2023年10月27日(金)
人の足を引っ張るばかりいてよく生きていられるものだ。
2023年10月18日(水)
勝てないものはあっても、もう怖いものはない。
*
正しくはおそらく、何ものも恐れずに生きていかなければいけないということだ。言いわけにせず、逃げたりせずに向き合えば、勝てないことや痛い目にあうことは問題ではないのだから。そういう囚われ自体から自由でなければならない。
*
勝てなくてもいいから、恐れるのをやめよう。そういうことなのだ。
2023年10月11日(水)
囚われていては気付けない。しかし、囚われることのない人は気づくこともできない。
2023年10月6日(金)
まったく気にならないはずがない。しかし、もうそれは不愉快な雑音でしかない。
2023年10月2日(月)
いつだって正しい道を歩んでいる。まちがいなど起こらない。
そう信じられない自分がまちがいを起こす。
2023年9月29日(金)
うろたえなければもともと備わっている力でどうとでもなる。
最後にはそれを信じることが一番の力なのかもしれない。力を備わらせることができなければ、備わっている力も備わらない。
ほんの少しの勇気を自分のために使えるようになること。他人のためにならためらいなく使える力を、自分のためにも使えるようにすればいいわけだ。
2023年9月19日(火)
疲れている時には休みたいに決まっている。寝不足なら寝たいに決まっている。
隙間の時間で少しでも本を読み進めたいという欲求も分からないではないが、そうして無理をすれば仕事がさらにしんどくなる。寝ればいいのに眠たさと囚われが非機能的なコーピングを引き出してしまっているのか。
2023年9月17(日)
一つには自己開示。それから、これまでの積み重ねを活かすこと、改良していくこと。決してゼロからのスタートではない。
無理をしない。その時できる範囲のことで、とにかくやり切ることを考える。勝手に気負わない。
*
この10日を、何もかもが良くなっていく、始まりの10日にすればいい。
*
この現在はどこにも存在しない。未来においてそのように振り返られることを想定した現在の想定としてしか存在しない。
2023年9月14日(木)
大事なのは強い意識と薄い関心
2023年9月7日(木)
身体がついていかない。これ以上はもう。
2023年8月31日(木)
8月ももう終わりか。夏休み期間中だというのに疲れるひと月だった。
2023年8月25日(金)
結局、僕は「語り得ないもの」というテーマを、さらに念入りにして潜り抜けたわけだ。
2023年8月22日(火)
節操をつらぬく、か。
2023年8月18日(金)
終わりの終わり。
2023年8月16日(水)
コモンズとは、場所とその場所に根付いた資源であり、場所と資源との関係の仕方によって、その価値が変わるような性質を持つもの。
2023年8月9日(水)
どう片付けるべきなのか。
2023年8月6日(日)
違う。こんなことは僕にとっての問題じゃない。時間がないことの八つ当たりで判断してはいけない。
しかし、正味な話、そういうことなら、もう整理してもいいところでもある。どうなるのが一番いいのだろう。
*
自分たちで問題解決できるようになってもらわないと困るわけよね。僕はもう手を引きたい。いつまでもかかずらわっていられないし、最初から手を引くことがゴールなのだから。もう問題はある程度明らかになっているのだし。
*
割り切れない気持ちはある。だから心は荒れてしまう。
2023年8月5日(土)
苦しい。いつまでこんなことに付き合わなければならないのか。
咎なき罪に陥れられる。誹謗中傷にあう。能力を隠してやり過ごせ。実力が足らない。
2023年8月1日(火)
囚われているものが何なのかを知るためには、囚われから抜け出さねばならない。
囚われているものが分からないのに、そこから抜け出すためには、何かを捨てなければならない。
*
何を捨てることになるのかは分からない。何を捨てなければならないのかも分からない。絶え間なく捨て続けなければならないかもしれない。
できるのは、そうなると分かっていて、その道を選ぶこと。
2023年7月31日(月)
うーん、相変わらず「今ひとつ判断の正しくない人」か。
長い文章書いたらあかんと分かっていても書いてしまう。理路とエビデンスをきちんと示すべきだと思ってしまう研究者気質が足を引っ張る。
自分を捨てきれない。
*
しかしまあ、結局、まちがえながらでしか進めないのだ。まちがえるからといって、やらないままにはできない。やってみなければ、まちがいかどうかも分からない。まちがえた先に正解が現れることだってある。
2023年7月27日(木)
どんなに良いことをしていても、過ちを過ちと認められなければ、落ち着ける場所などないだろう。
2023年7月21日(金)
できなくても、分かることというのはある。
分からなくてもできることというのはありえないとしても、なぜできるのか分からないことというのはある。
2023年7月16日(日)
調理法というのは、好みの味を作り出すためのものなんだなと思った。
当たり前だけど、味付けの仕方や味というのは限られているわけで、それをどう再現するかが問題となる。再現できるなら、レシピを求める必要はない。「この調味料をこういうふうに使うとこんな味になる」と分かっていればいいわけだ。
あとは、自分が食べたい味をイメージできるか。自分が欲する味を明確にイメージする力と、それを再現(実現)する技術とがある。言ってみれば単純なことなのだ。
*
人は可能性を作り出すことにとらわれ、可能性に溺れてしまう。
2023年7月9日(日)
悪いことをしたわけではない。ただ、一線を越えてしまったことは確か。
僕はどういう立場なのか。問題を発見し、その解決に向けた働きかけをする役割を引き受けている。
しかし、そのような役割を担うことにどこまで合意があるのかは不確定なところがある。なぜなら、発見される問題は依頼者にとって不都合なものを含む可能性があるからで、依頼された範囲を越えてしまうことに合意が必要となるなら、その役割を担う資格はいったん解除されてしまうことになる。
難しいところだけど、そういう条件を問う局面を作ってしまった。遅かれ早かれそうする必要はあったし、予定されていることでもある。しかし、予定に先立ってそういう局面を作ってしまったことは、そうすべく本来想定していた場面があった以上、今後の展開に何らかの影響を及ぼしてしまうかもしれない。
それがよく働くのか、悪く働くのかは分からない。さほど影響はないかもしれない。
*
僕自身について言えば、これから起こりうる事態についてあらかじめ免疫を作っておくのは良かったかもしれない。しかし、他人にとってはアナフィラキシー反応の誘因になっているとも限らない。
とはいえ、次の機会にアナフィラキシー反応が引き起こされるのなら、それはもはや耐性のつかない体質の問題ととらえるしかないし、免疫学のメタファーはメタファーにすぎない。繰り返しショックを受けながら、対処法を身につける必要性に気づかせることこそが目標であるとも言えるだろう。
それは、それぞれの出来事の固有の意味ではなく、繰り返されるパターンを意識させることで治療を進める精神分析のアプローチと重なる。
2023年7月8日(土)
うーん、やってしまったのかな。どうなのかな。
これまでの経過を見れば看過できなかった。しかし、現時点のあれだけのことに対してはやりすぎだったと言えなくもない。
*
とはいえ、やってしまったことを気に病んでも仕方ない。必要なのは反省であって、後悔ではない。むしろ、抑え切れなかった自分の気持ちがどんな形のものであったかを知れたのは良かったのかもしれない。
2023年7月4日(火)
言語が先立つから常に出遅れるし、知らず知らずのうちに言語の体系に支配されてしまう。それゆえに言語とは過去であり未来でもある。人は過去と未来を通して現在を語らねばならない。
2023年7月1日(土)
昨夜は3杯くらい飲んで寝たにもかかわらず、しんどさはそんなにない。ようやくこのぬかるみからは抜け出したということなのか。
2023年6月30日(金)
人は変わるものだということへの信頼と期待。
2023年6月26日(月)
また頭痛。
*
また一つ。
あと二つ。
2023年6月20日(火)
別の道を選んだ。道を選ぶための場所を提供しただけの話。そうした場所そのものも道の上にあった。道を違えた。それを裏切りと感じるのはなぜか。
*
一人一人が歩む道は選べない。選べるものは道ではない。裏切りと感じること、それもまた教えであり、天命に通じるものか。
天の命ずるをこれ性と謂い、性に率う(したがう)をこれ道と謂い、道を修むるをこれ教えと謂う。
2023年6月19日(月)
裏切りとは、それを受ける人がいて成り立つもの。しかし、裏切る者が得る利益そのものが、その人との関係から引き出されているわけではない。ただ利益を得る準備をする機会を提供しただけのことなのだ。
2023年6月15日(金)
転移と逆転移。日常生活でも、フィールドワークの中でも起こりうる。
2023年6月12日(月)
人を裁くのは危道である。
2023年6月6日(火)
日本アニメ好きの外国人。そんなのどうやって調べればいいんだ?
2023年6月2日(金)
世界を見る意思であること。これが僕の最深部にある底だと、背中合わせに接している壁だと考えていいのだろうか。ここより奥には何物もないのだと。
それで僕はやり切れるのか。
2023年5月30日(火)
大らかさはいい加減さ。なぜそんなものに憧れるのか。そんなふうに一緒にものを見たかったからかな。そこに何か幻想があるのか。
理想は一人一人が抱くもの。何もせずに一致するはずがない。
2023年5月28日(日)
マクドナルドでじゃれあっている高校生くらいのカップルを見ていて思った。男は女の子のひざまくらでソファに横たわっていた。まるで自宅でゴロゴロしているようなふるまいだけど、どちらかの親やきょうだいがいるかもしれない自宅ではそうはいかない。
そういう自分も、本を読むだけなのにわざわざマクドナルドに来ている。自宅と同じようでいて、自宅とは少し違うものを求めているわけだ。自宅では音楽を聴きながら本など読めないが、公共の場所では逆にイヤホンをつけなければ本が読めない。
公園にスタバを作りたがるのは、スタバが公園のような要素を持っているかもしれないと思った。店員がオーダーを取りに来ない、帰り際に生産をしない、ファストフードスタイルの店舗というのは、合理性を追求した結果そうなっているようで、実は放置されつつその場に滞留できる状況をパッケージ化して売りに出しているのかもしれない。
裏返せば、そうでもしなければ、そういう状況が得にくい社会であるということだ。公園は本来そのような自由さ、放置されつつ滞留できる場所であったが、その部分が痩せ細り、痩せ細った部分を埋め合わせるために、公園内にスタバが作られるという倒錯したことが起きているのではないか。
2023年5月24日(水)
つまり、臨床の知とは何だ?
世界を見る意志であるとはどういうことなのか。
僕はあるがままを見て、理解しようとしているだけで、あるがままの姿を理解するのに正解なんてない。とらえきるまでに理解しつくさなければならないものが、いくつあるかという違いがあるだけだ。
世界は、単純なことの反響の連鎖に満ちて無秩序になっている。しかし、それは無秩序などではない。手に負えないものを無秩序と呼んでいるだけで、その組成はごく単純なもののからまりあいの帰結に過ぎない。
それが理解できないのは、人は常に見落としをしているからだし、単純なものを理解できていないからだ。
*
状況がそうするのを許してくれないからということもあるか。それこそ近代科学における知のあり方だろう。しかし、それは問題の先送りに過ぎない。
2023年5月23日(火)
毎日更新しようという意識がかなり薄れている。
2023年5月17日(水)
自分が潔癖でいるために他人を汚して、理屈が合うわけがない。
2023年5月14日(日)
困難を乗り越えて行かねばならない。
しかし、あとは乗り越えていくだけのことだ。
2023年5月12日(金)
久しぶりに飲んだ。といっても4/30が最後だから10日ぶりくらいか。
*
嘘だった。ちょうど一週間くらいのものだった。
2023年5月9日(火)
自分もまた誰かにとって邪魔な場所に立ち止まっているかもしれない。
2023年5月7日(日)
たぶん、姿勢を身につけなければいけないのだと思う。身につけなければならない姿勢を意識して探るとともに、身につけて、そうやって生きていくことが必要なのだろう。
*
「語り得ないもの」の扱いとは、その渦中にあってはお互いに決して語ることができない状況の意味を、時間の経過と気づきとともに取り出していくことだ。気づきを得ることそのものに意味があるわけではない。
2023年5月6日(土)
面白くも何ともないな。
2023年5月3日(水)
「悪い」ことと「まちがっている」ことは違う。「まちがっている」なら変わらなければならないのは自明のことだが、「まちがっていない」からといって変わらなくていいわけではない。
2023年5月2日(火)
『感情とフィールドワーク』を読む。クラインマンの出している事例はしっくり来ない。単に自分が囚われていたことを自覚するだけなら、読者として、個人的な感情を告白される必要はないように思える。「研究者の側にもいろいろあるんだな」と思うくらいのことだ。
僕が叙述しなければならないことは何なのか。それは感情というより、自分自身の立場であり、考えのように思える。そのような感情を抱かざるをえない立場とはどのようなものか、なぜそのような立場にこだわるのか、そこからどのような考えが派生してくるのか。
そのような考えはまちがっているのかもしれない。しかし、まちがいを引き受けてでも、そのような立場を投げ出すわけにはいかない。立場を抜きにして語っても、まちがいとしてしか語れないものを、語りうるようにするために自分の立場を表明する必要がある。
しかし、それは立場とも言えないようなもの、実感としてしか表明できないものかもしれない。感情という不確かなものを根拠にしてでも示さねばならない真理にこだわることが、フィールドワーカーの孤高の立ち位置なのではないか。
そして、それは何かって話だ。
*
それを示すこと自体が、記述を進めるなかでしかできないことなのかもしれない。何かをきっかけとして語りはじめても、それだけで立ち位置を語り切れるわけではない。
*
やっぱり長居なのかなあ。西成公園ではないだろうなあ。現在進行形の出来事としては傍観者だった長居公園テント村については、後になってかかわっていったと考えるのが自然だろう。その後に、少し時間が空いて大阪城公園で夜回りを再開し、東屋の排除があって、というラインを外して考えることはできない。そこから「センターの日」へと発展していった未来として今がある。
でも、きっかけとしては東屋の排除しかないよなあ。となると語りはじめるのは、あの時あの場所ということになる。
2023年4月30日(日)
やはり翌日も休みの土曜日の方が楽しいなー。
*
フォーマルが構築されるように、インフォーマルも構築される。構築されたフォーマル(フォーマリティ)と構築されたインフォーマル(インフォーマリティ)の対応として都市空間を見ていくことで、支配のメカニズムの作用の仕方を読み解くことができる。
しかし、このフォーマリティ/インフォーマリティの議論の外に、意図の外にある空間があるはずだろう。フォーマルもインフォーマルも構築されるものであり、すべてはどちらかにあるととらえるのは、理論に引きずられすぎではないか。
おそらく、排除/包摂に対して「反排除」を想定しなければいけないのと同じような落とし穴に陥っているように思う。
2023年4月27日(木)
ハンバーガーというのもある。寿司とか。
*
過ちを認めるとは、どこか理不尽なものではあるのかもしれない。過ちを犯す時には、過ちとは思われないような理由もあるのだろう。
ことが起きたのちに、それを過ちとしない道を選ぶ不利益が明らかである時に、過ちを認めることになる。それが過ちであることが選ばれるものだとすれば、過ちとは引き受けることで成立するものなのだから、過ちではない道もありえる。
ゆえに過ちを認めるとは理不尽なことには違いない。
2023年4月25日(火)
講義の下拵えとして仕上げる必要はなくなったものの、「フィールドワーク論」はコンテンツとしては完成させたいと思ってがんばっている。
修行時代に読んだ本を読み直すと、いろいろな気づきと発見があって、とても有益だと感じる反面、ものすごい疲労感がともなってしんどい。当時、期待して読みはじめたものが、結局は肩透かしで、しかし、なぜ肩透かしなのか分からないまま、相変わらず試行錯誤を続けなければならなかった思い出がよみがえる。
気づきや発見があるのは、当時は分からなかった「肩透かし」の理由が今は分かっているからで、それを言語化していく意義を感じるからだ。しんどいのは「どうしてこんな苦労をさせられなければならなかったのか」と恨みがましい気持ちにとらわれるからだ。
2023年4月24日(月)
やれることからやっていこう。
2023年4月22日(土)
うーん、体調悪い。一週間引きずってる。
2023年4月21日(金)
難しくもない問題を難しいと思い込むことが解決を難しくする。そういうこともあるはずだ。一番難しいのは、些細なことを許せない人の心。人の心が難しいのは、些細なことを許せない心を取りつくろうがため。
2023年4月18日(火)
なんか、ありえない状況をこれでもかと叩きつける夢を見た。
2023年4月17日(月)
電車内での瞑想は今ひとつだな。
2023年4月16日(日)
はー。治療に徹しなければならない関係なんて、もういらないなー。
対等に付き合える相手でなければ、もう意味がない。
それはどういうことなのだろう。この世界について、多くを望みはしないし、投げ出したりもしない、やるべきこと、自分の道を分かって、歩めばいいと思っているということだろうか。
道を歩むか歩まないかを選ぶことはできる。しかし、どのような道を歩むのかは選べない。
*
講義部分はいいとして、残り時間をどう使おうかなあ。テキスト全体の構成と照らし合わせて、第1章の内容はどうなんだろう。身体論のところでブルデューは出てくるし、物語の基本構造のところで文学は関係してくる。宗教やジェンダーのところはどうなんだろう。動機の語彙のところは、ディスクール云々と関係するのかな。
スポーツのところはヘゲモニーの話とからんでくる。フーコーとか、構造主義はどう関係してくるの? これも身体論のあたりか。
なら、自分の考えに引きつけた方がいいか。
自分を中心として、思いつく限り他人の名前や肩書きを書いていく。その上でその人と自分との間で「私たち」の境界がどのように引けるのかを考えて、それぞれどのような集団なのかラベルを付けていく。
*
行けそうな気がしたけど、いざやってみようとしたら、もう一つだな。名前を書いていくというのがハードル高い気がする。名前じゃなくて肩書きの方がいいかも。思いつく限りの人について、肩書きを書いて、その人と自分で「私たち」と言えるような関係がどのような形でありうるか。
2023年4月14日(金)
ふー。「センターの日」。何を書いたらいいかな。どう書いたらいいか。
2023年4月13日(木)
うーん、なんか、更新しなかった。
また、並行して書いている文章量がそもそもとてつもないわけだし、ぼやく余力はないのかもしれない。
2023年4月4日(火)
フィールドワーカーは研究者の中でも、理論と実践の間にある立場で、その立場はその都度問われることを引き受けなければ成り立たない。
2023年4月1日(土)
なんだ。そういう巡り合わせなのか。
|