2024年10月31日(木)
たとえば、患者が性的に胸や太ももを露出した挑発的な服装やしぐさで面接場面で行動するとき、治療者がそれを何とも感じなければ、何も問題はない。治療者への操作的行動ととらえると、患者への陰性逆転位を起こす可能性がある。操作的行動だと解釈しても、BPD患者が取るごく自然な行動の一つと解釈すれば大きな問題はない。[有馬 2010: 103]
患者が治療者の私生活に興味を持つのは当然である。しかし「奥さんはどんな方ですか、お子さんはおられますか」のような問いを治療者に質問することは治療妨害行為であって治療者は答えないが、患者の問題状況で、治療者が同じような失敗をしたこと、同じような悩みを持ったことを自己開示することは治療的であり、必要なことである。[前掲: 108]
2024年10月30日(水)
岩永 効果研究が始まった場合「自閉症に効く薬」ということで研究すると、自閉症全般に効かないと効くことにはならないです。だから元々の分類自体が間違っていると、効果研究はうまくいかないんです。自閉症も脳の特性によって、A群B群C群というようにいくつかのサブグループに分けられるでしょう。そうするとこの薬はA群には効くけどB群には効かないとか、そういうことが起こりえます。そうなると今までのEBMの中では、「自閉症に効果がある薬」とは見なされません。[神田橋條治ほか『発達障害は治りますか?』花風社、2010年: 296-297]
藤家 「気持ちがいい」を増やすことだけでは、社会で生きていく能力を増やすことにはなりません、という先生の文章で、何も私たちアスペルガー症候群の人間だけが、気持ち悪かったり、自分に合わないことをやらされているわけじゃないんだとあらためて知ることができました。
そして、人のミスをフォローしたり、それによって場の雰囲気が和んだりすることは、結局「気持ちがいい」に結びつくということを最近知るようになりました。[前掲: 303]
*
つまり自己(概念、理論)とは「自己がこれこれの状況でかくかく振る舞う」という、自分自身および他人との無意識的社会契約である。BPDや解離性同一性障害、転換性障害等の解離ではこの契約が破綻していると言えよう。[有馬成紀『境界性パーソナリティ障害と離人症 その病態と治療』金剛出版、2013年: 32]
2024年10月29日(火)
もっと「どうでもいい」と思えるようにならないといけないのかもしれないなあ。
*
僕は何を分かりたいと考えているのか。人間の認知のあり方を知りたいと思っている。しかし、それは認知科学とは異なった関心であるはず。何をどうすれば分かったことになるのか。
解明したいのは個別具体的な小集団のあり方で、それを通じて社会現象の理解の道筋を付けたいと思っている。
*
そうだな、認知のあり方やその機序を科学的に明らかにしたいというよりは、起こりうる事態の想定の幅を知っておきたいのだろう。
2024年10月27日(日)
本当につまらない人間に引っかかってしまったと思う。
2024年10月25日(金)
まあ、別に大禍ないか。
2024年10月23日(水)
iPad持ってくるの忘れた。
2024年10月20日(日)
しんどい……。何でこんなにしんどいのか。
2024年10月17日(木)
熱量ではなかったなあ。何だろう。
プリントアウト済みのフィールド日記ではよく分からなかったので、給付金関係のところだけ抜き出してファイルを作っていった。すると、どんどん気分が乗ってきて、フィールド日記だけではなく、ブログや写真などもプリントアウトすることにした。そうしていると、あれもあったこれもあったと思い出されるので、それらを一通りプリントアウトして、30穴のパンチで穴を空けてファイルに閉じていった。その上でようやくフィールド日記のコーディングをはじめたら、これはどうとでもなるなと思った。
思い出した。転機になったのは、手書きノートに「身分証明とは何か」を明らかにするのが主題だろうと書き留めた辺りからか。身分証明のあり方。コロナ禍の給付金を出すために取られた身分証明の手続きの実態を描くことを通じて、現代社会で求められる身分証明とはいかなるものなのかを明らかにする。
住民票と身分証明書の循環的なやりとりによって、その人が何者であるかを証明する根拠が作り出されている。しかし、いったんその循環が途切れてしまった場合の回復の手段がこの社会には制度として用意されていない。その欠陥は住民登録の解釈において生じてくる。市民生活の便宜を図るためにあるはずの住民登録が、排除を正当化するための装置になってしまっている。
とかなんとか、実態を面白おかしく描いてしまえば、いくらでもここにある問題は語れてしまう。もちろん、この問題はすでに語られてきたことでもあるのだが、最初から「再考する」と言っているのだし、「再考する」に相応しい直近の事例でもある。また、この問題は社会学的にはほとんど扱われて来なかった。
*
ストリートレベルの官僚の話を組み込んだ方がいいのかなあ。
官僚制のユートピアの話と、長谷川貴陽史のルーマンの話を組み合わせて、ストリートレベルの官僚による社会改良の可能性に触れるようなことをしてもいいかもしれない。
新聞報道を見れば、現場判断で簡単に問題が解決された事例もあったし、そもそも判断は基礎自治体に預けられていた。
大阪市はいまだに「あいりん地区」に問題の隠蔽を押し付けているし、現場はそれに甘んじつつ、チャンスをうかがっているようでもある。しかし、そこに当事者がいるかどうかが問われる。
2024年10月16日(水)
「失望についておれが何を発見したか、わかるかい?」G・Tはたずねた。
あたしは鼻をすすった。「さあ」
「逃げずに立ちむかえば、その失望を力に変えられることさ」[ジョーン・バウアー(中田香訳)『希望のいる町』2010年、作品社: 147]
ホープという名前がもつ力を引きだそうとした。でも、あたしのなかには希望と呼べるものはもう何ひとつ残っていなかった。[前掲: 216]
*
この論文をまとめるのに、どれくらいの熱量が要るのかということだ。燃やせるものを自分の中にかき集めなければ書けるはずがない。
2024年10月14日(月)
くるしい……。
2024年10月11日(金)
無駄だったわけがない。無駄だったはずがない。頭ではそう分かっていても、自分が見積もっていたほどの価値があるようには思えない。あるいは、本当にそれほどの価値はないのかもしれない。
あれだけの思いをして、その正体はこんなものだったのかと。
同じものを見ていたわけではなかった。だからといって、僕自身が見てきたものの価値が否定されるわけではない。僕は望んでいたものを手に入れた。しかし、それは最初から誰にも望まれていないものだったのかもしれない。
*
それならそれをきちんと確かめなければ。僕はもうこれがそんな立派なものではないことを知っている。そのことを誰よりも深く、誰一人向き合っていないことを理解しなければならない。
2024年10月10日(木)
これはすべてに目を通すのは不可能なのでは……。
*
裏切られたとか、そういうことは僕にとってはどうでもいいことなのでは……。
これはあるテーマについて、ある期間を扱ったユニークなデータ群でしかない。
*
そのユニークネスとは、例えば、まずはこれが関係的なデータであるということが考えられるだろう。
関係的なデータは全体像を描けない。しかし、全体像は別の手段で調達してくればいいし、そうして調達した全体像の中で、全体像からは導き出せない理解を深めることができる。
しかし、この説明も正確ではない。関係的なデータは、別のデータに依拠しつつも、別のデータからは導き出せない全体像を調達することができる。
言い換えれば、関係的なデータは、どこまでが全体像に含まれるのかを探ることができる。関係する全体を議論の範囲に引きずり込まなければならない。
*
関係的なデータは、関係そのものを問題としない。相互行為も意味付けも、ただ事実として描かれるだけである。
事実には意味などない。事実を帰結した状況や構造的なメカニズムが明らかにするための参照軸にすぎない。
ただ、参照「軸」というには、その事実は複雑な形状をしているし、複雑なまま参照されるだけの安定を保てていなければならない。
*
そう考えると、これは一次過程の二次過程への変換、実質的対立項と論理的対立項の違いのようなものなのだろうか。
参照軸そのものが、変化しうるもの、同じものでありながら多様な形態を取りうることになる?
*
だとすれば、関係的なデータの活用を可能にするための参照軸の成立とは、観察者であり、分析者である者の吟味された自己規定であり、覚悟の問題――生き方の問題になる。
*
まだ決められないこと、判断しきれないこと、判断材料が出てきていないこともある。あるいは、その時は来ないかもしれない。
確かな判断ができないことについては判断できない。判断できないことについては語りえない。できるのは、よくできて、語りえないことについて語ることまでしかない。
2024年10月9日(水)
面倒くさい。いらつく。
*
読めば読むほどイライラする。
*
けったくそ悪い。
2024年10月1日(火)
ふー。仕事しないと。
|