年7月20日(土)
日記を読み返しているが、こんな酷い状況でよく頑張っているなと思う。
すごいデータだ。
2024年7月19日(金)
臨床とはやはり治療関係のことではないのだろう。対象との向き合い方の問題であって、そのような方向での知的な理解が必要とされていることを意識させる言葉なのだ。
だから、臨床社会学と言った時に、社会学なのに治療関係のメタファーにとらわれることになる。社会にだって、臨床的な理解の知は必要なのだ。
2024年7月17日(水)
そうか。
自分を捨てなければ、得られない力がある。
自分を捨てでも発揮しなければならない力があるのだと信じられるのなら。
信じられるものがあるなら。
小さなことはどうだっていいじゃないか。
2024年7月15日(月)
もう無駄なのかもしれない。
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無駄なことなんて。
無駄なことなんてない。
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不条理なことはある。理不尽なことはいくらでも起こる。
自分がまちがっていなくても、不愉快な思いをさせられたり、どうしようもない時だってある。
しかし、そんなことは本当はどうでもいいことなんだ。
2024年7月13日(土)
分からない、ことばかりか。
*
途方もないこと。
*
言葉にならないよ。
言葉にできない。
*
どうやって言葉にしていくか。
自分でも見えていなかったことをゆっくりでも確実に拾っていかなくてはならない。
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いくつもの文章が必要となるはずだ。しかし、徒に言葉を費やしてもいけない。語られる内容と文体によって、その分量や頻度も使い分けていかなければ。
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しかし、それはもう僕の中で確実に形になっているもので、一度見誤っても正しく復元することができるだろう。
社会調査の中にそんなノウハウはなかった。あるはずもない。
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特別な人間はいない。いなかった。
2024年7月11日(木)
なんとかなるのかも。
*
記録の力か。
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この不愉快な作業続けるのかな。
データを取った以上、とことんやる以外ないのか。
腹も立たなくなるくらい、徹底的に。
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渦中にいる時はできなかったことか。
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これで膨大なデータを無駄にせずに済む。膨大なデータを扱い切るために必要なものについても語れるようになるだろう。膨大なデータを扱い切るための力を求めていた。それは今満たされつつある。
2024年7月4日(木)
科学が神話に成り代わろうとして成りきれていないなら、足りていない部分を埋めるような力は自ずと働くだろう。
フィールドワーカーが儀礼的に死ぬことができていない。
*
運動ごっこという感じだなあ。
2024年7月1日(月)
フィールドワークにおける死と再生。
*
出来事の中から神話を取り出すのか。
そのためにはシンボルは物語の中に配置されなければならない。
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そうか、描かなければならないのは野宿者運動の神話なのか。まず野宿者運動の神話が物語られなければならない。その上で神話の構造分析がなされねばならない。事ここに至って、すべては語りうるようになった。
それを語るのはフィールドワーカーである。フィールドワーカーもまた、神話の時代を生き、その中で死を迎えた。
物語ることを通してフィールドワーカーは再生する。しかし、もはや神話が蘇ることは決してない。
*
儀礼の一回性という要素も重要なのだろう。最初から引いて眺めていれば、そうした体験はできない。第三者が後から振り返れば自明なことも、現実の中では未確定なものとして判断しなければならない。
*
未来は不可知なものでありながら、必ず訪れるものである。未来が不可知な現在について語られることは、実は神話に過ぎず、そういう意味では現在は語りえないものなのだ。
また、ある時に現在について語られていた神話は、訪れた未来としての現在においては、存在しえない。言うなれば、淘汰されているはずで、現在語られている神話は、神話でありながら、現実に適応したがゆえに語りうるものである。
しかし、それはなお神話であり、現在を語ったものではない。常に現在は語りえないものなのだが、現在の語りは現在についての語りだと人は錯覚している。
2024年6月27日(木)
もっと高いところへ導き、もっと深いところに根を下ろしてくれるような知識を求めなければならない。根源的なところから自分の力を底上げしなければ、この先へは進めない。
2024年6月24日(月)
しばらくはこういう気持ちに耐えるしかないのだろう。やることをやりながら待つしかできない。
2024年6月21日(金)
でたらめなやつらとのつきあいに疲れた。
*
去年の8月は跳ね返す力をしぼり出す必要性が感じられなくなってダウンした。
今は安全な場所にたどり着いたことで過剰な出力にセーブがかけられたのだろう。
2024年6月18日(火)
出会わなければいけない人があれば、きっとすぐに現れる。知らなければならないことがあるなら、目に留まるだろう。
2024年6月17日(月)
ピンカーの言っていることが正しくても、それは特定の何かを肯定するものではないんだな。なんとなく方向性の正否を示しているだけで、それ自体は現在行われていることを肯定する根拠にはならない。
2024年6月9日(日)
「本を読んで何が面白いの?」という話をまとめてみたい。
*
降ってくれた。
*
ずっと体調は悪かったのかもしれない。常に見えなくなっていただけで。
もう一週間にもなろうというのに治らない。そのことに意味はあるのか。
意味はなくとも意味を見出そうとしてしまうものだ。
また、直接の意味はなくとも、症状とは関係ないところで、見出されているものにはやはり意味はあるのかもしれない。それを自分がどう片付けていくのかという問題だし、そこに身体の不調が、きっかけとなり、重なり合うことはある。
*
そうか、だから儀礼というものが必要になる場合があるのか。儀礼そのものに薬効はなくとも、人には癒していかねばならない解釈の領域がある。合理的に考えれば不要なことでも、確かめるためには禁欲を要する場合もあるだろう。
禁欲など、合理的に考えても難しいものだ。功利主義的な合理性で行なわれる禁欲は苦痛でしかないし、苦痛と引き換えに手に入る利益が天秤にかけられているに過ぎない。
禁欲、つまり利益を得ることが目的ではない。理解のために禁欲が求められている。禁欲を通してしか確かめられない。確かめることは必ずしも発見をともなわない。たとえば危険がないことを確かめることだ。
もちろん、そこには危険が見つかるかもしれない。危険の有無を確かめることは合理的でもある。
理解は合理的な判断の基盤となるものだとも考えられる。しかし、理解は合理性そのものを問い直すものでもある。合理的な判断に基づいて理解が求められる場合もあるだろう。しかし、理解が合理性を問い直すものである以上、原理的にはどちらでもありうる。
心と身体は切り離せない。しかし、切り離して考えなければ理解できない時がある。
つまるところ、禁欲とは理解のための条件の統制でしかない。そのような理解を求めているかいないかが問われているだけだ。
儀礼は技術的、あるいは社会的な条件の統制であり、制度が理解をうながすこと、もたらすこともあるだろう。
*
この機会に、道を切り開かねばならない。もう、ためらっている時でも、安らいでいる時でもないだろう。
これは誰もが歩める道でもなければ、歩みたがる道でもない。これが望んで、踏み入れることを得た道なら、すべてを捨てても、すべてをかけて行けるところまで行けばいい。戻る道もとどまる場所もどこにもありはしないのだから。
張り合える者もいないし、否定できる者もいない。
心のままに進むことでもあるし、捨て去って進むことでもある。理解のためには条件が統制されていなければならない。心のままにあるとは、それは統制と一致しているということだろう。まちがっている部分があっても、選べる道は一つしかないのだから。
*
僕の中にも語り得ないことが溢れかえっている。
苦しみをごまかしてしまいたいのは無理もないことかもしれない。それは嗜癖にはなっていないかもしれない。つまり身体の苦しみは、ごまかしのいいわけとして嗜癖を装わされているというわけだ。それでも、もう苦しみをごまかしでやり過ごすのをやめなければならない。だから、身体の苦しみに耐えることは重要ではないけど必要なのだ。
*
やめなければいけないのは嗜癖ではなく、苦しみから目を逸らすこと。いいわけを作ってごまかしてしまわないこと。結果としてそれは同じことを迫るのだとしても、二つを混同してはならない。
*
弱さは最大の武器。しかし、弱さはごまかしていると力にならない。
2024年6月8日(土)
つーらーいー。
天候すらままならない。
2024年6月7日(金)
それだけのことだったのか、それだけのことはあるのか。
2024年6月2日(日)
結局、進化に意思があるかのように考えることがまちがいなわけだな。進化が究極の合理性のもとに進展するものだとしても、それは意思が介在していないがゆえなのだから。
*
自分のDNAを残したいとか考えて行動しているわけではない。そこに進化心理学の根本的な誤謬があるのだろう。
特性や欲求の方向性のようなものは確かにあるし、それは統計的に明らかにされたり、進化生物学による比較を通して推測はできたとしても、具体的な社会的な場面でその影響によって行動が決定されているとは言えない。それを確かめる手立てがない。それでも、そういう力が働いている可能性を否定はできない。「肯定もできないが否定もできない」と理解した上で、可能性を意識するために積み重ねられる知識の体系だ。
2024年5月31日(金)
「期待の次元」と「回想の次元」か。
2024年5月27日(月)
もしかすると疲れてダウンしているのは土曜日からなのかもしれない。とりわけ今日というわけではなく。
*
当事者研究が、まどろっこしく自明であるようなことを不器用に手作りするのは、インタビューや計量的な調査をしてしまえば立ち所に説明できるようなところを参与観察にこだわるフィールドワークに似ている。ただ説明するためならその方が早いことなど、フィールドワーカーは百も承知である。特に、現代社会の日常に対してフィールドワークはただただ効率が悪く、学問としては分が悪い闘いを強いられる。しかし、そうしないことは本末転倒であることを知っているからフィールドワーカーをやっているのだ。
2024年5月26日(日)
不快な思いをまったく伴わない人間関係なんてありえないと思っておけばいいのかもしれない。
2024年5月25日(土)
何がそうかなのか忘れて思い出せなかった。
しかし、なんか、まずはそうかとしか言えない感慨のようなものはある。
*
そうか、ブラックボックスの中身に、推測はついても構造は決して確かめられない。それを引き受けてなお考えるものだけに見えるものがある。
*
そうか、それに、科学は自分自身を理解するために営まれなければならないのかもしれない。そうすることで初めて社会の役に立てる。そのように考えるべきなのかも。
*
そうだな、世界を知ることでしか自分のことを理解できない。自分のことを知ることが世界を理解することとして自ら制限をかけられるなら、道を踏み外すことはないだろう。
*
そして、自分のことを理解し切れたと言える時など、決して来ない。それこそがブラックボックスの最たるものだ。
しかし、そこを目指すことだけが確かなことなのだろう。
*
いくつもの、可能性があった。
*
可能性。
愚かなやつばかり。しかし、その身をわずかばかりでも忘れて捧げたものであるなら、いがみあうほどの根拠がどこにあろうか。
2024年5月24日(金)
そうか。
2024年5月21日(火)
あー、まあ仕方ないか。今さらようやく枠組みが形になるようでは遅すぎるのではないかと思ったが、調査をしながら理解していったことがなければ、整理できなかったわけだからな。
いや、それならしかし、時間的余裕がなかったことはともかく、分からないなりにこの方向へ突っ込めたのはなぜだったんだろう。
反排除の欠落は「釜ヶ崎の外へ」の時点で嫌というほど見えてしまって、その後、野宿者運動のフィールドワーク自体もう終わりにしないといけないと思ったからかな。
*
フィールドワーカーなのだから、たとえ分かりきったことだと言われても、そこに行ってみるのは当たり前のことなんだ。行ったこともないところのことを語ることもできるだろうけど、それはフィールドワーカーにとっては想像でおしゃべりしているにすぎない。
いいか悪いか、効率的か非効率か、分かりきったことかそうでないか、そんな問い自体に意味がない。
2024年5月19日(日)
だいぶ自分のことが分かった気がする。判断して踏み込もうというその時に説明することはできなくとも、そうしなきゃならないことは分かっている。そうするしかないことも分かっている。ただし、たどり着いた先のそれが具体的にどんなものなのかは分かっていない。
しかし、それが成就するかどうかは運に任せたリスクがともなうし、無傷で済むとは限らないことも分かっている。たとえそれがどんな悲劇とも苦行とも知れないのだとしても。
そこまで理解してくれる人がいるなら、何も迷うことはないのだろう。
たとえばそれをセクシュアリティと呼ぶなら、それはつまり性という。
2024年5月16日(木)
最初にひとこと申しあげておきたい。これからの話はごく一般化されたもので、あなたやわたしがそのとおりに行動するとはかぎらない。個々人の行動すべてが、人類一般の行動原則どおりであるはずがない。だが話を進めるためには、例外をとりあげるのではなく、ごく一般的なパターンに着目しなければならない。
もうひとつ、わたしは「政治的な正しさ」をめざそうとは思わなかった。自然は、男と女がともに働くようにつくった。だからといってわたしは男も女も同じだなどというつとりはない。同じではないのだから。その違いについて、進化論的、生物学的な説明をしたつもりである。[ヘレン・E・フィッシャー(吉田利子訳) 1992=1993『愛はなぜ終わるのか――結婚・不倫・離婚の自然史』草思社: 3]]
結局のところ、性別のカテゴリーで一般化を志向する研究は、偏見を作り出すか、薄めるかしかできないのかもしれない。
2024年5月15日(水)
考えがまとまらない。やらないといけないことはたくさんあるが、一つずつしか仕上げられない。
セクシャリティの問題はとりあえずプライベートの範囲かなあ。
経済、社会運動、セクシャリティ、〈臨床の知〉。
*
こういう人びとの持っている自由をどうとらえるのか。ジプシーなどは土地の所有権さえ認めないわけですから、「盗む」のではなく「発見する」と考えている。現実にはひどい目にあいながらも、彼らの思想はまことに自由です。[網野善彦・阿部謹也、1994『対談 中世の再発見――市・贈与・宴会』平凡社: 35]
違うかもしれんけど、権力構造を別にして考えれば、条理空間に対して平滑空間を創造しているみたいに言えたりしないのかな。
もちろん、それを押しつぶす反作用があり、その強度は抗えないほどのものであれば、どれほどの波及力を持つかは別として、そこに波及する可能性を持った作用を想定することはできる。
2024年5月14日(火)
うーん、なんか不安だ。
2024年5月13日(月)
嫌なことなんていくらでもあった。
2024年5月5日(日)
やはり世界を見る意志であるってことだろう。
2024年5月1日(水)
ソシュールの言語学というのは、僕がフィールドワークのデータの解釈を組み立てる時の視点に近いんだなあ。
また、構造主義はどこか進化論に似ている。人の意思を超えたところで、意思そのものも拘束するような超越的な力が働いている。しかし、それは遡及的に本質化されるにすぎない。
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