過去ログ
2020年3月


2020年3月31日(火)

 集計ミスを発見して青くなった(気持ち的に)。

2020年3月30日(月)

 やる気が出ない身体をだましだまし、原稿執筆を進める。泣き笑いしてしまいそうなマヌケな進捗。

 いくらなんでも抱えすぎなのかもしれない。大車頑丈、ただし、抱え切れないほどのものは抱えてはいけない。

 精算したい。

2020年3月28日(土)

 どうしてもやる気が出ない。なぜだ……。

2020年3月27日(金)

 昨夜は珍しくよく眠れた。

 やる気出さないと。

■求人広告分析 #8

 何か面白みを見出さないと、まとめられない。

 寄せ場の変容、求人手段の多様化、飯場の巨大化・飯場網の拡大。寄せ場の求人推移、大阪府内の飯場の広がりを押さえる。

 まず、渡辺[2018]を元に、大阪府の飯場数の推移を確認する。この論文で扱ったデータを、西成労働福祉センターで現在も求人する飯場のリストと照会して、現在の求人ルートの広がり(重なり具合)を確認する。

 次に、求人ルートごとの土工の賃金を比較する。続いて、スポーツ新聞、インターネット求人サイトの求人広告の記載内容から、求人条件や生活環境などの動向を確認する。最後に、それぞれ大阪府と千葉県で行った業者へのヒアリングを手がかりに、建設日雇労働の求人動向について考察する。

2020年3月25日(水)

 西成労働福祉センターの平成30年度の事業報告書を読んでみた。

 求人減った減ったっていうけど、2008年に減ってから後もわりと横ばいではないか。

 事業所調査も面白い。

 センター求人業者のリストを宿舎有無もかけあわせて照会すると、これもまた面白い。地味にデータを集めてて、どんなもんかと不安だったけど、どうにか収穫が得られそうでよかった。

2020年3月23日(月)

 このモヤモヤに囚われないように変えていかないといけないのだろう。

2020年3月22日(日)

 もう夜なのにまだ記録をつけ終えていない。

2020年3月20日(金)

 一日つぶれた。

 僕はすぐに道が見えなくなる。しかし、道など最初からないのかもしれない。自分なりに道を見出せる力をいつでも出せるようになるべきだ。

2020年3月19日(木)

 コニャック入りのチョコ食べたら少し調子が良くなった。やばい。

2020年3月18日(水)

 動画作るのに丸3時間。仕上げ込みであと2時間くらいかかるのかな……。

 風邪が治らない。だるい。

2020年3月17日(火)

 「念のため」やったり、やらなかったりする行動原理、群衆心理。新型コロナウィルスの流行が騒がれているから「念のため」外出を自粛する。「念のため」マスクを買いだめする。

 安倍政権の支持率が下がらないのも、不支持という自分の判断が外れるリスクを考えて「念のため」支持と回答しているのではないか。

2020年3月16日(月)

 やっつけレジュメできた。やばい。

 やりきった。

2020年3月15日(日)

■「センターの日」論文化 #3

 労働施設。

 常にセンターにいる。

 もう少しマクロな視点から位置付けをする必要があるな……。

 労働者の記憶の中にあるセンター。センターという場所が喚起する記憶。

 一方で現在を映し出す場所としてのセンター。

 一人ひとりにとって生きる、働く拠点としてのセンター。

 「困る」語り。

 「センターの日」に対する反応。

 自分自身についての語り。生き方を語る。自己肯定の語り。

 距離感を保ちながらの即時的な関係形成。支援者に対するカテゴリー化。情報交換。

 暇つぶしをしながらの生活。

 他者に対するレッテル貼り、カテゴリー化。

 センターにいろんなものが集まってくる。

 センターに留まり続けなくてもいい人たちもいる。そういう人たちが土曜日の午後に「センターの日」に出会うという事実。

 センターの位相を複層的にとらえて、どの位相が現れているのかを明らかにする視点。

 示し合わせていたり、お互いが知り合いであるわけでもなく、同じ行動をとることで、その場の用い方に関するルールが構築される。この構築過程は労働者の身体の集合と、管理者との相互行為を通して構築されていく。

 さまざまな問題関心を抱く人びとが出会う場所でもある。それぞれの問題関心を目にすることで、釜ヶ崎という場所の意味が創出される。対話的な関係から社会的な合意を構築する基盤が提供される。咎め立てされることもなく、さまざまな取り組みが可能となる。施設そのものの広さ、管理仕切れない空間構造がこうした場所の特性を可能にする。

 センターに来て、得体の知れない取り組みに一回性のかかわりを持つこと自体が社会参加になっている。その場限りのかかわり方による社会参加が行動様式として織り込まれている。

 本をシェアするようなこともやってるんじゃないかなあ。新しい週刊誌だと、売ってくれと言われることもある。

 自覚的に作り出しているわけではない。皮膚感覚でやっていることだし、結果的にそうなっているようなところもある。そうでもしなければ何も起こらない、何もできないから、見返りが得られる見込みがなくとも、とりあえずそのようにふるまってみることで様子をうかがいながら生きている。

 これを言ってどうするかというところだな。

 こんな場所は日本中探してもここしかないのではないか。何かの縮図となっているはず。

 政治と経済の関わりがあった上で、文化的側面をどう評価するか。現状では結局非公式のもの。

 排除の裏返しでもある。労働が不可視化されていく社会状況の中で残された釜ヶ崎の存在は何を意味するのか。この社会の欠落をとらえる手がかりとなるだろう。コモンズ? 人口規模と空間構造がコモンズ形成の必要条件であり、さらにはコモンズを形成する行動様式がある。その成立条件を論ずればいいのだろうか。

2020年3月13日(金)

 政治。非-場所でもある寄せ場。政治・経済的な空間でもある。それらを反映したモニュメント、街の中心、都市の労働市場の中心。歴史。

 労働者に配慮して街が作られることなどない。場所は客体として扱われれば構造的な変容を理由に消し去られることもある。しかし、場所にかかわる主体が作るものとしてとらえれば、まったく異なる特性が見えてくる。そのような視点の転換を提示する。

2020年3月12日(木)

 朝から八つ当たり。洗わないものを洗濯カゴに入れてはいけません。腹の虫がおさまらないからといって関係ないことに文句を言い出すのもよくないでしょう。

 多読の成果はあったわけだなあ。

2020年3月11日(水)

 この体調不良は何かあるのか。

2020年3月10日(火)

■「センターの日」論文化 #2

 ずいぶん久しぶり。

 いろいろ使えそうな小ネタはあるけど、議論の核となるものを定めないと先に進めない。

 差別の構造の内面化の話は重要な要素の一つ。

 前に読んだ樫村愛子の本の若者の話が使えるかも。

 「場所の力」を挿話的に使えるかな。

■E・ゴッフマン『出会い――相互行為の社会学』誠信書房、1985年

 焦点の定まらない相互行為と、焦点の定まった相互行為[i]。

2020年3月9日(月)

 体調も悪いし、予定も盛りだくさんでやばい……。

 やはり12時からだったか……。

2020年3月8日(日)

■求人広告分析 #7

 何とか一日でまとめなければ……。

 官庁統計いじった。単純作業。

 疲れた。疲れたけど、まだまだ終わらない。

 頭痛い。

2020年3月7日(土)

 昨日の日中ははマシだったのに、昨夜からまた体調が悪い。やばい。

2020年3月6日(金)

■求人広告分析 #6

 どこから手をつければいいのか……。

 あまり深いところまではわからない。類型化も難しい。

 テーマを設けられるとすれば、飯場での待遇かなあ。

 職種。純粋に運転手を募集しているものもある。

 むしろスポーツ新聞をベースにしてネット求人を参照していく方がやりやすいかも。

 電話番号での照合作業をやった方がいいと思うけど、どこまでやろう……。

 あと、タウンワークとの照らし合わせ方を考えないと。

2020年3月5日(木)

■求人広告分析 #5

 うーん、ただ集計しても意味がないな。何か目新しいことがわかる部分に注目しないと。

 全体の傾向をまとめる必要はある。スポーツ新聞の広告との比較も考慮しなければいけない。スポーツ新聞ならではの要素は何だろう。

 媒体の特性として、スポーツ新聞の広告はスペースが限られるから、細かな労働条件までは入れられない。

 できるだけ人を集めようという志向を読み取る。どんな人間を、どんな形で確保したいのか。期間の定め。前借り。出戻り。経験。

 集計に意味のあるものもあるか。日当とか。

 緊急小口資金なあ。

2020年3月4日(水)

 じわじわした自己嫌悪感。

 これも驕慢といえば驕慢。

 揺れ動きのなかに発見がある。

2020年3月3日(火)

 書き上げればたかだか1,000字程度でしかない文章に3日くらいとられた。まとめるのに5,000字くらい余分な文章を書かなければならなかった。やれやれ……。

 さらに微修正をして、これでいいかなというところまで来た。これもまた現場との距離を置くために必要な手続きかなと思って、頑張ってやってみることにして、やはりそういう効果はあったようだが、自分のダメさ加減をこれでもかと確認する自虐的な作業であった。うんざり……。

2020年3月2日(月)

 何からやろうか。

■ドロレス・ハイデン『場所の力――パブリック・ヒストリーとしての都市景観』(学芸出版社、2002年)

「場所の力」は現代に生きる私達市民一人ひとりの生活に密着した記憶に根ざしたものであり、かつそれらの総体としてより広範な社会性を帯びた概念でもある。そして、その解釈と可視的表現のプロセスに市民や専門家の参加と協働といった外部に向かって運動していく力がこめられている点が大きな特徴である。[後藤春彦「場所の力とは――役者からのメッセージ」: 4]

 保存というのは何だろう。

 場所が歴史を発掘する手がかり、構築するための基盤という程度の意味なら、あまり面白くはない。

 実際に使われている現在、将来にわたって維持・再生産するためには何が基礎となるのか。

 「都市保存」[70]。記憶を掘り起こして集合的アイデンティティを構築する試みとして都市保存というのはありなのかもしれない。その過程で分析の対象とされた場所はその基盤ともなるだろう。しかし、その作業の前提は何かというところ。

 「視覚的な記憶」[73]と「身体的記憶」[74]。労働者であったからこそ、センターにいてもいい、留まる資格を持てる。そこで仲間の姿を目にする。その資格を確認しあえる。

 場所の歴史を再確認してモニュメント化すれば、現在とのズレは常にあるとしても、ジェントリフィケーションに対する防波堤としては有効かもしれない。

 アートによって生み出されたシンボルは何か力を持つのだろうか。諸刃の剣でもあるだろうし。そういう意味では住民参加のアートプロジェクトを「民主主義」と呼ばざるをえなくなるのはわかる。

パブリック・ヒストリー、建築保存、環境保護及びパブリック・アートは、ある都市の歴史の定義づけにおいて、その歴史を喚起する特別な役割を担っている。但し、それらが社会の記憶の文脈を確立する、有効な住民参加の過程によって裏打ちされていることが唯一の条件である。[105]

 研究者や専門家が、専門性の枠から出て担う役割を導き出そうとしている。しかし、それは理念として示すことはできても、実際はお呼びでない場合もあるだろうし、権威主義に陥る場合もあるだろう。専門性の枠から出るというより、専門性の枠を広げていく作業と言った方が適切かもしれない。

 「第5章 労働者のランドスケープと暮らし」これだけだと、なぜランドスケープという視点が必要なのかわからない。労働者の歴史をランドスケープに読み替えただけで、これだけで新たな知見が得られるわけではない。

 ランドスケープに意味があるとすれば、集合的記憶を喚起する機能にこだわるためではないのか。

 「忘れられた記憶」を掘り起こすきっかけであり、その依代にするためなら、あまり意味はないような。

 それをわかった上で、ビディ・メイソンを主人公に据えて、6章から7章と掘り下げていくのかな? 7章からはザ・パワー・オブ・プレイスの活動の展開と同時進行で語られるようだし。

 8章はまた別の女性たち、別の場所に注意を向けるようだ。しかし、アートやワークショップが、成果にすり替えられているような感じがする。事後的な評価(分析)を経なければ、「結果的に出てきたもの」を本質化するようなことになるのでは。ここで描かれたものが、成果物としてどの段階にあるのかが不透明に思える。せいぜい経過報告ではないか。

多種多様なプロジェクトから我々が学んだことは、住み手の姿を含む総体として都市のランドスケープの歴史の枠組みの中で活動する時、私達は、都市の形成過程を見失うことなく、多様な人間、場所、地域社会を相互に結びつけることができるということである。[263-4]

 どうしても専門家主導になってしまうのでは。専門家が研究としてのやる気を示す限りで立ち現れ、消えていくものであれば、それにつき合った人々は振り回されるだけになってしまう。

 悪く言えば、研究者の自己実現に付き合わされてるだけじゃないのかという感じもする。理念や取り組みそのものの意義は別として。

 研究者の自己実現であってもいいのかもしれない。しかし、参加者の一人でしかない研究者の自己実現の産物を、総合的に評価するのは誰なのか。公衆?

 「掘り出された忘れられた記憶」は厳密な意味での集合的記憶とは異なる。忘れられた、知られていない事実は記憶を喚起しない。発掘されたものはやはり歴史であって、現在とはずれている。現在の社会構造に対するカウンターとして集合的記憶を喚起する装置を作り出そうというのは、社会運動としてはありなのかもしれないけど。研究者はそこで発掘された歴史をまた自分の研究の枠内で収穫することで満足するのだろうか。満足できるまで現場に付き合い切るなら大したものだろうけど。

ただし、本書を理解するにあたって、日本とアメリカでは市民社会の成熟度に差異があり、公共性の概念が若干異なることや、アメリカは多様な人種、民族から成り立っている社会であるという背景をきちんと認識できない読者にとっては、本書は難解なものかも知れない。[後藤: 8]

■イーフー・トゥアン『空間の経験』(筑摩書房、1993年)

場所すなわち安全性であり、空間すなわち自由性である。[11]

2020年3月1日(日)

 うーん、書き進めてみてまた戻る。

 形式化の力の話をするなら、その前置きをうまく作らないといけない。合同書評会の追記なのだから、その内容をふまえた回答のような形で出すのが筋だろう。

 今の自分の視点から見て理解できることがあるのは別として、当時の理解の水準と議論の文脈を押さえた上で何を付け足すべきなのか――と考える手順になるだろうか。

 最初に西澤さんの問題提起があって、『叫びの都市』と『貧困と地域』に対する結城評があり、原口、白波瀬両人による回答。フロアからの質問に対するやりとり(このやりとりへの回答は今回の追記に預けられた)。そして、第二部として『飯場へ』に対する北川評があって、フロアからの質問もあったのだが、やはりこの部分はちょっとずれてしまう。西澤さんの問題提起とからめれば、共同性の原資の部分、そして、フロアからの発言にも見られる主体とのからみが重要なのだろう。

 それ以外に個別に拾いたいものとしては、阿修羅さんが言っていた反差別の思想がある。西澤さんから指摘のあった反排除の視点について。

 見えている人にはほとんど自明な構図が僕には見えていなかった。「センターの日」は、一つにはこうした構図に気づき、理解できるようになる過程だった。

 もう一つは、労働者や野宿者、生活保護を受けて暮らす人びとと関わりを通して、労働者の街である釜ヶ崎が労働者の街である所以、労働者の街を作り出し、かつ維持する主体を理解しようという過程であるということだろう。そして、一つ目の段階はクリアして、二つ目の手前まできている。

 排除のメカニズムを理解するところまでは、『飯場へ』でやったことと共通しているし、違和感を手がかりにするというところも変わらない。しかし、『飯場へ』までとは違うのは、共同性の部分、主体間の関わりを分析しなければならないということか。

 じゃあまあ形式化の力云々の話はしなくていいのか。

 研究者の役割というのがあるとすれば、そうでない人間が持っていないような知識を動員して、そうしなければ見えない知見を提供するところにあると言えるのではないか。それがうまくはまるかどうかは別として。

 それが理論だったり、調査で得られたデータであったりもするのだろう。データに関していえば、テクニカルなところで、研究者ではない人間には得られないものであったり、量的な蓄積であったり、それらを処理する技術、技能といった側面が意味を持つ。いろんな要素があるだろうけど、理論と調査はその二本柱と言えるかもしれない。

 理論のところをもっと厚くしないと、いたずらにデータばかり分厚くなってしまうし、その理論にしても、必ずしも知識量を意味するわけではないだろう。

 排除する側、される側。歴史的な構造変容も加味すればまた違った視点を提示できそうな気もする。

 アホはアホなりに賢くなる道筋もあろう……。

 問題解決に向けて少しずつやるべきことをやっていくしかないのだから、やっている時に落ち込むことに意味はない。前向きにひたすら力を付けていくことを努力というのではないか。

 それに、手持ちの範囲でもできることは決して小さくはないはずだ。これまで積み上げたものを信じつつ、新たな力を身につけていけばいい。

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