2019年12月31日(火)
引き続き『ストリート人類学』の本文に入っていく。一章はギルさんの福島の話。
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それをストリート・ウィズダムって言っていいのか。ストリート・ウィズダムって、序章で出ていたかな?
序章では出ていないけど、索引を見ると、後半の別の章でも使われているようだ。しかし、キータームの定義が曖昧なまま用いられるというのはどうなのか。「メジャー・ストリートに対するマイナー・ストリートの知恵」というのは、単に「制度的・構造的なもの」に対する「行為と意味づけ」だというなら、あまり定義として意味がない。
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「ストリートの人類学」というわりに、二章も場所としてストリートが設定されているわけではない。分析視角ですらないなら、わざわざ言う意味があるのかな。
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飯嶋さんの章短い。これを本全体の議論に回収されても、説得力を感じられるかどうか。「関与観察」という言葉が使われている点は気になる。
ネオリベ的ストリート化というのも何のことかよくわからないけど、すでに言われているようなことを自分が考えた言葉に置き換えているだけなら意味がない。
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飯島さんの二章は、一緒に取り組みをしている田嶌さんの三章とセットなのか。「不本意集団」という概念は面白い。
しかし、構造的背景とその接点を設定せずに個別事例を並べていくだけでは、どこにもたどり着けないように思う。少なくともここまでの時点では。
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三章では最後にストリート・チルドレンに触れられているが、被害/加害の連鎖と言う意味での関連が語られているに過ぎないようだ。
四章でようやく海外の事例。
これで全体の締め括りの議論がどうなるのか。
序章における位置付けを見ると、〈起〉の部分は、「私たちが生きる近代システムの負の犠牲者、つまりホームからストリートに投げ出されている人々」の事例ということのようだ。この現象を「ネオリベ・ストリート化」という言葉で言い換えている。「単に犠牲者救済の立場ではなく、真摯に当事者として対峙することが求められている」(関根編 2018: 27)。
統一テーマを設定した一冊の本としてまとめられている以上、読み進めていくうちに読者の理解が深まっていく構成であって欲しいと思う。
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「ストレート人類学」といっても、ストリートという場所性に依拠した議論ではないのかな。
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根本の四章における佐々井の事例はわからなくもないが、佐々井を中心としてその思想や実践だけを事例に語られても、もう一つ、そのインパクトがわからない。どのような人たちがどのように救われているのかを抜きにして、佐々井による当事者性の実践だけを紹介されても、よくわからない。
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五章で理論。
限りのない目覚めを強いる「24/7」の世界は、〈ある〉が全面化するアンデッドの社会であり、あるいは社会のアンデッドである。(近森 2018: 119)
ようやくストリートっぽい話になったな……。
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この本で言っている「敷居」というのは、「往路」から「復路」へ折り返す転換点のことなのかな。
近森高明、2018「ゾンビ化するストリートの存在論──ベンヤミン、コールハース、そしてレヴィナス」(関根康正編 2018)
2019年12月30日(月)
アプリの天気予報当たらなさすぎる。
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『Landreaall』面白かった。続き読みたいけど、最初からまた読み直したい。全巻そろえたら楽しそうだけど、30巻以上あるとなると。
ああ、むなしい。やる気が出ない。何が何やらわからない。
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敷居を通過し生き延びるには、つまりそこを通過して前に進むためには、他者の力を受け取る協働という実践以外にできることはないことを知ることになる。これこそが、自己の力にこだわる自分を放棄した後の事態であり、そこに敷居の不思議な過程がある。すなわち、そこで、人は自己努力の往路から他者との協働の復路に転換(折り返し)を始めるのである。(関根編 2018: 20)
たとえばこの本で扱われている事例を敷衍しながら、自分のデータを扱う分析枠組みと位置付けを見出すこともできるだろうか。
日本の野宿者の生活だけを見ていてはとらえられないものを戦略的に比較の視点から持ってくることはできそうな気がする。
関根康正編、2018『ストリート人類学──方法と理論の実践的展開』風響社。
2019年12月29日(日)
信じて貫いていけば、それなりに力が備わるだろうか。
2019年12月28日(土)
更新忘れた。
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あー、疲れたな。何でだろう。
たぶんプレゼン失敗したからかな。何というか、気が緩んでいた?
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いずれにせよ前に進むことしかできない。
道を求めざる者に道は見出せないだろう。
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もう少し気を回せてもいいんじゃないか。
違和感か。違和感をもっと上手く探索の徴に使えるのか?
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泳がされているのかな?
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僕はこういう機微がわかっていないな。
2019年12月26日(木)
生きづらさとはこういうものだろうか。
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がんじがらめのまま、前に進むことしかできない。
2019年12月25日(水)
月曜日は少し休んでたけど、それでも日曜日に飲み過ぎた疲労は回復していなかったようだ。飲み過ぎというか、飲み過ぎてしまうことも含めて精神的な疲労なんだろうけど。
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「知のあり方」云々も含めて、位置付ければ納得するのだろうか。そこに寄生しなければならない理由は何だろう。寄生すること自体も戦略なのか。いや、戦術? それが戦術なのだとすれば、やっていることはそうした生き方であり、それが日常的実践へとどう織り込まれているのかを意識しつつ何を目指すのかというところだ。
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戦略的な知のあり方と戦術的な知のあり方とで、どちらが知的に優れているということはないはずだ。それぞれ考え方、想像の仕方の違いであって、一般的に「戦略は戦術より優位にある」というとらえ方をされるとしても、それぞれを採用する主体の能力に違いがあるわけではない(もちろん、戦略家と戦術家があるように、どちらを得意にするかという個別の特性はあるだろう)。
戦略は「固有の場所」から全体を見下ろせることを前提として構想されるから、その蓋然性と実行力の程度によっては絶大な力を持つ。しかし、その蓋然性とは、程度の問題であって、100%はありえない。ありえないが、100%と見なして強引に支配を行き渡らせるのが戦略というものだろう。
もしかすると、公共領域の民営化や、まちづくり型の地域活性化戦略というのは、戦略の中にも場当たり的な対応を紛れ込ませるための戦略なのかもしれない。すなわち、戦略のなかに擬似的な戦術を忍び込ませるものといえるのではないか。
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戦略と戦術を対立的なものとして位置付けること自体に少し違和感がある。戦略は支配者の武器で、戦術は民衆の武器のように語られがちだが、戦略的な発想のみ、戦術的な発想のみで生きている人なんていないんじゃないか。戦略と戦術は状況に応じて使い分けられるものだし、そうした発想がどちらかに許され、どちらかに許されないというものでもない(もちろん、それらを実行に移す際の資源の分配には違いがある)。
問題は、戦略と戦術を使い分ける際の態度、生き方の違いにあるんじゃないだろうか。〈戦略〉的な発想、生き方を前提として戦略と戦術を使い分けることと、〈戦術〉的な発想、生き方を前提として戦略と戦術を使い分けることとの違いだ。
目の前で困っている人に手を差し伸べることを考えるのか、目の前で困っている人より、将来的に百人が助かることを目指すのか。
もっとも、これらはどちらが正解かであるかの優劣を一義的に決めてしまえるものではないし、それこそ使い分けられるものなのかもしれない。こういうと議論は堂々めぐりしてしまう。しかし、目の前で困っている人に手を差し伸べることを前提にしなければ、将来的に百人が助かることを目指すことは発想として成り立たないという理解は成り立つだろう。
官僚制のわかりやすい弊害が、こうした手順を忘れてしまうところにある。
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全部ぶっ壊れた。ぶっ壊れたものを一人で修復しようとしている。一人で作ってきたものでもないのに、僕はそうせざるをえない。そうしている間もぶっ壊した張本人は好き勝手なことをやっている。
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かつて以上に、フィールドの記述や分析の中に自己を織り込んでいかなければならないのか。その織り込み方自体、これまでにないようなものになるだろうし、今度はもっと苦しいものになるだろう。
自己を織り込む意味を理解し、実際に織り込むことで見えてくるものの意義を確かなものにするまでに、どれだけ嫌な思いをしなければならないのか。
意味はないかもしれない。それでも、大きな状況から小さな出来事まで、自分が巻き込まれているものを手がかりとして提示して起死回生の策を導き出さねばならない。
2019年12月24日(火)
気持ちが悪い。
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このような横断的な戦術は、情況がさしだしてくれる可能性に依存しているけれど、場所の掟にはしたがわない。(ド・セルトー 1987: 90)
セルトーの場所と実践の説明はカステルの空間把握と真逆になっているように思われる。
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まっくらやみ。
生き方がまるごとかかっているということのようだ。それを言ったらもうおしまいだろう。
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場所の定義がねじれている。空間のメタファーはどこまで確かなのか。
2019年12月23日(月)
何かやろうとすると酒が残っててしんどい。
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別にそんなに大変な状況ではないはずなのに、どうしてこんなに苦しいのか。ほかの誰もこんな苦しみは抱えていないはずだ。
どうしてこんな目にあわないといけないのか。僕はただ努力してきただけなのに、その分だけ嫌な目にあう。
2019年12月22日(日)
僕一人では「センターの日」なんてやろうとしなかっただろう。信じられることがあったということだ。
納得できる日が来るだろうか。
荒れている。
どこへたどりつくのか。
2019年12月21日(土)
こうした方法のもつ欠点は、それが成功した条件でもあるのだが、文献資料をその歴史的なコンテキストから抽出し、さまざまな時間や対向関係からなる特定の状況下で話し手がおこなったもろもろの操作を排除してしまうということである。科学的実践がその固有の両息で遂行されるためには、日常的な言語的実践が(そしてその戦術の空間が)消去されねばならないのだ。(ド・セルトー 1987: 75]
つまらないことでつまずくような重要なことをやっている。
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はー。まとめる気がしねぇ。
2019年12月20日(金)
一週おきに金曜日になるたび虚しい。
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わからない。このつらさは個人的なものなのか、社会的なものなのか。そんなふうに分けられるものではない、分けて論じてはいけない、というのが正解なんだと思うけど。
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わからない。苦しい。どうしてこの期に及んでこの気持ちが消えないのか。単なる個人的な思いだとしたら、ことを為す邪魔になる。分析を誤ってしまうかもしれない。しかし、この思いを蔑ろにすることこそ、分析を誤らせてしまうのかもしれない。繰り返し繰り返し向き合うしかないのか。
*
ずっと注いできた思いがつまっている。それが挫かれたことで共感する力が強まっている。だからがんばれる。それ自体は個人的な出来事であっても、共感を抱けることが偽物なわけではない。努力が報われないこと、希望が潰される悔しさが、他者の経験とリンクしているんだ。
ずっと注いできた思いが挫かれたのは、つまらないつまずきのようなものでも、それで注いできたものが嘘になるわけではない。つまらないつまずきだからといって、注いできたものがつまらないものではない。
つまらないつまずきだからこそ、ここでいいようにやられてしまうわけにはいかない。つまらないつまずきだからこそ、しっかりしなければいけない。
つまらないつまずきだけど、つまらないことも、うんざりしながら、きちんと始末していかないといけないのだろう。つまらないことでも、つまらないがゆえに邪魔をしてきていることなのだから。
2019年12月19日(木)
円卓の騎士裏切ってばっかりやん。
いや、最初の二人は騙されてただけか。
*
三つの方法というのは、まず第一に、集めた資料を分節化できるようななプロブレマティークを定めること。第二に、特に意義深いと思われるいくつかの実践(読む、話す、歩く、住む、料理する、等々)を記述していくこと。第三に、このような日常的な操作の分析をおしすすめて、一見別のタイプの論理の下にあるような他の学問分野にむすびつけてゆくこと、である。[ド・セルトー 1987: 23]
戦略的な場所と戦術的な場所という区別はできるんじゃないかな。
条理空間と平滑空間という区別はあるわけだし。
「固有のもの」とは、時間に対する場所の勝利である。これにたいして戦術は、その非-場所的な性格ゆえに、時間に依存し、なにかうまいものがあれば「すかさず拾おう」と、たえず機会をうかがっている。[前掲: 26]
ここでの場所というのは、ベルクソンが批判するような空間的な時間把握を指しているし、戦術について語られているのは持続の側面だろう。
この後に出てくるスーパーマーケットで買い物をする主婦の事例は、レイヴの『日常生活の認知行動』を彷彿とさせる。あの本はそういうふうに位置づけされるものだったのかな。
2019年12月18日(水)
〈顔〉の見える関係の中に、きちんと社会とのつながりが織り込まれている。一人と一人が、ともに悩み、試みることで、まだ見ぬ他者をもつなぐ可能性が生み出されている。それを共同性と呼ぶ。そうやって生まれた共同性が連帯のよすがとなる。
そんなものを論ずることはできない。可能性に可能性をかけ合わせてようやく理解できるようなものにたどり着くには、論証になじまない経験の共有を基礎にしなければならない。しかし、それを広げていくことはできる。
〈顔〉の見える、真正な水準での関係を通しても、他者への共感は生み出せる。共同性を構築するためのよすがとしての共感は、関係の中に分け入らなければ決して理解できないし、そうしたところで必ずしも理解できるものではない。しかし、その可能性をこの社会に問うことが僕に与えられた当面の役割ということだろう。
一人と一人の間でわかり合えることにも、二人だけではたどり着けない。最初から、きちんと他の関係も織り込まれていた。バラバラであっても、きちんと根を張っている。
*
フィールドワーカー自身が体験していないことを論じることなどできない。理解とは体験をもとにして訪れるもの。それまでの人生経験や聞いた話からすべてのことが理解可能なはずはない。
*
次は吉原直樹『都市社会学』を読んでおくべきかと思うのだが、もう少し頭を働かせておきたい気持ちがあって、ミシェル・ド・セルトー『日常的実践のポイエティーク』を読みはじめてみる。はたしてどの程度読めるだろうか。
概説を読んでいるだけでもすぐに空間という言葉が出てくる。空間というのはものすごく重要な概念なんだろうけど、「これ」という体系があるのかないのか。カステルやハーヴェイ、マッシーと、僕が知っている程度でも思いつく名前はあるのだが、そんなにはっきりした定義があるわけでもなさそうに思える。社会学における「社会」のような概念だとすれば、概念自体が問い直されるものであったり、その言葉を意識しつつ展開される様々な議論をもってその定義に代えられるようなものだったりするのだろうか。
2019年12月17日(火)
二重構造としてとらえていく必要があるのか?
いくつか水準があるはず。これを全体社会の構造と交差する形で論じるくらいのスケールが必要だろう。
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僕は何に囚われているのだろう。大勢には影響しない、個人的な感情だと片付けてしまった方がためらわずに前に進めるだろう。
だから、いずれ答えを形にするまでの導きだと思っている。その先に得るものがあり、失うものがあるのだとしても、それはたどり着くまではわからないことだし、今は進むことしかできない。
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エンジニアの思考とブリコルールという視点からまちづくりとセンターを考えると、どのように整理できるだろうか。まちづくりにはまちがいなくエンジニアの思考が紛れ込んでいる。しかし、ブリコルール的な側面も組み込まれている。その組み込まれ方について考えるべきなのか?
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誰かとわかり合いたいという気持ちはおかしなものではない。どうなればわかりあえていると思えるか、その条件と水準というものもあるだろう。
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わからない。わかりあえていたのか、共有できていたのかも、もともと確証があるわけでもない。そう思っていた時間の厚みがあるだけだ。
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そもそも「確かにわかりあえていた」と思いたいようなこととは何なのか。その価値を得難いものと思うからこそ、執着するのだろうが、それは最初から存在していたわけではないし、その存在は未だに確かではない。
しかし、無くなったわけでもないだろう。もともと目指したものでもある。
もともと目指していたのだろうか? いつから目指していたのだろうか。ずっとそんなものを目指していた。そういう生き方のようなものだとすれば、誰かと足並みがそろう瞬間があるだけでも僥倖かもしれない。しかし、この世界はそうあるべきだという願いでもある。
*
「小さな物語」が作り出しているつながりを描き出す必要があるのかなあ。だとしても、その意味を手がかりにその背後にあるものを解明しないといけない。
*
「『小さな物語』の連鎖のもつ横断性に、新たな普遍性を見出す」というのは具体的にどういうことを指すのだろうか。
*
もともと一人でもやっていたことなんだな。それが当たり前の状態に戻っただけ。ひとときの夢を見られただけでもよしとしなければならないし、夢からさめたところで、変わらないものは変わらない。
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とはいえ、その当たり前だったことが以前よりつらくなったのはそうかもしれない。つらくなったこともまた得たことではあるのだろうけど。
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そうか。僕はその信念のためにも闘っているというわけか。確かにわかりあえることを無駄にしないためにも。
すでに僕は独りではない。そう思える根拠を得た。そして、それを広げていくことがこれからの課題なのだ。
2019年12月16日(月)
少しずつ、謎が解き明かされていくかのようだ。
よろこびも哀しみも、より合わさって謎にからまっている。解けていくことで形を変えて答えに代わっていく。しかし、そうなることで、もとの感情は救われるようでもあり、報われぬようでもある。
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二つの政治。それを創出する主体。どの範囲までそれにかかわるものととらえるのか。それは誰(何)のための政治なのだろうか。ここへの焦点の合わせ方次第で議論の方向性と範囲が決まる。「労働者」による「労働者」の政治なのだが、その「労働者」は見た目通りの「労働者」を指すのではないかもしれない。ここをうまく説明するロジックが作れるか。
2019年12月15日(日)
「ツリー構造を押しつけられた人びとがリゾームとしての〈顔〉のある関係を基盤とする日常的な実践を通してそれをセミ・ラティス構造へと変容させているという『適応』のしかたを『抵抗』ととらえる」[小田亮 2006: 第4章 オリエンタリズム批判と近代のアイデンティティ ]のが「日常的抵抗論」なの?
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別にSNSなんて見たくもないのに気付いたらクライアントを立ち上げている。確かにSNSは喫煙と一緒で、つまらない依存症だ。
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はー。面白いけど、なかなか読み終わらない。
焦らずにじっくりと一冊ずつ読んでいこうと考えるようにした。
火曜日に神戸からの帰り道で梅田の丸善&ジュンク堂に寄ったんだった。何冊か買おうかなと思っていた本があったが、実物を見て「これは買っても読まなさそうだな」あるいは「すぐには読まないだろうな」と思った本は無理して買わないことにした。「これは置いておけば、何冊かあとには読むだろう」というものだけ購入した。
その後、思い直してKnowledge Workerで追加注文した本はあったものの、変に焦って量をこなして使えそうな本を漁るより、これはという本を感覚的に選んで、じっくり読み通した方が結果的に早道ではないかと思った。体系的な理論的知識を求められているようだが、そんな教養主義的な姿勢で必要な知識が見つけられるとはとても思えない。自分なりに読み込んで、そこから自分の目的のための体系を作り出していく方がいいだろう。
求める知識に接近できているという充実感と、何となく他人を意識して浮かんでくるモヤモヤした感情とが混じり合って邪魔をする。先を見通せている気持ちは、実は出遅れているような焦りでもある。
結局、僕のやり方は損なやり方なんだと思う。
*
「センターの日」でやっていること自体が隣接性によるつながりであるなら、調査自体が隣接性によるつながりをとらえるためのものであったということだろう。
なかなか野心的だ。
しかし、それは何事にも苦しみをともなう。
その苦しみをも利用しているあたり、冷たい気もするが。
*
まちづくりが提喩的想像によって創り出された共同性だとすれば、創出過程とそのメカニズムの含意が分析されねばなるまい。
そのトリックを作り出したのは鈴木亘であり、その舞台を橋下が用意したことになるが、それだけでいいのだろうか。地域の人びとが巻き込まれていく過程、巻き込まれ方も見ていく必要があるように思われる。しかし、それを読み解く素材はどこにあるか。
……会議録かな。
2019年12月14日(土)
差異の連続体において現れる共同性が、平滑空間におけるリゾーム的なつながりということか。
換喩/隠喩的な想像力によって作られた共同体に提喩的な想像力が覆いかぶせられ、排除のカテゴリーを創出することはあるわけかな。
■センターの日 #2
隣接性による関係として、一つひとつの会話を分析していけるかもしれない。センターで実践されているのが、まさに隣接性による関係の展開だとすれば、釜ヶ崎における共同性の実像をこれまでとは違う角度から、豊富にとらえられるかもしれない。
*
そして、この意味を浮き彫りにするには、まちづくりが創出しようとしている共同性との対比で分析を進める必要があるだろう。その意味で、今年後半に書いてきた論稿は無駄ではなかった。
*
センターでの関係形成のあり方を、飯場でのやりとりや先行研究で語られてきたものとすり合わせて理解することもできるかもしれない。
*
センターどころか、よろずのデータを解釈するのにも使えるなあ。センター、釜ヶ崎を越えて、大阪城公園まで含めて空間を語ることもできるかもしれない。
2019年12月13日(金)
体調がよくわからない。
*
帰って寝た。なかなか眠りにつけないくらいしんどかった。もっと寝た方がいいんだろうなあ。
*
もう共同性の原資を使い果たしたという感じ。
依存症の治療のような感じで対処したらいいのだろうか。
それは治らないものとして距離の取り方を身に付けるということだ。
*
序章2のチャクラバルティの話はどうしたらいいの。そこまで後退したら具体的な話は何もできなくなっちゃうのでは。
*
『ストリートの歌』を参照しつつ進められる議論は、空間を切り分けて論じる視点として面白い。「隠蔽された外部」と位置づけられる寄せ場について考えてみたらどうだろう。
めちゃ使えそう。
*
何か関係を修復したり、共同性の原資を再貯蓄したりできるような指針が立つなら、まだやりようはあるだろうが。
2019年12月12日(木)
「今夜は早めに授業の準備終わるかも!」と思ったけど、全然早くなかった。いつもと同じように0時まわってた。
*
どこかで疲れがたまってるんだなあ。結局、午前中は起きれなかった。
落ち着いて読めない。
*
監視という観点からすれば、野宿者にとっての見る/見られることの意味を考えることが、何かの切り口になるかもしれない。
*
『ストリート人類学』が届くまでは吉原直樹『都市社会学』を読むか。
『野生の思考』読んでみたい。うちにあったかな。
なかった。
小田亮『日常的抵抗論』面白い。これまで抱いていた公共性をめぐる議論に対する違和感がほどかれていくようだ。
2019年12月11日(水)
電車移動がつらい。
ああなんかぐったりだなあ。
人類学にこんな面白い話が転がっていたとは。しかし、どうしてこれを読もうと思ったんだったか。『日常人類学宣言!』を読んで、自分のやってきたこととの接点を見つけられたというのはあるけど、これとの間にまだ何かあったな。
結局、カステルがあまりに使えなさそうというか、社会学をいくら掘り返しても、僕が求めている意味での空間論は、社会学には存在しないのではと思った。そもそもこれを「空間論」と理解すべきなのかも実はわからない。
社会学の公共性論がどこまで行っても出口がないわけだ。
2019年12月10日(火)
昨夜はムカつくことがあって、自分でもよくわからない強烈な怒りを感じた。その理由は一夜明けてふと理解できたものの、どうも体調もよくないっぽい。ちょっとしんどいと思ってたけど、何か風邪ひいてるっぽい。しかし、今日は休めないし、夜の予定がないことが救いか。
やはりツイッターのタイムラインをやたら見てしまうときというのは調子が悪いんだな。
*
このタイミングで体調不良か。楽になれるときなんてないんだな。
*
国民国家について最近何かで読んでいた気がするんだけど、何だったかな。国民国家を超えたところにある何やらいう話。カステルかなあ? フローの空間の話?
国民国家の枠組みで考えていてはダメだという話だったような。ローティはそんなこと言いそうにないし。国民国家の枠組みに回収することを前提としないところで考えないといけないんだみたいな話。もっとローカルな仕組みづくりをすべきだという話? カステルは国家に対して都市単位の統治の役割を重視していた。その話かな?
*
社会学って何なんだろう? 何をもって優れた社会学的な研究だとしているのか。社会学の理論はどこから生まれているのか。
たとえばカステルはどこから理論を調達しているのか。社会運動論がベースにあるのかな。社会運動を分析することが社会を論じていくための接点を作り出すのだとすれば、日本の社会学はそのような接点を作りにくく、そこから議論を発展させていくことが難しいことになる。
それなら、日常的な行為の分析をベースに、そこから社会との接点をつかんで、議論を構築していくやり方が現実的なんじゃないのか。
2019年12月9日(月)
レポートの赤入れしてたらどうしたって2時間はかかる。重労働なり。
*
〔マルクス・ガブリエル〕ここで私が強調したいポイントは、現実に存在している他者性(中国の文化)について誤解していると、克服したいと願っていた他者性を予期しない形です呼び込んでしまうということです。間違った事実に合わせたせいで、最終的には、道徳的に歪んだ態度を生み出してしまう(外交官であるにもかかわらず、中国人スパイを助けてしまう)のです。(斉藤編 2019: 151)
ここで話に出ている相対主義とは、自己を絶対化して他者を軽視する方便ということだろうか。
現実と向き合わないことを徹底している。
*
どうやって社会学にすればいいのか。どうやってフィールドまで敵を引きずり込めばいい?
相互行為と意味づけを読み解くこと。そこに社会的な意味を結び付けて表舞台に引きずり出す。
*
やっぱりプラグマティズムでカバーできる感じがするなあ。
*
先を焦らず、きちんと手繰り寄せていけばいい。つかむとはそういうことであるなら。
手繰り寄せるようにして作り出す。生み出す。見出したかのように創造する。
斎藤幸平編、2019『資本主義の終わりか、人間の終焉か? 未来への大分岐』集英社新書。
2019年12月8日(日)
メールの文章まで悪文なのかよ……。
*
切ない。
*
眠い。
*
夕方になっても切ない。
*
理論にからめとられたらあかん。まずこっちのアドバンテージを築き上げてからだ。
*
この期に及んで切ない必要があるのか?
*
ああ、でも何とかなりそうだ。バカな社会学者の言うことなど気にせずともよい。
2019年12月7日(土)
■英語 #5
読んだことあるやつを選んでしまうことがある。でも、最初の辺りしか読んでいないやつもある。
■原稿4 #4
よく考えたら、大幅な加筆修正は求められていないようだ。実際に話したことをベースにまとめ直して収録する企画枠らしい。
注や文末で、その後の経過についての補足はしてもよいと。
センター閉鎖から寄せ場交流会までの出来事も、関連する範囲内で付け加えていけないことはないのかな〜。
*
手元にファイルを引き出せない。いったん帰宅せざるをえないようだ。なんと。
*
だいぶ手直しを進めていて、さっき見直したら「どうしてこんなにPMO事業のことを延々と話しているのか」と、冷静になって考えると冷や汗ものの報告だなと思った。確かに大きな出来事ではあるんだけど、野宿者にとってどうなのかというところは、いまだに見えづらい。これをとらえるためにはやはり都市の統治の構造みたいな視点から批判的に個々の事例を分析できるようにならないといけないのだろう。
とりあえずひと通り修正してから考えよう。
あれから現在までで、だいぶ状況が変わった。大阪城公園をとりまく状況はそう変わっていないかもしれないが、センターにかかわるところで、向き合わねばならない課題の比重が激変している。空間をどうとらえるかという点では共通しているのかもしれないが、それは当事者性、主体の問題へと論を進めていかなければならない。となると、そのような理論的な道具立てを意識的に用意していかなければならないということか。
2019年12月6日(金)
■原稿4 #3
どういう距離感で文章を書くかだな。
ディテールや心情を書き込むと全体像がまとめにくくなる。実際のシンポジウムの時のように、現状報告として語るようなスタンスで書くといいかもしれない。
その時の立場性はどういうものになるだろうか(同じことやんか)。もしかすると、これは重要なポイントなのかもしれない。労働者の当事者性とかかわる話で、労働者の当事者性が置き去りにされているがゆえに、それを意識しながら語る主体の位置も状況定義的なものになってしまう。
2月の時点で見えていたもの、考えていたことと、現在とではその中身がまったく異なる。その変化は何によってもたらされたのか。センター閉鎖と開放行動に対する違和感も当然かかわる話だ。
しかし、それをはっきり意識しはじめたのはいつだったのだろう。原稿1はなぜ書けたのか。
原稿1を書き出すためのターニングポイントとなったのは、そもそもの根本に立ち返ったところにあった。何のために「センターの日」などやっているのか。何のためにこんなことを研究として取り組もうとしているのか。何のために研究や調査を超えて現場での取り組みに踏み込み、それをまた研究に回収しなければならないと思っているのか。
現場報告というのは、要するに他者に対する説明でなければならない。内省を避ける文体を選ぶ必要がある。
しかし、これは内省の部分だな。原稿1を書こうとするまで、鈴木亘の本は読み切っていなかった。ここもポイントの一つかもしれない。西成特区構想の、取り込もうとする力がどこでどう働いているのかを見極める作業に取りかかるのをためらっていた。
原稿1の、というか、「センターの日」の核心はもちろんセンターにあった。鈴木の本を読み解く姿勢として、西成特区構想の展開全体を確認しておくことと、センターにまつわる事実関係を確かめる必要があった。
はじまりはセンターにあった。そんなことはわかり切ったことだ。「センターの日」が「センターの日」なのは、そもそものきっかけがセンター閉鎖のスケジュール公表にあったのだから。「センターの日」をはじめた時にも、労働者がまちづくりから置き去りにされていることはわかっていたはずだ。ところがいざ論じようとすれば、この核心が見えづらくなる。
核心が見えづらくなること、それ自体がこの状況に働く力を理解する手がかりの一つとなるのではないだろうか。主体を語らせない。物事の核心を作らせない。核心を突くような装いで計画は立てられるが、この計画は、単一の主体が突出することを許さない。常に「配慮」がなされる。
地域の神話によって権力構造、関係の非対称性が隠される。他者に配慮しながらの自己主張が求められる。しかし、ここでの「他者への配慮」は想像上のものでしかない。配慮を要する他者については自明のものとして語られる。
書くならワクチンの戦略を組み込めた方がいい。その核心はやはり労働者の当事者性を可視化するところにある。他者への配慮が強調されればされるほどに、労働者の当事者性をつかむことは不可能になる。あるがままの姿を認めるところからはじめなければならない。未来を語る前に現在を見なければならない。
現場報告パートと内省パートを分けた方がいいのだろうか。前半と後半で、両方盛り込んだ方が書きやすい気はする。しかし、現場報告に徹して書いた方が説得力は増す。ワクチンを意識するなら内省を組み込む方が効果的かもしれない。
ワクチンの完成度を上げるなら、説得的な現場報告のなかに内省を忍び込ませるような構成を考えるべきなのかもしれない。
寄せ場交流会のときはそれがうまくできなかった。共感を橋渡しするしかけが用意できていなかった。
ワクチンの比喩は正しいのかな? すでに感染した人に対する特効薬なのか、感染予防のワクチンなのか。
*
現場報告だけで書き切れるのかな? かといって内省だけで書くと、あまり理解されてもらえないものになってしまいそう。文章化することを考えると、技術的な問題としてミックスせざるをえないところがある。現在の僕の準備状況ではどちらかに絞るのは手にあまる。
使えるネタと切り口を集めて、そのなかからもう使ってしまったものを除いて、残ったもので語るしかない。
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現実逃避で多読に精を出す。
2019年12月5日(木)
一体何のためにこんなに苦しんだのかわかりゃしない。すべて幻か思い違いだったとでもいうのか。
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嵐をやり過ごしてなお僕はこの3年半を振り返らなければならないのか。その意味を。
■原稿 4 #2
2月のシンポジウム以後の出来事、それ以後に書いたものを踏まえて、改めて大阪の公共空間の現在を語りなおすエッセイみたいな形式で書き直すか。この3年半の総決算のようなつもりで。
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それなら、これまでに書いていない形で書けることが他にないだろうか。反ジェントリフィケーションの無効化について、寄せ場交流会でも語りきれていないし、原稿2でも、議論の中心に据えることはできていない。
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その意味。
ふりかえってもその意味はつかめるものではないのかもしれない。それは可能性をさぐるための希望のようなものだったのだとすれば、むしろこの先に、形にしていくことでしかつかむことはできないことになる。
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このタイミングで書かないといけないことといえば、あれしかないだろう。
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見えていないことがたくさんあるはずだということ。
労働者の当事者性を理解すること。
反ジェントリフィケーションを無効化する形式化の力について。
可視化の戦略と場所をつくること。
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これを書くためにはどうすればいい?
出来事からわかること。一つの出来事のなかでもかみ合わないこと、出来事と出来事のあいだでかみ合っていないこと、その落差から意味を引き出す。
その出来事には何がある? 「センターの日」、センターの未来を提案する行動委員会、センター解放行動、寄り場機能を巡る労働団体の話し合い、寄せ場交流会。
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そんなこと書いてる余裕あるのかな。3日くらいでがーっと書ける範囲で構想できるならそれもありかもしれないが……。
寄せ場交流会にしぼればあるいは……。しかし、確認しなければいけないこと、説明しなければいけない範囲がもう一つ見えない。ばっさり切れない。
2019年12月4日(水)
見えないものを見るということは、分け入っていかなければ生まれない気づきを生み出すということだ。現在に答えはない。踏み込む行為の交わるところに答えは生まれ、理解される。
■英語 #5
「訳さずに読む」ためには、ためらわずに文章に目を走らせるような意識と慣れが必要なのはもちろん、読もうとする文章のレベルが自分に合っている必要がある。もちろん、これは多読法の前提であるのだが、この辺のすり合わせがちょっと難しい。
2019年12月3日(火)
つらい。
胸がつぶれそう。穴がふさがったと思ったら今度は。
できるだけ現実逃避して多読に精を出そう。
■英語 #4
英語のことは何も書いてなかったかな。
訳そうとしないで読む。そうすれば読めるのだが、文章が長くなったり、わからない単語があったりするとついつい訳そうとしてしまう。
一つ対処法としては、わからない文章でも、文章の終わりまで一通り目を通した後でもう一度最初から読んでみること。固有名詞の羅列など、意味がわからないのは当たり前だし、構文を意識しつつ、訳さずに読み直すと案外難しい文章でもなかったりする。
多読で英語が読めるのはいいんだけど、これで書けるようになるのかなというためらいがある。訳さずに読むと、意味はわかるんだけど、文章そのものはまったく頭のなかに残らない──つまり、自分で再現しようにも記憶に残っていないように感じる。そんなこと気にせず読みまくればいいのだろうが。
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現実逃避であれなんであれ、英語の学習に重点をおく期間があってもいいだろう。
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伝記のシリーズが初級1のわりに難しすぎるように感じるのでしばらく控えていた。久しぶりに読んでみたら、やはり難しかった。単語もよくわからないのがたくさん出てくるし、構文も変なのが多い。多読用教材というより、英語圏の子ども用の伝記本なのでは。
■原稿4 #1
原稿4っていうか、これどうしようという感じ。
2月のシンポジウムでの報告を原稿化してくれという話で、今年は論文を3本も書いているので、今年のネタはもう書き尽くしてしまった。何なら来年のシンポジウムのネタまで踏み込んで書き切ってしまった。
研究というより、現場報告という体裁だったので、話し言葉のまま読みやすく書き直すという形で許してもらうしかないのではないか。注を充実させるということで。
と、言いわけがましく書いてしまうのは、どこかためらいがあるからだ。何か薄らとでも新たにテーマを設定して、読み応えのある構成が作れないものだろうか。このままだと書き直すモチベーションが上がらない……。
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すでに書いてしまった未来から過去の報告に注釈を加えるとか。
2019年12月2日(月)
むなしさ。
つらい。胸が苦しい。なんなんだ。
苦しみは胸に火を灯すための燃料なのか、それともそれを邪魔する燃えかすなのか。心のなかで起きていることが何なのかわからない。
燃料のつもりでも、核燃料サイクルのようにその先は行き止まりなのかもしれない。燃やせば燃やすほど核のゴミがたまっていくように。
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つらい。
2019年12月1日(日)
そんなに酷くはないが二日酔いだ。
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