過去ログ
2019年10月


2019年10月31日(木)

 また別の苦しさはある。

2019年10月30日(水)

 身体がガタガタだ。

 今週の金曜日は土曜日の振替授業日だった。助かった。

 落ち着いて考えられるまとまった時間。どうしてもそういうものがいる。何とかそういう時間を取れるように工面して、そこにエネルギーを集中させてクリアしていくしかない。

 捨てるのは思いではなく、甘くて虫のいい期待や逃げ道だったというわけか。

2019年10月29日(火)

 つらいけど仕方ない。

 授業の前に少し進めた。ふっきる労力と作業に集中できる時間の確保とが見合わないと、なかなかふっきれないが、短時間のためのふっきり方というものもあるかもしれない。

 朝から晩まで疲れた。

2019年10月28日(月)

 ありとあらゆる苦しみを想像してふっきらなければ先へ進めないのか。

 こんな状態で無私になんてなれない。

 時間が解決してくれるのを待つしかないのかもしれない。一ヶ月、二ヶ月と経つうちに苦しみが苦しみである部分は薄れていく。そうなった時にはじめて、どうすればいいのかがわかるのかもしれない。今はただ考えないようにして逃げてしまってもいいのではないか。自分の感情から距離を置くのもフィールドワーカーに必要な時間の一つではある。

 身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ。

 僕はこの思いを捨てよう。

 そうすれば、もともと僕の歩みを阻むものなど無い。

 つめこみすぎだな。どれも今後の展開に組み込んでいかなければならない重要な要素だと思うが、少し選別しないと35枚には収まらないだろう。

2019年10月27日(日)

■原稿2 #12

イデオロギーが〈構造〉として閉じられるなら、当然そこには回収不能な外部が作り出される。そして、外部は、神秘化され賤しめられ理解不能な別世界の存在として放置されることになる。もちろん、言うまでもなく、無効化された人々が、この世から消え去ってしまうわけではない。ある社会のイデオロギーの〈構造〉から排除された人々が、「有用」な労働力としてこの社会の構造に接合されることは矛盾しないし、事実そうなっている。イデオロギーの〈構造〉と社会の構造は一致しないのである。内部においてイデオロギー的に無効化された人々は、それゆえによく統制され組織化された領域からは締め出され、組織化された領域にとっては外部の労働力であることを避けがたく引き受けることになる。[西澤 1995: 29]
この列島における近代の都市は、その始まりから外部を下層化しその内部に接合・制度化しつつ膨張してきた。そこでの内部化された外部、排除されつつ労働市場に接合され都市社会の下層部に組み込まれた人々こそが都市下層である。[西澤 2000: 31]

 あー、書けそう。書けそうも何も、もともとこういうことを書こうと思ってたんだった。とりあえずエッセイ調に書き上げてしまってから、論文的な構成をかけ直そう。

 いや、そこまで簡単じゃないか……。

 この状況が僕を駆り立てている。苦悩のなかでしか見えてこないものを見せようとして。

 あかんわこれは。もう壊れてしまう。

 僕は試されているのだろうか。それとも嵐が過ぎるのを耐えればいいのだろうか。

 それは、誰にもわからないのかもしれない。少なくとも今は。

 この力の使い方。それもまた「この力」に含まれるのなら、使いこなすべく努力しろということなのだろう。

 私的な出来事は社会的なものでもあるとするならば。


西澤晃彦、1995『隠蔽された外部──都市下層のエスノグラフィー』彩流社。
西澤晃彦、2000「都市下層の可視性と変容──野宿者をめぐって」『寄せ場』13: 27-37。

2019年10月26日(土)

 今日もしんどいけど、がんばろう。

 やはり身も心もズタズタだ。

 やはりただの疲労や時間不足ではなかった。この苦しみは出口が見えない。

 そうか、やめてしまえばいいのか。

 何をやめるかという選択の問題で、生き死ににかかわるような問題ではない。丸ごと捨てるか、何かを切り捨てるか。切り捨てるのだとすれば、何を切り捨てるか。何を切り捨てることが、もっともダメージの少ない選択肢であるか。

 その選択はもうしたと思っていたが、まだ不十分だということなのか。

 この思いと同時に分析を進めていけば、しのげるかもしれない。

 そう、まずは状況がある。しかし、これはどのような状況か。

 予定通り遂行されようとするセンターの閉鎖と、それに対する反対行動と占拠というのは分かりやすい状況だ。しかし、釜ヶ崎を取り巻く状況はそんなに単純なものではない。だからこそ、「センターの日」という一癖あるアプローチを採用する必要があった。

 思えば僕は、4月の「センターの日」の時にすでに引っかかるものを感じて、ぼんやりとした憂鬱な気持ちになっていた。年が明けてから、年度末にセンターがどうなるのか、まったく見えなかった。打てる手も思いつかなかった。集約の時のことを思い出せば、これはよくわかる。

 ちょっと外れたかな。

 わかりやすい状況。集まってきた人びと。強制排除。続く抗議行動。

 息をひそめて動向を見守るしかない。その中でもあがいてはみた。それ自体は外れてはいないし、僕にしかできない役割でもあっただろう。どこまで理解されているかは別としても。

 これらのあがきを通して気づけたこと、見えたものもある。それを指針に次の仕事をすればいい。そう、その仕事のうちだと思えば、何を苦しむ必要があるのか。

 道は閉ざされたわけではない。わずらわしいことにつきまとわれる。しかし、そのようなわずらわしさに意味はない。ただわずらわしいばかりで。

 ならばむしろ淡々と仕事をする時期なのかもしれない。

 もともとつかみどころのないものを、これまでの経験とセンスを手がかりに探ろうとしてきた。その試み自体、周りに気づかれもしない、評価もされないなかで細い糸をつないでいくようなものだった。その糸は切れてしまったわけではないけど、騒動のなかで泥に塗れて今はますます見えなくなっている。

 

2019年10月25日(金)

 今日も心が壊れそう。

 嫌がらせかお前らは。

2019年10月24日(木)

 細切れに何時間寝ても疲れとれないよ。疲れすぎて夜は寝付けないし。

■原稿2 #11

 場を作り出すのは研究者の仕事ではない。しかし、研究者は研究者としてのみ生きているわけではない。生きる営みの、その行為において、いくつもの主体が重なり合っている。この主体の重なり合いから研究の主体に立ち返る角度もあるだろう。

 場を作り出すためには、複数の主体のかかわりのなかから、その場の担い手となる新たな主体が創出される必要がある。都市空間の可能性を論じるには、そうした場を見出だす主体のあり方を意識しなければならない。それは、ただ研究者であり、地域の生活者であるようでは不可能である。研究者でありながら、場を作り出す行為にかかわることにいいも悪いもない。

 都市空間を論じるためには、そのような場がどこにあるのかを考えねばならないが、そのような場をとらえるには、そのような主体のあり方(センス)が求められる。

 うーん、結構いい文章書いたと思ったんだけど、ゲラになってみるとそうでもないな。疲れてんのかな。

2019年10月23日(水)

 心身ともにガタガタだ。

■原稿2 #10

 つらいことはたくさんあるが、自分をだましてでも原稿執筆モードに入ろう。

 もう個人的なエピソードでもなんでも、無理くり組み込んででもとにかく論文の構成をつめていこう。

 場所や空間となじまない労働研究。そこからの都市研究への回帰。そういう筋でまとめてしまおう。

 「空間的経験」の含意を掘り下げることもできるだろう。

 空間の議論に労働市場の議論を組み込むとなれば、センターにおいて現役の労働者層と現役から脱落してしまった労働者の置かれた立場の違い、アプローチの問題に触れるのがいいかもしれない。

 生活のためにしなければならないことで作業を中断させざるをえないとしても、思考の部分はアイドリング状態で待機させておく必要があるのかもしれない。それにはそうするだけの体力が必要となるだろうけど。

 「暗い海」のなかで流動する人びとの、まさに寄る辺として寄せ場が機能するとしたら、センターはいくら大きくても足りないくらいだし、あらゆる多様性を飲み込むだけの「無駄」を用意して築かねばならない。

 センターのことはあまり前面には出せないな。

 これは何も都市社会学に限った話ではないだろう。現代社会の認知の構造が生活と労働を切り分けるように組み立てられている。それを労働現場における排除とまちづくりにおける排除とをかけ合わせて指摘する。

 もしかするとそれは、生活の場所が消費空間化することとも連動していて、労働の姿が後景に追いやられることとも関連するように位置付けられるのだろうか。

2019年10月22日(火)

 苦悩には苦悩の意味があるということか。苦悩をも理解に変えていくことが僕の選んだ道だということだろう。それは楽な道ではないけれど決して悪くない。

 強くなるために弱さをさらけ出してきた。弱いところがあるから人は強くなれる。弱くなければ強さも必要がない。強いとか弱いとか、大切なものは、そんなものを超えたところにあるのだろう。

 3月の公開研究会の文字起こしファイルの修正作業をする。みんなこんな面白い話してたのかと驚いた。

 今質問されてもまあこういうことを答えるだろうなということを答えている。

2019年10月21日(月)

 つらい。

 疲れているときにはとりあえず休むしかない。

 救いがない。

 そうか、また結構ショックを受けてるんだな。二週間も経っていないのに。ことは進めているはずなのに。まだまだつらい思いをするだけの日々が続くのか。

2019年10月20日(日)

 胸が苦しい。

 疲れた。やばい。

2019年10月19日(土)

 がんばるほど体調が良くないし、まとまった時間が取れない。

 こんな日が来ようとは、まるで予測していなかったな。つくづく急展開の年だ。

 しんどいのに寝れない。

2019年10月18日(金)

 明らかに飲まない方がいいタイミングで飲んでしまった。しんどい。

 取材面白かったけど、長かったな。2時間半くらい話してた。

2019年10月17日(木)

 酒を飲まなくても疲労がたまる一方でやばい。隙間がなさすぎる。

 台東区が台風の避難所からホームレスを排除したというニュースと、それに対するSNS(Twitter)の反応について。

 「どちらかというと、野宿者に同情的であったり、権利擁護の必要性を語る人びとのふるまいの方に読み解くべきものが多く含まれているように思う。台東区の対応や浅薄な野宿者差別を許してはならないが、それらに反発して、ありもしない問題を新たに作り出してしまう善意の主体化に巻き込まれたくない」とつぶやいたあと、「あれ、何が問題だとおもってたんだっけ?」とよくわからなくなった。疲れで頭が回らなくなっているのもあるだろうなと思う。

 朝になって、新聞を読みながら、ふと思い出して考えた。Twitterでの盛り上がりをみていると、野宿者についてよく知らない人がそれなりの善意によって発言したり、当然よく知らないだろう差別意識丸出しのツイートがあるから、それへの反応でさらなる善意のツイートがふくらんで……という連鎖反応が、こういう盛り上がりとして見えているのだろうと。

 僕は「未だにこんなことが起きるんだな」と思うとともに、「なぜ毎日新聞はこれを記事にしたのだろう」とも思った。少なくとも「これはニュースバリューがある」と記者は判断したのだろう。いかなる意味でニュースバリューがあると判断したのか。災害時の行政の対応のまずさを指摘するためか、それとも野宿者の権利擁護のためなのか。

 記事自体をどう受け止めたらいいのか僕にはよくわからず、そのよくわからない記事を何らかの意味で理解した人びとがセンシティブに反応している風景はもっとわからない、不思議なものに思える。「記事で取り上げられたホームレスのおかれた状況にわが身を重ね合わせて憤っている」ということもあるかもしれない。そういう共感があってこそ、社会は変わっていくようにも思うが、SNSのなかで表出される共感ないし、批判は何か別のものにからめとられていく危うさを感じる。

 だからこれは野宿者にかかわることとして気になったというより、自分がある程度はくわしい問題だから独特の気になり方をしたわけで、その意見一つひとつがどうというわけではない。

 落ち着かない。

2019年10月16日(水)

■原稿2 #9

 さあ、いよいよ今週末くらいをめどに何とかしなければならない状況になってきた。

 どういう筋にしようか。原稿3の書き出しを書いている時に「これをベースにそのまま論文に書き換えられるんじゃないか」と思ったのだが、最後まで書き上げてみるとちょっと違った方向に着地してしまった感じがある。

 タイトルは「下層労働のゆくえ」なのだから、寄せ場の衰退と現状を分析することを通して、将来的な下層労働研究のあり方を問う……というようなものになるはずだ。

 まず字数稼ぎに寄せ場の衰退とその背景について整理するパートは必要だろう。

 問題は、衰退期に入った寄せ場が、西成特区構想によるまちづくりという形で翻弄されていることの意味を、労働の文脈で解釈する枠組みをどう設計するかというところか。

 社会病理学、労働経済学、都市社会学が寄せ場研究としては重なり合いつつも、かみ合わないまま、それぞれの議論を発展させるにとどまったと評価してみるとどうだろう。いずれも、寄せ場という固有の場所に依拠した議論であった。あるいは、場所の固有性に縛られた議論だったと見るか。

 労働を論じる際に、生産が行われる場所の存在をとらえ損なっているのではないだろうか。そもそも労働を論じているわけではない社会病理学はともかく、労働経済学も都市社会学も、労働者の街としての寄せ場を扱っているのであって、労働の場には間接的に接しているにすぎない。

 しかし、それなら労働の場とは一体どのようにとらえられるのか。労働現場というものはある。製造業なら工場という生産施設があるだろうし、建設業の場合、労働現場は期限付きで入れ替わる。生産施設やサービスを提供する拠点があって、そこに附属する形で生活の場が設けられたり、その拠点に通える範囲に住居を構えて、人びとは労働に従事する。

 職場と切り離された住居を構えられる場合、転職を経験したとしても、それまでの生活の場は維持できる。あるいは、それまでの生活の場を維持できる範囲で次の仕事を探すことを、まずは目指すだろう。住み込みで働いている場合だと、転職を考える場合、次の仕事と住居を一体で探さねばならない(その緩衝地帯として、労働者の街としての寄せ場が機能する側面もあったろう)。

 社会科学者たちは無意識のうちに労働の場と生活の場を切り離して語ってきたのではないか。あるいは、労働の場と生活の場が重なり合うことの意味をすくいとることができずにきた、といった方が正しいのかもしれない。

 ここで想起されるのが、建設労働の現場において、飯場労働者にとっての生活の場である飯場や寄せ場の存在が排除されて語られる局面である(これ、直につないで展開して違和感もたれないかな……)。

 まちづくりの議論のなかで、寄せ場における労働の要素が縮減されていく過程の意味するもの(これ説明するの結構大変だな。伏線張らんとあかんのちゃう)。

 野宿者問題ともかかわる論点だろうなー。

 労働の排除、ないし、労働への排除? 商業化された都市空間では、常に誰かが働いているはずだが、そこでの主役は消費者であり、労働者の姿は見えにくい(労働者は汗をかいている姿を見せてはならない)。

 見誤ってはならない。この議論の軸足はあくまで寄せ場におく。寄せ場の再評価をする? 下層労働のゆくえ。あるものを無くなるかのように錯覚して、見失おうとしていることに気づかずにいることを告発するものでなければならない。しかし、論文である以上、それそのものが主題になってはいけない。

 まちづくりのなかで考えられないこと。都市や地域だけを見ていてはとらえられないこと、しかし、決して切り離して考えてはいけない根拠を示さねばならない。

 もう一つだな。

 まちづくりのなかで労働は語ることができない。あるいは、下層労働は排除される、隠蔽される力学が働いている。その力学の起点はどこにあって、どのように働くのか。その辺を操作するのに「都市下層=隠蔽された外部」の話をうまく処理しないといけない。

 あー、やはり西澤さんの論文はそういう論文だったな。うーん。どこでオリジナリティを出そう。

2019年10月15日(火)

 時間がないというだけだということが思いに飲まれていると見えない。もちろん気力も回復していないのだろう。

 今日は飲まずに寝ようか。

2019年10月14日(月)

 いつまでも悲しんでいるわけにはいくまい。

 疲れた。仮眠しよう。

2019年10月13日(日)

 寄り合い楽しかった。

2019年10月12日(土)

 別に何の興味もなく、行きがかり上行っただけのイタリアで僕は何かを感じとってしまったんだな。

 この感覚が何なのかを知るために生きるのも悪くは無い。

 全てはつながっているのだろうし、小さな勇気を灯して進めばいいんじゃないの。

  フィールドワークとはかくのごとき生き方の問題であろう 、か。

 しかしまあ、もう少し休ませてもらっても良いだろう。結局ろくに休んでない。

2019年10月11日(金)

 いちいちうろたえずに信頼する気持ちを持とう。

 理解を、しなければならない。

 他者を理解することは、自己を理解することでもあろう。それが求められてもいるということでも。

 たとえ苦しみがなくとも何もない日々を食い潰すより今の方が価値があるだろう。どうせあきらめる気がないのなら、まだ見ぬ世界に希望を見ながら歩んで行こう。

 たとえ今すぐ交わることがなくとも、交わることなどないのだとしても、歩む道を歩んで行けばいい。何の保証があるわけでもない生なのだから、それを天命だと思って生きて行けば良い。

 考えてみれば僕はすでに多くのものを与えられている。まずは感謝を忘れてはなるまい。そのうえでまだ僕にはしなければならないことが山ほどある。これをまた越えていくのだ。

 出会わなければ、ともに過ごして乗り越えた日々がなければ、こんな気持ちにはならなかった。後戻りはできないし、そんな必要もない。こうならなければ見えなかった未来を探っていこう。

2019年10月10日(木)

■新聞 #24

 固有名詞を読み飛ばしながら読むとスラスラ読めることに気付いた。肩書きとか固有名詞なんて、できごとを理解するのに必ずしも頭に入れなくてもいいし、すでに頭に入っているものを脳内でいちいち再生せずとも、略号のように処理しまえばいい。

 今日はノーベル化学賞受賞ということで吉野彰さんの記事があちこちに載っている。一面はもちろん、総合面に載せたんだから、最後に読む社会面にまで載せなくてもいいのにと思うが、とにかく「大きく扱いたい」という新聞社の希望でそうなるんだろうか。新聞というのもある人びとのアピール欲を満たすものでもあるなら、そういうこともあるのかもしれない。

 公平性を装うし、公平であろうと心がけるものではあるのだろうが、「これを踏まえていれば公平である」というものがあるわけではなく、「これはやってはいけない」「これは避ける方が無難」という禁止ルールを踏まえるようなものだろう。

 お酒を飲まずに寝たと言っても、23時すぎまで仕事して6時間程度しか寝てないのでは、大して疲れは取れまい。

 一日睡眠時間が取れたからといって、すぐに元気になるものでもないだろうし。

 次休めるのはいつだろうなどと考えてしまうが、休む時間があるなら急がねばならない用事もある。

2019年10月9日(水)

■新聞 #23

 「新聞ってなんなの?」と思いながら、考えながら読むとわりと面白い。「なんでこんなこと記事にするの?」「なんでこの順番なの?」とか。

 同じことを繰り返していても仕方ない。少しずつ片付けていかないと。毎日、少しずつでも。

2019年10月8日(火)

 壊れそう。

 われわれが動機と関心について真の概念に到達するのは、自我が(日常の決まりきった仕事という殻をかぶった場合を除いて)形成の過程にあることと、いかなる自我もそのうちに多くの矛盾した自我を、不調和な性向を包摂するのが可能だということを認識できたときに限られている。[Dewey 1922=1995 : 139]

 どちらにせよ苦しんだ先にしか未来は開けないのであれば、苦しみは未来への誘いでもあろう。

 苦しみのないところに打開された現在は待っていない。揺れながら苦しみながらだからこそ、可能性をつかむことができる。苦しみのあるところに道ができる。その道はただ苦しいばかりではない。我がことを超えた希望の道でもある。この苦しみがただ個人的なことならば、逃げ出してもかまわない。そうではないから僕は逃げ出すわけにはいかないし、その分の力も与えられている。

 この構造的配置においては苦しさは正しさの裏返しでもある。

2019年10月7日(月)

 及第点以上というか、確実に自分の殻を破って、限界以上のことを成し遂げたといっていいだろう。

 これまで積み重ねてきたことのすべてが実を結んだといっていい。

 すごいこと、喜んでいいことのはずなのに、ただただ苦しいことが変わらない。

2019年10月6日(日)

 今回は狙った通りのことを及第点以上に達成できたのではないだろうか。

 先行きの見えない「センターの日」の繰り返しから、よくここまで来れた。

 しかし、この喜びを分かち合えるはずの人がいない。

 この身を引き裂かれているからこそ、やれたことなのかもしれない。

 こんなことに何の価値があるというのか。

2019年10月5日(土)

 ゆれるゆれる。

2019年10月4日(金)

 体調は悪いな。

 光を目指すということは未だ闇のなかにいるということ。それでも光を目指すことしかできないのなら、光を見出せることに希望はある。しかし、その光を目指すために置いていかないといけないものもある、あきらめなければならないものもあるなら、希望とは何か。

 だからか。捨てるものがあるうちはまだ選ぶことができる。何を捨てて何を目指すのか。

■原稿2 #8

 労働の現場では生活の領域が排除される。生活の領域では労働が形式的にしか扱われない。ここをどう理解すればいいのだろう。

 都市と労働を切り離して語ることはできない。それは資本主義のあり方が都市にどのような影響を及ぼしているかを読み解こうとする視点を持つ限り、決して排除してはならない領域であるはずだ。にもかかわらず、都市のなかに労働を語ることは容易ではないように思われる。都市社会学のなかで寄せ場を語ることはできても、飯場を語ることができなかったこと、労働をとらえることが難しいのはなぜなのか。

 同じことを繰り返しているからこそ、違いに気づくこともできる。

 同じことを悩むことにも意味はある。それはこの状況から抜け出そうという意志の現れである。苦悩は意思に導かれて力となる。

 そうとでも思わなければ耐えがたいな。

 失敗した。しゃべりすぎてすっきりしてしまった。

 いや、すっきりしたようで、それでやる気に満ちているかというと、そんなことはないなあ。

 よし、大丈夫。ゆううつになってきた。

2019年10月3日(木)

 体調も悪いよ……。

 お金の計算をしてみたら、完全に赤字だった。

 とりあえず、現金以外も含めた収支を把握できるきちんとした家計簿を付けるところから始めてみるか。

 家計簿付けるだけでかなりの時間と労力を取られてしまいそうだが……。

 費目の設定が重要だな。意味のない費目を作って入力の手間を増やしてはいけない。家賃、水道代、光熱費、電話・ネット代など、暮らすために必ず出ていってしまうお金がある。それから社会保険料。新聞代。

 学術活動をするためにかかる固定費もバカにならない。5つの学会の学会費と同人会費、会員会費など。毎年同じだけかかるので、ストックしておかないと請求書が届いてからでは対応できないかもしれない。

 毎月かかるお金と一年単位でかかるお金とがある。たとえば自動車税というのもある。住民税も収入が増えれば増えるほどかかってくる。住民税は一括で払う場合と分割で払う場合とがあるわけだが、分割で払うということはそれだけ生活が苦しくなっているということなのか。一括で払える方がおかしいのか。

 食費もかかる。自炊と外食。これは節約の余地はあるものの、努力と労力をともなう。交際費もかかってくるよなあ……。

 トイレットペーパーやハブラシ、石けん、シャンプーなどの消耗品代も必要だ。

 服飾費、散髪代というのもある。これも毎月ではないけど、貯金するなかから捻出していかなければならない費用だ。

 ExcelでもNumbersでもGoogleスプレッドシートでも何でもいいから、スマホからいつでも入力できるようなテンプレートを作っておこう。

 最初は家計簿を入力しつつ、修正していく期間がしばらく続くだろうな。

 収入はどうするか。貯金残高も管理していくのか。カードや引き落とし、口座からの振り込みをした場合など、口座内で処理される費目をどうするかなあ。

 口座内の収支は通帳に残るから、わざわざシートを作成する必要はないか。現金出納帳の方に口座への入金、口座からの出金の有無を入力しておけばいい。

 ただ、やはりカード払いにしている光熱費や電話ネット代などは把握しておく必要があるよなあ。

 口座内で処理していても、別シートにまとめ直しておく費目を決めておいたらいいのかな。光熱費、電話ネット代、新聞代に加えて、PiTaPaの利用額。EXカードは、公費で相殺される分とそうでない分は分けるべき? 新幹線代は面倒でも一回ごとに分けて記載して、相殺の有無、相殺完了を確認していくべきか。

 なるほど、レジリエンスというのはあるのだろうか。しかし、それは現象の名前に過ぎないのか、そうした現象を引き起こす実体があると見るべきなのか。

 たとえば、立ち直っているように見えるものも、それは単に衝撃が薄れていってしまうから、問題が解決したわけでもないのに、忘れているだけかもしれない。そんなものがレジリエンスの正体である可能性もあるわけだが。

 それでも、いったん衝撃を忘れてしまうおめでたい性質を頼みに、少しずつでも解決を模索することもできるはずだ。

 否定的に評価すれば、それは「現実が見えていない」「学習しない」ということかもしれない。しかし、明らかに身の丈に合わないことを、恥ずかしげもなく繰り返して目指そうとするズレにこそ、進化の可能性が宿るのかもしれない。愚かだからこそ、繰り返し現実に立ち向かおうとする。

 珍しくうまく講義ができた。これがカタルシス。

 しかし、レジュメに書いていないことがスライドに出てくることで戸惑った学生が多いようだ。やっぱり統一しないとダメかなあ。いっそスライドをそのままプリントするとか?

 自分の情けなさが解消できるまで待っていたら、いつまで経っても何もできないだろう。恥をかきながら進む。そういうものだと思うしかない。

 今どこをやっているのか確認するために穴埋めがあるという発想はなかったなあ。

 ああつらい。

 結局何も変わっていない。可能性の一つが潰されただけ。それでも希望を失わずにいることはできる。それも変わらない。しかし、それが何だというのか。

 一つひとつ形にしていくことはできる。それで何か変わるのか。変わったとしても、やらなければいけないことが増えるだけじゃないのか。わかちあえる相手のいないところによろこびなんてありえない。

 意外なほど立ち直れない。体調悪いのもあるとは思うけど……。

 僕にはまだまだ失うものがある。すべて失うほどまだ酷くはない。

2019年10月2日(水)

 体調のせいじゃないな。受け入れてくれているようで拒まれていることに落ち込んでいるようだ。本当にこの身体は正直というか、身体の察知力だけはしっかりしている。僕は身体と頭の落差を頼みにしつつ、それに一生苦しまされるのだろうか。

 僕が悪いのかなとふと思って振り返ってみた。そのようでもあるし、それ以外の問題のようにも思える。

 体感が先にあり、理解がのちに訪れる。そのように自分の性向を把握しておけば、いろいろやりやすい場面は多いかもしれない。これがいわゆる自己覚知というものか。

2019年10月1日(火)

 朝から不愉快なやつ。

 おかげで決心がついたな。

 新しいiOSは予測変換の単語の区切りが変。

■原稿2 #7

 いよいよ残された最後の原稿だが、今日付けですでに締め切りを破ったところである。そのうえ10月前半は予定が詰まっているので、きちんと見通しを持って進めないと完成するものではない。

 隠蔽された外部。都市下層の排除の構造的理解をもう一度やり直す感じだろうか。都市下層についての説明だったものを、下層労働についての説明と理解として今日的なアップデートを行う。

 英文の多読は単語と単語のつながりのパターンを学習していくもので、ある単語が出て来た時に続くであろう単語を予測できるようになることで、英文がスラスラ読めるようになるというもの。

 その根拠は「母語の学習においてもそういうものなのだ」というところにあるわけだが、母語で書かれた難しい本を読めるようになるためには同じように単語と単語のつながりに慣れていくというトレーニング的な取り組みが有効なのだなと気づいた。

 ジェイムズに比べてデューイの文章は癖があってなかなか頭に入ってこない。わからないわからないと思いつつ読んでいるうちに、強烈に惹かれるフレーズが出て来たりするから何度も挫折しては読み直そうとする。

 「こんな読み方では意味がない」「精読しないとダメなのかな」と思えて悩ましかったが、英文多読と同じで、デューイの思想は文章の構成に現れているはず──つまり、ある単語をデューイが用いる時に続くであろう単語が予測できるようになれば、自ずとデューイの思想を理解できることになる。だから、一つ一つの文章がわかる、わからないといちいち気にするのではなく、フレーズそのものを頭のなかに刷り込んで、パターンを学習させていくのが良いのだろうと考えた。

 この考え方自体、デューイのプラグマティズム的で、今読んでいる『人間性と行為』で扱われているテーマでもあるのだと思う。

 少しずつ道が開けてきて、可能性が広がっていくのを感じる。ろくでもないことばかりだが、希望はしっかり見えている。

 時間はないし、疲弊することばかりだという思いに囚われることは多いが、決してそんなことではないと思えるようになるし、決してそんなことはないのだ。切り拓いた後にしか見えない道もある。

 授業つかれた。この疲労から、どれくらいで回復するものなのか。

 お腹が空いているということもあろう。しっかりごはんを食べてみる。

 葛根湯も飲んでみる(13:26)

 自宅最寄駅に到着(14:34)。乗り継ぎ前の電車ではすこし寝たが、しんどさはとれていなかった。乗り継いだ後の電車で『人間性と行為』を読んでいたら、頭がすっきりした。単純に時間だけで考えると疲労から回復するまで2時間弱かかるということ? ちょっと長いなあ……。

 デューイ、自分が教育するときにも使えるかな。

 何のためにデューイを読むのか。これが社会学をやる時に役に立つまで到達するには、まだかなり時間がかかると思う。そう考えると、ほかに優先して読むべきものがあるのではないかとも思う。

 しかし、そんな計算ばかりしていては新しいものは一向に身につかないだろうし、何か自分にとっての必要性を感じて読んでいるのだろうから、そういうところを意識するべきだと思う。

 大きな意味での生き方みたいなところで求めているのは確かだ。しかし、それがデューイなのかどうか、どの程度期待ができるのかはよくわからなかった。今は結構期待できると感じはじめている。

 ふー、なんかモヤモヤするなあ。

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