過去ログ
2020年6月


2020年6月30日(火)

 今日は雨とは思っていなかったな。

 魂の通じていない人間と一緒にいる意味があるのか。

 湧いてくる力をダメにするものからは手を切らなければならない。

 つらい。

 しかし、結局そのつらさに抗って守ってきたものがあるのなら、それが答えには違いない。

2020年6月29日(月)

 なかなか眠れなかった。寝不足。

 昨日の今日なのだから、回復するわけがない。

 もう同じなんじゃないか。むしろマシになるかもしれない。そもそも良くはならないし、遅かれ早かれそうなることでもある。

 天水訟を終わらせるもっとも確実な方法は、訟を終わらせてしまうことだ。

 もう今日くらいがんばらなくてもいいだろう。

 本来、力は溢れてくるものなのだから、枯渇している時にあがくのは愚かなこと。

2020年6月27日(土)

 身の内から湧き上がる力を、しかし溢れさせない。

 僕はかつて何を形にしようとしてきたのか。排除の圧力をとらえようとした。その次にとらえようとするものが包摂なのは自然な流れなのかもしれない。しかし、排除に対抗するものは包摂ではなく、反排除だ。反排除とは、排除に抗しながら作り上げるものである。

2020年6月26日(金)

■コミュニティ政策学会編「特集 コミュニティ政策からみた都市コモンズ」『コミュニティ政策』(15号、2017年) #4

 コモーニング。すごく大切なことを言っていると思うけど、もう一つ頭に入ってこない……。

そして、ラインバウによれば「コモンズについては、それを自然資源と捉えることは誤解であり、実際には危険でさえある。コモンズは、活動(activity)であり、当該自然との関係から不可分の社会的諸関係(relationships in society)を表すものである。そのため、「コモーニング」という動詞形で表現するのが妥当であろう。」[106]

 伝統的コモンズの議論を読みながら、散々意識させられていた違和感が、こうあっさり整理されてしまうと頭がついてこないな。

 まあ結局、これは入り口についただけで、ここから分析枠組みを作っていかなければならないことは変わらないし、この視点から先行研究を読み解いていく必要なあるわけだ。

 都市内分権って何だ……。

 コモーニングをとらえるための枠組みを作ろうと思ったら、これまで意識されてこなかった部分を視野に入れる必要があるはず。意識されていないものをどう意識させるのか。

 「都市内分権のコモンズ」[109]?

 やはりポイントは場所性かもしれない。

 この雑誌、校正が……。

 「都市内分権の組織(「学区まちづくり推進委員会」)」[109]というのはそういうものを指すのか。

 ボランティア組織なりまちづくり組織なりを素朴にコモンズと呼んでいいのだろうか。もともとの自然資源のコモンズではこういう議論の組み立てはしないのでは。自然資源のコモンズの場合、コモンズとして発見された時には、その仕組みが年月に彫琢されて完成(成熟?)している。衰退する地域社会を支えるために事後的に、積極的な働きかけをともないつつ形成されたものとは前提が異なる。

 ここで語っているコモンズって何なの……。「福祉コモンズ、街並み景観コモンズ(都市コモンズ)と、牧草地コモンズ(自然コモンズ)」[113]を比較しているわけだけど。コモンズを社会関係のあり方としてとらえるのだとしても、その社会関係の形成をもたらす核となるものがあるはず。それが「場所」なんだと思うんだけど、「場所」が概念として吟味されていないからぼんやりしてしまうのかな。

 あと、権利擁護、権利獲得の問題。非対称的な関係、不平等、権力関係のあるところで、いかに権利を獲得していくかという視点が弱い。マクロな不平等を切り離して、小世界の中でのつじつま合わせに終始してしまう。

 場所との関係でいうと、境界がぼんやりしているところも気になる。ぼんやりしているというか、「地域」という言葉を場所を指すものとして用いているけど、それは実体としての場所を指すものとしては漠然としすぎている。「なんとなく」の全体を指して分かったような気になっているに過ぎない。

 読み終わった、けど、結局これはどういう論文だったのかな。

 最終的なゴールは「「都市内分権におけるコモンズ」の特性を浮かび上がらせるための準備としての考察」[96]をするところにある。「コモンズルネッサンス」の確認とコモーニングの検討はその準備作業だろう。

 コモーニングは最後の考察にどう関係あるの? ラインバウは、コモンズを社会関係としてとらえる必要性を提起し、コモーニングという概念を提唱した。前山はラインバウのコモーニングの議論をもとに、何を検討したのか。「都市内分権におけるコモンズで、どのような社会関係が形成されており、それがコモンズとしてどのような特徴を持つのか」なのだろうか? その結果示されているのは「共通のストーリー」の存在とか、「競合性が高い」といった特徴?

 これはコモーニングの議論を挟まないと見えてこないことなのかどうかがわからない。

 コモーニングの概念を踏まえないと、この論文で取り上げられている事例はコモンズとして扱うことができないのだろうか。これまでコモンズとして扱われていなかった領域をコモンズとしてとらえることで、何らかの議論の発展が見込めるというなら話はわからないでもない。

さきの、ラインバウのフレームを用いるならば、都市コモンズの一形態としての「都市内分権のコモンズ」の場合、該当する地域ないし区域の資源(空間、施設、マンパワー、景観など)に働きかけて、都市内分権の仕組みの上で、参加者が労働をおこない・相互に交換ネットワーク(子供の安全見守りでの支えあい、いきいきサロンでの支えあい)に組み込まれる社会的関係である。[109]

 都市内分権のコモンズが、ラインバウのコモーニングの議論が問題としている部分に重なる特徴を持つことはわかるけど、社会関係の部分だけを切り離してしまったら、そもそもラインバウが社会関係に着目した意味がなくなってしまう。

 ともあれ、この特集は勉強になった。

 「あつかましい」とか「つけ込む」を合わせた感じが近いのだと思った。

■高村学人「多極化する都市空間のガバナンス――境界を開く法の役割」大沢真理・佐藤岩夫編『ガバナンスを問い直すII 市場・社会の変容と改革政治』(東京大学出版会、2016年) #1

2020年6月25日(木)

 虚しくても歩みを進めるしかない。

■コミュニティ政策学会編「特集 コミュニティ政策からみた都市コモンズ」『コミュニティ政策』(15号、2017年) #3

 なんか違うよな。

 さて、ハーヴェイ。

 やはりこういう議論はすでにあるわけか。

 なんか形式的な反論に終わっているような……。ハーヴェイの『反乱する都市』の該当箇所を読み直さないと何とも言えない。

 尾崎一郎(2016)「「ネットワーク社会」における「都市コモンズ」について」吉田克己・角松生史編『都市空間のガバナンスと法』信山社、267-286頁。

 高村学人(2016)「多極化する都市空間のガバナンス――境界を開く方の役割」東京大学社会科学研究所・大沢真理・佐藤岩夫『ガバナンスを問い直す II』東京大学出版会、47-72頁。

 高村学人(2017)「サンフランシスコ市におけるビジネス改善地区の組織運営とその法的コントロール――観察調査法によるケース・スタディ(1)(2完)」政策科学(立命館大学)24巻3号、265-292頁、同4号、181-236頁。

 なんか変な論文。分野の違いかもしれない。法政策の話? もともと政策をテーマにした学会誌なんだから当たり前何だろうけど。

 茂木愛一郎「「協同組合」再訪――都市のコモンズの主体を探す」。

 国際コモンズ学会とかあるのか……。

都市のコモンズというと、公園など市民が憩うことのできるスペース、居住関連といった近隣コモンズやさらに公共性の強いインフラや公共サービスのコモンズ、知財・情報・教育関連の知識コモンズや文化コモンズなどを指すものとする。[76]

 まあ、協同組合の話だな。

 前山総一郎「都市内分権とコモンズ――「社会関係としてのコモンズ」のコンセプト(P.ラインバウ)を基に」。結構重要なことが書かれていそうな気配……。

 「都市内文献におけるコモンズ」って何や……。

サッサーらは都市コモンズをなすものとして、1)日常生活のための公共サービスと公共財の生産・消費・利用をめぐるもの、2)移動「モビリティ)と出会いのために利用される公共空間――街路、地下鉄、公園、パブリックガーデン、カフェなど――、3)コミュニティを体現するような芸術などからなる「集合的ビジョン」、の三つを上げている。[103]

2020年6月24日(水)

 ダメだ。こんなことでつまずくようでは何もうまくいかない。何も起こっていないのに。

 どういう状態から分かっているのに、うんざりの底を突くまで持ち直せないのだろう。

■コミュニティ政策学会編「特集 コミュニティ政策からみた都市コモンズ」『コミュニティ政策』(15号、2017年) #2

 つづき。

 セミ・コモンズ[51]。

オストロムのコモンプール財の定義は、主として農山村における自然資源の共同利用という場面を念頭において練られたものである。しかし、スミスとフェネルのセミ・コモンズ概念を挟むことで都市においてコモンズという視角で分析するに相応しい資源・空間を具体化することができる。[51]

 設計主義的な発想には都合のいい概念かなあ。

 オストロムの分析枠組み。何だろうか、この強烈な違和感は……。功利主義的? 多分、管理の対象とされている資源の性質の問題か。

都市において住民の流動性が存在することは、魅力ある人々を呼び込んでの、新たな創造を生み出すための不可欠な条件であり、都市のコモンズを議論する際には、構成員の流動性を前提として議論を組み立てるべきである。[57]

 うーん。

2020年6月23日(火)

 昨日よりはマシだが、今週をこれで乗り切るのは大変だ。

 悪いものも全部飲み込んで受け入れてしまうしかない。

 まだ終わってないのか。

 涙を流して浄化しなければ乗り越えられない。ストレスになっているということだ。

2020年6月22日(月)

 早起き、二日酔い。授業時間までにはもう少しマシになっていればいいけど。

■宮内泰介編『コモンズをささえるしくみ――レジティマシーの環境社会学』(新曜社、2006年) #3

 異質性社会ってなんだ。

 「多様なアクター」ならぬ「異質なアクター」。

 うーん。

 近藤隆二郎「3 写されたシナリオの正統性と更新――写し巡礼地の生きのび方」。

 藤村美穂「4 土地への発言力――草原の利用をめぐる合意と了解のしくみ」。

 関礼子「5 共同性を喚起する力――自然保全の正当性と公共性の創出」。

 何の話だ。レジティマシーって何? こんなものをレジティマシーと言っていいのだろうか。

 箕浦一哉「6 音環境の共有――《あたりまえ》というレジティマシー」。

 つらい。何がそんなにつらいのか……。

 僕が言わなければならないことは何か。

 いい加減、都市のコモンズにつなげられるような話を探していくべきか。

 音環境の共有という話は面白い感じもするけど、どういう意味でコモンズなの? 共有されているけど、別に資源じゃないのでは。

 赤嶺淳「7 当事者はだれか?――ナマコから考える資源管理」。

 金菱清「8 環境正義と公共性――「不法占拠」地域におけるマイノリティ権利の制度化」。

世界における複雑化した不公正をとらえ、それを是正することがますます難しくなりつつあるなかで、現場での実践から、マイノリティが被る文化的な不公正と、法の及ばない領域で生じる経済的な不公正の両者を統合する、第三のアプローチとしての「公共性」を提示したい。[198]

 ここがこの論文の主旨をまとめた箇所だと思うんだけど、ここだけ読んでも全く意味がわからない。

 この事例ってそんなにいい話なんだろうか?

 構造的な問題を回避して、現場の運用レベルでうまいことごまかしたと言ったら意地が悪いのかな。

 「環境正義の実践」[217]なのだろうか。

 差別の解決は素通りして実質的な生活保障をしたとは言えるだろうけど、これを「環境正義」と呼ぶのは強引な解釈じゃないかなあ。

 コモンズ関係ないしなあ。不法占拠の正統性を主張しているわけではない。不法占拠の正統性にかかわる議論を回避する形で、大文字の正統性を使って生活保障を行った。そうした運用を駆使した現場の人たちの努力はあったのだろうが……。

 荒川康「9 墓地山開発と公共性――公と私の再定義にむけて」。

 読み終わった。

 心が死にそう。

 何の本だったんだろう。レジティマシー。公共性。公共性概念を再考するというより、全く新しい公共性を、いやレジティマシーそのものを論じて欲しい。

■コミュニティ政策学会編「特集 コミュニティ政策からみた都市コモンズ」『コミュニティ政策』(15号、2017年) #1

 「解題」。

都市コモンズはどのように創出され、利用され、あるいは管理されるのかを問うことは、地域共同管理はどのような主体がいかに関わるかを問うことである。[44]

 高村学人「都市コモンズを支える制度(体)と法政策――エリノア・オストロムの法学へのインパクト」。

このような条件設定を見ると、オストロムは、いかなる場合でも資源の分割・私的所有化が望ましいと論じていたのではなく、資源から得られる効用がそれほど高くはなく、資源の規模を大きなままで保っている方が資源の性質や規模の経済のメカニズムからして資源利用者全体の効用を大きくできる場合に、コモンプール財として共同管理することが望ましいとしていたことがわかる。[49]

 おかしい。いくら何でも落ち込みすぎだろう。

2020年6月20日(土)

 前に自傷気味に落ち込んでいたのが5/22だったのを思い出す。何があったっけ? 要望関係かな。

 そうだった。

 何もわかってやしない。

 道なき道か。

2020年6月19日(金)

 底が抜けている。

 わかっている。原因ははっきりしている。

■宮内泰介編『コモンズをささえるしくみ――レジティマシーの環境社会学』(新曜社、2006年) #2

 矢野晋吾「1 漁業権の正統性とその変化――コモンズの管理としての漁撈」。琵琶湖の話か。

 コモンズは元々あるのだろうけど、コモンズ論のためにコモンズとして再発見される。

 うーん、いちいち精読していくべきなのかどうか……。

 コモンズ論そのものが政治的な意図を持っていると言えなくもない。人びとが当たり前にやっている、やってきたものに正統性を付与しようというわけだ。日常的実践レベルのものに正統性を付与する仕組みとしてコモンズ論が利用されている。

ところが、戦後になって、村落と漁業との関係性が大きく変化し、「村落=漁業権の主体」という構図が崩れることになる。これ以降、漁業権は、村落が統括するものから、漁業者のみが属する組織である漁業協同組合が管理・運営するものへと変化していった。[38-39]
つまり、漁業権は自分たちにとって歴史に裏打ちされた生活権であり、漁業者は「生物多様性」という世界に通用する環境保全の正統性を根拠として、漁場を利用しながら琵琶湖の環境を守ろうとしている、という主張である。[51]

 よくわからないけど、「農業がウルグアイラウンドを機に」打ち出したという「多面性」[52]とは対照的な、滋賀県の法規制に対して、漁業の多面性を意識した取り組みが現場レベルでは見られる……という話か?

 結局、構造的背景が示されていないし、構造的背景を示せていないがゆえに、事例の個性がもう一つ分かりにくいというところに問題があるのかな。

 菅豊「2 「歴史」をつくる人びと――異質性社会における正当性の構築」。

2020年6月18日(木)

 つらい……。

 駅のホームを観察してどんな発見があるかなあ。駅のホームには何がある? ベンチ、階段、待合室、エレベーター、売店、自動販売機……。女性専用車両。降りる人、乗る人。

 単なる人間観察の舞台と思った方がよいのかも。せいぜい10分、15分しか滞在しない場所。毎週毎日決まった時間に利用する人もいれば、たまに用事がある時にだけ利用する人もいる。量的な把握は厳しいかなあ……。

 雨の夜回りは昨年の夏以来かな?

 情報について。簡単な比較。何かを調べる。誰が、どのように。いつ。

 身近な事例がいい。学生が何かについて情報を集める状況には何があるか。オープンキャンパスと大学カタログ。サークルについて。やりたいことがはっきりしている場合、していない場合。

 まあ、FacebookとTwitterを比較するでも構わないのだけれど。

■宮内泰介編『コモンズをささえるしくみ――レジティマシーの環境社会学』(新曜社、2006年) #1

 次はこの本かな。『コモンズの社会学』の5年後に形になった本ということになる。

 宮内泰介「序 レジティマシーの社会学へ――コモンズにおける承認のしくみ」。承認のしくみ?

この本で私たちが考えたいのは、環境と人、環境と社会が今後どうあるべきか、についてである。この問題に迫るには、さまざまなアプローチがありえるだろう。現在、実践的な意味合いで最も焦点になるのは、環境に対して誰がどんな価値のもとにどうかかわるのか、という問題であり、また、それがどのように社会的に認知なな承認されるのか、という問題であると思われる。[1]
「市民が担う公共性」の「市民」とは誰なのか。「担う」というのは、何をどこまで「担う」のか。[4]

 あー。この辺の議論も避けては通れないし、片付けていかないといけないよなあ。

 固有の場所をめぐって、私有、公有、共有が、重なり合う図式と、そこへの関わり方についての合意を作り上げる理論的な根拠を探るのが、考えられる一つの立場だろうか。

自然環境をめぐる人間と人間の関係のありようは、具体的には、ルールあるいはコンフリクトといった形で現れる。例えば、誰かが植えた植物は、他の者がとってはならないというルール。野生の植物は自給用ならば自由に採ってよいが、商業用には採ってばならないというルール。こうしたルールは、必ずしも厳密なものではない。ときには破られることもある。破られるとコンフリクトが生じる。単なる「注意」の場合もあれば、当事者が村から離れざるをえないような事態に発展する場合もある。ルールもコンフリクトも、濃淡のあるあいまいなものなのだ。[15]

 むなしさがすごい。

 ここでいうレジティマシー(legitimacy. 正統性/正当性)とは、ある環境について、誰がどんな価値のもとに、あるいはどんなしくみのもとに、かかわり、管理していくか、ということについて社会的認知・承認がなされた状態(あるいは、認知・承認の様態)を指している。「20]

 「「歴史性」というレジティマシーの要件」[22]。「シナリオの柔軟性」[23]。「結果を引き受けるという覚悟や責任」[24]。「創造性」[24]。

単一の価値がレジティマシーを獲得するのではなく、複数の時間や価値が折り重なりながら新たな共同性が創造されることがレジティマシーを獲得するということを関は論じている。[25]

 「《あたりまえ》という感覚としてレジティマシーが存在している」[26]。

2020年6月17日(水)

 やはり、胸が、張り裂けそう。

 情けないことだ。

 情けない人間と縁を切れないことが一番情けない。

■井上真・宮内泰介編『コモンズの社会学――森・川・海の資源共同管理を考える』(新曜社、2001年) #7

 笹岡正俊「第7章 コモンズとしてのサシ――東インドネシア・マルク諸島における資源の利用と管理」。

 さー、この章は何の話かな……。

 「資源利用を規制する慣習の役割には、経済的機能、社会文化的機能、生態学的機能の三つの機能があると考えられる」[171]。

 資源ゴミはコモンズ的といえばコモンズ的だが、単純に同一視するとつまんないことになりそう。

 「開発に脅かされるローカル・コモンズの危機」みたいな話でなかった。文化的な規制を扱っているところが面白い。

 原田一宏「熱帯林の保護地域と地域住民ダッシュインドネシア・ジャワ島の森」。

 吉田さんのベンダーの研究を思い出した。あれは国立公園の話だけど、都市でも「公有地」は人びとの空間利用に影響を及ぼす。都市のコモンズを語るのにインフォーマリティ概念は相性がいいのかもしれない。

 バンクーバーの先住民の権利というのがあった。「都市が形成される前から持っている権利」というのはわかりやすい。しかし、都市の形成とともに集まってきた都市住民の権利となると、見えづらい上に力を持ちにくい。

 I部とII部逆の方が読みやすかったかも。どうかな。この構成にならざるを得ないか。

 白神山地や手賀沼の話は、ジャワ島の森の話の後の方が分かりやすかった気がする。社会変動とコモンズの変容ないし、危機の度合いをグラデーションを示しながら、あるいは各論としてバリエーションを展開しながら読み進めていくと、問題の全体像なり、枠組みが見えなすかったのではないか。その後に地域住民の主体が戦略的に織り込まれていった事例として、石垣島の事例があった方がいい。ソロモン諸島の話が最初にあった方がよかった。

 日本の事例と海外の事例とでまとめて、日本の事例が先に来る方が読者が馴染みやすいだろうという判断があったのかもしれない。

 というか、やはり6章のソロモン諸島の話が最初にないと、何が何やらわからなくなってしまう。「大事なのは、生活戦略のなかで、〈共同利用権の保持=コモンズの権利〉が現状ではまだまだ有利だということである」[162]ということを押さえた上でないと、生活実感のない自然保護思想なのかなんなのかよくわからなくなってくる。さまざまな問題の事例を見せつけられ、解決策の模索を住民参加やコモンズに見出すべきであると言われても、どのような状態を問題が解決されたことと想定するのか、判断基準がなければ、その解決の範疇がどこにあるのかわからなくなってしまう。

 井上真「終章 地域住民・市民を主体とする自然資源の管理」。

つまり、ローカル・コモンズを基盤とする資源政策は、必然的に参加型アプローチをとることになる。だから、参加型資源管理論や住民主体型資源管理論はコモンズ論に包摂されるのである。[214]

 あー、なんか、序章でこんなこと言ってたな。そして、やはりこういうことを言われると即座に思考が停止してしまう。

 「参加型」というが、参加主体間の関わり方の非対称性が意識されていないからかな。「地球市民」みたいな大文字の主体と地域住民がどうかかわれるというのか。

 管理の主体としての集団である地域住民がいなくなる場合がある。そうした場合にナショナル・トラストのような形のかかわりも出てくる。問題は、そこに地域住民に相当する者が登場した場合ではないか。たとえ後から現れたのだとしても、その地域住民の権利を認めるような対話が保証されるのだろうか。これはコモンズとはまた別の話だ。

 大規模開発を行いたい営利企業に対抗するために地域住民を自然保護団体がエンパワーメントするという構図なのか……。しかし、それは運動の戦略であって、コモンズ論はそこで何か武器になるのかなあ? 自然保護団体は地域住民の当事者性を自然保護の根拠として利用し、地域住民は自然保護に関心を持つ組織の組織力を借りる代わりに、コモンズ的な自然資源の管理を受け合う。コモンズ論は「お互いさま」のいい関係を構想するためのシンボルというわけだろうか。

 しかし、単なる運動の戦略的手段でしかないのなら、大した力は持ち得ないように思う。あまり広い共感は得られなさそうだ。

 序章に書いてあったわけじゃないな。終章は先に読んだんだった。

 ようやく読み終えられた。「コモンズの社会学」はここからはじまったと見ていいのかな。社会学、どころか、コモンズの社会科学的な研究はこの時期からはじまったのだろうか。経済学での議論が先行していて、そこにフィールドを持つ社会科学者が入ってきたという感じ? まだまだ発展途上というか、ややこしすぎて発展し切れていないという感じがする。

2020年6月16日(火)

 どんな答えが返ってくるかより、なぜその問いを発したのかを考えた方がいい気がする。

 働くこと。実際その仕事をしたことがないのだから、イメージと現実がずれている可能性は常にある。

 労働条件がまともであったり、自分が望む水準を満たしていることは一つの基準かもしれない。

 自己実現。自分の能力を生かしたい、成功したい。社会貢献したい。

 人間関係がいいこと。

 公務員は安定している。なぜ安定しているかといえば、税金で雇われているためであり、国が無くならない限りは不況でも失業することはないからだ。しかし、本当は公務員でなくても、国民が困らずに暮らせるようにするのが国の役割。公務員になりたくない人だっているだろうし、公務員ができない仕事もあるはず。生活の安定のために公務員を目指さなくても済むような社会になれば、安心して好きな仕事を探すことができる。

 自分が生きているうちに何が起こるか分からない。今回のような感染症の流行もあるかもしれないし、近年でも多くの自然災害をわれわれは経験してきた。自然災害でなくても、会社が潰れたり、人間関係に問題のある会社だったりすれば、楽しく暮らせない。転職したくても、まともな選択肢がないかもしれない。

 「給料をもらっているのに楽しいことなんてありえないような気がする」。

 生きていくためにはがまんしてでもやらないといけないことがある。しかし、そんなことできるだけ少ない方がいい。

 コミュニケーション能力。物怖じせずに知らない人に話しかけたり、何を言われても即座に対応したりといったふうに、コミュニケーション能力の高い人はいるように思える。コミュニケーション能力がその人間の価値をはかる指標の一つのようになっている。しかし、コミュニケーション能力の低い人間がいたとして、コミュニケーション能力の低い人間とコミュニケーションが取れない人間もまたコミュニケーション能力が低いのではないか。やる、やらせるという非対称的な関係がある中で、何をやればいいのかを察する能力が高いことだけが評価されている。いうことを聞く、聞かせる能力のことをコミュニケーション能力と言っていることになる。しかし、本当にそんなものが求められてあるのだろうか。

 もちろん、やったことのないことでも、状況を見て、何をすべきかを把握する能力もある。しかし、それはコミュニケーション能力ではなく、洞察力や観察力といったもの。

 職場内の人間関係で嫌な思いをすることもあれば、対外的な人間関係で嫌な思いをするのこともある。こっちはどうしようもないかもしれない。前者は職場を変えれば何とかなるかもしれないが、後者は職種を変えないとどうにもならないかもしれない。

 この授業でも何かうまい作業課題を設定できたらいいんだけど。

 そもそも今回のテーマは何になるのかな。話の流れとしては「飯場に入るには」的なものになってしまいそう。「日雇い労働者のつくりかた」を書いていた時に似てるな。

2020年6月15日(月)

 また何か胸が張り裂けそうで落ち着かない。

 コソ泥?

■井上真・宮内泰介編『コモンズの社会学――森・川・海の資源共同管理を考える』(新曜社、2001年) #6

 もういちいち精読してられん。

 歴史の話。コモンズは発見される。分析概念としてのコモンズ。期待概念ないし規範概念としてのコモンズ。違うな、分析概念でも期待概念・規範概念でもなく、分析概念から出発して、再帰的に分析概念の中には見落とされている機能を説明しなければならない。

 なんと言ったらいいのか。分析概念としてのコモンズってそもそもなんだ? 「共有地における資源管理の仕組み」これは何? なぜコモンズが注目されたのか、その背景を社会学的にとらえる必要がある。

 そのうえで、コモンズ論がとらえようとしているのは果たして資源管理の仕組みなのかを問わねばならない。私的所有、公有の問題を告発する役割が期待されている。しかし、それは共有を対抗的に位置付けることなのか。所有以前に問われなければならないこと、奪われているもの、損なわれがちなものが発見されなければならない。

 「それ」が見えないのは、やはり相互行為と意味づけの中にしか現れないものだからではないのか。相互行為と意味づけの中から、生活の型のような形で、「それ」をとらえる必要がある。「それ」こそがまさに資源であって、また、資源でありながら、その資源はあらかじめ存在するものを消費しているわけではなく、関係のあり方を通して生み出され、活用され、同時に維持されているもの。

 なるほど、「共有地における資源管理の仕組み」では、資源は「自然の恵み」のような形で、所与のものなわけだ。自然資源について語っているとこれが見えない。

 では「新しいコモンズ」論ではどうだろう。知識のコモンズといったようなことが言われている。これも、やはり資源を外在的なものとしてとらえる立場を含んでいる。知識は誰かが提供して、共有しつつ、新たに生み出していくものという意味では、「関係のあり方を通して生み出され、活用され、同時に維持されているもの」と言える。しかし、これはちょっと違う。何が違うのか。

 家中茂「第5章 石垣島白保のイノー――新石垣空港建設計画をめぐって」。この本の事例は基本的に「社会変化の中でのコモンズ」なのかな。

 おや、この章は面白いのでは。

このことをとらえるには、住民と海のかかわりについて資源管理とは別の観点から検討する必要があるだろう。というのも、資源管理システムとしてコモンズをとらえる限り、白保はルースなローカル・コモンズとしか位置づけられず、反対運動を支えた強固な意思決定について説明することができないからである。[125]
しかしながら多辺田は、共同管理が地域自立の基盤となりうることを、それが物質循環の法則に適合的であることから指摘したにとどまり、共同管理を成り立たせている住民相互の「共同の力」がどのようにして生まれてくるのかについては説明していない。[125]

 「マイナー・サブシステンスとは、外面的には「いつも、集団にとって最重要とされている生業活動の陰にありながら、それでもなお脈脈と受け継がれてきている副次的ですらないような経済的意味しか与えられていない生業活動」である」[129-130]。

 都市のコモンズにおいて、お互いの存在そのものが資源となりうる?

 松井健「マイナーサブシステンスの世界」篠原徹編『民族であるの技術』朝倉書店、1998年。★

すなわち、公民館総会における全員一致の決議とは、住民が海に対する具体的なかかわりを共感をもって承認しあい、部落共通の経験としてひとつの意思決定にまとめあげていくプロセスなのである。[135]
わたしたちの理解するコモンズとは、資源管理のシステムの一形態として、私的財産や公的財産の制度と並列させてとらえられる共的財産の制度ではない。それは、白保の事例でみたように、人びとの集合の意識が形成されるプロセスをつうじて生成されてくるものなのである。言い換えれば、住民各自の内面に蓄積された、身体性にもとづく経験という大変私的あるいは個的なものと、「海は部落のいのち」という言葉に象徴される公的あるいは全的なものとを媒介するのが、コモンズなのである。[136]

 これまで読んできた中で最重要論文じゃないか。

 「II ソロモン諸島とインドネシアのコモンズ」、宮内泰介「第6章 住民の生活戦略とコモンズ――ソロモン諸島の事例から」。

 この話も面白い。所有と利用が切り離されているように見える、という話。この要素も都市のコモンズの議論に組み込まなければならない。となると、やるべきことは自然資源のコモンズの話を都市のコモンズ論に翻案することなのだろうか。

 この話は自然資源のコモンズと言うとちょっと違うような。

近代は――というおおげさなことをいっていいのかわからないが――、「利用」を排除して、「所有」中心の社会を築き上げようとした。しかし、それは人間と環境との関係としては、あまりうまい関係ではない。[156]
「共同利用権」という言葉を使ったが、本当は、「利用権」という近代法的な〈権力〉概念を使う必要すらないのかもしれない。大事なのは、そうした“人と自然との関係についての人と人との間の認知や合意”が歴史的に存在してきたということである。[156]

 今日の授業はうまくいったなー。よかった。来週はどんなふうにやろうかな。「女の気持ち」を使いたいんだけど。

 物語の構造の話なので、「女の気持ち」の投稿の構造、文法みたいなことをやるのが望ましいだろうなあ。

 所詮は授業の余り時間でやるお遊びだから、結論を導き出すことはできない。それでありながら、作業をしてみて面白く、発見があるような仕込みが必要。

 登場人物を抽出する? 出来事の類型化?

 基本的には自分の体験や思い出を語る。苦労話、笑い話、感動、喜び、怒り、哀しみ。

 「女の気持ち」の中に女性の経験や思いを読み取るというより、物語のパターンとして把握するというところかなあ。経験の語られ方には限られたパターンがある。パターン通りにしか語れない中で、なんとか自分の思いを形にしようとする。「自分の思い」などというものは借り物にすぎないのかもしれない。

 これは新興宗教の章の動機の語彙論につながってしまうなあ。

 「女の気持ち」なのだから、気持ちを主題にしていると考えて良いだろう。いかにしてその「気持ち」を語ろうとするか、また、どのような「気持ち」を語ろうとしているか。

 作業自体は別に終わらなくてもいいよなあ。ただ分類、分析していく作業をしてみて、こういう作業はこういう発見につながる可能性を持ってるんだよと感じさせるだけでいいはず。

 物語によって拘束される。物語のバリエーションを知らなければ、自分の思いを多様に語るのことができない。また、物語の聞き手が、そのような物語を理解できる下地を持っていなければ、思いは理解されない。

 なら、バリエーションを増やすための要素がどれくらいあるかを発見していけばいいのではないか。現在、過去、未来いつの話なのか。登場人物はどんな人がいるのか。語ろうとしているのはどんな気持ちなのか。どんな出来事なのか(出来事の特性と語りたい思いは必ずしも一致しないかも知れない)。

 嫌な出来事、楽しい出来事、つらい出来事、いろいろあると思うけど、それを通して語りたい現在の思いは、苦労を経由したこそ抱ける満足感かも知れないし、楽しい思い出があるからこそ、寂しさを抱いているのかも知れない。

■井上真・宮内泰介編『コモンズの社会学――森・川・海の資源共同管理を考える』(新曜社、2001年) #7

しかし注意しなければならないのは、この「森の経済的価値」は、森がもっている絶対的な「価値」ではない、ということだ。それを利用する社会的制度や技術があって初めて生まれてくる価値であり、人間と自然環境の関係のなかで発生する「価値」である。その社会的制度が伝統的土地所有制度であり、その他もろもろの歴史的ストック「歴史的に蓄積してきたもの)である。[158]
もちろん歴史的ストックは、自然との関係だけではない。人と人との関係もまた大きな歴史的ストックである。[158]
歴史的ストックはどんな場合有効なのか? まず、歴史的ストックは、貨幣経済部門での代替よりも低コストである場合に有効である。ガリの実と同じものが、ガリの見てを採るための労働量よりも少ない労働量で得られる賃金で買えるなら、ストックとしてのガリの木は意味がなくなる。しかし現状では貨幣経済部門での代替はコスト高になる場合が多い。だからこそ歴史的ストックは重要視されるのである。さらにコプラやカカオといった商品作物の生産がつねに、住民の手の届かない国際相場に左右されていること、あるいはインフレの影響をすぐ受けるなど、貨幣経済部門は不安定な部分が大きい。そうしたことが、歴史的ストックの有効性を維持させている原因である。[159]

 「人と人との関係もまた大きな歴史的ストックである」という指摘は重要だ。

 「村人同士の相互扶助といったサブシステンス部門(非貨幣経済部門)が重要である」[160]。

共同利用権があるから環境が守られるのではないし、環境保全が生活より優位にあるのではない。大事なのは、生活戦略のなかで、〈共同利用権の保持=コモンズの維持〉が現状ではまだまだ有利だということである。[162]

2020年6月14日(日)

 しっくりくる言葉がなかなか出てこない。

 本当に身勝手。

 「身勝手」は少し近づく感じがする。

 自分に甘い。いいかげん。虫がいい。この辺のニュアンスをとらえる言葉が見つからない。

 詐欺師とか、泥棒とか、犯罪のニュアンスかもしれない。不法投棄みたいな。迷惑行為だとちょっと違うな。モラルハラスメント? そんな中身の伝わらない言葉では意味がない。

 あー、ゆすりたかりかな。ゆすり屋。

 根性悪い感じ。押し売りはちょっと違う。勝手にルールを変えようとする。ハラスメントはハラスメントだけど。

 チンピラ、ならず者。追いはぎ。ヤクザ。テキヤ。

 そんな立派なものじゃないな。

2020年6月13日(土)

■井上真・宮内泰介編『コモンズの社会学――森・川・海の資源共同管理を考える』(新曜社、2001年) #5

つまりむらの土地は、特定の者が住む、あるいは畑として耕すなどの働きかけをしなくなったら、「みんなのもの」に戻ると感じられているのである。[42]

 あれ? これはスクウォットに通じるものがあるのかな。

そして、「所有」を所有たらしめるのが社会的諸関係である以上、この働きかけの有効性も、社会的な認知と承認にもとづくものでなければならない。すなわち、働きかけという行為が、誰のものかを決める根拠として社会的に受容されていなければならないことになる。[42-43]

 うーん、前提が都市のコモンズと違いすぎる気がするけど、底流にあるものは同じなのだろうか。

 藤村美穂「社会関係からみた自然観」『年報村落社会研究』31集、1996年。

 「第2章 山村の暮らしから考える森と人の関係――雪国における森林利用とその変容」。

 薪や柴を集めるのはアルミ缶やダンボールを拾い集めるのと変わらないように思う。食べていくためには何でも集める。

 「第3章 白神山地と地域住民――世界自然遺産の地元から」。

 「比較的タイトなコモンズ的利用」[82]。この辺の概念ももう一つつかめない。コモンズというのはそもそも分析概念なのだとしたら、これは何を分析していることになるのだろう。

 産業化や代替材の普及によって、農山村のコモンズは変容する(「用済み」になる)。コモンズ論の多くがこのような変容の過程を問題視し、自然資源管理の仕組みを再編する可能性を探っている。

 しかし、仮にそれが「用済み」になったのだとすれば、問題としているのは「自然資源管理の仕組み」ではなく、「自然保護の仕組み」であって、その主体はもはや抽象的なものになってしまっているのではないだろうか。

 人が生きていくことの原初的なところに立ち返った上で、産業化した社会も自然の一部ととらえて、活用と管理の仕組みを考え直すような枠組みが必要なのだといったら言いすぎだろうか。

 そんなことを考えていないわけではないよな。都市社会学も第二の自然という言葉を使って実態を把握しようとしてきたのだろうし。ただ、第二の自然という言葉を使ったからといって、第二の自然を実体としてどこまでイメージできているかはわからない。それは単に自然と言った場合も同じで、予めあることを前提にして「自然」と呼んでいるにすぎない。

 何が自然であるかは、使用を通して、すなわちプラグマティックに理解していくしかないのかもしれない。自然が何かは常に発見されていかねばならない。

 はー、しんどい。時代に流されてなす術もない地域と話し合いの機会の欠如、みたいな話をただ読まされるのは苦痛だ。

 「第4章 コモンズとしての「水辺」――手賀沼の環境誌」。

2020年6月12日(金)

 禁煙失敗する夢を見た。大体この夢ではすでに吸ってしまっていたり、剃ってしまったあとからはじまる。何か別の夢の文脈から続くことはなく、禁煙失敗する夢として現れる。

 ルールはいくらでも破られる。

■井上真・宮内泰介編『コモンズの社会学――森・川・海の資源共同管理を考える』(新曜社、2001年) #4

 池田寛二「環境と人間」『権力から読みとく 現代人の社会学・入門』有斐閣アルマ、1996年。池田寛二「モラル・エコノミーとしての入会林野とその現代的意義」『人文研究』16号、千葉大学文学部、1986年。

たとえば和歌山県の龍神村では、離村者の屋敷や山林を売るときには、同じむらの余裕のある者に買い取ってもらうことが多いのだが、その理由として、外部から買う者がいないとか買い主が使うためということのほかに、「むらの土地は、できるだけ外に出さないほうがいい」と説明される。西浅井町でも売買の際には「むらに挨拶」する必要があるとみなが感じており、このような感覚が、人びとの自由な売買を法とは異なった次元で縛っているのである。[40]

 所有とは何か。所有の正統性の根拠が、市場による交換以外のところで、また単に排他的な意識の反映でもないところで成立するとすれば、それは何で、どう説明することができるのか。

 あー、やっとこういう整理に出会えたな。

このような事実をふまえながら空間の社会的意味をもう一度考えると、むらにおける私有地(うちのもの)というのは、近代的な所有権で保証されるような排他的な私的所有と完全に対応するものではないことがわかる。[40]
言いかえれば、むらの空間は、「みんなのもの」という〈地〉の上に、あらゆる濃淡をもった〈図〉として「私」有の意味が塗られているのである。[41]

 「みんなのもの」という感覚を解き明かす必要もある。「グローバル・コモンズ」が「みんなのもの」のイデオロギーとして「ローカル・コモンズ」に介入する理由になるとしたら変だし、「誰のものでもない」「みんなのものだ」という理屈は侵略の正当化に使われてもおかしくない。

2020年6月11日(木)

 ジェンダーをテーマにして、何か面白いワークショップのやり方はないか。

 数える、分類する、集計する、くらいの単純作業で、やってても面白いし、結果も面白い、みたいなものがいいんだけど。

 何か文章を読んで、著者が男性であるか女性であるかを考えてみる、とか。これは教材が良ければ面白いかもしれない。新聞の投書欄でもできそう。年齢や職業もついでに考えさせてもいい。

 しかし、そんなことでどれくらい時間を稼げるかなあ。

 「時間を稼ぐ」という発想自体、本末転倒ではある。授業のテーマに沿って、理解を深めるようなことをやるべきだ。

 文章から何かを推測するというのは、その社会的背景を想像するということ。その判断基準になるものにはどんなものがあるのか。

 推測したあとは、その推測に用いた判断基準そのものについて検討していけばいいか。

 推測する側にジェンダーのステレオタイプがあるはずだから、そこに光を当てるところまでを目標にすれば良いのではないか。

■井上真・宮内泰介編『コモンズの社会学――森・川・海の資源共同管理を考える』(新曜社、2001年) #3

山や集落や水田といったこれらの空間は、人とのかかわりという点からみると、集落から離れて周辺の山のほうに行くにつれて人間による手入れの程度が薄くなっていることがわかる。[35]
それに対して、家で使う薪や耕地の肥料にする草、食用の木の実などの採取地であった山は、必要な者が必要なときに利用してきた。言いかえるなら、山は不特定多数の人びとが入り会って利用してきたところである。[35]

 共有地は「管理しきれない土地」でもあるのかもしれない。

 そう考えると、国有地、公有地というのは歪んだ所有のあり方と言えるかもしれない。使いもしない、管理もできないのに、排他的な所有権を持つ主体を作り出すこと自体がおかしなことになる。

これらの対策の結果、現在では全国の入会地の多くが生産森林組合(法人)有や財産区有、行政村有地上の地上権設定などのかたちで、形式上は近代法に対応しているといわれる。[36]

 地域の組織を作って、便宜的に共同所有という形をとることで辻褄をあわせる。しかし、その組織が解体された場合どうなるのか、またはその組織が土地の利用法を大きく変えようとした場合にどうなるのか。

 コモンズがコモンズとして成立するためには多分に政治的な要素がかかわっているはず。出発点としては資源を得たいという生存にかかわることだったのかもしれない。生存にかかわることという意味では、自然がコモンズのまま維持されていること自体が、私有地における生産や生活環境を保護する基盤となっている可能性も考えられる。

 重要なのはコモンズを維持しようという意識がどこから生まれてくるのか、当事者たちも自覚していないところで、役に立っているコモンズの機能までとらえることかもしれない。

 コモンズの概念ははっきりしているようで、その境界はぼんやりしている。

2020年6月10日(水)

 家庭内暴力をふるう人間がいる。

■秋道智彌『コモンズの地球史――グローバル化時代の共有論にむけて』(岩波書店、2010年) #4

 「第14章 つながりのコモンズ論」まだあった。。

 結局これまでどういう話だったかな。

 資源管理の仕組みの利点を語るというより、資源管理の仕組みの移り変わり、開発にともなう資源維持の危機などの事実関係の比較から、マクロな視点から求められる配慮を導き出すと言う感じの構成?

 資源管理の仕組みの良し悪しはあまり問われていない。資源と資源管理の仕組みを脅かす社会変化を問題としている。そう考えると、大規模開発、国家の介入の誤りを批判する話になる。

 プラス生態系の変化? マクロ、グローバルな要因による生態系の変化と脅かされる資源と資源管理の仕組み。

 「終章 グローバル化時代の共有論に向けて」。ああ、そうか。自然資源をコモンズとして語る場合、資源はもとから「ある」もので、その利用方法をめぐって起こるコンフリクトを解消しようとする。都市のコモンズの場合、資源そのものが生み出される、作り出される性質を持つ点が決定的に異なるように思われる。

それでは、相対主義を超えて、コモンズをどのように位置づけることができるのだろうか。この問いにたいするこたえは、コモンズを人類の歴史のなかで位置づけることにほかならない。[296]

 これだけ環境破壊と気候変動が激しい時代状況では、前提が急激に変わってしまって、コモンズにかかわるもの議論は成り立たなくなってしまうのではないか。

 最後に「つながり」を強調しているが、何を目指しているのかよくわからない。

■井上真・宮内泰介編『コモンズの社会学――森・川・海の資源共同管理を考える』(新曜社、2001年) #2

 しんどいけど、しばらくは自然資源のコモンズの話から読み進めていこう。

 藤村美穂「第1章 「みんなのもの」とは何か――むらの土地と人」。

さまざまな地域でコモンズを可能にしているのは、自然とのかかわり方をめぐる規範の強さや内容だけでなく、「みんなのもの」であることを可能にする社会的なしくみ、すなわち人間の行為の範囲や方向をかたちづくる社会的な力なのである。[34]

2020年6月9日(火)

■秋道智彌『コモンズの地球史――グローバル化時代の共有論にむけて』(岩波書店、2010年) #3

 日光浴しないと死んでしまう。

 コモンズ論というほどのものなのか……。各論的というか。「第10章 森は誰のものか」。さまざまな資源の特質とその管理のあり方。

 やっぱり「地球史」は言い過ぎじゃないか。「第11章 水田と池――アジア・モンスーン地域の利用権」。

 「第12章 共有の森――モンスーン地域の野鶏とチョウ」。

 コモンズが「自然資源」くらいの意味で使われているよなあ。「第13章 魚の保全と地域――メコン河の開発と資源管理」。

2020年6月8日(月)

■秋道智彌『コモンズの地球史――グローバル化時代の共有論にむけて』(岩波書店、2010年) #2

 「第6章 紛争の海――水産資源管理のポリティックス」。

 どこまで行っても物的資源の話。それに対して機会を得るための資源? 機会を重層的かつアドホックに集積させるための場所の構築。場所の構築としての行為のあり方。

 場所が先にあるのか、行為が先にあるのか。これが難しい。たぶん行為が先にあって、そのための場所が求められる。場所は他で代替できる場合は顕在化しない。都市のコモンズを形成しない。

 人が生きるために必要とする資源はどのようにして獲得されるのか。人が生きるために必要とする資源にはどのようなものがあるか。段階的に考えなければならない。目的物である資源を得るための手段は目的に対して従属的な位置づけにあるが、その手段自体をどうやって獲得するかを考えると、それ自体目的物になる。

 難しい……。めちゃくちゃ入り組んでる。

 「第7章 海のなわばり論――サンゴ礁の撹乱と持続的利用」。

 「海のなわばりをコモンズとみな」[120]すってどういうこと……。なわばりは集団的なものだからか。コモンズを資源管理の仕組みとみなすと、どうしてもこぼれ落ちてしまうことがある。何といったらいいのか。調和的な資源管理の仕組みと見れば、単にメカニズムとして評価しようという話になるが、地域集団による独占、排他的な側面に権力関係を読み取ることもできるはず。

 なわばりというのは紛争によって可視化するものではないだろうか。単になわばりである、コモンズであることをもって、それが優れたものであることにはならない。資源管理の仕組みとしての有用性と、資源配分の仕組みとしての正当性とは分けて考えなければならない。

 「コモンズの地球史」はでかく出過ぎちゃうか。

 あとがき読んだ。やはりいろんな論文を寄せ集めてまとめた本だった。「なわばり研究の第一人者がこれまでの調査経験の集大成としてまとめたコモンズ論」といったいったところなのだろうか。

 「第8章 クジラと人間」。

 「第9章 海を越える資源と交易――エスノネットワーク論」。

2020年6月7日(日)

■武田俊輔『コモンズとしての都市祭礼――長浜曳山祭の都市社会学』(新曜社、2019年) #1

 気分転換にこっちを読み始めてみよう。

2020年6月6日(土)

 やる気が出ない時はとにかく日光浴。朝起きたら日光浴。やる気が出ないのは心のせいではない。

2020年6月4日(木)

■秋道智彌『コモンズの地球史――グローバル化時代の共有論にむけて』(岩波書店、2010年) #1

以上のように、資源の特徴は、1)無主性、2)文化相対性、3)歴史的変容、4)社会的共通資本、5)象徴性の五点にある。[17]

 「G.ハーディンのいう「共有地の悲劇」は、じつは「オープン・アクセスの悲劇」であったのだ」[21-22]。「共有地が社会を規定するのではなく、社会が共有地のあり方を決めるのである」[22]。

 都市のコモンズを語る場合、公有地をどうとらえるかがポイントになるのかな。公有地にもいくつか種類はありそうだけど。

 「渡り鳥をコモンズとして考える」[33]というのは、なるほどと思うけど、渡り鳥はどういう意味で資源なのだろうか。

 「無縁の空間」[37]であるエコトーン。

 うーん。所有権をいったんかっこに入れて発想した方がいいのかな。

 「第3章 水をめぐる協治」。

 こんなふうに読んでて大丈夫なんかな……。

 なんか違うな。自然環境の保護のために望ましい土地利用、資源管理を問うているだけというか。

「コモンズとしての食を議論するならば、世界における「食の分配」について新しいビジョンをうちたてる必要があるのではないか。[67]

 やはり、コモンズという言葉でカバーできる範囲を出来るだけ広げて、所有と利用のあり方を再考させようという戦略的な語用をしているのではないか。コモンズを発見していく。コモンズを理想化するというより、協治(ガバナンス)を前提とすることを理想化としている。何かがねじれている。協治を前提とした自然資源の管理に普遍的な価値を与えようとしている。

 コモンズという言葉がコミュニティのような期待概念になっているのか。

 「第4章 食と環境」。なんだろう。

 コモンズというより、他者や自然との向き合いかたの規範のように扱っているように思える。

 人が生きていく上で、分かち合う必要が出てくる。分かち合いがうまくいかなくなる原因、その結果としての悲劇がある。そうした「失敗」を避けて、分かち合いの原点に立ち返ろうという理念として「コモンズ」という言葉が用いられているのが実際なのかもしれない。

 第5章 海は誰のものか」。

第一は、第1章で述べたように、地球上の野生生物は本来、だれのものでもない無主の存在である。[84]
第二は、グローバル・コモンズの定義についてである。コモンズ(commons)には「共有地」とか「入会権」、「平民」「食料」などの意味がある。ここでは海洋動物の利用における、共同管理、共同利用の対象資源(common-pool resource)(Ostrom 1990)と位置づけておきたい。[85]

 やはり資源そのものであり、その利用方法によって条件づけている。利用方法、関わり方、行為によってと言うべきか。

2020年6月3日(水)

■三俣学・菅豊・井上真編著『ローカル・コモンズの可能性――自治と環境の新たな関係』(2010年、ミネルヴァ書房) #5

 この本から読んでいくのが良さそうに思える。

 嶋田大作・齋藤暖生・三俣学「第3章 万人権による自然資源利用――ノルウェー・スウェーデン・フィンランドの事例を基に」。

北欧諸国では、他人の所有する土地に自由に立ち入り自然環境を享受することが、万人に対する権利として認められている。[64]

 right of access. right of public access, everyone's right.

このように、万人権をめぐる制度は、都市化やモータリゼーションなど、社会の状況が大きく変化するなかで、それに伴って発生する私的土地所有権と万人権の対立の問題、または公共的な利益とされる生態系保護と万人権の対立の問題等を踏まえて、発達してきたといえる。[81]

 「第II部 グローバル時代におけるローカル・コモンズの戦略」ここから事例編か。ローカル・コモンズを扱った議論も、グローバル化が進展するなかで、コモンズから得られる知見を普遍化しようという志向がある。しかし、それは当然、社会的共通資本が目指すのとはまた違った道筋になりそうだ。

 寺内大左「ボルネオ焼畑民の生業戦略――ラタンからゴムへ、そしてアブラヤシへ?」。

 自然環境のコモンズと都市のコモンズを扱う場合の違いは、法律や制度の縛りがゆるやかに形成されるか、所与のものとして強固に存在するかの違い? 万人権の話を見ると、規制は社会変化にともなって後から取り入れられている。しかし、都市の場合、すでに規制は過剰になされている?

 地球環境問題とのかかわりのなかで、熱帯林がグローバル・コモンズとして認識されるようになった。その一方で熱帯林はローカル・コモンズとして利用されるものであった。両者を調和させる視点を、ローカル・コモンズの側から引き出そうというのが、この手の議論の基本的なスタンスだろうか。

 これはいったい何の話だ。

 アブラヤシは資本への従属度が高いということは言えそうだけど。

 なんだろう。すごく大切な論点がここにありそうだけど。アブラヤシの場合、企業が主導権を持つ。

「村人たちは「労働に対する収益性」「融通性」が高く、「自律性」が確保された生活を維持(持続)したいと考えており、寄木細工生計戦略を採用していることが明らかになった。[110]

 これは結局、土地をどう利用するのか、土地の所有権を村人たちが持っているから担保できるもの。ここにコモンズの姿を見ようとするなら「望ましい生活」を実現するための手段として、固有の場所とその利用方法が位置付けられるということだ。

筆者は今後もフィールドワークを継続して、村人たちの求める生活の内実に迫り、彼らの価値基準に基づく地域発展のサポートができればと考えている。地域固有の価値基準に基づく発展がもっとも地域社会の安定(持続性)に貢献すると考えるからである。

 ここを理論化しないといけない。価値基準に基づくことがなぜ地域社会の安定に貢献するのか。

 河合真之「第5章 「緩やかな産業化」とコモンズ――大規模アブラヤシ農園開発に代わる地域発展戦略の形」第4章と第5章はペアなのかな?

 コモンズを「仕組み」と言ってもてはやすのはあまりにおめでたすぎるように思えてきた。ここにあるのは単に「自治」で、その「自治」は資本によって容易に脅かされるが、それに反論する根拠がこの社会にはない。ユートピアを理想化するための言葉にしてはいけない。

 これコモンズどう関係あるの……。

 第4章も第5章も何がコモンズを意味するのかまったくわからなかった。

 椙本歩美「第6章 政策はなぜ実施されたのか――フィリピンの森林管理における連携」。

 何の話や……。

 目黒紀夫「第7章 「共的で協的」な野生動物保全を求めて――ケニアの「コミュニティ主体の保全」から考える」。

 この本はもういいか。

 里道や万人権の話は面白かったが、第II部はよくわからなかった。事例を積み込みすぎで、何を論じたいのかわからなかった。地域や制度のことを事細かに書かれてもついていけない。

 『コモンズの社会学』とか、教科書的な体裁のものから読んでいった方がいいかな。

2020年6月2日(火)

 後半のネタは何にしようかな。

 飯場とセンター。センターを語ろうと思ったら労働に触れないわけにはいかないから、まずは両方が混ざった形かな。

■宇沢弘文・茂木愛一郎編『社会的共通資本――コモンズと都市』(東京大学出版会、1994年) #2

 もうちょっと読もう。

 第1章長かった……。社会的共通資本をコモンズに擬えて構想するのは奇妙に思える。やはり経済学だと、最初からコモンズがモデルとして決められている感じ。

2020年6月1日(月)

■宇沢弘文・茂木愛一郎編『社会的共通資本――コモンズと都市』(東京大学出版会、1994年) #1

 先にまえがきだけ読む。宇沢弘文「プロローグ」。地球温暖化。

 うーん、まあ基本的には経済学の話ということかな……。

 宇沢弘文「第1章 社会的共通資本の概念」。社会的共通資本としての自然。

社会的共通資本は一般に、自然資本、社会的インフラストラクチャー、制度資本の3つのカテゴリーに分類される。[15]

 こんなふうに展開されると、コモンズがそんなにすばらしいものなのかという気がしてくる。

 やはり、最初からどこか理想化されている。また、ハーディンの「共有地の悲劇」そのものがたちの悪い比喩でしかなかったこともポイントかもしれない。

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