過去ログ
2021年1月


2021年1月31日(日)

 考えないといけないことは山ほどある。

 調査の部分、活動の部分、プライベートな部分、それぞれが調和する道はあるのか。完全に独立して成り立つことはないだろう。

 研究の部分でも、アウトプットのあり方をいくつか切り分ける必要があるだろうか。

 何か、書けるところから、書ける形で書いていけないものだろうか。もともとそうやって、常に文章の形を模索して、積み上げてきたのではなかったか。

 いくつかのテーマを同時並行に渉猟して理解を進めていかないと、いつまで経っても解決が見えない気がする。単線的な積み上げではゴールに向かえない。

 コミュニティ論の批判的な理解と都市のコモンズ論、場所を分析していくための視点としてのゴフマン理解、フィールドワークの主体を問うための自己論(それは運動の主体を関連づけるためのものでもあるのかもしれない)。あと、それとは別に労働過程論と労働市場の議論、グローバリゼーションとか?

 認識論的なところも気になる。物語を物語として認識できるのはなぜなのか。エピソードをエピソードとして理解できるのはなぜなのか。エスノグラフィーが可能になる条件。

■片桐雅隆『不安定な自己の社会学――個人化のゆくえ』(ミネルヴァ書房、2017年) #1

 「第1章 個人化と社会の消失」。社会とは何かというのはわりと重要な問いなのかもしれない。自分が問題としようとしている社会とは何を指していて、それがどのようにして成り立つものなのか、その維持と変容は何によってもたらされるのか。そういう根本的なところから論を組み立てていく必要がある。

2021年1月30日(土)

 これまでとは別の根本的なところでの虚しさ。こんな虚しさを認めていいのか。

 気持ちを割り切るところまで含めてフィールドワークか。それなら結局これは野宿者支援のフィールドワークであったということなのか。

 所詮どこまで行っても部外者でしかないフィールドワーカーでも、相互行為を通して状況の分析をすることはできる。

 どこまで射程に入れなければならないのか。どこまで深く潜らなければならないのか。

 5年前の映像を見たから。僕が関わっていない過去の記録。今につながる僕を知らない僕が知っている人たちの姿。

 この5年間がただの調査でしかなかったことを、どうやって受け入れられるのか。

 浮き沈み激し過ぎだろう。一週間おきに浮かんだり沈んだりしてる。まともな精神状態じゃない。あまり振り回されず様子を見よう。

 というか、短いスパンでいろんなことが起きすぎ、展開しすぎなんだよ。気持ちも頭もついていかないよ。心が追いつかないよ。

■Burawoy, M., 1979=1982, Manufacturing Consent: Changes in the Labour Process under Monopoly Capitalism, The University of Chicago Press, Chicago. #3

 謝辞わかりにくい。

2021年1月29日(金)

■Burawoy, M., 1979=1982, Manufacturing Consent: Changes in the Labour Process under Monopoly Capitalism, The University of Chicago Press, Chicago. #2

 なんか読めてきた。

■ロナルド・ドーア『イギリスの工場・日本の工場(上)――労使関係の比較社会学』(ちくま学芸文庫、1993年) #3

 止め処なく続く事実関係の記述。苦痛……。

 ああ、そうか。この本は結局、労使関係の本なのか。労働者の構成とか、技能育成、賃金、労働組合のあり方など、概略的にとらえてイギリスの工場と日本の工場の労使関係の差異を明らかにするという本だな。労働過程における労働者のモチベーションをどうこうという本ではない。

2021年1月28日(木)

 目が覚めて絶望的な気持ち。

 月曜日の朝にデイヴィッドのメールを2年ぶりに読んだのがゆううつのはじまりだった。わかってしまえば単純な話。気持ちの整理が必要だ。

■Burawoy, M., 1979=1982, Manufacturing Consent: Changes in the Labour Process under Monopoly Capitalism, The University of Chicago Press, Chicago. #1

 会社に忠誠心を持っているわけでもないのに、平静を失うほど腹を立てながら、労働者はなぜ会社の利益のために働いてしまうのかを問うているのか[xi]。めちゃくちゃ面白い本なのでは……。

■ロナルド・ドーア『イギリスの工場・日本の工場(上)――労使関係の比較社会学』(ちくま学芸文庫、1993年) #2

 こっちもがんばって読んでいこう。

 なんかところどころ意味のわからない記述がある。「かつて工場は、徒弟工の進捗の様子を親に報告していた。しかし、徒弟と結婚して自分たちこそが最近親者だと言い出す奥さんがでてきたために、それはとりやめになった」[99]とはどういうことか。

 こんなの全部読む必要ないな。前半は斜め読みでいいはず。しかし、斜め読みのコツがつかめない。

 読み飛ばすにはもったいない気もするが、一気に集中して読み流す視点が今ひとつつかめない。なんかすっきりしないな。

 日本と外国の労働者の違いを論じたものとして、手っ取り早いと思ったんだよな。しかし、その違いというのは多方面にわたり、重層的に広がっているので、網羅的な記述にならざるを得ない。

 その上で、記述のポイントは何かというところかなあ。両者を明確に切り分ける視点がどこに向けられているのか。特にモチベーションやモラールを論じるところで。

 デイヴィッドは日本の文化的特殊性が引っかかるようだし、この辺りをうまく位置付けるための枠組みが必要となる。

2021年1月27日(水)

 ズタボロな精神状態だったのに、記録にはあまり現れていない。

 本読んで寝る予定だったのに全部持ってかれた。

 あーあ。

2021年1月26日(火)

 「センターの日」。

 一体どんな意味があるというのか。理論に現実を従わせたりしない。

 わけもなく不安になってきた。わけもないわけでは無いだろうが。

■ロナルド・ドーア『イギリスの工場・日本の工場(上)――労使関係の比較社会学』(ちくま学芸文庫、1993年) #1

もっとも、こうした嫌悪感を覚えたのはシステムの潤滑油として偽善をより多用している日本でのほうが多かったように思われる。[10]

2021年1月25日(月)

 仕事したくないなー。

 朝読んだデイヴィッドのメールのせいだな。

 少しずつでも進めていかないとなー……。

2021年1月24日(日)

 更新し忘れた。

 ああ、ようやく幸せな気持ちになれた。これからだ。

 幸せになりたいな。

2021年1月22日(金)

 ようやく戻ってこれた。

 でも、多分、戻ってきたのではないな。

 少しずつでいい。

2021年1月21日(木)

 気持ちを新たに。

 『エピファニーの社会学』どうしてこんなに面白くないのだろう。

 解釈学的研究の基礎文献で、今となっては内容が古いのかな。

 「エピファニー」が何かという説明がないような……。

 何か形にしていくための工夫を考えるべきだな。

2021年1月20日(水)

 ようやく一つの答えが出た。

 かっこ悪い。

2021年1月19日(火)

 心の中のたった一つのわだかまり。これが解ければもう何も恐れるものなど無くなるのに。

 そんなもの、乗り越えることでしか解消できない。乗り越えてしまえば問題にならない。それなら、僕にできることをやればいい。一緒に解決してしまえばいいんだ。

 ふふ、朝考えていたことが夜にはもう違っている。朝令暮改もいいところだ。

 力を集中させるのではなく、分散させながら受け止めるような姿勢が求められるのかな。

 違った。

2021年1月18日(月)

 衝動に振り回されたような気もしたが、今が必然だったと言えなくはない。偶発的な出来事か、衝動的な行動がなければ、きっかけを作ることはできなかっただろう。今は待つしかない。

 最悪のシナリオも想定しておくべきだ。その上でできることを用意しておく。まだまだたくさんの誤解があるのかもしれない。それなら、その誤解を解いていくことが、これからすべきこと。

 本当にどうなんの……。

2021年1月17日(日)

 大迷走。昨日思ったことが今日にはもう意味がなくなっている。

 データをまとめていたらスッキリした。というか、昨日の「センターの日」はすごかったな。すごかった。

 乗り越えて、変えていけるだろうか。

2021年1月16日(土)

 これから僕はすべての執着を一つひとつ捨てていかなければならない。

 捨てたうえで全体を見渡し、読み解ける視点を身につけなければならない。

 そこに立つことがどんな気持ちなのかを知るのが怖い。恐れながら、間違わないように慎重に、そこへ近づいていかなければならない。

2021年1月15日(金)

 モヤモヤすることには意味がある。モヤモヤした気持ちになるということはそこに意味があるということ。モヤモヤするならいくらでも考えることがある。モヤモヤするのは共通理解が成り立っていないということ。そこにはどんな欠落があるのか。そういう視点でその気持ちに向き合えばいい。

 すぐにモヤモヤするのは僕の弱さであり、しかし、モヤモヤを理解に繋げられれば、それは僕の強さになる。

 むなしい。一つひとつ整理されていく先に白けた思いが待っているとしたら。

 今、ようやく過去が覚めて見える。こんな覚めた目で見るためにこんな苦労を? 仲間を一人で覚めた目で見るために?

 それなら、このフィールドワークはやはり野宿者運動そのものを解体するためのものなのか。

 このデータ何に使えるんだ?

2021年1月14日(木)

 距離感がつかめなくなっている。ものすごく近いところもあれば、ほとんど交わることすらないところもある。だから、僕は正しい判断が下せなくなっている。

 準拠点がないなら作ればいい。

 場を整理させる仕掛け。そのためのコスト。人が仕掛けに合わせている部分。

 ようやく道が見えた。

2021年1月13日(水)

 天と水を縫い合わせることが、難しくとも僕の歩む道なのかもしれないなあ。

 つらくてもその道しかないのだと思えば、歩めないことに価値はない。

 泣き言を言うんじゃない。

 僕が心得ておくべきこと。ちゃんと相手に向き合っているのか。それだけを振り返り立ち返り確かめることが、常に必要なのかもしれない。

 驕慢に陥らないこと。

 なんか、全然そんな話じゃないな。

2021年1月12日(火)

 結構な疲れがたまっていたみたいだ。

 最後の最後で下手を打った。アホだなあ……。

 僕がバカだった。ちゃんと伝えてしまった方がいい。

 本当にダメだなあ。

 相手の身になって考える。そんな当たり前のことがなぜ出来ないのか。

 かっこつけている。

 いつもちゃんと考えられるように。

2021年1月11日(月)

 相変わらず苦しい。

 伝わっているのか伝わっていないのかすらわからない。

 こんなふうに躱されていたら意味がない。

 何とか乗り越えた。あるのは越える道だけだ……。

 何とかつなぐことができたのだろうか。

2021年1月10日(日)

 何もなしにある日いきなり力になることなど出来ない。

 今すぐでなくていい。僕を助けて欲しい。力になれないのはつらい。

 今何を話してもきちんとした言葉にはならない。これから少しずつ伝わるようにしていくことはできる。でも、今からでもそうしていかなければ、これまでのこともこれからのことも、伝えられないことが増えていく。

 みんな心配している。その責任の一端は僕にある。僕はもう大丈夫だから、我慢するのはやめて欲しい。我慢なんてしなくていい。我慢するしかないと思っているから我慢しなきゃならなくなっているだけなのだから、我慢なんてやめてしまえばいい。

 可能性も、その可能性にかける力も、一人では生まれて来ない。僕たちならそのどちらも増やしていける。

 下手を打ったか。

 考えすぎだった。あー、もう、落ち着かないな。

 今はまだ、こういう形で待つことが必要なのだろうか。

2021年1月9日(土)

 胸が張り裂けそう。だけど、今が踏ん張りどころ。

2021年1月8日(金)

 やっと話をしようってところまで来れた。

 一緒に答えを探したい。見つけ出す答えは違っても構わない。

2021年1月7日(木)

■アルフォンソ・リンギス『何も共有していない者たちの共同体』(2006年、洛北出版) #8

私が、私のための可能性として見いだすものは、他者が、私のために残してくれた可能性なのである。そこには、彼らが実現し、私以外の人でも実現できるような可能性のみならず、彼らが自分の力を実現しつつも現実化できなかった、彼らだけの可能性も含まれている。[214]

 読み終わった。

2021年1月6日(水)

 びっくりするほど飲みすぎた。酒の飲み方も飲む酒も変わったからだな。やばい。

 何だろう。頼りにして欲しい。必要として欲しい。何より僕が必要としている。

 取り戻したい。そのためになら何だってするし、そうしてきたのだから。

■アルフォンソ・リンギス『何も共有していない者たちの共同体』(2006年、洛北出版) #7

 やはりこの章は意味がわからない。読み進んでいけばいいのかも。

未開人とは露出した肉体であり、裸体で熱帯雨林やサバンナへと進みゆく力において、不屈で誇り高い。[177]
獣のような体のなかにえる腐敗した精神、と認定された者は、ただたんに、確立された言明の集合体が同定し認識する対象から除外された存在であるだけでない。その存在は真理を確立させる制度から拷問を受けるのである。[179]
拷問は、たんに拷問を加える人間と囚われている人間とのあいだの意志の逃走ではないからだ。それは、汚らしい構成員と組織機関のなかで、人間の意志を不能の獰猛さに還元することができる技術で武装しているのである。

 いきなり面白くなったな。面白かった。

 「死の共同体」[193]

合意が構想され、形成された後に、両者を結びつける握手のなかで、合意とは何か別のものが伝達される。[195]

 

2021年1月5日(火)

■E.ゴッフマン『出会い――相互行為の社会学』(誠信書房、1985年) #2

 「出会いのダイナミックス」[24]

われわれはプレーに勝つことができるのはプレィヤーとしてであるが、この勝利から面白さを楽しむことができるのは参加者としてだけであるということに注目すべきである。[28]

 「二、自発的関与」[28]と、気付いたら新しい概念が次々と展開されている。

■Swider, Sarah., 2015, "Building Chima: precarious employment among migrant construction workers," Works, employment and society, Vol. 29(1): 41-59. #7

 Indivisualized Employmentが存在形態としては寄せ場労働者に近いけど、Embedded Employmentとの間でグラデーションがあるのかな。

2021年1月4日(月)

■Swider, Sarah., 2015, "Building Chima: precarious employment among migrant construction workers," Works, employment and society, Vol. 29(1): 41-59. #6

 Indivisualized Employmentの方が寄せ場に近いのかな。路上求人という意味で。

■アルフォンソ・リンギス『何も共有していない者たちの共同体』(2006年、洛北出版) #6

 「腐肉の身体・腐肉の発話」[171]

 ダメだ、今読みたい気分じゃない。

 無理やり何かしたところで着想を得たり、深めたりする作業にはつながらない。多分そういう作業は気持ちもそうだし、外的な条件もうまくはまった時に可能になるもので、作り出そうと思って作れるものではない。できるのは常にそのタイミングを見逃さないことと捕まえられる準備をしておくことか。

 気持ちが乗らない時でも、それ以外の、知識や情報を増やすための読書はできるかなあ。

2021年1月3日(日)

■Swider, Sarah., 2015, "Building Chima: precarious employment among migrant construction workers," Works, employment and society, Vol. 29(1): 41-59. #5

 仲間意識と怠け者の排除。

2021年1月2日(土)

■E.ゴッフマン『出会い――相互行為の社会学』(誠信書房、1985年) #1

 これは他の本とどう違うのか。『集まりの構造』でも「焦点の定まった集まり」みたいな言葉は出てきていたような。

 「焦点の定まった相互作用」か。『出会い』の方が出版年は早い。

 抑制された自己呈示が出会い? ゲームの比喩をふまえるなら、むしろ自己呈示せずに相互行為を遂行するためのルールや秩序に光を当てようとしている?

 先に解説を読んでみる。なるほど、確かにゴフマンは自己論なのか。

 なぜ見えなくなっていたのだろう。いや、結局のところ、僕の研究にはリンギスが認知について言っていたノイズが必要だということか。ノイズがなければ何も見えてこない。見るべきものや、分析視角が何なのか、分かってはいるものの、それはノイズを地としなければとらえようがないものなのか。

■Swider, Sarah., 2015, "Building Chima: precarious employment among migrant construction workers," Works, employment and society, Vol. 29(1): 41-59. #4

 中国(北京)にも寄せ場みたいな場所があるんだな。mediated employmentが出稼ぎ労働者の飯場だとすれば、embedded employmentは寄せ場に近い。

 一年も経ってあんなものを読み直させられて大変不愉快。

2021年1月1日(金)

■Swider, Sarah., 2015, "Building Chima: precarious employment among migrant construction workers," Works, employment and society, Vol. 29(1): 41-59. #3

 なるほど、スケールは全然違うけど、僕のあの論文に似ているな。

 国境を越える移住システムではないが、地域性につけ込んだリクルートのシステムがあるんだ。

■アルフォンソ・リンギス『何も共有していない者たちの共同体』(2006年、洛北出版) #5

 「世界のざわめき」[97]

コミュニケーションとは、干渉と混乱にたいする闘いである。[100]

 いい加減、もう少し飛躍させないと何も始まらない。

 マクロな構図とミクロな相互行為。これらが交差する状況をつかまえ、描き出さないといけない。マクロな構図はいくつかある。ミクロな相互行為の場面も散りばめられている。これらの場面をどう使うかは戦略的に考えないといけない。そして、これらの場面のうち、どれをどのような構図に関連付け、意味を浮き上がらせるかを選ばなければいけない。

 ジェントリフィケーションを切り口にするのが一番入りやすいのかもしれない。それは結局これまでその路線に乗せてきたという意味で。蓄積となる基盤が既にあるということ。

読むということは、実質を――紙やコンピュータ・スクリーンの色と手触りを――気化させ、書かれている物を、物の物質的配置から切り離された空間のなかで、幻影のパターンとして見るという、特異なものの見方なのである。[107-108]
今、発音するとき、ちょっと前に発音したときと同じ意味をもつと考えられる言葉をもつということは、すでに、音のパターンを非物質化し、発声を記号表現すなわち語に非物質化したということである。[108]

 とても面白いけど、こういうことはリンギスでなくても言っていることなのだろう。ある程度の思考の型はパターン化されているから、何を基礎とするかのバリエーションはあるものの、基礎としてどれかを習得しておけば、あとは応用が効くものなのかもしれない。

互いに相手に向けて送りだされる信号である私たちの言葉が指示されるものをもつのは、物が私たちに向けて信号を送っているか、少なくとも広く一般に向けて信号を送り出しているからである。[109-110]

 閉鎖前と閉鎖後のセンターを対比する構成はありなのか。そもそも「センターの日」が置かれる状況が異なる。閉鎖前を濾過するために閉鎖後を持ってくるのはありなのかもしれない。あるいは、そこに路上を持ってきて、さらにフィルターをかける。夜回りと寄り合いとを掛け合わせるか。

経験主義者とは、一人の人間から別の人間へ、一点のあいまいさもない一つの情報を伝えようとするあらゆる努力に、くちばしを挟んでくる干渉の悪魔である。[115]
誰かに話しかけるということは、たんに、情報源にたいして話しかけることではない。それは、応えてくれる人、自分の応答に責任をもつ人に話しかけることである。[119]
言語は、限られた数の語と文法構造で、今までに起こったことがない出来事を表現し、今までに語られたことがない文を語ることが可能な、驚くべき力なのである。[121]
何かを語ることに成功する新しい文はすべて、すでに言語に存在している文のパラダイムを首尾一貫して変形することによって成功するのだと、メルロ=ポンティは述べている。[121]
情報を伝達する表現の動因としての私たちは、交換可能な存在である。しかし、私たちにの唯一性と無限の識別可能性は、私たちの叫び、つぶやき、笑い、涙、つまり命の雑音のなかに見いだされ、耳にすることができるのである。[124]

 一つひとつのことに執着するのではなく、気の向いた方に脱線してしまった方がいいのか。そういう指向をどうやって定着させたらいいのか。

 本を読むなら、せめて一章分は読み切れるくらいの時間が確保できる時にしたい。

 「対面する根源的なもの」[139]

合理的な共同体てまは、この逆の状況が通常である。すなわち、語られる内容の方が本質的で、語るということは非本質的であり、また、絶対に必要なのは、誰が語るにしても、人がこのことを語るということなのである。[144]

 「センターの日」で語ることを炊き出しの列で語ったりはしないだろう。フィールドツアーの若い女の子に語ることはあるかもしれない。しかし、それは「センターの日」におけるそれとはまた違うはず。だがしかし、それは「センターの日」だからであって、センターであることとイコールというわけでもない。

さらに人は、そうした理由に対する理由、つまり、法則が導きだされる理論と実用的な原則が導きだされる原理とを提供しようとする。[145]

 これは最初のあたりの章で出てきた話か。

 ああ、こういう文章を何度も読み直してもいいのかもしれない。アイデアの源泉、思考を整理する道筋を見せてくれるものとして。

 これは、社会学にするなら、どの辺で展開されているのだろうか。認知枠組みを問題としているという意味では、いろいろある気はするが、それらは方法レベルの話であって、目的地を持っているわけではない。道具の造りは精緻にするくせに、目的地へたどり着くことは疎かになる。目的地へたどり着くことを重視すれば、道具の完成度より、ありあわせの道具を応用することを考えねばならない。

 目的として確立された分野はないように思える。

 もしかして、それがゴフマンでは不十分なのだとすれば、ゴフマンを理解した上で、その先に新たな文哉を切り拓かなければならないことになる。

他者を知覚力を有した別の人間とみなすことは、他者の姿勢と動作が、彼の周りの道具と障害物に向けられているのを見ることである。他者を見ることは、他者が占めている場所を、私が占めうる場所として、そして他者の周りにある物を、私の技能と自発性に開かれる可能性をもった物として、見ることである。それは他者を、私と同様の人間、私と同等の、お互いに交代可能な人間とみなすことである。[163-164]

 『抵抗する都市』の最後の章が思い出される。「ターンブルの技芸」ってあったな。

■片桐雅隆『認知社会学の構想――カテゴリー・自己・社会』(世界思想社、2006年) #1

 「社会学ではどの辺で」といって思い出されたので、とりあえず引っ張り出してきた。

 「集団」や「組織」のリアリティが揺らいできたから「カテゴリー化」の社会学という展開の仕方でいいのか。

 認知を明らかにする社会学なのか、認知で社会を明らかにする社会学なのかがよくわからない。理論的に整理して構想を示す意義はあるのかもしれないけど、これを使って何ができるのか。

 初めて読んだ時と同じようなところで引っかかる。あと、これゴフマンは出てこないんだな。

 目的地。何か理論的に共有可能なスケールの目的地があった上で、そこにたどり着くために不可欠な共通のツールを用意するという話ならわかりやすい。しかし、目的地を、個人的にでも想定しないで枠組みだけを精緻化するのは、問題解決をややこしくするだけのように思えてしまう。

 『不安定な自己の社会学』が続編に当たるようだ(だから買ってあるんだな)。

 移動時間中に本なんか読めないよなー。読める本と読めない本がある。というか、アイデアをふくらませるための読書はできない。すでにあるアイデアについて確認するためだけの読書はできるかもしれない(しかし、それは読書とは言わないだろう)。

 割り切って時を待つことも必要なのか。割り切って時を待てるようになるべきなのか。

 『約束のネバーランド』面白いけど、陰謀論に染まるのと紙一重な怖さを感じる。

 僕はよく力が欲しいと思うが、その力とはこうやって自分の力をふくらませていけること、そのもののことを指しているんだな。正確にいえば、力のふくらませ方を求めている。力があることを疑ってはいない。

 リンギス、一つ目の解説を先に読んだ。面白い。身体性と考えていたところを動物ととらえた方がより深く理解できるのかもしれない。こないだの訳書もここにつながっているのか?

 他人のことより自分のことを第一に考えればいいんじゃないか。わがままに、自分勝手に。そうすれば他人のことは後からついて来るだろう(そう思えれば無敵だろうけど)。

 そうか。そこで驕慢は害を招くのかもしれない。でも、それならそれは自制の問題であって、方向はまちがっていないことになる。

 恐れか。僕が勝手に自分でカバーをかけてしまっていることがある。数枚剥がせば何ということもないことを、見えなくしてしまっている。

 そうか、僕は自分の力を信じていない。存分に発揮もしないうちにブレーキをかけてしまっている。コントロールの仕方、発揮の仕方を探りながら、可能性を知っていく必要がある。僕が抱いている恐れなど、誰に対する恐れでもない。

 信頼が最大の武器なのか。愚かさだけがコントロールできない究極の切り札になる。

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