過去ログ
2021年8月


2021年8月31日(火)

 ちょっと不安だったけど、なんとかなりそうだな。

 これからも「日雇い労働者のつくりかた」形式をスタンダードにして研究生活を送っていけばいいのだろうか。書くことをやめてはいけないんだな。

 語り得ないもの。難しいことだから語れないわけではない。語るための言葉が用意されていないから語れない。語るための道筋が用意されておらず、順序立てて語ることができないから語れない。

 それを語れるようにしていくことがエスノグラファーの為すべき仕事だ。

2021年8月30日(月)

 昨日の夜に何かが変わったのかな。

 ほんの少しだけど、余裕ができたように感じる。この一年を、みんなと話しながら振り返ったからかな?

 焦らなくていいし、もう取り戻さなくていい。この先の未来を信じて、新しく作っていけばいい。大切なのはこれまでではなくて、これからのこと。これまでがどんなに大切なものだったとしても、はたまた、つらいものだったとしても、これからが充実していくことより価値があるわけがない。明日と、明日を開く今日の努力を信じても良いのだと思う。

 大切なのは手に入れることではなく、共に歩んでいけること、共に楽しみを見つけていけることだ。

 違うな。たぶん、同じ出来事を経験して、記憶をすり合わせられる人たちとの間で、僕は決して口にできない記憶と思いがあることを知ったからだ。

 理解はかみ合わない。かみ合わなくても遠くに目をやった時に、同じものを見ようとしていると感じ取れることもある。もちろん、それは錯覚なのかもしれない。しかし、そんな錯覚を通してしか理解できないし、そんな錯覚を通してでも、理解し合えることはある。

2021年8月29日(日)

 あー。ダメかと思ったけど、十分予定をこなし終えたじゃないか。

2021年8月27日(金)

 これは一つの論文としてまとめるようなネタじゃない。

2021年8月26日(木)

 いや、今はそういったものに囚われていなければ、書くことができない。これはそういう出来事なのだから。

 事実は一人の人間の認識を通して成り立つものなら、この事実は、その囚われとともに捉えなられなければならない。

 あまり先のことを気に病むことはないよな。

 先行きが不安なのは、先のことのために必要な作業を今やっている最中だからで、いくら考えても見通せないからだろう。しかし、そんなものは一つひとつの作業を片付けていけば、自ずと見えてくるはずなのだから、先のことを気に病むことに意味はないことになる。

 また、今やっている作業を終えたとしても、やはり見通しは悪いかもしれないが、現在から考えてそれが変わるわけではないから、やはり気にしても辛いだけで意味はない。

 どのように気を持とうと日は上り、日は沈み、長い夜をやり過ごさなければならないといった部分と、長い夜のやり過ごしようと、本当に状況次第であることとは、重なり合って進むのだから、それは理解して受け入れてしまった方が楽になる部分の方が多いだろう。

 センス・オブ・ワンダー。

 そんな力が僕にあるなら、その力を信じてみるつもりがあるなら、その対象をもっと広げてみればいい。

 必要なものはすべて後から付いてくる。

 それが信じるということだろう。

2021年8月25日(水)

 何か悲しみやつらさに囚われている方がまだいくらかマシだ。

2021年8月23日(月)

 眠い……。

■山北輝裕、2014『路の上の仲間たち――野宿者支援・運動の社会誌』ハーベスト社

 うーん、つらい。とりあえず駆け足で読み直してみる。

 第2章よくわかんないんだけど、第3章の前段みたいなもの?「私には根本さんが、野宿者というカテゴリーと個人、その狭間で矛盾する信念を同時に成立させざるをえない経験を生きているようにみえた」[55]というのは、第3章の締めくくりにある 「パラドクスを生きる」[86]と同じことを言っているように思えるんだけど。この本における第2章というのは「飯場日記」的なものなのかな。

 「つまりこの「楽しさ」は支援者の立場にいられる自分という存在を確認する心的作用に付随して生じる感情であるとされている」[61]なんか、この辺の感覚が決定的に違うように思える。

 やっぱり違うな。違う気がする。山北さんや室田くんとは相互行為を読み解く時のスタンスが異なる。相互行為、関係性から読み解くと言いながら、二人はどこまでも支援者の立場から分析を進めている気がする。

 この「おっかあ」のエピソード[81-84]、意味ないんじゃ……。

 第5章からは論調変わるのかなあ。もうこの本、半分終わっちゃったけど……。

 「仲間」という語用を担保に当事者運動が所与のものとして位置付けられる。

 当事者運動が成立していた時期があったのか。長居公園テント村だってそうだったわけだし。しかし、よろずはなんか、もともとそういう志向ではないような……。

 まだ第4章だった。

 第5章(何言いたいのかまったくわからん)。

 ざっと読んだ。よく分からないけど、僕のやりたいこととは被ってないのは確か。

 あー。これは『はじめての参与観察』の方も読まないといけないのかな。

 ざっと読み直した。なんかよく分からないけど、いろいろぼやかして書いてることがあるらしい。

2021年8月22日(日)

 あー。つらい。

 直観の在り方。世界を読み解くための意識の在り方のようなものは、ありうるんじゃないのかなあ。

2021年8月21日(土)

 ちょっと調子を崩した、ような気がしたが、今週は月曜日に2回目のワクチンを打って、火水と副反応に苦しんでいたのだから、調子が良かったわけではない。副反応に苦しみつつも「野宿者支援の社会学」はしっかり書いていた。

 前より大きな課題に取り組むことになるのは、最初から分かっていたことだ。前やったことを活かしつつ、さらに発展までさせなければ、たどり着けるわけがない。

 不安に囚われる。「野宿者支援の社会学」どうなるだろう。いい感じで展開していると思えるところもあれば、同じところをぐるぐる回って、なかなか先に進めないもどかしさ、ぐるぐる回っているうちに、よくある理屈にからめとられそうになっていることもある。

 この行き方で、なんとか現状を打開していくしかないのか。不安はむしろ行くべき道に足を踏み入れているがゆえなのか。

 まあ、何かをやっていた方が気は紛れるな。

 そうか、文体で読ませるとはそういうことかもしれないな。書いている自分がわくわくするようなことを書いて、思いもよらぬものを見せてくれる。書くことがすなわち論じることであり、目的を引き寄せる。

2021年8月20日(金)

 良かれ悪しかれ、一人ではどこにもたどり着けない。

 一覧しにくいから整理した。野宿者支援の社会学

2021年8月19日(木)

 本読んでから寝たかった欲求が解消されていないせいか、もやもやする。

■野宿者支援の社会学 第4回 支援という立場

 「野宿者支援の社会学」ですが、野宿者支援に入る前に、野宿者に3回を費やしてしまったことになります。文字数にして12,000字以上になるようなので、論文だったら、これだけで半分以上、文字数が埋まってしまいます。今数えてみたら初回で約2,800字、第2回で約5,600字、第3回で約2,600字でした。第2回が異常に長かっただけで、1回分を2,500字〜3,000字くらいのボリュームで考えていけば良いのでしょうか。もともと1度に読むのにしんどくない分量というのもそんなものだと思います。

■野宿者との関係

 第2回の最後に「野宿生活とは、野宿生活を送る人が置かれた状況によって、相反するほど、解釈の幅があるようなもの」だと述べました。

 ところで、あなたは野宿者でしょうか。それとも野宿者ではない人でしょうか。野宿者との関係を考える上で、まず二通りの立場があると思います。すなわち、野宿者が野宿者に対する場合と、野宿者と野宿者でない人との関係です。なるほど、どちらもじっくり考察を深めねばならないようなテーマですが、ここでは後者について考えて行きたいと思います1)

 そもそも野宿者という立場自体、野宿者でない人からの視線によって成り立つものであり、この視線は否定的なものです。この視線が否定的なものであることは、野宿者に先立つ呼び名が浮浪者という蔑みを込めたものであったことに現れています。野宿者でない人は野宿者に対して否定的なまなざしを向けます。

 この否定的なまなざしが同情的なものである場合もあります。しかし、同情的なまなざしとは、否定的なまなざしと裏表の関係にあると思います。副次的なものと言ってもいいかもしれません。同情的なまなざしとは、他人から蔑まれるような惨めな生活に対する哀れみだからです。

 あと、無関心というのもあるかもしれませんが、無関心な人はそもそも野宿者に対して、まなざしを向けるということがありません。もしかすると、他人が野宿者に対するまなざしを向ける相手と、野宿者だと意識せずに何らかのまなざしを向けたり、関わりを持ったりすることはあるかもしれません。たまたま知り合って仲良くなった人が野宿生活をしていると後に知るようなこともありえます。これについても、後に扱う必要があるかもしれません2)

 支援というのは、何らかの問題を抱えている人たちに対して、その問題解決の手助けをすることでした。ゆえに、支援に携わる人たち、支援者は、他人の中に、あるいはその人を取り巻く状況に問題を見出し、その解決を目指して、その人との関係を持つことになります。

 支援者というと、当然、野宿者ではない人の取りうる立場のように思われます。しかし、実際には、野宿者が野宿者を支援するということも考えられます。もちろん、野宿者同士、手に入ったものを融通しあったり、情報交換をしたりといった助け合いはあるでしょう。しかし、助け合い、すなわち互助は支援とは異なります。支援は、あくまで助ける者と助けられる者という非対称的な立場を前提としています。野宿者が野宿者でありながら野宿者を支援する支援者であるとしたら、どのような立場になるのでしょうか。このことについても、いずれ考えていくことになるかもしれません3)

 差し当たり、野宿者ではない人が野宿者を支援する場合について考えていきましょう。

■何を問題ととらえるのか

 ようやく野宿者支援について考えはじめることができます。しかし、何をその問題ととらえるのかで、支援の中身は変わってくるし、支援者としての立場もさまざまであることになります。

 これは結局、野宿者ならぬ支援者が、野宿者をどのように見ているかにかかわってきます。ここで、「野宿生活とは、野宿生活を送る人が置かれた状況によって、相反するほど、解釈の幅があるようなもの」という冒頭の指摘に話は返ってきます。支援者も、野宿者の置かれた状況によって相反するほどの揺れ幅を引き起こす、解釈の領域に引き込まれるのです。

 野宿生活はさまざまな不自由をともなうものであり、野宿生活に及ぶまでに、そうならざるを得なくなるような痛手を負っていることになります。それは、例えば失業であったり、病気であったり、借金、家族との不和などがあるでしょう。さまざまな痛手を負って、結果として野宿生活という不自由な生活を送っているのだとすれば、その状態から抜け出すことを望むのが普通ではないでしょうか。

 また、このような状態に陥った人に対して手助けをするとすれば、行政の役割か慈善事業の領分だと考えるのが普通だと思います。野宿生活をする人の姿を見かけたとして、一個人でできる手助けなど知れています。なんとかしてあげたいと思っても二の足をふむか、何か食べ物か物品を差し入れするくらいがせいぜいではないでしょうか。これでは、野宿生活を続けるうえでの手助けにはなっても、野宿生活から抜け出す手助けにはならないでしょう4)

 人によっては、仕事を紹介してあげたり、生活保護を受ける手助けをしてあげるといったこともできるかもしれません。実際に仕事と住むところを紹介してくれる人もいますが、こういうことをするのは手配師といって、働き手を紹介することで手数料を得ることを生業としている人なので、厳密には支援とは言えません。手数料目的ではなく、自分の知り合いで何か事業をしている人に紹介したり、自分自身が事業をしていて、直に雇ってあげるということもありうるかもしれません。

 しかし、路上でたまたま知り合った素性も分からない人のために、そこまでしようという気になるでしょうか。何かトラブルを抱えているかもしれないし、まともに働いてくれるかどうかも分かりません。それでも雇いたいというところがあるとしたら、それはよっぽど働き手がなくて困っている会社で、働き手がいないということは、あまり条件の良くない仕事であることを意味します。また、第2回で触れたように、「必死で仕事を探しても、どうにもならなかった上で野宿生活をはじめた」という背景があることも思い出して欲しいと思います。

 生活保護を受ける手助けをしてくれる人もいます。場合によっては、住むところとセットで生活保護の申請までやってくれる人もいます。そういう人はそれ自体を事業としている組織に属しています。生活保護費の一部が家賃収入として還元されることで、このような事業が可能になっています。貧困ビジネスと揶揄されるようなところもありますが、自前の物件を持っているわけでもなく、希望する人に付き添って、生活保護を申請し、部屋を借りて生活を始める支援をするような団体も実際に存在します。

 2021年現在、日本社会では、野宿生活から抜け出す支援をするためにさまざまな取り組みが行われています。生活保護を受ける手助けをするだけでなく、生活保護を受けた後の生活支援、就労支援まで視野に入れた活動もあります。その背景には、若者の貧困や女性の貧困、子どもの貧困など、次々と貧困が発見されていく時代の流れもあったと思います。ネットカフェ難民や派遣村、近年の子ども食堂など、貧困の広がりを実感させるような出来事もありました。2013年12月13日には生活困窮者自立支援法が公布、2015年4月1日に施行されています。1990年代の野宿者の急増、貧困の広がりとともに、生活保護が受けやすくなったことも、還元される生活保護費を原資とした活動の整備をうながしたと思われます。

■でも、そんなことはどうでもいい

 というように、野宿生活からの脱却を支援する取り組みや制度はたくさんできていて、それに携わる支援団体、支援者も当たり前に活動しています。その中には全国的に有名になっている活動もあります。

 野宿者支援とは、野宿者が野宿生活から抜け出し、社会復帰する手助けをすることであると言ってしまえば話は簡単です。しかし、僕はそんな話をする気はさらさらありません。さらさらないくせに、こんなことを長々と書いてちょっと嫌になってしまいました。こんなに書いてもまだ、野宿者支援の立場にかかわる話の半分しかできていません。

 とはいえ、文字数も3,000字に近くなってきたので、第4回はこの辺りで締めたいと思います。

 なんだか疲れてしまいましたが、疲れてしまうのは、きっとこれが正しいことだからなのだと思います。野宿生活は不自由なものであり、誰にとっても望ましいことではない。その野宿生活から抜け出すための仕組みが作られ、その手助けをしようという善意の人たちがいる。何もまちがっていません。むしろ正しいことです。

 しかし、正しいことだからこそ、見えなくなってしまうものがあり、語りにくいことかあります。その語りにくさを解きほぐした先にあるものを見に行きましょう4)

別に読まなくていい今回の独り言

1)こういうふうに、まわりくどいことをくどくどと言って、掘り下げていくの楽しい。

2)これが伏線というものだな。回収するのかどうか、できるのかもわからないけど。僕たちは常に常識化された還元の中を生きているから、それを揺らがすためには、横道に逸れる必要がある。横道に逸れながら目的地を探し出し、たどり着くための技術が「日雇い労働者のつくりかた」形式たるこの文体なのかもしれない。テーマの広がりを量っていく。

3)まだまだ序盤、風呂敷を広げる段階ということだなあ……。

4)袋小路に入り込まないように気をつけていても、どうしてもその目の前まで行かなければならない場合はあるだろう。それをどう乗り越えていくか。次回まではまだ、概念整理で終わってしまいそうだ。第6回から事例に入ることになるのかな。そうすると、事例は何を使うんだろう。いきなり本題というわけには行かなさそうだけど……。

5)今回初めて本文中に上付きで脚注番号を入れてみたけど、こうしてみると脚注というのは本当に「読まなくていい独り言」だし、著者の言いわけなんだなと思う。

2021年8月18日(水)

 水曜日くらい休む。

2021年8月17日(火)

■野宿者支援の社会学 第3回 誰がその人を野宿者とするのか

 第3回では、誰がその人を野宿者とするのか、ということを考えたいと思います。

 「野宿者は野宿者だろう」「ホームレスはホームレスだろう」と思われるかもしれませんが、ことはそう単純ではありません。例えば、「大人は大人だし、子どもは子どもだろう」と思うかもしれませんが、子どもというのは大人との関係で意味を持つものだし、それは同時に、子どもとの関係で大人であるということの意味が成立することでもあります(大人と子どもという区別は、近代になって成立したものだという話もあります)。ただし、子どもがいなくても大人は大人として存在しています。しかし、そこでは大人という区分は意味を持ちません。子どものいない世界では、大人であることを意識する必要がないからです。

 同じように、野宿者しかいない世界、野宿者自身が独立した世界で自らを野宿者であると考えることに意味はなく、野宿者ではない者と野宿者との関係が成立したところに、初めて野宿者という区分が成立するのです。

■浮浪者という言葉

 ここでの議論の端緒はすでに第1回で示されています。第1回で僕は次のような整理をしました。

 野宿者とは「何らかの事情で野宿生活が恒常的になっている人であり、また他人からそのようなカテゴリーを当てはめられたり、自分自身がそのようなカテゴリーを引き受けなければならなくなった人」そして「野宿者とは社会の厄介者で、存在自体が否定的にとらえられている人たち」です。

 一つ目の整理において、「他人からそのようなカテゴリーを当てはめられる」ことと「自分自身がそのようなカテゴリーを引き受けなければならなくなった人」とが併置されていますが、時系列的には「他人からそのようなカテゴリーを当てはめられる」ことが先立つものです。

 今でこそ、ホームレスや野宿者のほか、路上生活者と呼ぶ場合もありますが、戦前から戦後にかけて、野宿生活をする人たちに対して当てはめられていた呼び名(カテゴリー)は「浮浪者」でした。「浮浪者」という呼び名がいつ頃から、どのようにして定着したのかまでは分かりませんが、明らかに否定的な言葉、ありていに言って差別的な言葉です。「ここにいるべきでないのにうろうろしている人間」という否定的な意味が込められています。いてはならない人間であり、そのようなあり方を責められても仕方のない人間というわけです。

 「ここにいるべきでないのにうろうろしている人間」という意味では、不審者という言葉もあります。しかし、不審者は、ある場所、ある状況において不適切なふるまいをしている人間を疑う際に用いられる言葉です。それに対して浮浪者は、一時的にそのような状態にあるのではなく、ある種の恒常性があるところに違いがあります。つまり、不適切なふるまいが、恒常的な野宿生活に起因するものと目されている人たちです。

■浮浪者からホームレス、野宿者へ

 この言葉は1983年の横浜浮浪者襲撃殺害事件を境に使われなくなりました。この事件は未成年が野宿者を襲撃して、殺害したというものです。差別され、否定的に扱われる浮浪者でも、殺してはいけない、殺人は殺人であるというくらいのモラルは、この社会にもあるようです。しかし、この事件がとりわけ問題となったのは「未成年の子どもたちが殺人を犯した」という特徴にあります。つまり、被害者である野宿者の問題というより、加害者である子どもたちの「心の闇」が問題とされたわけです。

 子どもたちがこのような行為に及んでしまったのは、野宿者のことを差別的な意味合いを含む浮浪者という言葉で名指す大人たちの社会にもあるのではないか、ということで、浮浪者という言葉は禁止され、別の呼び名が模索されるようになりました。

 呼び名が変わったところで、扱いが変わるわけではありません。何せ、呼び名を変える動機は子どもたちのことを心配してのことでした。野宿者に対する襲撃は、ニュースにならないだけで、日常的に起きているし、最近のものだけでも、2012年に大阪、2020年に岐阜でも、少年たちに襲撃された野宿者が死亡する事件が起こっています(野宿者に対する襲撃事件については「ホームレス問題の授業づくり全国ネット」の年表で一覧できます)。

■野宿者であることの自覚

 私たちの社会の中で多少反省がなされたところで、野宿者を「社会の厄介者扱い」していることは変わりません。野宿生活を送る人たちも「社会の厄介者」と見られていることを自覚しています。寝場所を探すのにも苦労するし、嫌がらせを受けたり、不審な目を向けられることも日常茶飯事であり、それでも何とかやっていくためには、他人からそのように見られていることを自覚した上で、咎めだてされないように計算して行動する必要が出てきます。「自分自身がそのようなカテゴリーを引き受けなければならなくなった人」とはそのような意味です。これは、世間から向けられる視線を内面化し、自分自身、否定的に受け止めつつも、生き抜くために必要な現実認識とするものです。

 世間から否定的なまなざしを向けられようとも、野宿生活とはやむなく押し出されるものであり、これは本人にとってもどうしようもないことです。前回も触れたように、人によっては、就労支援のような施策があったとしても、進もうにも戻ろうにも希望が見出せないわけだし、社会の中で見捨てられつつも責められる極限状態にとどまることを意味します。

 そのような状態に置かれて、しかし、野宿生活をオルタナティブな選択肢ととらえ直し、自分らしい生き方を実現する手段とする可能性もあります。これも前回説明した通りです。この場合もやはり、世間からの否定的なまなざしを引き受けているところは同じですが、自分の中では肯定的に、むしろ積極的に野宿者というカテゴリーを引き受けることを意味します。

 今回確認しておきたかったことを最後に整理しておきましょう。野宿者とは、まず野宿者ならぬ他人によって認識されるものであること、そして、その認識は否定的なものであるということです。次に、野宿者はその否定的な認識を受け入れざるを得ない状況にあり、自分自身が野宿者であるということを、消極的にであれ、受け入れなければなりません。しかし、その消極的に受け入れなければならない立場を、むしろ積極的に受け入れ、肯定的に活用する生き方がありえます。

 ここまで確認した上で、次回からは、野宿者にかかわっていく支援という立場について考えていきましょう。

別に読まなくていい今回の独り言

1)別に読まなくていい今回の独り言は、今回はなくてもいいかなと思ってたんだけど、ちょっとしんどいから、針路を誤らないための覚書として書いておいた方がいいかもしれない。

2)これ、最終的にどこを目指して、どう膨らませていくのか。というか、重要なのは、どこを目指すかより、どう膨らませるのかの方だ。「なんとなくこういうことを言いたい」「こういうところにたどり着きたい」というイメージはあるが、なかなか一足飛びには、そこにたどりつけないからこそ、こういう面倒くさいことをしているわけだ。ゴールにたどり着けるかどうかは、話をどんなふうに膨らませられるか、十分に膨らませられるかどうか、どんな方向に膨らませるかにかかっている。

3)最初から使いたいエピソード、これは入れたいと決めているエピソードはある。しかし、そのエピソードの切り方が分からず、膨らませ方も分からないから、こんなことになっている。「日雇い労働者のつくりかた」形式は、そのような壁を乗り越えるための知恵だ。それはともかく、使いたいエピソードをすぐさま膨らませればいいというわけではない。膨らませられるようにするための手順を確認しつつ、作っていくのが、この読み物を書く目的だ。当たり前に語れば伝えたいことが伝えられそうなのに、当たり前に語ることができない。どう語ればいいのか分からないという、どんくさい状況を打開するための手段。

4)もしかすると、入れたいと決めているエピソードだけでは不十分かもしれないから、他に入れなければならないかもしれないエピソードを探る作業でもある。入れたいと決めているエピソードにしても、どの程度のボリュームで活用できるエピソードなのかも考えなければならない。もしかすると、自分が考えている以上には豊富なテーマを含んでいる可能性もあるし、変な方向に膨らませてしまうと、逆に足を取られ、袋小路に迷い込んでしまうだろう。

5)最終的に到達しなければならないのは、路上生活に秘められた可能性の世界であり、また、それは未だ意識されていない世界の成り立ちを示すものであることを論証することだ。そのために僕たちが何を受け取ってきたのかを忘れてはいけない。僕もまた引き受けなければならないことがある。そのような責任がどこから発生するのかも、論点の一つだろう。

6)「センターの日」を入れるかどうかでも話は違ってくる。当然、エピソードとしては入れないと成り立たないのだが、きっちり位置付けをするなら、もう読み物全体のスケールとして、『野宿車支援の社会学』という本を書くくらいの構想で考える必要が出てくる。

2021年8月16日(月)

■野宿者支援の社会学 第2回 野宿生活とはどのようなものか

 前回のおさらいです。野宿者支援とは何かということを考えていくと、そもそも野宿者とは何かということを考える必要が出てきます。支援というのは、何らかの問題を抱えている人たちに対して、その問題解決の手助けをすることです(ここに計画性という要素が加わりますが、それについては、ひとまず措いておきます)。

 したがって、野宿者支援といった場合、困っているのは野宿者であり、野宿者が抱えている問題の解決の手助けをするのが野宿者支援ということになります。ところが、ここでの支援の対象である野宿者とはどのような人たちかということを考えると、本人の生活状況が恒常的な野宿生活であることが第一の条件ではありますが、それだけでは野宿者とは呼ばれません。ここでポイントとなるのは、誰がその人のことを野宿者と呼ぶのか、言い換えれば、誰がその人を野宿者(ホームレス)と認識するのかです。

 何らかの事情で恒常的な野宿生活を送る人がいたとして、その人が自分の生活に問題を抱えていると感じているかどうかはわかりません。大体、生活する上で何の問題も抱えていない人というのは、厳密には存在しないのではないでしょうか。誰しもが、多かれ少なかれ、生活上の不満を抱えていて、しかし「不満ばかり言っていても仕方ない」と自分の中で折り合いをつけて暮らしているのが実際だと思います。

 野宿者支援における野宿者とは、解決の手助けが必要となるような問題を抱えている人たちであることになります。しかし、前回見たように、実際には、困っているのは野宿者ではなく、その周囲の人たちの方かもしれません。野宿者支援と言いつつ、実際には野宿者の周囲にいる人たちの抱える問題を解決するために、その問題の元凶である野宿者の存在を無くしてしまおうというのが野宿者支援なのであれば、それを野宿者支援と呼ぶのは語義的におかしな話です。

 とはいえ、野宿生活には、個々人が折り合いを付けられる範囲を超えた問題、支援を要するような問題があるかもしれません。というわけで、野宿生活とはどのようなものなのか、困ることがあるとすれば、どのようなことであるかを、次に考えてみましょう。

■野宿生活で困ること

 野宿生活をしていると、いろいろ困ることがあります。例えば、これは野宿生活に限った話ではありませんが、人間が生きていく上で、水とトイレの問題はわりと優先順位の高いものです。水はまず飲料として必要不可欠ですし、料理をしたり、洗い物をしたり、顔や身体を洗うためにも必要です。普通に暮らしていると、蛇口をひねれば出てくるものなので、私たちはその重要性を普段意識しません。裏返せば、重要かつ根本的な問題であるがゆえに、普段意識せずに済むくらい、問題が起きないような整備が成されているのだと言ってもいいでしょう。

 トイレの問題も同様です。人間は生きているだけでお腹が減るので、食べ物をいかに確保するのかというのも重要な課題です。一般に「衣食住」と言われるくらいですから、食の問題は生活の基本的な要件ととらえられているのでしょう。しかし、生きるために食べたり飲んだりすると、好むと好まざるとにかかわらず、数時間後には排泄を行わなければなりません。外出先でトイレが見つからず困った経験というのは、誰しもあるのではないでしょうか。たかだか数時間でも、住んでいるアパートが断水して水洗トイレが流せないのはストレスを感じる状況です(都市で生活していれば、トイレというのは水洗トイレのことで、これは下水道ですから、これもある意味水の問題なのかもしれません)。

 というわけで、どこかで野宿をするとしても、水とトイレが近くで利用できる場所を選ぶ必要があります。ただ寝ているだけでも、夜中に何度かトイレに行きたくなるものです。その辺でこっそり済ませてしまうこともできるかもしれませんが、臭いが残るし、自分が出したものといっても不衛生であることは変わりません。公衆トイレや何かの施設のトイレが使えるとしても、歩いて5分、10分もかかる距離だと落ち着きません。

 先ほど「衣食住」という言葉にふれて、食の問題に言及しました。これらは生活の基本的な要件だと考えられているのだとすれば、野宿生活は、そもそも「住」というところに難を抱えているものと言えます。しかし、ここであえて水とトイレの問題をあげたのは、この二つが、野宿生活において個人の努力では解決が難しいものだからです。家賃を払うほどの収入がなくても、衣食の部分はいくらかのお金があれば何とかなります。食べ物や着る物は、選ばなければ、捨てられたものから調達することもできます。住の部分も、野宿という形で金銭的にはクリアできるのです。

 お金がないということは、現代社会で生きていく上で、さまざまな問題を引き起こします。ホームレス問題は失業の問題であると言われることがあります。これも、お金を得る手段としての仕事を失ってしまうと、いずれ家を失い、路上に放り出されるからで、結局はお金の問題なのです。

■問題解決の手段としての野宿生活

 野宿生活は、このお金の問題を解決する手段の一つであると言えなくもありません。まず、野宿すれば、家賃を払う必要がないので、その分のお金が浮きます。私たちの生活で、収入の何割かが家賃や光熱費に注ぎ込まれていることを考えると、思い切って野宿生活をするのも悪くないかもしれません。

 とはいえ、家がないことで困るということもあるはずです。まず、路上生活で持ち歩ける荷物の量は知れています。リュックを背負って、両手に持てるバッグくらいが、人間がその身体を使って持ち歩ける最大限の荷物でしょう。この三つの荷物のサイズや重量は、それを持ち運ぶ人の体力次第ということになります。

 もちろん、馬鹿正直に自分の身体のみを用いる必要はありません。自転車があれば、前カゴや荷台に荷物を載せることができるし、ハンドルや車体に袋を吊り下げることもできます。台車やカートなどを活用する場合も考えられるし、リアカーに載せてもいいかもしれません。ただし、車両が大きくなればなるほど、目立つようになるし、一緒に移動することも困難になるでしょう。

 荷物の問題を解決する抜本的な手段は、テント小屋を建ててしまうことです。テント小屋まで行かなくても、公共施設の軒下や雨風をしのげる橋や高架の下などを寝床にしてしまってもいいと思います。こうしてしまえば、生活はずいぶん楽になります。着る物にしても、季節の移り変わりに合わせて、使い分けなければならないし、洗濯したり入浴したりすることを考えると、着替えを持っておく必要があります。布団や毛布などの寝具も、寒暖に合わせて調整しなければなりません。

 荷物を置ける場所があるかないかは、野宿生活の質を大きく左右します。持ち運べる荷物の上限があり、生活に必要なものをその都度、入手しては捨てるなどしていては、大変なコストがかかります。対処できる範囲も限られてくるでしょう。テント小屋は、野宿生活を人並みの生活に向上させてくれるのです。

 もちろん、テント小屋はどこにでも建てられるというわけではありません。私有地に建てればすぐさま警察を呼ばれてしまうでしょうから、公園や路上、河川敷、先ほど述べた公共施設の軒下や雨風をしのげる橋や高架の下などの公共空間、すなわち、個人のものではなく、所有が曖昧な領域のなかから、あまり人の目が届かないところに目をつけて住み着く戦略が必要になります。確保できたのがトイレや水を使いやすい場所であれば、言うことはありません。

 荷物を置くだけなら、必ずしも寝床にする必要はありません。寝床は水とトイレが使いやすいところに設けて、荷物置き場をどこかに見つけるのもありでしょう。しかし、そうすると管理が疎かになってしまいます。盗難の恐れもあるし、何かの機会に処分されてしまう危険も考えられます。また、いちいち荷物を入れ替えるのも面倒だし、日頃目の届くところに置いておくのがベターだと思います。

■野宿生活は強いられたものか

 「野宿生活で困ることには、どんなことがあるのか」というところからスタートして、「実は野宿生活は問題解決の手段と見なせなくもない」という話をしました。とはいえ、野宿生活で困るのは水とトイレだけではないでしょう。安心して寝る場所が得られるのかとか、そもそも食べるものが得られないといったことは、すでに問題なのかもしれません。「野宿生活に陥ること自体が困っているのだ」というわけです。また、病気や怪我をした時に、お金や保険証がなくて医療にかかれないことも問題かもしれません。しかし、よく考えると、医療にかかれないのは野宿生活だからではありません。野宿をしていなくてもお金や保険証がなくて医者にかかれないという人はいくらでもいます。過酷な野宿生活は体力の低下を招き、健康を損ねやすくなるということはあるかもしれません。

 いつも難しいなと思うのは、この辺の理解をするときに、必ず飛躍がともなうことです。野宿生活を送るには、大変な苦労がともないます。安心して眠れる場所を見つけるのは大変だし、せっかくいい場所を見つけても、そこから追い出されたり、嫌がらせを受けることもあります。激しい気候や雨風をしのげる場所は限られているだろうし、体力や健康も損なわれて、苦しい思いをするとなれば、野宿生活にいいことなどありません。問題解決の手段としての野宿生活と言ってみたところで、それはもともと苦しい状況にあった上での、苦肉の策と言った方がいいかもしれません。「家賃払うの嫌だから野宿生活を始めよう」と考えられるほど楽な道ではありません。これらは野宿者に対する同情的な見方であり、その可哀想な境遇から抜け出す手助けをしたいというのが人情というまのでしょう。

 しかし、やり方によっては野宿生活には、やはり良い面もあるわけです。水道やトイレが利用できる公園で、しっかりしたテント小屋を作れば、暑さはともかく、寒さや雨風をしのぐことはできます。そこから会社に通うということは難しいかもしれませんが、何らかの手段で現金収入が得られれば、家を借りて、家賃を払うためにあくせく働く必要のない、わりとマシな暮らしができるかもしれません。

 「ホームレスの自立の支援等に関する特別措置法」という法律があり、この法律では、全国の自治体が取り組まなければならないホームレス対策が定められています。その中に、就労自立の支援というものがあります。ホームレス問題はそもそも失業問題であるなら、家を借りて暮らせるだけの収入が得られる仕事に就ければいいわけで、そのような状態になることを「就労自立」と言っているわけです。

 もし本人が「野宿生活なんてまっぴらだ。まともな仕事をして家を借りて、安心して快適に暮らせるなら、それに越したことはない」と考えるのであれば、就労自立の支援は必要です。しかし、家賃や光熱費にかかる支出というのはバカになりません。「あくせく働いてギリギリの暮らしをするくらいなら、十分に整った野宿生活を続ける方がいい」と考える人がいても、不思議はありません。また、ホームレス自立支援センターのような施設に入所して仕事探しをしたとしても、「まともな仕事」が見つかるかどうかはわかりません。必死で仕事を探しても、どうにもならなかった上で野宿生活をはじめた人にとっては、支援すると言われても、就労自立に前向きになれなくとも不思議はありません。

 断っておきますが、「十分に整った野宿生活」を達成できるのは、野宿者のなかでも一握りの人たちだと思います。条件の良い場所は限られているし、野宿生活をしながら必要なものを手に入れられるようになるには、それなりの才覚や努力、それに運も必要になります。とはいえ、築き上げた野宿生活の継続を望む人がいる可能性は否めないわけです。

 「そういう人もいるかもしれないが、野宿生活はそんなに良いものではないはずだ」という意見もあるかもしれません。しかし、その人にとっては野宿生活の方が現実的かつ合理的な選択なわけだし、誰しもが、「不満ばかり言っていても仕方ない」と自分の中で折り合いをつけて暮らしていることを考えれば、それも一つの生き方として認められてもおかしくはありません。

■野宿生活とは何か

 このように見ていくと、野宿生活とは、一つには、まともな仕事に就けず、十分な収入が得られない人が住居を失うことで強いられるものです。望んでいないものを強いられるのは、その社会のあり方に問題があるからです。私たちはこの社会のあり方を見直していく必要があるでしょう。これは野宿者支援というより、社会変革を志向することです。

 もう一方で、野宿生活はオルタナティブな生き方の一つであると言えます。野宿生活を強いるような苦境に追い込まれた人が、そうした苦境を転換し、自分らしい生き方を実現する手段ということになります。

 この二つはどちらも野宿者が置かれた状況について妥当する解釈であるはずです。このように、野宿生活とは、野宿生活を送る人が置かれた状況によって、相反するほど、解釈の幅があるようなものなのです。野宿者への対応を考える時、この解釈の幅を矛盾なく埋め合わせることは難しく、それゆえ、一方の見方が一方の見方を等閑視するような飛躍が起こってしまいます。

 「野宿者支援の社会学」では、飛躍の前にとどまって、この解釈の幅の背景にあるものを理解して行きたいと思います。そのために次に考えたいテーマは、実は今回の冒頭に示されながら、未回答のままになっています。すなわち、「誰がその人のことを野宿者と呼ぶのか、言い換えれば、誰がその人を野宿者(ホームレス)と認識するのか」です。

2021年8月15日(日)

 「野宿者支援の社会学」良さそう。面白い。久しぶりだな。

■野宿者支援の社会学 はじめに

 「野宿者支援の社会学」という連載を始めてみようと思います。

 かつて「怠け者の社会学」でやったように、今回も論文を書くための手続きとして、『日雇い労働者のつくりかた』形式、つまり、レクチャー形式を採用した記述を行っていきたいと思います。

 タイトルを「野宿者支援の社会学」としましたが、はたしてこれでいいのか、よくわかりません。大き過ぎず、小さ過ぎず、曖昧さを残しながら、とりあえず滑り出しの良さそうなタイトルにしておきます。

■野宿者支援の社会学 第1回 野宿者支援とは何か

 とりあえずの前書きを書いて、とりあえず書き始めてみようとしたところ、まず第1回目のタイトルを考えなければならないことに気づきました。「野宿者支援の社会学」だし、初回は「野宿者支援とは何か」でいいのではないかと安易に考えて、もしかしてと思って「怠け者の社会学」を見直してみたら、「怠け者の社会学」の初回も「怠け者とは何か」でした。昔も今も同じくらい安易なようです。

■野宿者とは誰か

 さて、野宿者支援とは何でしょうか。字義通りにとれば、もちろん野宿者を支援することです。では、野宿者とは何でしょうか。これもまた字義通りに取れば、野宿者とは野宿する人です。しかし、一人バイクでツーリング中にテントを張ってキャンプしているとか、終電を逃して仕方なく駅で一夜過ごす人たちのことをわざわざ野宿者とは言わないでしょう。野宿者は、ある程度恒常的に野宿生活を送る人たちのことです。

 また、何らかの事情で野宿以外の選択ができない、あるいはしない人でしょう。お金が十分にあるなら、何も野宿しなくとも、ホテルや民宿などに泊まればいいことです。帰る家があって、帰ることができるなら、帰って休めば良いだけの話です。それが出来なくて一時凌ぎで野宿をするということはありうるかもしれませんが、それだけではわざわざ「野宿者」という肩書きを背負ったり、そのように名指されたりすることもないでしょう。

 ここまでのところを整理すると、野宿者は、何らかの事情で野宿生活が恒常的になっている人であり、また他人からそのようなカテゴリーを当てはめられたり、自分自身がそのようなカテゴリーを引き受けなければならなくなった人ということになります。

■野宿者は社会の厄介者

 野宿者はなぜ野宿者というカテゴリーを当てはめられるのでしょうか。それは、この社会でそのような生活を送る人の存在が珍しいからで、そのような生活を送る人たちへの対応に、野宿者ではない人たちが困るからでしょう。そう考えると、野宿者とは社会の厄介者で、存在自体が否定的にとらえられている人たちであることになります。

 今の日本社会では、このような人たちは野宿者ではなく、ホームレスと呼ばれます。野宿者が社会の厄介者であるとしても、自分の生活に関わりがなければ、対応を考える必要はありません。例えば、自分の家の庭だったり、玄関の前に野宿している人がいれば、さすがにぎょっとするのではないでしょうか。病気で行き倒れているのだとすれば、救急車を呼んだり、安否を確かめることを考えるのではないでしょうか。

 しかし、事情を聞いてみれば、単にお金がなくて、泊まるところや帰る家がないので、たまたまそこで寝ているのだとしたらどうでしょうか。

 親切な人であれば、ごはんを食べさせてあげたり、自宅に泊めてあげたりすることも、もしかしたらあるかもしれません。しかし、ずっとそうしてあげるというわけにはいきません。何か事業をしていて、ちょうど働き手を探していて、その人もその仕事がしたいというなら、渡りに船で一件落着ということもあるかもしれませんが、普通そんなことはありません。

 「こんなところで寝られたら迷惑だ!」と追い出したり、場合によっては警察を呼ぶ人もいるかもしれません。そこまで行かなくとも、どこか他所で寝てくれるようにお願いするというソフトな対応もありうるでしょう。しかし、それは問題の先送りないし、たらい回しに過ぎません。その人が公園に移動したり、公共施設の敷地内や軒先で野宿するようになったとしても、それを迷惑に感じ、追い出そうという人は、どこに行ってもいるでしょう。

 あるいは、役所に行って福祉を受けることを勧める人もいるかもしれません。生活保護という制度を知っていれば、生活保護を受けることを勧めるでしょう。

■支援とは何か

 では、支援とは何でしょうか。野宿者に、どこかへ行ってくれとお願いするのは支援ではありません。それは単に問題を遠ざけたいだけです。ご飯を食べさせてあげたり、泊めてあげたりするのは支援でしょうか。追い出すことに比べると、その人の事情を慮って、手助けしていることになりますが、単に手助けすることを支援とは言わないでしょう。迷子になっている人を道案内することは、親切ではありますが、支援とは言いません。

 それが支援とは言われるためには、何が必要でしょうか。まず、単なる親切は支援ではありません。親切はあくまで、心情的な動機でなされることだし、困っている人の存在に気づき、自分の裁量で行う偶発的な手助けです。迷子になっている人に道案内をしてあげたいから、道に迷っている人を探しに出かけていくなどという人はあまりいないでしょうし、それは親切というより自己満足に近いように思われます。

 もちろん、自己満足で人助けをするのが悪いわけではありません。動機が何であれ、誰かの役に立つために計画的に行動するようになれば、それは支援と言っていいかもしれません。ボランティアは自分のためにやるものだなどと言いますし、ボランティア活動の目的が誰かの抱える問題解決に寄与するところにあるなら、それは支援と言っても良いはずです。

■野宿者支援とは何か

 野宿者支援は、そのような意味で野宿者を支援する活動のことです。これまでの話では、野宿者とは、何らかの事情で野宿生活が恒常的になっている人であり、そのような生活は、野宿者ではない人たちから迷惑がられるものであるから、抜け出す手助けを計画的に行うことが野宿者支援ということになります。

 さて、これは本当でしょうか。◯◯支援と言った時、支援とは、◯◯に入る人たちの手助けをする活動であるはずです、手助けが必要なのは、その人たちが困っているからです。ところが、今言ったことをよく読み直してみると、この文章では、実は困っているのは野宿者ではなく、野宿者ではない人たちであり、野宿者のことを野宿者ととらえる人たちであることに気付きます。これでは野宿者支援とは言えないのではないでしょうか。

 もっとも、「何らかの事情で野宿生活が恒常的になっている」こと自体が本人にとっては、すでに問題なのかもしれません。社会の厄介者扱いされるような生活から抜け出したいと思っているかもしれません。もしそうなら、そのような生活から抜け出す手助けを計画的に行う活動は、野宿者支援と言っても良いでしょう。

 ここで確認しておきたいのは、野宿者を野宿者という「厄介者」ととらえ、対応に困っている人たちの問題を解決するための活動は、決して野宿者支援ではないということです。

 このようなややこしい話をしなければならないのは、私たちが普段、野宿生活をしている人たち、野宿者について深く考える機会がなく、この人たちについてほとんど知らないからです。

 野宿者支援について考えるためには、どうやら、まず野宿者とは何なのかをもっと深く考えてみる必要がありそうです。

2021年8月14日(土)

 切りのいいところまでは読むか。

2021年8月12日(木)

 「見られているかもしれない不安」と「見られていないかもしれない不安」という対置は面白い。

 誰も見ていないウェブサイトを更新するのは、見て欲しいからなのか、見られていないことを確認するためなのか。

 もちろん、究極的には見て欲しいんだろうけど、別に見られたくなんかないという開き直りとその確認のようなところもあるのだろう。

 だから、ちょうどその揺れ幅の落ち着くところが、ここの更新なのかもしれない。自分は自分で、孤立したままでも社会的に存在しているというポーズなのか。

 小さなことに煩わされている。

 こんなことはもっと酷いものを何度も乗り越えてきた。

 僕はなぜ書かなければならないのか。

 それを知るためにも書かなくてはならない。

 そしてそれは自分のためではなく、その先にさらに届けるものを、その届け先を知るために。

2021年8月11日(水)

 更新し逃すところ。

 エティ・ヒレスム、手紙の方もすごい。

2021年8月10日(火)

 いつだってエスノグラフィーは書きにくい。

2021年8月9日(月)

 人はどうでもいいことをでも、身近にあるものを使って思考を埋めていかなければならない。だから、大切なことに気付いていても、どうでもいいことに引きずられて、ついには分からなくなってしまう。

 あかんあかん。深刻に考えなければならないことなど、ありはしないのだから。

2021年8月8日(日)

 これからは確信だけは失わないように。力を使うなら誰かのために。

2021年8月7日(土)

 そう簡単にはいかないな。

 とにかく何か一つから形にしなければ。

 すでにいくつものテーマが見えているのだから、あとはそれを背負って形にするだけだろう。それは平坦な道ではない。これまでがそうだったように。

 僕はもう片時も見失いたくない。

 いつもこの力を使えるようにしておきたい。

 見失ったとしても自分の力はこれなのだと忘れずにいろ。

2021年8月6日(金)

 頭が痛い。

 4年前のフィールドノートから読み返す。面白いところもあるけど、しんどいところもある。

 誰かが付けたこれだけのデータがあれば、いろいろ面白いものが書けると思うはず。

 いろんな意味でデータから距離を置かないといけない。距離を置くとはどういうことかも含めて、模索しながら進めなければならないのだろう。

 あー、なんか。それこそエッセイでも書きながら振り返っていこうかな。

 これはダメだ……。当時はとても振り返れなかった。つらい。

 あー、なんか。本当に野宿生活の日常をエスノグラフィーみたいに書けるかもな。

 つらかった。これは振り返れなかった。

2021年8月5日(木)

 なかなかうまくいかない。

2021年8月3日(火)

 ようやく分かってきたな。

 あっ、そうか。だから最初に読者に語りかける口語体で書かなければならないのか。描かねばならないもののを懸隔をとらえるために。

 しかも、実はそれを僕はわりと早い段階からやってきたし、それによって壁を崩してきたんだった。「怠け者の社会学」の時に、自覚的かつ、ある程度有効な方法論になっていた。

2021年8月2日(月)

 自分を信じてやり切るしかないのだろう。

 自分を信じるというか、やるだけやって報われようとも報われなくとも、関係ないところでやるしかない。

2021年8月1日(日)

 あまり意味のない一日。

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