過去ログ
2020年1月


2020年1月30日(木)

 何かイライラしているな。落ち着きがない。何だろう。

2020年1月28日(火)

 まちづくりの中の包摂のイデオロギーと、真正な水準でのコモンズとを対比させて、後者の可能性を明らかにする?

 『モビリティーズ』小難しい本ではなかった。1/3くらいまではすいすい読めてしまう。アーリが調べた膨大な情報が散りばめられている。

 あー、つらい。明日までにレジュメまとめるなんて無理……。

 忍者ツールズ少しずつ復旧してきているようだが、まだファイルのアップロードはできない。

2020年1月27日(月)

 忍者ツールズが落ちているらしいので、復旧後に更新することにして、書いておく。

 吉原直樹『都市社会学』読み終わった。さあ、読まないといけない本がたくさんあるぞ。

 ジョン・アーリ『モビリティーズ──移動の社会学』(作品社、2015年)を読みはじめる。

 ハーヴェイであれ、カステルであれ、脱場所性の議論は固有の場所の意味を掘り下げようとはしないように思う。マクロな構造を論じていた方が学者としての実りは多いだろうし、理論家とフィールド調査は趣味が合わないというところもあるだろう。

 はたしてこの本でアーリに現場への視点があるのか、あるとすれば、それはどのようなものなのかくらいまでは確かめておきたいところだが……。

2020年1月26日(日)

 移動というなら、寄せ場の労働者は移動を強いられてきた人々であるし、野宿者の多くも都市の中で移動を強いられる存在と言える。

 移動できなくなった人たちが滞留する究極の場所がセンターになっていると言えなくもない。

2020年1月24日(金)

 今日は吉原直樹『都市社会学──歴史・思想・コミュニティ』(東京大学出版会、2018年)を読んでしまいたい。

 フィールドで起きていること、問題としたいことを中心に据えて、そこに影響を及ぼすものを複層的に捉えていく必要があるのかな。経済的な次元もあれば、政治的な次元もある。どちらも空間を媒介にして作用するものとして読み解いていけばいいのだろうか。もう一つ、労働というファクターもある。労働は経済や政治に対するものとして位置付けられるだろうか。それらに対向的であったり、やりこめられつつ、打ちのめされること自体がまた否応なくその存在感から訴える力を持つ。

 ペーパーテストの採点終わった。入力はまだ。さすがに疲れた。

 「ギデンズ 正統性の危機」で検索したら深山和彦「アンソニー・ギデンズ著『第三の道』を評す──野宿労働者運動の前進の為に」というページが出てきてびっくりした。

 ちなみにハーバーマスだった。

 吉原直樹『都市社会学』を読む。めちゃくちゃ面白くなってきた。勉強することいっぱいあった。楽しい。

2020年1月23日(木)

 伝統と共同体について。「創られた伝統」「想像の共同体」の議論について、提喩によって構築された国民国家のイデオロギー的な伝統に対し、顔の見える関係(≒共同体)において形成される伝統は、事実にもとづく慣習の換喩であり、セルトーのいう日常のもののやり方によって作り出されるものであるという点。

 釜ヶ崎の「まちづくり」の中であたかも釜ヶ崎という場所が持つ「伝統」のように称揚され、制度化されようとしているものに対し、実際に労働者たちが顔の見える関係において実践しているもの、実践してきたものを対置する議論の可能性はないだろうか。

 僕は自分の中で解離しているものをフィールドワーカーという言葉で何とか埋め合わせようとしているのかもしれない。

 そうか、「センターの日」で可能になる即時的な関係形成は釜ヶ崎におけるもののやり方を表すものでもあるのか。

 どんなにつらくとも、フィールドの経験をまとめるための作業をしていれば意欲が湧いてくるのを感じる。この意欲の実体は分からなくても、信じられるところまでは信じて生きていくしかないだろう。

 おわりにを読む前に「この社会で働くのはなぜ苦しいのか」というタイトルは何だったのかを少し考えておこう。

 なんか、わかるようでわからない感じが残った。第1部は若者の話としては、いろいろ示唆的だった。第2部 企業、第3部 医療・福祉も考えたこともないようなことばかりだったので面白かったけど、本全体として、これだというものは得られなかった気がする。

 全体を統一する視点として「この社会で働くのはなぜ苦しいのか」だったかというと必ずしもそうではないような感じ。理論が入れ子上にどう収まるのかがよく分からなかった。

 裏返せば、僕が求めているのがそういうものだということになるのだろう。労働と都市政策をセットで扱うにはどうすればいいのか。力点の置き所をつかむ必要がある。

 おわりにを読んだ。著者自身の整理を読んで、なるほど、そういう本だったなとわかった。しかし、やはり、若者を題材にしている分、それが労働全体にどういう網がかけられたものなのかはすっきりしなかった。そんな便利なイデオロギー分析はありえないのだろうか。。

2020年1月22日(水)

 気持ち悪い……。

 続いて樫村愛子『この社会で働くのはなぜ苦しいのか──現代の労働をめぐる社会学/精神分析』(作品社、2019年)を読む。昨日、大学の図書館で『ネオリベラリズムの精神分析』の後半を読んでいて、この著者が学術書として書いている他のものを読んでみたいと思って探してみて、少し読んで面白そうだと思って借りた。

 西成特区構想の中での釜ヶ崎の労働者に対する扱いを現代社会における労働の位置付けを意識しながら読み解くという方向はありかもしれない。

2020年1月21日(火)

 樫村愛子『ネオリベラリズムの精神分析──なぜ伝統や文化が求められるのか』を読む。勉強になるけど、ラカン派社会学というのが馴染みがなくて、どう理解したらいいかちょっとわからない。

 フロムを思い出す。

 つまり若者はこうなのだという話になった途端に強烈な違和感が。理論と断片的な状況証拠の組み合わせから、断定的なことを言うって危うくないかな。

 読み終えた。いろいろ使えそうな名前を知ることができた。

2020年1月20日(月)

 更新しそびれた(0:39)。

 ああ、やっぱりしんどいな。

 無意識化している期待を読み解く。日常的実践の位相でやってしまっていることを理解しなければならない。本当にくだらない、落とした鉛筆を拾うような当たり前のこと、何の変哲もないことから、状況を読み解いていく。そのためにはいくつものフィルターをかけなければならない。ありうべきいくつものフィルターの存在をとらえていかなければならない。

 ここで出ている「精神分析的言説」(238)というのは、セルトーが言っていた現代社会における民族学者の役割に似ているのかな。

 ネオリベラリズムをどうとらえるかという問題。どの様な次元でとらえようとするか。これもどこかにスタンダードがあるというより、自分なりに設定しなければいけないのかもしれない。

2020年1月18日(土)

 えらく疲れた。

2020年1月17日(金)

 20時すぎ、ようやく昨日の夜回りの記録をつけ終えた。体調も悪いし、つらい。

2020年1月16日(木)

 そもそもは排除を対象化するために始めたこと。絡めとっていく構造とメカニズムを明らかにするために。そうすると、もう少しやるべきことがあるのかもしれない。

 つまりは構造やメカニズムの理解が足りていないということか。

 センターで取り結ばれる関係を類型化してみるのもありかもしれない。

 環境問題とは何だったのか。新しい社会運動の中には環境問題にまつわるものも含まれていた。2000年代になると新しい新しい社会運動とも言われる新たな動きも出てきた。新しい新しい社会運動は排除に抗する運動であり、公共空間をめぐる戦いでもあった。

 昨年は気候変動の関係でまた環境問題を軸とした運動の波が高まっていた。僕には自然保護運動のことはもう一つわからない。排除に抗する運動は環境問題とは別のものだと思う。しかし、反排除運動における都市のコモンズをめぐる戦いは、もしかすると自然保護運動と接点を持ちうるのかもしれない。新しい新しい社会運動の次の展開として考えてみると、わりと面白いのか。

2020年1月15日(水)

 小雨が降る。

 捨てたくないけど、ノスタルジーでしか読まなさそうな本を実家に送ってしまおうと考えたが、ダンボール一箱分くらいにしかならなさそう。

 持ってても読まない、読んだら多少得るものはないこともないだろうくらいの本を見繕って捨てることを考えた方がいいかもしれない。

2020年1月14日(火)

 だるいー。

 第四部まで読み終えた。今日中に最後まで読み終わりたい。

デモにも参加せず、会合にも行かず、会費も払わず、要するに身を犠牲にせずに、むかし社会主義者だったことがあるからいまも社会主義者だという人びとがいるにちがいない。なんらかの党派に「帰属」しているということは、その党派と一体化しているというより、それに敬意を払っているということであって、そうした帰属のしるしがあらわれるのは、もっぱら投票権〔声〕といわれるあのパロールの名残、年に一度の投票をとおしてだけである。政党は、「支持」らしきものを頼りに生きながら、昔あった信条の遺物を丹念に調べあげ、そんな虚構の正当性をもって自分たちの仕事をちゃんとやってのけている。(セルトー 1987: 349)

2020年1月13日(月)

 無事終わった。

2020年1月12日(日)

 結構待つ。

 無事一日が終わった。

2020年1月11日(土)

 さあ、ようやく第三部。

 歩行を空間における発話行為になぞらえてとらえる視点にはなるほどとは思うが。

 歩行も意識して行っていない部分が多い。オーディエンス研究にも似ている。

歩くということ、それは場を失うということだ。それは、その場を不在にし、自分のものを探し求めてゆくはてしないプロセスである。(セルトー 1987: 220)

 労働者にとってのセンターだけでなく、支援者にとっての釜ヶ崎も同時に扱っていく必要がある。あるいは研究者にとっての釜ヶ崎もここには含まれるのか。

 このようにして考えていると、まず思い出されるのが、センターができる前のこの周辺の風景を語ってくれた男性のことだ。一通り語り終えると「話を聞いてくれてありがとう」と照れ臭い表情を浮かべて言った。

 語られたままを書き起こせば、面白い話ではあるものの、そこまでの話である。しかし、彼の語りに耳を傾けて、面白さを感じる僕たちの聞き方と合わせて考えると、また別の意味が見出せるように思う。

 「センターの日」で僕たちは網を張っている。止まり木を作っていると言った方がいいかもしれない。立ち寄り、語ってもらうための止まり木。止まり木は道具立てでもあるし、バイアスでもある。しかし、そもそもいないものが止まることはない。

 まずはデータを手繰り寄せなければならない。意味の織目を読み解く視点は記録にあるのではない。記録を形にした僕自身の経験の中にある。記録を付けることで僕自身の中に織り込められたものがある。

 彼が語るセンターは現在のセンターではないし、現在の彼にとってセンターは労働市場としてのセンターではなくなっている。しかし、彼自身にとって、センターはその頃から変わらないセンターであるはず。正確にいえばセンターができる以前から通い続けている固有の場所として意味を持っているはずだ。

 このような経験の意味を、僕たちは自分たちにとっても当たり前な経験の地平でとらえ直しつつ理解しなければならない。相手を理解するためには、自明視したまま理解できていない自分自身について理解しなければならない。

 そのようなここの経験によって総体としてのセンターの利用が可能になっているとすればどうだろうか。センターとはそのような場所であるという総意が合意なく成立する力学があるのかもしれない。

 そのような力学を感じさせるにはどんな補助線をどんな順序で引いていけばいいのか。

 空間という言葉は、時に相反する意味を込められて、意味が取りづらくなっているように思う。ルフェーヴルはあくまで「空間」という言葉で空間を語るけど、「空間的実践」でとらえようとしているのは「場所」の固有性であるように思う。

 しかし、セルトーが「固有の場所」という時、それは空間の管理の仕方を表すものとして否定的に語られる。

 ベルクソンは空間を語っているわけではないが、実在を空間的に把握しようとする試みを批判し、持続においてとらえる必要性を唱える。

 ルフェーヴルの空間的実践、セルトーの日常的実践、ベルクソンの持続は問題関心を共有しているように思えるのだが、空間という言葉の扱い方は三者三様に異なる。

 そういえばデューイはベルクソンを批判的に語る。ベルクソンはジェイムズにシンパシーを感じているようだし、ベルクソンとプラグマティズムは親和的に思えるのだが。

 ハーヴェイの空間論がハイデガーに依拠していることをマッシーが批判的に書いているが、あれも何なんだろう。ハイデガーと空間がどう関係するのか、まだよくわからない。

 もう読まない本は処分してしまうか。1. もう読まない本、2. 買ったけど、たぶん読まない本、3. 読んだら処分してもいい本──みたいな感じで整理していくとやりやすいかもしれない。

まずはじめに、あつかう領野をはっきりさせるために、空間と場所の区別をつけておきたい。場所というのは、もろもろの要素が並列的に配置されている秩序(秩序のいかんをとわず)のことである。したがってここでは、二つのものが同一の位置を占める可能性はありえないことになる。(セルトー 前掲: 242)
要するに、空間とは実践された場所のことである。たとえば都市計画によって幾何学的にできあがった都市は、そこを歩く者たちによって空間に転換させられてしまう。同じように、読むという行為も、記号のシステムがつくりだした場所──書かれたもの──を実践化することによって空間をうみだすのである。

 空間との対比としてここで語っている場所と「固有の場所」という時の場所とは意味がずれているような……。

2020年1月10日(金)

 木を隠すには森の中か。

 いったん電車に乗ってしまうと、何をしていてもいいようで、すでに到着時間を意識して縛られてしまうんだな。

 空間、時間、記憶。場、記憶、カイロス、効果。

 その場において記憶によって引き起こされる効果を労働者は知っている?

 一番星を見つけた。

2020年1月9日(木)

 病み上がりで授業。木金の連続がやばい。

 「センターの機能」などというときに、一枚岩の労働者像がイメージされる。一人の人間が働き、歳をとり、引退していく姿。しかし、実際にはさまざまなライフステージにある人びとが同時に利用しているし、その利用の仕方はさまざまであるはずだ。そのような人びとが必要とする場所としての「センターの機能」をとらえるには、別の想像の仕方が必要となる。

 センターで労働者は社会を作っているんじゃないか? 何気ないやりとり。しかし、それがそこで行われることは実は何気なくはないのではないだろうか。そうした兆しを僕はもっと見つけられるのではないだろうか。

 長く話し込める時とそうでない時との違いは何か。何が影響を与える要因なのか。

2020年1月8日(水)

 体力が無くなっている。それでもタバコが吸いたい。

 夕食前にスリップ。数日ぶりだけど特においしくはなかった。

 月明かりが明るかった。

2020年1月7日(火)

 病み上がりしんどい。

 なんかつかみきれてないな。「衝動の影」とは、つまり、影というのはどんなものにでもかかるものなので、そこにそれ以上の因果関係を見出しても、錯覚に過ぎないということだ。

 しんどいから自転車でなく電車で行こうとしているのに、間に合うように駅まで走ってたら意味ない。

2020年1月6日(月)

 病み上がり。しんどい。

 年末の疲れが全部出たって感じなんだろうな。

 タバコを吸いたくなる動機と思っているものと、実際にタバコを吸いたい欲求は無関係で、しかし付きまとって因果関係を印象付けるがゆえに「タバコは衝動の影のようなものである」と昨日は言いたかったんだな。

 おそらく、タバコを吸う理由はなんでもいいし、理由がなくたって吸いたくなるものなのだろう。人間はとかく動機付けをしたがる生き物だから、タバコを吸うことにも理由を求めてしまい、常にその影をつきまとわせるようになってしまう。

 衝動の影だというなら、日が射している時にこそ、影は濃くなるわけだから、日差しは何を意味するのか。何もなければ影はできない。人の意識そのものが日差しで、衝動というか、感情のしこりに対して影を落とすのか。

2020年1月5日(日)

 虚しい。タバコ吸いたい。

 タバコを吸いたいわけではない。虚しいだけなんだ。虚しさはどうにもならない。

 しかし、それだと、プラスにもマイナスにもならないのならタバコくらい吸ってもよかろうという結論にたどり着いてしまう。

 虚しさとは関係ないところでタバコという別の虚しさと戦わなければならないというだけの話。虚しさを受け入れるしかないわけだ。

 病み上がりで虚しさを払い除ける体力がないということもあるだろうし。

 病み上がりでふらふらしながら試験問題を作る。タバコを買いに行きたい誘惑を何度となく退ける。タバコは遠くに伸びた影をつかもうとするようなもの。決してつかめはしないし、つかめたところでなんの意味もない。

 執着なんだな。いろいろ考えてスリップを避けようとする。しかしまあ厳しいな。

2020年1月4日(土)

 ようやく治りかけてきた。タバコに逃げそうになるのを逃げ切った。

 ただでさえ体調悪いのにタバコを吸おうという考えがおかしいし、健康な時であってもタバコはプラスにもマイナスにもならない。体調の変化を引き起こすだけの代物だということを、その都度思い出し、買いに出るのを忘れようとする繰り返し。

2020年1月3日(金)

 しんどい。全然治らない。

2020年1月2日(木)

 しんどくて眠れない。

2020年1月1日(水)

 日付の辞書登録をやり直さなければいかんな。

経済的・空間的排除が進む中で、ストリートとは社会闘争および抵抗の写し鏡であるといえる。ストリートの人類学は、そうしたプロセス、とりわけ個々人がどのように排除に反応しベンヤミンのいう意味での私的空間と公的空間の間の「敷居」のような空間を占拠しているかを明らかにするものである。(ザルツブルン 2018: 159)

 敷居というのはベンヤミンの言葉らしい。

 序章にも書いてあった。

 初詣行った。疲れた。

 ふつうに横暴な物言いで笑う。

 風邪ひいた。もうどうとでもしてくれ。

 タバコ。12/26にスリップ、28と30にショートホープを一箱ずつ買い、1/1の夕方には残り一本に。ダメージを受けた後、車でコンビニまで買いに行くも、しばらく悩んで、ここでやめることにした。出かける時は吸いたいし、吸わずにおれない気持ちだったが、コンビニの駐車場では気持ち悪くなっていた。残り一本だけでも吸って新しいのは買わずに帰ろうかとも考えたが、そういうことをしても夜に数本は吸ってしまうだろう。やめるなら、残った一本と吸い殻入れをコンビニのゴミ箱に捨てて帰るしかないだろうと考える。

 ここでやめてもまたしばらくするとスリップしてしまうかもしれないが、タバコが美味しいのはスリップしたての数本だし 、依存症に完治はないのだから、次スリップすればまたあの美味しいタバコが吸えるぞと考えて、残り一本を捨てて帰ることにした。


モニカ・ザルツブルン、2018「パリと東京のストリートにおける共同性(コモナリティ)──アート・音楽・都市菜園によるストリートの流用」(関根康正編 2018)

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