過去ログ
2023年12月-2024年4月


2024年4月24日(水)

 エスノグラフィーでは、語り手は常に著者であり、著者の経験が語られるにもかかわらず、物語的現在から著者が過去の著者の現在形の視点から語る。

 また、物語的現在においても、過去形で、現在形の視点を補完するための直近の状況が語られる。この時の語り手、語る視点もまた著者であるはずだが、これは原則的なものにすぎず、第三者的な視点になり、その限りで第三者の語りを紛れ込ませることになっているかもしれない。

先ほど見た新聞記事にも、たくさんの数字が出て来たが、ガルシア=マルケスも数字を入れ込む。これは、リアリティーを担保するための方法である。[橋本陽介『物語論 基礎と応用』講談社、2017年、p.200]

 「リアリティーを担保するための方法」というか、数字を示すためには計算する必要があり、計算するという試み自体に必然的にともなう認知枠組みがあるということではないか。

 僕が「データを一番面白く読ませるためにはどう書けばいいか」を考える時に、データ部分の文体まで想定されているとしたら、その部分の文体をして全体の構成は定められているのかもしれない。そういう意味で、まさにエスノグラフィー的だ。

2024年4月22日(月)

 「センターの日」の中にすでに労働者の言葉はある。その言葉を理解するための知識をこれから手に入れる。その言葉から意味を引き出すための知識。

 進化の行方を知ることのないプラグマティズムの理を操ってすべてを理解する。そのためには自分自身の情熱と愚かさを知っておかなければならない。他人の情熱と愚かさをとらえるために。

 僕はすでに言葉にしているはずだ。研究者であるとか、活動家であるとか、そんなものは真理をとらえるのに何の関係もない。ただ、その道を行く者はフィールドワーカーと呼ばれるはずだ。

 答えが分かることと、分かっていなくても答えをつかめることとがある。答えをつかんだ者はつかむことで理解することもあるだろう。もっとも、誰かがつかんだことで周囲も理解していく。

 答えが分かっていて、つかめる場所にいたとしても、つかむわけにはいかないということもあるだろう。それぞれにしがらみがあり、役割というものがある。役割が許してくれないことだってある。たとえつかめるとしても、つかむだけの価値を得られる立場ではないかもしれない。

 可能性は開かれている。しかし、可能性とは結果が見せる仮説に過ぎない。過ぎ去ってからしか見えてこないし、そんなものがあったわけでもない。組み合わせ次第で語り得るようになっただけのことだ。

2024年4月20日(土)

 人はどうやって他人を思い出せるのか。

 記憶の網か。

2024年4月19日(金)

 何を興奮しているのだろうかと不思議に思ったけど、要は自分を織り込んだエスノグラフィーの書き方がつかめたということじゃないのか。

 離婚にまつわる損得の差し引きと折り合いの付け方。損得の計算というのは、経済的で合理的なようで、その合理性自体がまったく合理的とは言えない計算式になっている。損とは言えないこと、得とも言えないことを、損得にしてしまわなければ成り立たない功利計算をしてしまっている。

 TSUTAYAの郵送返却で、マンガ10冊を返却するのにいくらかかるか計算して、それを自分で返しに来る場合の時給で換算してみて、しかし、実際は時給というのは出費を相殺するものではない。

 昨日のスポット講義。社会調査に対するフィールドワークの位置付けをしてみて、結構思い切ったことをすることになったなと思った。こういうことを人前で言い切ったことは実はなかった。また、言い切ってしまった方がいろんなことが理解しやすくなる。

 社会調査の裏には、本当はフィールドワークがある。しかし、それならフィールドワークがフィールドワークとして成り立つとはどういうことか。フィールドワークの成果を取り出すには、やはり自分を投げ出さなければいけない。

 そして、それは結構無茶なことだ。

 そうか、僕はフィールドワーカーとしての自分のかかわりを寄せ場の労働運動や野宿者運動の中に見ているのか。

2024年4月17日(水)

 うーん。

 社会調査は向いていないんだな。

 自分の中から答えを探り当ててくる。細かなディテールごとごっそり取り出して、そのからまり具合を理解し尽くさないといけない。

 社会調査として生活史が聞けなくても、フィールドワークとしてなら聞けるかもしれない。

2024年4月15日(月)

 今は力が満ちてくるのを待っていればいい。

 自分の力ではなく、与えられるものを受け取るつもりで。そして、それをまた世界に返すように。

 そんなお気楽なものではないなあ……。

 たったこれだけのことを言うために、8年の時を費やしたのか。

 誰かが言わなければならないことだった。たぶん、こんなことを語りうるのは僕しかいなかっただろうけど。

 失われた機会、失われた時間、得られなかった得られたかもしれないもの、それらと引き換えにするだけの値打ちがあったのか。

 分からない。わからないし、考えても仕方がない。僕にできるのはただ、これを語り切ることだけだ。

 寝不足でイライラしている。

 そうか、もうやめざるをえなくなる時が来るのを待っているだけなのかもしれない。この漂流する断片の打ち寄せられる果てを見届けるために。

 語り得ないものがまだ僕の中に残っている。

2024年4月14日(日)

 まちがわずに語る言葉を選べる気がしない。

 記録の力。

 そんなものがあるとしたら。

 そんなものはないとしても。

 引き出そうとしなければ、見出せることもない。

2024年4月7日(日)

 進化生物学から展開して解釈を広げていくところで、基本的な知見を何度も繰り返すことになるのは、その分野が目新しいためでもあるのだろうが、個別に近づけば近づくほど検証しきれない部分が増えてしまうからだろう。

 食べ物を独り占めするチンパンジーに対してボノボは仲間と分かち合おうとする。気質としてそうしたところがあるとしたら、そこに悪意はない。しかし、悪意が入り込む余地はそこにある。そこで働くのは利己的な計算かもしれないし、合理的な配慮のあり方かもしれない。しかし、それらが混じり合うことに十分に自覚的ではありえないだろうし、集団においては必然的に行き違いも生じる。

2024年3月30日(土)

 僕はこれから何を目指せばいいのだろう。描こうとしていたことに、それだけの価値があると思えなくなっている。

 だからこそということもある。もうこのことを伝えるのも、伝えられるのも、他にいないだろうから。

2024年3月27日(水)

 今は何も決めない、決める気がないし、決められない。決めるための前提を持たない。

 今をそんなふうに受け止めることが、そういうものは決まってしまうものだ。

 決めること、答えを見出せることは力なのだと思っていた。分からないよりは分かる方がいい。分かることは力に違いない。

 しかし、分からないこともある。どんなに優秀でもその時、その場所で分かるはずのないもの、その時に分かってはいけないものもある。決めてはいけないもの、決めなくていいものだってある。

 分からないこともある。ただし、それがその時その場所で本当に分からないものなのかを考える必要はある。そうでなければやがて訪れるものを待つこともできない。

 起こることは何であっても構わないんだ。もちろん、困難なこともあれば、苦しいこともある。しかし、それを決定的なものにしてしまうのは、決める力を持つ者であり、流されるままに決められない者だ。

 扱いやすさや好ましさに違いはあっても、依代に意味はない。依代が与えられていることを悲しむほど愚かなことがあるか。扱いにくさや好ましさに囚われるほどの意味はないのだから。

 僕はそういうふうに生きていたい。そして、そういうふうに生きる途次にある。それなら、得るものはあっても失ったものはなかった。

2024年3月20日(水)

 苦しい。一つ、二つと苦しい山を越えたのに、結局そんなものは個人的な問題で、何にもなってなかった。

 そんな個人的な問題を解決し続けていくしかないのかもしれない。それを社会と折り合わせながら。そんな大問題にもならない苦難の道をたどらねばならないのか。

 どうしようもない孤独感。こんなもの分かってもらいようがない。

 しかし、唯一無二の視点でもある。それを自分が理解できていれば。

 自分の心の中の機構を解き明かせば、怖いものは無くなるのだろうか。

 もしそうなら、しばらくやることは変わらないんじゃないか。むしろ大過なく過ごしていればいい。一喜一憂せずに。

2024年3月17日(日)

 むかつく。

 やり切れない。しかし、これが浄化のために必要な手続きだったのかもしれない。

 そんな物分かりのいいわけがあるか。

 自分に足りないものがあるのがわかる。しかし、それが何で、どれくらいあるのかまではわからない。それが不安をわき起こさせる。

 あるいはそれと向き合うことが生きる過程なのか。

2024年3月15日(金)

 そうか、物語というのは都合よくできているんだな。

 願望に即していなければ物語る意味がないし、願望が丸出しになっていても現実味がないから、そうでないように描かれた物語は「うまい」ということにもなる。

 そういうことが僕には分かっていなかったのだろう。

2024年3月13日(水)

 少しずつわかっていくことが、まにあうのかどうか。

2024年3月11日(月)

 ああ、虚しい。

 ダメな時もある。

2024年3月1日(金)

 結果の如何より、やるかやらないかに意味がある。

 選択肢は無数にあるし、選ぶか選ばないかも選択肢の一部なんだ。

2024年2月26日(月)

 答えらしきものは分かっていても言葉にできない苦しさ。それでも、語りえるようにするために、自分の中にさらに言葉を取り入れなければならない。

2024年2月24日(土)

 この研究はどこに行き着くのか。

■牟田和恵、1986「運動の形成と資源動員論」『ソシオロジ』社会学研究会、30(3): 56-76

 読んでみる。なんか、巧みな文章だなあ。

まず第一に挙げられるのは、信念や不満、剥奪による運動の発生の説明を棄却し、運動のコストや資源に焦点をあてることである。[59]
第二は運動を合理的政治過程とみることである。[59]
第三は社会運動の組織過程に注目が払われる点である。[59]
第四には、第二点にも関係することだが、集合行動論が多元主義論をとり社会の調和と統合を「常態」とし、集合行動はその危機のあらわれであると把えていたのに対し、資源動員論はこれを批判し闘争・対立を必然とする闘争理論的社会観を採る。[59]

 オルソンかー。

(1)運動形成の初期段階に外部からの支持が存在する場合があること。たとえばリーダーシップの移入や物質的援助。(2)集合財の獲得が個人的報酬あるいは個人にとっての負の状況の回避と不可分に結びついている場合があること。(3)運動集団の形成初期においては小規模でありうること。(4)オルソンは大規模集団を全く組織されていない原子的な個人の集団と仮定しているが、不満集団においては個人は多かれ少なかれ既存の組織や集団に属していること、の四点である。[62]

 えーとなんだ、運動の発生論に焦点化して資源動員論を評価し、発展の理論的可能性を示唆した論文?

 まあとりあえず読むには良かったか。資源動員論というのが、イメージした通りのものなのか確認したかっただけだし。

 論文というのは、いくつか書き方があるのだろうし、目的とするところ様々なのだろうなと思った。遥か遠くを目指しているそぶりで書かねばならないわけだ。そこに到達できるとは思っていなかったとしても、大勢がそれを装っていることで維持される部分もあるし、そういう舞台を作り出すことで研究というのは成り立っているところもある。

 舞台を作り出すことも、発想を広げ、思索を可能にするために必ず必要なものだと理解すれば、それが「そぶり」であり、装われたものであると暴露めいた言い方をするほどのことではない。

2024年2月16日(金)

 脳の問題なのか心理の問題なのかよく分からなくなる時があるが、あくまで脳の反応を観察した結果から考察している。

 しかし、働きかけ自体は言葉でしていたりする。「不安を鎮める」「誘導する」こと自体は心理的な働きかけに思えるから、それで脳の反応を観察して解釈されたとしても、その前の心理的な過程の問題に思えてしまうのだろうか。

 自分に身近なものほど大きく書いてしまうという話。よく使う身体部位ほど、脳に占める割合が高いという話。地図を描かせて、実際の地図との比較というようなワークショップができるのだろうか。メンタルマップの話なわけだが、あれはなかなかうまくいかない。

報酬に辿り着くまでのステップ数が多くなると仕事のエラー率が高くなるというわけである。[池谷2010:63]

2024年2月8日(木)

 睡眠にサイクルがあるように、眠気にもサイクルがあるのだろうか。眠いピークをいったんすぎると眠れなくなってしまう。

2024年2月1日(木)

 ああ、やはりたどり着いていた。それがここだったんだな。

 すべてのデータがこの答えを示している。

2024年1月24日(水)

 はっきりしないまま、耐えながら把握していくしかないのかもしれない。はっきりするまで待っていても無駄になる気がする。そうではないやり方が必要なのかもしれない。

2024年1月20日(土)

 不愉快に耐え続けるのが研究者であることのさだめなのか。探求することの。

2024年1月16日(火)

 そうか、フィールドワークがカウンセリングかセラピーのようなものでもありうるということか。

 それゆえに一人でフィールドワークに取り組むことは自己分析のみで自己を対象化しようとするようなものだ。

2024年1月13日(土)

 逃げていてはダメだし、逃げなければならないほどのことでもないと分かっているなら、そろそろ向き合わないとしんどくなるばかりだ。

2024年1月9日(火)

 進化論の視点から生物学的根拠が推定できるとしても、社会的な過程もまた生物学的根拠のバリエーションに過ぎないと素朴に考えることはできない。

 社会心理学の知見があった上で、それが生物学的に裏づけられるかどうかは、究極的には他種との比較を要するし、どこまでが生物学的な特性なのか、明確な線引きはできない。

 完全に無私の奉仕が選ばれたとしても、結果的に淘汰されてしまう。自然状態は最初から理不尽でもあり、合理的でもある。

2024年1月7日(日)

 進化論についての補足説明のあり方。

 人は必ず死ぬ。しかし、いつ死ぬかは誰にも分からない。また、死がどのようなものかも究極的には知りえない。

2024年1月4日(木)

 コスモロジー。語りえないものをとらえるための文法としての昔話。その語り方が現代社会では損なわれているのなら、それを取り戻す語りはエスノグラフィーに宿るだろうか。

2024年1月1日(日)

 明るい年にしよう。

2023年12月30日(土)

 大荷物抱えて行ってやるほどの意義が感じられない。

2023年12月26日(火)

 やはり自分の思いは直接本人に伝えなければならないものだろう。

2023年12月25日(月)

 というか、本当にもう関係ないんだよね。自分がどうするかだけを考えればいい。

 付き合いきれないものは切り捨てたうえでできる範囲のことをやればいい。

 答えは見えるところにはない。

 きちんと見極めよう。ただ足を引っ張るだけのものなのか、煩わしくても必要なものなのか。

 すぐには分からないかもしれない。見極めるための時間なら切り捨てられない。

2023年12月21日(木)

 もうモチベーションを下げるだけのものには関わりたくない。

 たとえ実入りは少なくても道から離れずに進まなければ、結局は自分の力を高められない。

2023年12月19日(火)

 自分の中に欠落したものがある。それを知ってなお平気でいることもまた必要なのか。

2023年12月13日(水)

 ダークサイドに落ちないように。たとえやりきれなくても、誰かの罪のために失わなければならないものなんてない。

 その先がある。その先に向かうために巻き込まれた事態なら、恨みにとらわれることで得られるものなどないし、失うものもない。

 たとえその罪を許せなくとも、負わされた傷に償いがなくとも、恨みつらみで罪を増やせる道理はない。

2023年12月11日(月)

 なんとか書けたけど、どうやって書いたことになるんだろう。こういう形になるとは思っていなかった。

 構成としてはオーソドックスな比較のスタイルになった。

 排除と包摂に対して反排除を提示するところまでは行けなかった。そのだいぶ手前で疑問を匂わせるような構成になった。

 ギリガンとマニングの話をすることで、〈臨床の知〉を語りたかった。〈臨床の知〉について語ることが目的だった。そういう意味では、これまで書いたことのあるものとは性質が異なる。「語り得ないもの」ともまた違う。

 でも発達障害や人格障害の話はできなかった。これらはまた別の課題に関係することだからだろう。しかし、その課題を扱わなければいけない時はくるのだろうか? 今関心を引かれている事例ではあるが……。

2023年12月10日(日)

 あー。どうしよう。

 面倒くさいこと言わないで、さらっとエッセイぽくまとめてしまえば楽なんだろうけど、そういうことはしたくないし、したくないことは上手くできないから、結局できないんだと思う。

 ブラックボックスの議論の部分がもう一つ詰めきれていないのかもしれない。

 何をレクチャーする立場なのかがぼんやりしているんだな。だから、語り手としての自分になりきれずにいる。

 だとすれば、出だしにはやはり自分のことを説明する必要があるようにも思える。

2023年12月9日(土)

 偽りの名声に科学者としての価値があろうはずもない。

 そうか、科学者の未来そのものがブラックボックスなのか。ブラックボックスをブラックボックスのまま受け入れながら真理へと向かおうとする。

 真理にたどり着ける日など訪れはしない。それでもそうした姿勢が必要であることを知っているのが科学者だ。

 現世で実現するものではない。現世と常世を分けて構想するところに現在がある。

2023年12月8日(金)

 なんか、気持ちが落ち込むなあ。

 ダメだ。どうしようもなく不愉快になるようだ。

 嘘になってしまう。

2023年12月6日(水)

 そうか、これまでは失敗は「してはいけないもの」だと思っていた。

 しかし、失敗なんてその時点での結果に過ぎない。挑むべきものがあれば成否を超えたところに成果がある。

 正解か不正解しかなく、選択が全てを決してしまうという考え方は、評価に支配された一面的なものでしかない。正解を放棄したところ、正解に代わる真理を生きる道がある。それを見失わなければいい。

2023年12月4日(月)

 日記をつける時間を決めといた方がいいのかなあ。ためると忘れる。

 書くことが多い日がたまにあるからなあ。

 そんなにたくさん書かなくていいことを前提にしておくか。最低限の覚え書きという位置付けに。たぶん、もうフィールド日記を書く意味はない。いつ何があったかが振り返ることができればいい。考察は手書きノートの方に書くだろうし。

 土曜日にリュックの中にポーチも入れてしまったら、実はポーチの中身が必要になるタイミングは限られていることに気づいた。これまでは心理的な執着が強いために、ポーチにあれこれ詰め込んでいた。ポーチならポーチだけで出かけるシチュエーションで用いるべきだし、中型のショルダーバッグ一つあれば、ポーチでなくていい気がする。

 財布だってほとんど使わないし、PiTaPaにしても改札でしか使わないわけだから、リュックに入れておいても構わないはず。スマホとAirPodsくらいじゃないか。ポケットに入れておけばいい。

 そうは言っても、忘れ物がないようにしないといけない。モバイルバッテリーや充電ケーブル、塗り薬、鍵類、USBメモリスティック、筆記具か。

 筆記具というのが悩ましい。バッグインバック的なものにどこまで入れるのか。

 外出時の持ち物のバリエーションを整理して考えた方がいいのかな? リュックに最大限詰め込まないといけない時とショルダーバッグにノートと本くらい入れられればいい時と、ほとんど手ぶらで構わない時とあるだろう。

 メガネと原付の鍵というのもあったな。メガネなんてほとんど使わない。車両の運転をする時くらいだから、この二つはセットで扱うべきだと思うんだけど、何か落とし穴がある気がする。

 非常勤に行く時はひょっとしてメガネも原付の鍵も要らないのかな。

 PiTaPaだけ財布に入れてしまった方がいいのかな。

2023年12月1日(金)

 うーん、憂うつだ。この気持ちとちょっと付き合わないといけないようだ。

 そうか、不安な気持ちを否定しなくていいんだな。不安な気持ちがどうしても消えない時もある。不安なまま望まなければならないこともある。そんな時は不安な気持ちのまま臨めばいい。

 不安な気持ちを残したままでは臨めない、うまくいかないと考えてしまう。これもまた完璧主義の裏返しなんだ。不安があってもうまくいく、不安を抱えながらでもきちんと準備をすればいいし、失敗したなら改善すればいい。

 不安があっても自分の力を信じることはできるはずだ。

 12月か。いい加減、他人のことを気にしている場合ではないのかも。

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