2019年5月31日(金)
しんどすぎる。来週金曜日までに元気にならなければ。
2019年5月30日(木)
意欲がわかない。新聞読むのもしんどいけど、ため込むとさらにしんどくなるから朝のうちに読んで、ようやく読み終えたと思ったら、洗濯物をまだ干していないことに気づいてまたうんざりした気持ちになる。
2019年5月29日(水)
書き上げて一週間もしないうちにダメ出しをされて、修正する余力もなく放置されている。これまでの蓄積を全否定されたような気持ちを堪えながらあれこれ文献を読み広げている。
フローの空間と場所の空間について、前者を仮想空間、後者を実在空間のように位置付ける理解に疑問を感じる。実際は、観光都市、商業化の部分と地域コミュニティ化という形でそれぞれの空間は隣り合い、重なり合ったものとして把握していく必要があるのではないだろうか。
2019年5月28日(火)
さあ、少しでも本を読むか。
現象学というのは要するに関係の持ち方、関わり方による世界の理解だと考えればいいのかな。
しかし、現象学的な理解の中に本質的なものが前提とされているようなもの気もする。
そんなこと言ってたら何も言えないし、そういう発想自体が何かに囚われているようにも思える。
2019年5月27日(月)
土曜日はまるまる死んでいた。それでも深夜には月曜日の授業の準備はした。
日曜日は寄り合いだった。寄り合いは楽しかったが、また深夜に書類作りをしなければならず、ファミレスで日付を超えてしまった。
また同じ内容のもの書類を2時間くらいかけてコピペするだけの簡単なお仕事がはじまる。仕事なのかこれは?
2019年5月24日(金)
デフラグ。起きててもぼーっとしてれば疲れはとれるんだろうか。
場所にこだわらなければならない理由は考えてみれば明白なはず。その場所とその場所で形成される社会関係として見ることでしか抽出できない要素があると思っているからだろう。
そのためには、そういった視点からの実際の出来事の分析と解釈が必要なのはもちろん、出来事の持つ意味を増幅して理解する便宜的な枠組みが必要だ。
ここでのゴールは場所を媒介にして社会的な連帯の道筋が導き出せるのかどうかだろう。この道筋を仮説としてであれ索出するには理論的な見取り図に頼るしかない。
一つの場所をめぐる意味が複層的になっている。それは関わる人間が多様であれば当然だし、その多様性を受容する態度が必要だ。その場所を必要とする理由がどこにあるのかを丁寧に区分けしていく必要があるかもしれない。
2019年5月23日(木)
やっぱりベースは思想なんだな。
2019年5月22日(水)
問題は何も解決していないし、文献探しもなかなか進まないが、メンタルな落ち込みからは回復してきたことがわかる。
少なくとも先々週の木曜日、9日以降は最悪だった。落ち込みを抜けるのにやはり10日ちょっとかかるということか。多めに見て2週間かな。
*
政策や議論の場、声明の中で表現されるセンターは、実際に生きられるセンターとはずれている。語ることによって必然的にずれる部分が生まれる。ズレが出るとしても語らざるをえない。しかし、そのズレが生む排除については指摘しなければならない。そんな形で議論を構築することはできるだろうか。
場所を構築する。これを可視化するにはどんな場面をどんなふうに読み解いていけばいいだろうか。
場所の構築であれ、空間の生産であれ、これは言語化されなければ、存在するようで存在しないようなものではないだろうか。逆に言えば、存在させるためには言語化されねばならず、そのための言語を作り出すところからはじめねばならないということだ。
2019年5月21日(火)
嫌味にならないライン。どんな立場からものを言うのか。組織の代表として語ることは一定の社会性を生む。しかし、個人として語る時に他者を代表するのは無理がある。
2019年5月20日(月)
どこにも余裕がない。
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授業の空き時間で「女の気持ち」を素材にコーディングしてみるか。インタビューの課題にも通ずることでもあるし。
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「場所性」を語るなら、場所についての議論からいくつか定義を持って来ればいいのではないか。何も一から組み立てる必要はない。
場所のアイデンティティの複数性という視点がすでにあるのなら、その場所にかかわる人たちの立場とアイデンティティの複数性を前提とした議論にしてもいいかもしれない。
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図書館で読書に集中できたことの方が少ない。
2019年5月19日(日)
支援者のあいだで働いている力学はある。そこはとらえやすそう。場を構築する基礎にあるのは支援者のあいだにあるものだから、そこにかかわるものとして当事者とのやりとりを解釈するという入れ子構造を意識しないと分析できない。
ここで「当事者」という言葉を使わざるを得ないところにも自明性の構造がある。
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労働者もあまり「釜ヶ崎」とはいわない。彼らに見えている「釜ヶ崎」は僕たちに見えている「釜ヶ崎」とは違う。このずれには何かあるかもしれない。
2019年5月17日(金)
自分なりの説明ができるくらいまでに読み込まないとダメだな。
自分が使おうとしている言葉がなぜ必要なのかがまだ見えていないのかな。
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場所というのは状況や相互行為の分析と相性がいいように思われるのだが、切り口がまだ見えてこない。
2019年5月16日(木)
つらい。
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集中しきれない。
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ちょっとしたよどみすら見逃さないように把握しなければならない。
2019年5月15日(水)
人はどうやって立ち直ることができるのか。つまずきを乗り越えているのか、忘れたふりをしてやりすごしているのか。やりすごしたうえで再び乗り越えるための力を蓄えているのだとすれば、早く忘れてしまった方がいいのだろうか。
いずれにせよすべては力にもなるし枷にもなる。
2019年5月14日(火)
「読んだらわかる」前提で勉強しているな。ここは以前とは違う。
2019年5月13日(月)
どっかに吐き出さないとしんどい。
なかなか実力の伴わない自分が嫌だ。
つぶやき。
調査や分析の能力と理論の蓄積はまた別の話と思えばそんなものなのかもしれない。
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支援者と野宿者の関係性を通して場所性を語った方が面白いかも。
2019年5月12日(日)
高橋早苗「リスクのなかの都市空間──ニューヨークを中心として」(吉原直樹・堀田泉編著、2015『交響する空間と場所I 開かれた都市空間』法政大学出版局、pp.129-164)わかりやすかった。
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今までの蓄積なんてほとんど何の意味も持たなくって、もう一度ゼロから『飯場へ』を書き上げるのと同じ苦労をするしかないんだろう。
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まず地域における自主防犯についていえば、警察や国家権力をコントロールするため(エツィオーニ 2005: 47)、あるいは「異なる要素の重視」(ケリング&コールズ 2004: 179)という条件のもと、コミュニティによる自警団は肯定される。[菱山 2015: 184]
菱山宏輔、2015「モビリティとセキュリティの空間」吉原直樹・堀田泉編著、2015『交響する空間と場所I 開かれた都市空間』法政大学出版局、pp. 165-202。
エツィオーニ、2005『ネクスト──善き社会への未知』麗澤大学出版会。
ケリング&コールズ、2004【割れ窓理論による犯罪防止──コミュニティの安全をどう確保するか』文化書房博文社。
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野宿者のシティズンシップなんて議論もできるだろうか?
しかしそれは野宿者に限ったことではないかもしれない。
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まちづくりの問題を「参加(関係?)の欠如」を排除ととらえる社会的排除論を切り口に深められるかもしれない。
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場所性の議論をもう少し深められるのかな?
付け焼き刃だが、都市空間の商業化と地域活動が同時進行する都市の統治構造の中で、野宿者にとっての場所性を問うことで、市民社会を批判的にとらえかえすことができるかもしれない。
例えば支援者と野宿者が出会うことで切り開かれる可能性というのはやはりあるはずだ。
2019年5月11日(土)
がんばれないよー。このうえさらに何かを要求されても無理ですよ〜。
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これはもう根本的なところからやり直さないとどうしようもないな。
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まいった。どうしたらいいのか。
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理論的な枠組みを作って事例を分析する意義が見出せなくなっている。そこに意味を見いだせればいくらでも回帰できるのだろうけど。
事例に普遍性、一般性を持たせるために理論的な枠組みが必要とされる。事例だけでは看過されてしまうものを可視化するために理論的枠組みが必要なのだとすれば、十分な意義があると言えるだろう。
しかし、その理論的枠組みに納得が行くかどうか。単にもっともらしい「枠組み」ではなく、その視点そのものが必要とされるものだと思えなければあまり一生懸命になれない。
学問にそこまでの力があるのか。その理論が受容される可能性まで考えなければ納得がいかないだろう。
2019年5月10日(金)
ゆううつだ。
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落ち込んでいる場合ではないし、どうしたって楽なようにはいかないのだから、流されてでも前に進もう。
2019年5月9日(木)
今本当に誰もここ見てない。
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昨日は死ぬほど疲れた上になかなか寝ることができなかった。今朝、これは風邪のひきはじめだと焦って、午前中に2時間半ほど仮眠をとったらわりとましになったのでよかった。
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SNSで断片的な情報をばら撒くことになんの意味があるのか。考察するには結局蓄積が必要で、SNSでばら撒くことは蓄積にならない。知識も時間も意欲も無駄にしている。
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非常勤控え室ってどこの大学でも落ち着かないなあ。
2019年5月8日(水)
振り替え授業日とか……。
2019年5月7日(火)
寒い。読みまちがえた。
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まあでも暖かくなってきたか。夕方が微妙だな。
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だらだらと切れ目のない生活になってしまっているのが良くない。だらしない家族のことなど、時間を決めて自己責任で切り捨てないと気が休まる暇がない。21時半になったら仕事しに家を出るか、部屋にこもるかしてしまおう。宿題してなかろうが夜更かしして朝起きれなかろうが知ったことではない。死にはしない。自分が困ってろ。
2019年5月6日(月)
何とか論文書いてほっとしたのもつかのま、明日からまた日常が戻ってくる。論文を期限内に書き上げなければならないのとは別の忘れていた憂鬱感を思い出した気分だ。
「嫌だなあ」「やりたくないなあ」「でもやらないとなあ」と思いながら、ギリギリまでやる気が出ないからまたつらくなっていく。常に次の仕事が用意されていて、いつになってもすっきりした気持ちになれない。そういう憂鬱感だ。
■新聞 #19
毎朝毎夕読むのが面倒くさいという気持ちは変わらないが、最近は嫌々でも読みはじめたらわりと面白いと感じていることが多い。時間に余裕があって、じっくり読めるような時間があるなら新聞を読むことは娯楽といってもいいくらい楽しいことになるかもしれない。
海外の動向など、その日の記事を読むだけではほとんど何もわからないのに、この国はこんなことが起きているんだなと素朴に興味が持てる。
活字離れ、新聞離れなどと言われ、その原因は別の娯楽が増えたためだと言われたりするが、活字を楽しむのが難しいような生活スタイルになっているだけなのではという気がした。つまり生活がぶつ切りになって余裕がない。知性が劣化したとかそういう話ではなく、そういうふうにおい込まれているのではないか。
2019年5月5日(日)
■論文 #18
要約をどう書けばいいのかまったく思い浮かばない。
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昨日ようやく結論部分が書けたので本文は完成した。文章を書くときは書こうと思って書けるものではない。行きづまって「もうやめておこう」と思ってからも頭の中ではずーっと考え続けていて、「あ、この切り口で書けばいけるんじゃないか」と思いついたことを性懲りも無く書いては書けなかったり、ところが書けてしまったりする。
今回の論文の結論は文章力で解決しなければならないと思っていた。すっきりする答えを提示できるわけではないから、説明の順番だったり、書けるけど書かないようにしたり、テクニックでうまくまとめる。それなりに完成度の高い文章として仕上げる必要があった。そういう意味ではとりあえず書いてみて消したり、部分部分を整理して並べ替えたりといった作業をしながら準備をして、必要なことを過不足なく一気に書ける程度に肩の力が抜けた状態を作り出す、あるいはそういう瞬間を捕まえるといった手順を踏まなければならなかった。この場合の「文章力」というのは「過不足なく必要なこと」を「一気に書ける」範囲内で構想し、なおかつ「一気に書ける」能力のことを指す。また、これをやるには「過不足なく必要なこと」が自分の「一気に書ける」能力(体力といってもいい)内でまとめ切れるような題材なのかどうかを見極めることができなければならない。
というところで、今日は要約をそのようにして一気に書き上げたいのだが。
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場所性の条件と性質を明らかにすると。その条件とは可視性、継続性、場所の固有性の3つ。その性質は複数の当事者性。
しかし、こんなことを解説していたら600字ではとても書ききれない。テント小屋の排除が進行し、野宿者が減少した後の野宿者運動が路上にこだわる意味がどこにあるのか。
「大阪城公園よろず相談の野宿者支援の活動をもとに」という一文は入れてもよさそう(目的のところに入ってるか)。
都市の統治の方針と構造の話。公共領域の営利企業への分与と住民参加の推進がないまぜとなって都市空間の商業化が進行している。支援者と野宿者、ひいては都市住民が同じ当事者性を共有する余地が生まれている。統治の手法が都市空間を通して作用してくる現在、それに対抗するには場所性に依拠する必要がある。複数の当事者性を創出する野宿者運動の取り組みはその可能性を探っている。
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何とか書けた。あとは文献リスト埋めて英文要約という時間と労力だけの作業だ。
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あー、読みたい本が山ほどあるなー。
2019年5月4日(土)
■論文 #17
まだ言語化できていないところが残っている感じだなあ。
論点の洗い出しが必要か。
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場所性と野宿者の生の意味の理解、2つの論点がある。
野宿者支援はそれ自体が目的でもあるが、気づきをもたらす手段でもある。野宿者にかかわる問題として資源ごみ回収規制やPMO事業について調べるうちに、それが市民生活一般にかかわっていることに気づく。
「野宿者のための運動」を確立するのが難しい。「野宿者の当事者性」をどこに見出せばいいのか。
Sさんの事例は「当事者性の協同構築」がうまくいかないことを表している。しかし、よろずの「野宿者支援」の「支援」のようなことをしてくれることもある(それはSさんもそうだ)。何を目指しているか、それを誰がどのようなスタンス(当事者性)で担うのか、それ自体が流動的なものだ。
よろずは荒野の中で希望を見出そうとしている。一致できるところもあれば一致できないところもある。それでも、とにかく一致できるところ、一致の可能性を探してあれこれ試みているし、明確な方針が見えないときにも日常の活動は継続している。
可能性の模索と状況の理解。どこかで野宿者への共感がある。野宿生活にありながら道を切り開くたくましさやバイタリティに惹かれる。その人柄に魅せられる。それが路上にあるということが強い印象をもたらすだけで、何も特別なものではないかもしれない。当たり前のものが路上にある。路上においても当たり前のことが当たり前に実現されること。これを「権利」と呼ぶのではないか。当たり前のものを強く意識されるのが路上であるというだけの話かもしれない。
*
「複数の当事者性」というのがもう一つ言語化できていない。当事者性とは社会との向き合い方のことだろう。この社会の中で自分はどのような生き方をするのか、アイデンティティと結びついたところに当事者性が形になる。どのような当事者性が形になるかは自分がどのような社会関係の中に生きているかによって異なる。当事者性は後から生まれながらも先を行こうとする。
社会関係を生み出すには関係を結ぶ場所が必要となる。その関係を結ぶ場所が路上であるということは、すでに何らかの特性を帯びている。路上で関係を結ぶには出会いの継続性が必須条件となる。路上で関係を結ぶには、路上を訪ねてその都度の出会いを繰り返す必要がある。単なる出会いの繰り返しが警戒を解かせ、信頼関係の構築につながっていく。
路上での出会いを生み出すもう一つの条件は可視性である。まず路上という野外にいなければ野宿者と出会うことができない。野宿者は路上において可視的な存在形態によって出会いに開かれている。それは望んでのことではないにしても、可視的でなければ決して出会いは生まれない以上、可視的であることも野宿者支援における都市空間の場所性を構成する不可分の要素といえよう。
*
継続性の意味をもっと掘り下げないとダメだな。それに、継続性は可視性の次に来る要素として位置付けた方がいい。
集団性は「複数の当事者性」を含むものとして議論した方がいいのかも。「複数の当事者性」を前提としなければ場が成立しない。一点に凝集するような当事者性を命題とするような運動の志向は集まりを生み出すことを阻害する。
しかし、それだと場所性の条件と性質という議論に馴染まないな。集団性はよろずの空間的実践によって生み出された要素(というより、まさに性質?)と見るべきで、場所性の条件ではない。
この性質が可視性と継続性という条件によって必ず生み出されるというものではないにしても、必要条件であることはまちがいがない。いや、可視性、継続性に加えて、どこであれ固有の場所であることそのことが条件となっているのか。同じ場所で寄り合いが開催されていなければ集うことができない。
場所性という言葉ももう少し整理した方がいいな。「なぜ路上にこだわる必要があるのか」。これがそもそもの問いで、場所性はこれを言い換えただけなのだから、これに答える形で論を組み立てたほうがいい。
路上でなければならない理由などない。しかし、そこに人がいる以上、そこは路上でなければならない。「路上の権利」は「路上にいる権利」でしかなかった。そこがどこであれ当たり前の人生を生きることができるという理念として「路上の権利」は拡張されてきたが、どうがんばったところで野宿生活は過酷なものである以上、これは本質的に矛盾を抱えた言葉だった。
しかし、その矛盾を抱えながら常にその実現の可能性を模索する場として「路上」がある。それが「路上」からでもはじめられなければならない。矛盾のない生などそもそも実現不可能なものであり、矛盾を抱えながら可能性を模索していくことでしか課題の解決はできない。
「路上でなければならない理由などない。しかし、そこに人がいる以上、そこは路上でなければならない」が来るのはここだな。「なぜなら路上からでもそれははじめられねばならないことだからだ」。
うーん、なんかこれ結論になっているような気がするけど。
ネオリベラリズムとの共振とか、変なものをつめこまずに、場所性の問いにだけ答えた方が早道かもしれない。
場所性の問いを検討するのに「空間の生産」の枠組みは必要なのかな。
当事者性の話に戻す必要があるのかな? 支援者の当事者性も野宿者の当事者性も、両者が対になるような形で検討すべきではないのかもしれない。もちろん、従来のような野宿者運動の当事者性の協同構築も当然含まれてもいいが、それを至上のものとして当事者性のあり方に序列を設けるようなことは「路上の権利」にもとるのではないか。
*
都市空間の統治の構造の話と帳尻が合わない。それと野宿者支援における都市空間の場所性が何の関係があるのか。
関係ないわけはないけどなあ……。
野宿者は都市空間の商業化によって場所を追われる。都市空間の商業化は都市統治においてネオリベラリズムとの共振を当て込むような住民参加の推進とセットで構造化されている。住民参加の推進は、財政再建の下請けをさせられているだけではなく、知らぬ間に排除の片棒をかつがされている。
上からも下からも丸め込むような統治の構造に市民生活は取り囲まれてしまっている。この統治の構造を見破りながら対抗していく拠点を作る可能性があるとすれば、それは路上なのではないか。また、そのような主体(当事者性)の構築は野宿者支援において見出された都市空間の場所性に依拠する必要があるのではないだろうか。
*
「経済の活性化」や「住民参加」あるいは「まちづくり」と言われて異を唱えるのは難しい。それぞれの評価は別にして、これらは統治手段として巧妙に組み込まれている。
一見民主的な装いで排他的な構造が作られている。この構造は都市空間の管理の形をとって現実化する。ならば都市空間のなかに対抗的な拠点を見出す必要がある。
*
ダメだ。やはり路上でなければならない積極的意義を主張しないと説得力がない。
可視性かな。可視性という意味では、支援者が夜回りで毎度毎度やってくることは、野宿者に対して支援を可視化する試みでもある。
問いの立て方が悪いのかな。
テント村なき社会。路上にこだわる意味は室田の「寛容」で一定の答えになっているとすれば、何を示すためにこんな論文書こうとしているのか。
よろずだけがやっていること。よろずがそういうやり方を取らねばならなかった背景。その可能性。
可能性か。何か感じてはいるけどはっきりしていない。可視性と継続性の向こう側に何かあると信じている。それが何かというところ。見出そうとしている。何を?
*
まだ整理仕切れていないところがいっぱいある。固有の場所であることは外せないのでは。あと開放性?
可視性と開放性は地続きな気がするが……。
*
場所性にこだわる理由。
開放性、可視性、継続性、他に何かあるかな。固有性。同じところで繰り返しやることで意味が生まれる。
複数の当事者性を前提とすることで可能性が広がる。
その可能性を野宿者運動の外に広げていく道を僕個人は探そうとしている。その一つが論文を書くことでもあるわけだが……。
公園の商業化は関心の輪を広げていく可能性の一つではある。
他者の共感を獲得していけるかどうかは別の話だが、まずは野宿者支援の担い手としての当事者性と一市民としての当事者性を同居させなければ、その可能性すら芽生えない。複数の当事者性が同居しうるのは、場所の固有性に依拠しているからだ。
地域活動協議会のことも、市民としての立場から当事者性がかかわってくる。西成特区構想にしても「まちづくり」という住民参加の仕組みそのものに対するスタンスは当事者性とかかわるものだろう。
「路上でなければならない理由」を問うのはしんどいから、「路上にこだわる利点を掘り下げる」「路上にこだわることで生まれるポテンシャル」を問う方がいいかも。
*
同じことか。少し表現を変えるくらいで対応できるだろう。
都市の統治の手法は都市空間を通して具体化し、また作用する。ゆえにその統治の構造を批判的にとらえ返す視点を得るための風景も都市空間の中に現れる。
*
これまで「公園の政治」や「野宿者の政治」[青木 2005]、都市貧困の統治の構造[林 2014]など、野宿者や都市下層がいかに管理されているかを論じたものはあっても、都市の統治の総体が分析されたことはなかった(わかりづらい)。
「都市下層に特化した政治は語られても、都市住民一般を管理する政治にかかわるものとして都市下層が分析されたことはなかった」?
「それらは社会の底辺ないし周辺的な位置付けにある都市下層から現代社会を批判的にとらえ返す視座を得ようとしたものであった。その方法的視座には依然として意義があるものの、オキュパイ運動に見られるような99%の連帯が呼びかけられるような世界的な趨勢の中では、都市下層を念頭に置きつつも、より広い視角からの現状把握が求められるのではないだろうか」。
2019年5月3日(金)
やる気しねぇ。
2019年5月2日(木)
■論文 #16
何とか本論部分まで書き終えた。あとは結論を書くのみ。
これをまとめるとすれば、まずはよろずの実践の持つ意味をまとめてから社会的な背景を論じた方がまとめやすいかな。「場所性を明らかにする」のが目的なのだから、ミクロな事例の解釈のうえに、マクロな議論を広げて見渡す方が順序としては正しい気がする。
どうなんだろう。ミクロとマクロを交差させて説得力を持たせられるかどうかが成否を分ける。都市の統治のあり方が変容し、野宿者は路上から最大限排除され、公共空間の商業化によって追い討ちをかけられている。
「もはや路上に野宿者は少ない」ことを理由に福祉制度や入所施設を論じる方向に関心を移すのはおかしい。もっとも重要なのは、もはや問題は野宿者に関わることだけではないからだ。
ここには当事者性をめぐる議論もからんでくる。かつては、支援者は野宿者の当事者性に依拠して「社会変革」を企図していた。社会運動において「黒子」の役割は疑問とされてこなかったし、障害者の自立生活運動のように積極的にそうあるべきだとされていたケースもある。
どうしてそんなことになっていたのだろうか? 支援者というのはわりと恵まれた人たちだったのだろうか。相対的に恵まれた人たちが社会について疑問を抱いた時、寄り添える他者を見つける形で「社会変革」に参与するのが早道だったのだろうか。
もはや恵まれた人たちがそんなにいる気もしない。すでに中流社会でもないし、中流のつもりでいてもこの社会は空間の管理のレベルで締めつけを強めている。すでに何らかの形で誰もが当事者となりうる。複数の当事者性を交わらせながら、そこにある問題の実体を構築しつつ可視化するような形でなければ、当事者性そのものが成り立たないのではないか。
*
そうか、まちづくりの落とし穴と通じているのかもしれない。問題を個別のカテゴリーの中に凝集させて解決を図るというやり方自体が必然的に袋小路を作り出してしまう。
さて、問題はこの事例と構成でどこまでこれらの考えを形にできるかだな。西成特区構想、PMO事業、資源ごみ回収規制条例。これらを野宿者問題とのかかわりでうまく結びつけて読み解いて見せなければならない。これら3つの事例と野宿者問題とを結びつけるには、住民参加と公共領域の営利団体への分与がないまぜになって一体となっている統治手法でくくる必要があるだろう。
この構図を意識せずに、目の前のものに食いついているばかりだと、知らないうちに排除に加担し、自分たち自身の首をも締めていることに気づけない。
路上で野宿者と出会う運動の中ではじめて、この構図が見えてくる……というふうにつなげられたらいいわけだが、これだとまだ飛躍があるか。
いったん空間の生産の話として整理するとうまくいくだろうか。空間的実践によって、路上が、公園がどのような場所として機能するのか。それは単に場所の機能であるだけでなく、作り出された性質(場所性)でもある。
その上で、そのような場所性にかかわる空間の生産を社会構造とのかかわりで理解していく必要がある。それは今後の課題であろうが、ここで論じたような「場所性」は公共空間において、可視性、継続性、集団性(?)を通して生み出されるものだとすれば、現在の公共空間をめぐる社会趨勢はこうした場所性、こうした機能の創発の可能性をやせ細らせる方向に突き進んでいることに気づかねばならない。
「路上の権利」において大切なのは「路上」ではなく「権利」の方であり、「権利」は「路上」にあっても守られねばならない。ただそれだけの話なのである。
*
全ての要素をうまく盛り込まないと陳腐な話になってしまう。バランスが崩れれば伝わらないし、薄まっても意味がない。
*
人々が恋に落ちる相手は、その人物ではなくて、その人物が表現する可能世界である。すなわち、人々は他者のなかに、すでに現実化された存在ではなく、他者との出会いによって出現した新しい生の可能性を手にする。[Lazzarato 2004=2008: 22 ]
*
持続を生きることができる。それだけで何をためらうことがあるだろう。
2019年5月1日(水)
とりあえず体調不良を治していかないとふんばりがきかず、終わりが遠く感じられてやる気も削がれる。一昨年の秋も大変だったのを思い出す。
査読で変なこと言われて落とされるなら別にもう知らんわという気持ち。どこの誰かもわからんマヌケな研究者の言うことなんか知らんわ。
■イタリア #14
日本で一緒に野宿者運動をしていた知り合いが日本から遠く離れたイタリアでがんばっているということもずいぶん励まされることだったように思う。
その彼が何日もトリノを案内していろんなものを見せてくれた。いろんな人との出会いを用意してくれた。そうしてできたつながりや経験が今後の糧となっていくことは確信めいていた。
目の前にあるものの閉塞感を超えて新しい道を切り開く可能性は常にあるのだと示してくれている。
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