2019年7月31日(水)
ただ挫けずに生きていきたい。そのためには。
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まだ無理か。
2019年7月30日(火)
つらい。眠れない。
2019年7月29日(月)
■ジェイムズ・P・ホーガン『星を継ぐもの』
ネットで無料のマンガ版の1巻を読んで面白そうだったのと、これなら読めるかもと思って入手してみた。
とりあえず読み進めようと思うが、何を説明するにもいちいち回りくどい文体に「ああ、海外のSF読もうとしていつもここでつまずくんだよな」と思わされる。
■新聞 #22
「お前は新聞読んでないのか!」「ニュース見てないの?」というセリフの持つ糾弾調子の強さは何だろう。そんなに新聞やニュースをみんなきちんと押さえているもんなんだろうか。
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風邪がヤバい……。
しんどいのに眠れない。
2019年7月27日(土)
もやっとした調子の悪さがあると思ったらやはり風邪をひいていた。のどが痛い。
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うーん、なんなんだろう。何を考えているのか、判断基準となる知識の背景がわからない。結局まわり道ができるかできないか、地味な作業に向いているか向いていないかというだけの違いがここでも出てきているだけなのかもしれないけど。
2019年7月26日(金)
更新するの忘れそうだから更新しとこうとふと気づいて更新する不純な更新。ふと気付くのはなぜか。
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結婚観から変えなければならない。変えてしまえばいいのか。事実婚の「事実」ってなんだろう。
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制度に縛られた夫婦であることが、何の根拠にもならないにもかかわらず、過度な期待を持つことを後押しするように機能しているのだとすれば、まずはその過度な期待から自由になることから始めてもいい。夫婦でなくとも過度な期待が関係を歪めることはいくらでもあるのだから、夫婦であることと過度な期待を逃れられないもののように扱うのもおかしい。
もちろんここにはロマンチックラブに影響された幻想も含まれていて、ロマンチックラブがうまく機能する限りにおいては過度な期待は問題とならないのかもしれない。しかし、「うまく機能する」というのは結果論に過ぎず、いつかは破綻する、あるいはいつ破綻してもおかしくない偶然の産物と思っておいた方がいいだろう。
過度な期待から自由になった方がお互い優しくできるというものではないだろうか。ふつうの他人になら当たり前に提供できる優しさすら損なわれてしまっているならなおさらだ。
2019年7月25日(木)
軽く体調が悪いっぽい。
2019年7月24日(水)
■新聞 #21
新聞を重くとらえすぎているのかもしれない。新聞なんて前日や当日のできごとを報告するためのもので、記事はその解説にすぎないと考えれば、どの様な見出しが立っているかを見るだけでその役割を果たしている。それで購読するコストに見合うかという問題はあるかもしれないが、定期購読して1日あたり1百数十円なのだから、社会に関心を持つコストとしてはそう高いものではない。
それだけではあんまりだから、著名人のコラムや連載小説、読者投稿など、付加価値を持たせようとするのだろう。
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おしゃべりに飢える生活。
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あー、丸一日論文のためだけに使える日がないとしんどいなー。
2019年7月23日(火)
ペーパーテストを完成させた。何とも言えないカタルシスが。
■新聞 #20
投票日前日に山本太郎が話題にのぼった。山本太郎についてはネット以外ではほとんど情報が出ていないといわれる。ネットをまったく見ない人に比べると知人の知識量は多いものの、内容は正確ではないようだった。
選挙が終わってみると、れいわ新選組から当選者が出たこともあってか、テレビばかりか新聞でも山本太郎やれいわ新撰組についてまとまって取り上げられているように見受けられる。
ネットの情報はネット情報で偏っていたり、ネット以外のマスメディアの情報がきちんと参照されていないようなところもあって、煩わしく感じられることも多い。しかし、ネットを見ていなければ得られない情報というのは確かにあるなと感じた。
新聞の役割は、まずは社会の出来事を即時的に伝え続けるところにあるのだろうが、まんべんなく伝えるということは不可能だし、そこを特集記事やオピニオン的な記事、文化面、生活面などで拾っていく。
新聞が重要な出来事をまんべんなく拾うことが不可能なように、読者だって、いくらいろんな情報ソースを活用してもすべてをフォローすることはできない。そうするとわれわれは手持ちの情報の範囲内で常に、まちがっているかもしれない判断をしていくしかない。
もちろん専門分野についてある程度蓋然的な判断はできるのだろうけど。
できるだけ気づきを形に残しておきたいが、なかなかうまく言えない。情報との向き合い方。新聞を読む、雑誌を読む、ネットで情報収集する、テレビを観るといったメディアの活用法とは別のところで、「現代社会をどう生き抜くか」というレベルのことが問われているように思う。
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そうか、情報が編集した者の意図した通りにしか活用されないわけでもないのか。こっちはこっちで勝手に読み解くこともできる。
編集する者が持つ背景知識や理解を求める水準もあるのだろうが、その水準に到達できないからといってその情報に意味がないわけではないし、その水準に到達できることを求められても困る。情報とは常に不完全なやりとりだと考えたほうがいい。
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新聞がつまらないわけではなく、政治の世界で起きていることがつまらない、うんざりするというところもあるのかもしれない。
■論文 #19
基本的には支援者の視点から見た分析。それを野宿者とどう重ね合わせていくのか。
やはり相互行為と意味づけの分析を通した状況の解読か。ようやく自分の得意分野に引き込むことができそうだ。
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修正方針が立った。この2ヶ月の苦悩は無駄ではなかった。
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この到達の持つ意味はでかい。『飯場へ』で採用した方法論が野宿者支援の分析にも使えるという手応えが得られた。参与観察ベースの調査の成否は、結局フィールドの経験の密度によるのではないかという不安があった。もっとも、飯場で調査している時にもそういう不安はずっとあったから、不安だからといって最初から無理と決めつけるのは自己否定もはなはだしいと思って、半ば見切り発車でデータを蓄積してきた。まだまだ課題は多いと思うけど、行けるところまで行ってやろう。
2019年7月22日(月)
0時。
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また前のようにやっていけるのかな。それならその方がいいのだが、この間の苦悩は何だったのかという。
2019年7月21日(日)
たかだか11,000字のフィールドノートのまとめに4時間くらいかかった。
分量は多くないのに、まとめようと思い切るのに時間がかかるうえに、やりはじめても思わぬほど時間がかかる。なぜなのか。
2019年7月19日(金)
一週間飽きもせず同じことを考えている。
いや、正確には同じことを考えつつも少しずつ違うところを見ている。見つけようとしている。
何も起こらなければ何も変わらない。やれることがあるならやらない手はないにしても、待つことが必要になる。待つ間に考えてしまうし、何かすることでまた考えてしまう。
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つらいのは嫌だけど、ただ慣れてしまってつらくなくなるのはもっと嫌だ。
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苦楽を共にする。共有するあてなしに喜びを得ることなどありうるのだろうか。
2019年7月18日(木)
昨日は昨日で大変だったようだ。アリバイ的にでも更新しておかないと忘れてしまう。
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こうなったことで頭が回るようになったというか、意識が向くようになった領域がありそうだが、そうした領域に意識を向ければ向けるほど胸がしめつけられる。
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求められれば提供すればいい。求められてもいないものを押し売りするより、自分で使って見せればいい。
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あれー? 非物質的労働って、飯場の労働文化そのものじゃないの?
2019年7月16日(火)
やっぱりつらい。
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わかっている。これが僕のやってきたことであり、やろうとしてきたことなのだ。これが僕のフィールドワークである以上、形にして伝えねばならない。
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それでも胸に空いた穴は埋まらない。穴が空いたままで進まなければならない。
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こうならなければ考えなかったであろうこと、こうならなければ気づけなかったことを糧に。
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これはただの記録。
2019年7月15日(月)
つらい、つらいよー。
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どこに吐き出すこともできない。
ここに吐き出しているのか。
2019年7月14日(日)
土曜は例のごとく死んでいた。
2019年7月12日(金)
後戻りすることはできない。
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すごくうまくいっていた。うまくいったがゆえにうまくいかなくなった。
身体は正直だ。頭は理解していなくても身体は現実を受け入れている。
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昨夜のどしゃ降りのあとにこんな晴れた空になるなんて。
2019年7月11日(木)
うーん、なんだか落ち着かない。落ち着く暇がないからか。
2019年7月10日(水)
排除されても排除されてもその場に入り込むことの大切さを強調する方向で考えてみたらどうだろう。
2019年7月9日(火)
メールした。
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不正義を許さない。不正義に抗議すること、拒否すること。
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今日は返信するのに気を使うメールが何通も届く。珍しい。何だこれは。
2019年7月8日(月)
つらい。しんどい。
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そもそもこれは一体どういう状態なのか。
2019年7月6日(土)
やはりまだ本調子ではない。
5月に入ってからおかしくなったなあ。僕もおかしかった。
2019年7月5日(金)
誰に責任があるわけでもないわけのわからないことも勝手に引き受けて、その先にあるものをつかみ取ってみせるようになるしかないだろう。そうした強さを身につけるために弱さをさらけ出してきたのだから。
2019年7月4日(木)
治りそうで治りきらない、軽いようで意欲がわかない風邪。
なんとか授業の準備はしたものの。
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水木しげるの『カランコロン漂泊記』を読みたいとたまに思っては忘れていて、図書館で借りればいいのだと気づいて予約した。しかし、何冊か似たようなものが見つかるので念のため2冊予約した。
2冊とも届いてから取りに行けばいいのに、2冊予約したことを忘れて1冊しか届いていないのに取りに行き、予想もしていなかった分厚い本に驚き、中身は漫画より文字の多いものだったので、これは念のために予約した本命ではない方だった。
漫画のところだけ拾い読みしようかとも思ったが、そもそもどんな性質の本なのかもよくわからないので、最初のエッセイから順に読みはじめたら、めちゃくちゃ面白い。こんな文才のある人だったとは知らなかった。
2019年7月3日(水)
斎藤純一(2001)わかりやすい。使いやすそう。これをふまえて野宿者の生活にかかわる大阪市政の動向を整理さ直すとどうなるだろう。
斎藤純一、2011「社会の分断とセキュリティの再編」『思想』925: 27-48。
2019年7月2日(火)
のど風邪ひどい。つらい。
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死の権力から生の権力へ。社会統合を目指す包摂型社会から排除型社会へ。廃棄された生。排除と包摂の選別がなされた状況があり、そうして排除された人たちが野宿者であるとしたら、どのような生を生きていることになるのだろうか。
寄せ場労働者はまだ労働力としては包摂されていた。都市雑業や廃品回収はそういう意味での包摂には含まれないだろう。
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そして、そこで空間だが、そこは都市における統治が空間の管理を通じて行われているということでいいのではないか。また、「フローの空間」のロジックはやはり実在する空間で形になるものとしてとらえれば、そこでの「場所性」は 「場所の空間」と重なり合うものとして現れる。
そうなると結局、統治に対する対抗的な側面を明らかにしないとダメかなあ……。ここの意義づけは生の政治における「排除」「廃棄」をどんな形で問題提起するかによって着地場所を作れるかな?
2019年7月1日(月)
採点がわりと早く終わってホッとしている。
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