過去ログ 2020年8月-12月
2019年9月


2020年12月31日(木)

■Swider, Sarah., 2015, "Building Chima: precarious employment among migrant construction workers," Works, employment and society, Vol. 29(1): 41-59. #2

 すさまじい調査だな。

 仲介された雇用。現場飯場からほとんど出ない。二つしかない出入り口には警備員がいる。関空建設の時の飯場みたいだな。

 面白い。海外にもこんなところがあるのか。

■アルフォンソ・リンギス『何も共有していない者たちの共同体』(2006年、洛北出版) #4

おそらく、この肯定と否定という絶対的な対立が、価値を表す語を本質的に体系的なものにしているのだろう。[73]
しかし人類の場合、集団で暮らす人間は価値の名において、同じ種である人間を拷問にかけ、戦争を仕掛けるのだ。価値を表す語の対立図式こそが、競争相手を消去すべき敵として認識させるのである。[73]
評価とは、物が有している力にたいして与えられる、力の贈り物である。生命が他の力に立ち向かい、対抗し、しかしそうすることによって、その他の力を刺激するのは、生命のなかに込みあがってくる力によってである。[77]
肯定的な価値語は、その確固とした意味を、二項対立の定義から獲得するのではない。そこにある善、ありあまる豊かさ、求めずして与えられる恵み、大いなる過剰は、反対カテゴリーにたいする対立からその意味を獲得するような、他と区別されるカテゴリーではない。[81]

 排除と包摂。排除と反排除。このどちらでもない肯定的な価値語がまだ無いのか。

顔を向けているのは、この顔という外観に人が与える意味におさまりきれないもの、形式とそのコード化された意義を超過した過剰そのものである。顔を向かい合わせるということは、他者から他者へと伝達されるメッセージの交換を中断させる、感嘆の行為なのである。[94]

 ゴフマンを応用すれば、ゴフマンからこぼれ落ちるものとして叙述できるかもしれない。

2020年12月30日(水)

 力を手にしよう。

■ジョルジョ・アガンベン『人権の彼方に――政治哲学ノート』(以文社、2002年) #3

さらには、産業化以降の大都市の郊外、あるいはアメリカの「門扉つきコミュニティ gated community」は、この意味で収容所に似てきている。[47-48]

 「身振りについての覚え書き」[53]

 マイナスからプラスへ向かうエネルギーしか引き出せないなら、それをうまく使いこなせるようになろう。

 マイナスとかプラスとか、そこに絶対的な価値はない。そこを行き来することで力が生まれるのなら、その力を生かすことを考える。

 自分にとっての力の根源にうろたえずに向き合えるようになる。

 そうやって世界を見る。

 ああ、フィールドワークに失敗はない。そういう救いもあった。

2020年12月28日(月)

 僕は僕らしく道を切り拓いていくしかない。自分らしさなど、ただそうするしかない、そうしかできないという話でしかないけど、それでどんな道を歩めるかは意志が力となる。

2020年12月26日(土)

■ジョルジョ・アガンベン『人権の彼方に――政治哲学ノート』(以文社、2002年) #2

 〈生の形式〉を読み終えた。『ホモ・サケル』はこの辺りを深めた本らしい。さっぱりわからん。これだったら『ホモ・サケル』をがんばって読んだ方がまだよさそうだ。

 リンギスを読んだ方がいいのかも。

 「人権の彼方に」[23]

 とにかく難民の話なんだな。

国民国家の政治的秩序に、純然たる自律的空間がない、ということは、最良の事例でも難民の立場が暫定的な条件であり、帰化ないし本国送還に至るのでなければならないものとみなされてきた、という事実を見れば明らかである。ありのままの人間の安定した立場は、国民国家の法権利にあっては構想することができない。[28]

 野宿者には生活保護を受ける人権しかない。

したがって、権利が人間に与えられるのは、人間が市民の登場とともに即座に消滅する前提である(人間は人間としては決して明るみに出てはならない)限りにおいてでしかない。[29]

 釜ヶ崎にいることがすでに難民としての地位を保証しているのかもしれない。それを当人たちはわかっている。それをわからない市民社会の住人たちだけが、彼らのためらいを不思議がるのかもしれない。

 そうであるなら、問われるべきは彼らがどのように釜ヶ崎に受け入れられているのかというところか。「アジール」と言ってしまえばそこまでである釜ヶ崎の実質をつかむ必要がある。

 そのようなものとして「センターの日」の事例を読み解く。何が可能となっているのか。どのように受け入れられているのか。まちづくりは釜ヶ崎を市民社会へと回収しようという試みに他ならない。「不平等の解消」を目指すものであるが、「非対称的な関係」を見ていない。

 だとしたらアナキズムなのかな。

 「人民とは何か?」[35]

今日では、それとは異なるとはいえそれに類した仕方で、発展によって貧しい諸階級を絶滅させようという民主主義的-資本主義的な企図が、排除された者たちという人民を自らの内に再生産するだけでなく、第三世界の住民全体を剥き出しの生へと変容させている。[41]

 「収容所とは何か?」[43]

■Swider, Sarah., 2015, "Building Chima: precarious employment among migrant construction workers," Works, employment and society, Vol. 29(1): 41-59.

 中国の建設産業では出稼労働者が不安定雇用で働いている。

 雇用関係(employment relationship)ではなく、雇用配置(employment configuration)の概念?

 「インフォーマル労働の概念化」[42]。

 インフォーマル労働の2つのカテゴリー、賃労働と自営[5]

 青木秀男の新貧困層、新労務層の議論みたい。

2020年12月25日(金)

 夜更かしして授業の準備をせざるをえなかった。やはりしんどい。

■ジョルジョ・アガンベン『人権の彼方に――政治哲学ノート』(以文社、2002年) #1

 こっちの本の方が『ホモ・サケル』より入りやすそう。

 「序」。「主権権力と剥き出しの生との関係に照らしてわれわれの政治の伝統の範疇全体を再考すること」[6]。

 とりあえずあと少し。

2020年12月24日(木)

 一度落ちた力はなかなか戻りにくい。

 いったん低下した意欲を取り戻すのは難しい……。

■ジョルジョ・アガンベン『ホモ・サケル――主権権力と剥き出しの生』(以文社、2003年) #3

 「二 主権者たるコスモス」。

すなわち、主権者とは、暴力と法権利のあいだが不分明になる点であり、暴力が法権利へ、法権利が暴力へと移行する境界線だ、ということである。

2020年12月23日(水)

 体調大丈夫かな。昨夜かなりしんどかったぞ。

 このまま終われるものか。

2020年12月22日(火)

■ジョルジョ・アガンベン『ホモ・サケル――主権権力と剥き出しの生』(以文社、2003年) #2

本書の主人公は剥き出しの生である。すなわち聖なる人間(homo sacer)の、殺害可能かつ犠牲化不可能な生である。[17]
しかし、個々の人々のおこなう自分の意志による隷従が客観的権力と交流する点とはどのような点か? [14]

 ここをとらえたい。

生政治的な身体を生産することは主権権力本来の権能なのである。[14]
アリストテレスによる定義においてさらに問われなければならないのは、これまでのような、政治的なものの目的としての「善く生きること」の意味や様態やありうべき結びつきだけではない。むしろ必要なのは、西洋の政治がまず剥き出しの生の排除(それは同時に内包でもある)によって自らを構成するのはなぜかと問うことである。生が排除を通じて包含されるべきものとして提示されるとすれば、政治と生の関係とはどのようなものなのか? [15]

 「剥き出しの生」が一番最初に出てくるのはここ?

政治が存在するのは、人間が、言語活動において自分の剥き出しの生を分離し自分に対立させ、同時に、その剥き出しの生との関係を包含的排除の内に維持する生きものだからだ。[16-17]

 「第一部 主権の論理」「一 主権の逆説」。

したがって、例外状態とは、秩序に先行する混沌のことではなく、秩序の宙吊りから結果する状況のことである。[29]
したがって例外状態は、原型においては、あらゆる法的な局所化の原則である。というのは、例外状態だけが、これこれの秩序の固定、これこれの領土規定の固定がはじめて可能になる空間を開くからである。しかし、例外状態は、それ自体としては、本質的に局所化されない。[31]

 一.四は何を言ってるやらさっぱりわからない。例外状態を言語学的に解説している。

例外関係は、一つの締め出し関係である。実のところ、締め出された者は、単に法の外に置かれて法と無関係なものとされるのではない。彼は法によって締め出され遺棄されるのであり、生と法権利、外と内が混同されるこの境界線に露出され危険にさらされるのである。[45]

2020年12月21日(月)

■西澤晃彦、2005「檻のない牢獄」岩田正美・西澤晃彦編著『貧困と社会的排除――福祉社会を蝕むもの』ミネルヴァ書房: 263-284。 #2

 距離の規範ねぇ……。

 あくまで関係性の分析になっている。

 やはり「剥き出しの生」の方を確認しないとなんとも言えない。

■ジョルジョ・アガンベン『ホモ・サケル――主権権力と剥き出しの生』(以文社、2003年) #1

 やはり生政治がどうとかいう話だなあ。これを空間とどう結びつけるのか。

 渉猟していこう。

 とらわれていれば視野が狭くなる。視野が狭くなればなおさら取り逃がす。

2020年12月20日(日)

 どうしてこんなに疲れて落ち込むのか。

 胸に空いた穴。何の穴?

 言葉にならない。分かっている。分かっているのに届かない。

 害に満ちる。害に満ち、しかし溢れず。そういう意味なのだとすれば、道の開き方は分かる。

 力は一つにまとまらない。それぞれがまとまろうとするがゆえに打ち消し合う。それなら、今必要なのはまとまろうとする努力ではない。一つにまとまれず、打ち消し合う力に引き裂かれれば、こんなに害悪に満ちたものはない。こんな害悪につかまる人間も他にはいない。それなら、それが僕の力でもあるのかもしれない。

 そうなることを本当に願うなら、僕はもっと大きなものを見なければいけない。小さなことに振り回されているようではいけない。

 宿命。預定説か。

 先は見えなくとも、信じることは力になる。

2020年12月19日(土)

■西澤晃彦、2005「檻のない牢獄」岩田正美・西澤晃彦編著『貧困と社会的排除――福祉社会を蝕むもの』ミネルヴァ書房: 263-284。 #1

この牢獄は、(1)排除の空間、(2)自己否定の空間、(3)死を待つ空間の3つの特徴を持つ。[263]
檻のない牢獄における、檻のないことの意味が、恐らくは重要になるだろう。[266]

2020年12月17日(木)

 迷路。

 やっぱりこの移動時間は何かしようとしなくても、何もできなくてもいいと思うべきなのでは。週の真ん中を過ぎてしんどくなるタイミングでもあろうし。

■西澤晃彦、2006「亡霊の声――野宿者の抗いと抵抗」狩谷あゆみ編『不埒な希望――ホームレス/寄せ場をめぐる社会学』松籟社: 241-278。 #1

こうした下層の人々に関する物語形式の登場と定着は、高度成長期を通じて下層地域集団が不可視化されるに伴い、集団を対象とするおどろおどろしい比喩による暗黒化の技法に代わって、個人を対象としたからかいの技法へと、言説による排除の操作が変容していったことを示唆している。[245]
野宿者の生への抗いは、閉じられた公共的空間へと介入する社会的な抵抗へと繋がり得るものなのだろうか。それが隘路であることは明らかだ。だが、そうした隘路を過程として捉え、抗いから抵抗へと展開する条件について考察することは、野宿者研究の課題の一つである筈だ。[247]
ここでは、まず2、3節において、主に野宿者の語りの解釈から、野宿者が剥き出しの生への還元に抗って自己を再構築する諸相について検討する。2節では、野宿者が、過去から自己の内容となる要素を調達する個人的方法について述べる。3節では、野宿者が、そこに自己を位置づけることによって自己を再構築する、野宿者の社会的世界について述べる。そこまで抗いという次元における議論であるとすれば、4節では、抗いが抵抗へと転化する、露呈という局面について検討していく。[247-248]

 すごく面白そうだが、はたして……。

 Xさんの事例の解釈はどうかなあ……。

 「檻のない牢獄における自己の再構築の試み」[253]。仕事にこだわるとか、マスメディアと関わろうとするとか、ペットを飼うとか、「檻のない牢獄」を語るにしては事例が軽すぎるような……。

だが、そこにおける方便は、矜持を守るために彼自身に向けて作り上げてきた言葉であるのかもしれないのだ。[254]

 剥き出しの生ってなんだ……。

 野宿者の生活世界を平面で描けるだけの基盤がないのか。

そもそも公共的空間への参加を許されておらず、問題の構築過程一切に関与しようがない窮鼠は、牢獄の割れ目を通じ、私を生かすのか殺すのかという直裁な問いをぶつけるより他ない。[274]

 これが結論かな。

2020年12月16日(水)

■E.ゴッフマン『アサイラム――施設非収容者の日常世界』(誠信書房、1984年) #2

 頭に入ってこない。

2020年12月15日(火)

 仕事がきつすぎる。そういうことも織り込み済みでコンディションを整えていくしかないのかな。

 どうせ乗り越える苦しみなら、深刻にとらえることもないのか。

■E.ゴッフマン『集まりの構造――新しい日常行動論を求めて』(誠信書房、1980年) #8

 「開放区」[141]。

■E.ゴッフマン『アサイラム――施設非収容者の日常世界』(誠信書房、1984年)

第二に、構成員の日常活動の各局面が同じ扱いを受け、同じ事を一緒にするように要求されている多くの他人の面前で進行する。[6]

 監督者、監視者としての看護師の事例。

 被収容者の世界と職員の世界、二つの視角から考察する。

 「第一章 被収容者の世界」。

 なぜ全制的施設が明らかにされねばならないのか。なぜ全制的施設という問題設定が必要とされるのか。

 そもそも精神病院が問題視されていた時代状況があるのだろうけど、ある建造物なり、制度なりによって作られた状況が、人間の行動を支配するために用いられている事実と、そのメカニズムを明らかにするためか。

 全制的施設でなくとも、そのような支配を作り出す状況の創出は社会の中に見出せるはずだ。また、そうした支配的な状況から抜け出すためのふるまい方や、そのための資源もあるはずだ。後者が都市のコモンズということになるのだろうか。

 それなら、まずは支配的な状況の方を描き出す必要がある。これは先行研究から導き出すことになるだろう。そして、後者についてはアジールとしての寄せ場、路上コミュニティの議論を引き合いにして、前者とすり合わせていく作業になるだろう。

 寄せ場研究を、野宿者研究を経由して、もう一度生み出さないといけない。

新米の被収容者は、彼の帰属する家郷世界におけるいくつかの堅固な社会的仕組によって作り出された自分自身の自己についてある観念像をもって特定営造物に来る。入所すると直ちに、彼はそのような仕組によって与えられていた支柱を剥奪されるのである。[15-16]
被収容者は一般に決して完全に孤独になることはない。彼は常に誰か――たとえそれが彼と同類の被収容者であっても――の視野または聴力の範囲内にある。[26-27]

 野宿状態とは、ある意味開放的な全制的施設なのかもしれない。

 アガンベンかな。

 基本的には監視や管理のあり方かな。被収容者の世界。

2020年12月14日(月)

 浮き沈み。

 つまらないことにとらわれていたくない。それなのにどうして、つまらないことにとらわれてしまったのか。

 外形的なことで言えば、なんだかんだいって一週間の仕事をやり切るのは大変だということ。

 また、そうする中で、同時に自分自身を鼓舞してがんばろうとするから、がんばったらがんばっただけ、自分で築いてしまった思わぬ落差に足元をすくわれてしまう。

 土曜日にはもう少し本を読む時間的な余裕があったのに、あまり身が入らなかった。もっと休む時間が必要なのだろう。

2020年12月13日(日)

 えらいことだ。

2020年12月12日(土)

■アルフォンソ・リンギス『何も共有していない者たちの共同体』(2006年、洛北出版) #3

 「顔、偶像、フェティッシュ」。

■中河伸俊・渡辺克典編『触発するゴフマン――やりとりの秩序の社会学』(2015年、新曜社)

 うーん。

 『儀礼としての相互行為』は新訳が出ていたのか。

■E.ゴッフマン『集まりの構造――新しい日常行動論を求めて』(誠信書房、1980年) #7

 読書に身が入らない。

これらふたつのルールには、共通の基本的原理が機能しているように思われる。つまり、出会いを許すことによって、個人の利益がそこなわれてはならないということである。[132]
しかし、単なる職業的関係以上のかかわりをもたなければならない社会的立場の人もいる。たとえば、街かどでは、警官や牧師、時には新聞売りなどは、情報と援助を求めるさまざまな人びとの接近を受ける。[133]

 ビラを貼る支援者か。仕事を探す労働者。

これらの立場は社会的な価値に乏しく、このような立場にいる人びとは対面的かかわりによって失うものが何もないと考えられているので、他者は意のままに接近できるのである。[133-134]

 うーん、示唆的だな。

この理由から、アメリカでははじめてフォルクスワーゲンを運転した人たちは、行く先ざきでさまざまな人びとからひやかされたにもかかわらず、平気であった。彼らは、本当の自分を表わしているとは思わなかったからである。[134-135]

 この第八章は、僕の研究とのかかわりではかなり重要なのでは。「知り合いでない者どうしのかかわり」だ。

 ゴフマンは読んでいてところどころで面白いのだが、全体としてどういう筋で、何を語ろうとしているのかがわからなくなる。

 いや、章立てを見れば、場面ごとに切り分けて論じていることはわかる。それなら、自分の関心がある場面について、辞書的にインデックスをめぐるように活用すればいいのかな。

 自分が疑っているものを他人に信じさせることができる法はないな。

2020年12月11日(金)

■アルフォンソ・リンギス『何も共有していない者たちの共同体』(2006年、洛北出版) #2

それは、自分が属する共同体のアイデンティティをもち、自分自身の性質を生み出す者にたいして、その人と何も共有していない人、すなわち見知らぬ人に、自分自身を曝すように求める共同体である。[27]

 侵入者。

彼または彼女の思考に課せられているものを、自然の因果律としてではなく、命令として感じとることは、私にとっても命令的な力として感じ取ることである。[49]

 そうだな。自分でも予測もしていなかったところまで行こう。

 こんな状態じゃまったく納得がいかない。バカげた空想でもいいじゃないか。ビジョンのないところへは向かうことすらできない。

 バカげた空想じゃない。もう僕の中にあるんじゃないか。これを高めていくことを考えればいい。

 これをもっと味わえることを考えればいい。これを形にしていけばいい。

 こんなことを数ヶ月前には思えなかった。それならこの道はまちがっていないし、この道を進み続けなければまちがいになってしまう。正しいものはあとからついてくるし、すでに正しい道を歩んでいる。

2020年12月10日(木)

 今を抜け出して、たどり着きたい場所までたどり着くためには、過去に囚われている場合ではない。この際、過去を忘れてでも今を生き抜くべきなのだ。

 足りない時間、満たされない気持ちが新しいものを生み出す。生み出されるものは常に不完全さをともなうが、そうでなければ新しいものは生まれてこない。新しいものを生み出す者は、この矛盾を引き受ける覚悟を持って進まねばならない。

 少しずつでいい。少しずつしかできないし、実際少しずつしか進まない。

■アルフォンソ・リンギス『何も共有していない者たちの共同体』(2006年、洛北出版) #1

 釜ヶ崎や路上にいることは、死に近い感覚があるのだろうか。誰もが初めて経験する世界、ほとんどの人は知りもしない、想像もできない世界という意味で。

私たちの世代は、つきつめれば、カンボジアやソマリアの人びと、そして私たち自身の都市の路上で生活する、社会から追放された人びとを見捨てることによって、今まさに審判を受けているのだ、と。[12]

 「もう一つ別の共同体」。

2020年12月9日(水)

 少しダウンシフトしないと身がもたなさそう。

2020年12月8日(火)

 メモ:11月23日はABEMA TVでるろうに剣心の新京都編を見てめちゃ泣いた。

 立ち止まらない限り、自分の中に力は集まってくる。つらいことや挫けそうになることがあるのは、いつでもそうだ。そこであきらめてしまえばそれまでのこと。あきらめないことは理屈ではない。

■E.ゴッフマン『集まりの構造――新しい日常行動論を求めて』(誠信書房、1980年) #6

たとえば、見知らぬ人が近づいてきて何かを落したことを知らせてくれたり、橋が落ちていることを教えてくれたりする。似たような理由で、状況に居合わせた人に、さらに居合わせなくても居合わせた人が仲立ちしてくれる人に対して接近することが許されるのである。[110-111]

 そうか、今のセンターの建て替えの議論がまずいのは、このような相互了解の積み重ねがセンターに結実する流れを断ち切ってしまうからだ。

 コンプライアンスで路上の権利を押し潰そうとしている。路上の権利はコンプライアンス以前に守られなければならない人として当たり前の規則なのに。

また、他人の接近に応じる時には自分の立場が尊重され、接近に応じることによって高価な代償を支払わされることにはならないという期待のもとで、それを許可するともいえる。[112]

 第八章 知り合いでない者どうしのかかわり。

2020年12月7日(月)

 無私になる。無私であるとはどのようなことか。私を無くすことではないのだと思う。僕がこれまでやってきたようなこと、私を手がかりに世界を知ること。それをもっと突きつめたところ。

■E.ゴッフマン『集まりの構造――新しい日常行動論を求めて』(誠信書房、1980年) #5

会話によるかかわりには、少なくともわれわれの社会では、ある種の空間的慣習があるようである。家具の配置によって、数フィートも離れて座らされる人たちは、インフォーマルな話は維持しにくいと感じるであろうし、一フィートそこそこの間しかない位置に立たされた人たちは、顔を見合っては話しにくく、やむをえず、たがいに横を向いて話すことになりがちである。[105]

 第七章 知り合いどうしのかかわり。

2020年12月6日(日)

 この出口も、先行きも見えないこの道を、ただ歩む中にもそのような意味があるなら、もっと広く物事を見ていける。

 はー、相変わらずの浮き沈み。

 やはり力が欲しい。流されてしまわずに受け止められる力、そんなことから力を引き出せる力。

 何も間違えていないけれど、組み合わせがところどころ間違っていて、それが禍いを招いているのか。

 これが間違いで終わるか、何も間違っていないところまで行けるのかは、まずは僕が今までの自分を超えて進み続けられるかどうかによるのだろう。

 ああ、そうか。これが熟慮なのか。

 一つひとつは何も間違えていないけど、調和が取れていないから、どれもうまくいかない。

 やばいな。これ復元できるのかな。

 知れば乗り越えられる。知ればそれはいずれ過去になる。

2020年12月5日(土)

 言ってみるものだ。

■E.ゴッフマン『集まりの構造――新しい日常行動論を求めて』(誠信書房、1980年) #4

 使えそうで使えないゴフマン。なぜ使えないのだろう?

 何か使えそうな気がするのに、なぜ使えないのか。これを使うためには膨大な背景情報を埋めないといけないからかな。

 こういうことを徹底してやったところにゴフマンの偉大さがあるのだろうけど、はたして徹底してやり切ったのかどうか僕は知らない。

 もっと知ることだな。知ることと関わること。因果のないところに何かを望むことなどできない。

 ゴフマンも、もしかしたらそのような道を歩もうとしたのだろうか。軽んじられ、罵られつつも、圧倒的な支持も得られるような、不完全ながら歩まざるをえない、歩むべき道を。

2020年12月4日(金)

 空しいな。

 あると思っていたものの中身がない。まさに空しいというものかもしれない。

■E.ゴッフマン『集まりの構造――新しい日常行動論を求めて』(誠信書房、1980年) #3

すなわち、指示された仕事をしているように見せかけたり、点検の時だけ場面にかかわりのある主要関与をしているように装ったりする。[61]

 ゴフマンの書いていることはよくわかる気がするし、こういう分析視角を持てば、われわれは社会のことをもっと理解できるような気がする。しかし、ゴフマンの分析視角では、実のところ何も分からない。

たとえば、ある都市の公共図書館では、職員と浮浪者との間に、浮浪者は貸し出した本を頭の前で支えている限り居眠りをしてもよいという暗黙の了解がある。[61]
シカゴでは、ルンペン服を着た人間は、「主要街路」ではのらくら行為は許されるが、この領域をいったん離れると、仕事の目的地に向かっているような振舞をしなければならない。[62]

 こういう「使えそう」な事例がふんだんに詰め込まれているが、驚くほど何にも使えない。たとえ、論文の中で引用するとしても、われわれはゴフマンの「目の付け所」を借りているに過ぎない。

 あるいはゴフマンはまだ見ぬ可能性の世界への扉を開けてくれているのかもしれない。無数の扉の体系としてゴフマンの社会学があるという言い方もできる。

同じように、浮浪者だった人が語るところによると、自分の外観や目的が実際に行動している場面にふさわしくない時には、意図的に適切な従属的関与をとらなければならない。つまり、自分の支配的関与とこうした従属的関与とは関連があるというのとを他の人びとに確信させなければならない。[65]

 第五章 関与対象に関する規則。

 センターはおそらくこういうことで満ちている。ゴフマンは人びとの行為を観察して、その規則や意図を考察したが、僕がやらなければならないのは、そうした規則や意図を持つ行為が行われなければならない状況の分析だ。

 ゴフマンは状況を分析しているように言われるが、本当にそうだろうか。状況の規則を分析してはいても、状況を分析しているわけではない。この辺が昔から感じていたゴフマンに対する違和感だったのか。

 第III部 焦点の定まった相互作用。第六章 対面的かかわり。

2020年12月3日(木)

 ようやく記事が載るらしい。まじかー。

2020年12月2日(水)

 疲労がやばい。

2020年12月1日(火)

 苦しい。

 何が苦しいって現状を打開するために費やせる時間を取ることができないことが一番苦しい。

■E.ゴッフマン『集まりの構造――新しい日常行動論を求めて』(誠信書房、1980年) #2

他の関心が何であれ、単純状況的な興味が何であれ、状況に入ったら状況に必要な「役割をにない」状況にの中にいる間は「役割に徹し」て、状況から正式に抜け出ることがでにるまでは、、たとえ散漫であっても、状況に適合するように要求される。[28]

 センターの秩序、場の意味を明らかにするためにはこのような意味での状況を相互行為から読み解いていかなければならない。

 第II部 商店の定まらない相互作用、第三章 関与。

 何に敏感になるべきか。自分の中にゴッフマンを読み解いていく基準を持たないといけない。

 関与シールドとかいう必要あるか?

 ゴフマンはいるのかいらんのかよくわからない概念を次から次へと付け加えていく。

 第四章 関与配分に関する規則。

 ゴフマンはどうしてこんな研究をしていたのか。

2020年11月30日(月)

 研究自体がやはりプラグマティズムなのか。

 それもまた目的ではなく衝動なのか。向き合うべきはただ熟慮にある。

2020年11月29日(日)

 狂おしい。

 大切なのは何をやっていくか。それならすぐにでも形にしていける。そうすることですでに実現しているとも言える。

 もともと何を求めていたのか。そうすることを求めていたのではないか。それはどういうことなのか。見つけていくことと変えていくことを。

 習慣が衝動と出会って、その解決を模索することが熟慮であり、熟慮の終わるところに目的が生まれる。

2020年11月28日(土)

 今日もよく働いた。はー。

2020年11月27日(金)

■E.ゴッフマン『集まりの構造――新しい日常行動論を求めて』(誠信書房、1980年) #1

 この辺がセンターの分析には重要そう。

われわれは自分がこの過程を見ていることを相手から見られるだけでなく、相手から見られているということを見ることもできる。[18]
状況の成立には、視界の相互性がなければならない。このような単位の全域を強調する時には、状況全体という用語を用いることもある。[20]

 社会的場面[20]。

公共の秩序は、人と人の対面的相互作用の側面についていうならば、このような接近可能性を規制する規範なのである。[25]

2020年11月26日(木)

 どうしたものか。

 今後の展開とこれまでの展開と。怠け者。普通。

2020年11月25日(水)

 ただ苦しいだけの日もある。

 すべてのものは力にもなれば、ただの重荷にもなる。

 もしこの苦しみがなければ、また別の苦しみが代わりにあっただけだろう。だったら、この苦しみを受け入れよう。

 なぜ辛いのかわかった。結局僕一人がやっていることだからだ。

 

2020年11月24日(火)

 とても移動中に片手間にできる作業でなかった。

2020年11月23日(月)

 勝手に思いつめている。別に何か起こっているわけでも何かされたわけでもないのに。

 こんな忙しい毎日ではやれることにも限界がある。

 何のためにこんな思いをして何と戦わなければいけないのか。

 わかっている。きちんと見ていかないといけない。見ようとしなければ見えない。

2020年11月22日(日)

■「センターの日」分析 #2

 朝一でもう一つ頭が回らない。最初の数行からすごく重要なことの整理ができそうなのだが。

 「センターの日です」と言って、それが何なのか訊かれても、ろくな説明もできない。せいぜい「月に一回、労働者の声を聞こうと思ってやっている」くらいのもの。「何を聞きたいのか」と問われても、明確な問いがあるわけでもない。その問い自体を探し求めている。

 「労働者の声を聞く」という言葉の実体がよく分からない。そう、そんなものは当の労働者にだって分かりはしない。「どう思っているのか」「何をして欲しいのか」などと問うこと自体がどこか傲慢な態度なのだと感じている。なぜそんなことを問われなければならないのか。問うこと自体が排除につながっている。問いかけるのであれ、問わず語りに聞かれるのであれ、言葉になったものだけを拾い上げ、そこから何かを作り上げようとすれば、言葉にならない声は排除されていく。まちづくりとは〈語らせる暴力〉と言えるかもしれない。

 「労働者のみなさんの声を聞かせて下さい」と言いつつ、問いかけることはしない。下手に問いかけても返ってくる答えは大体予測がついてしまうし、それが本音だとも思えない。

 「センターの日」の繰り返しを通して、少しずつ言葉を形にしていく。「センターの日」という場を条件として語られる言葉を捕まえていく。それを伝えるものであり、呼び水にしていく道具としてビラがあった(だから、あのビラは僕の迷いがそのまま表現されもする)。

 「センターの日」がセンターの空間にどんなふうに網を広げていけるのかもわからない。こたつを設置してコーヒーとお茶菓子を出す、後には映画を上映する、写真を展示するというのも網の広げ方であり、ビラを配りながら話をすることも網の広げ方の一つだった。できることがそんなにたくさんあるわけではない。しかし、拙いながらその一つ一つがそれぞれ捕まえられているものがあるはずだ。そういう意味で「センターの日」の取り組みに失敗はない。空振りという意味で失敗に思えたとしても、それはそういう形で何かを捕まえている。

 千里の道も一歩から、と。

2020年11月20日(金)

 さて、どう見ていけばいいのか。

 決まっている。感情の揺れ動きから見ていけばいいんだ。

2020年11月19日(木)

 やっかいなダンジョンの奥深くまで入り込んでしまった。まずはこのダンジョンを抜け出さないといけない。

2020年11月15日(日)

 謎のモヤモヤ。お腹が減っているのか、二日酔いか。

2020年11月14日(土)

■「センターの日」分析 #1

 「センターの日」がなかなか聞き取りに「ならない」ことにも意味があるのかも。

 NPOに対する距離感、稲垣さんに対する反応なども意味を見出せるかも。

 力はこの歩みの中に織り込まれている。自分と世界との関わりの中に織り込まれている。それなら世界と自分は一つなのかもしれない。力はいつでも自分のそばにあるし、それはそのようにして世界と関わることから生まれている。世界と自分を分けることはできないし、世界との関わり方は当人に固有のものでもある。

2020年11月12日(木)

 やった。

2020年11月10日(火)

 力を湧き上がらせることができるかどうかは、ただ意識の持ち方だけでなく、生活様式によっても支えられている。生活様式を変えたり、維持したりするのは意識の持ち方でもあり、生活様式によって意識が保たれるものでもあるというわけだ。

2020年11月9日(月)

 邪念にとらわれている。

2020年11月8日(日)

 少しでも変えていかなければ。

2020年11月6日(金)

 髪切った。疲れた。

2020年11月5日(木)

 困難の中に力を与えたまえ。

 困難の中にあるから力になる。そういう力を使っている。

2020年11月4日(水)

 今日は清々しい気分で朝をスタートさせられた。

 さすが天水訟か。

 困難の中に機会がある。

 困難の中に機会を与えたまえ。

 こんな酷い状況で当たり前の生き方などありえない。困難の中に機会を与えたまえ。闇の中でなければ光は見つけられない。困難の中に機会を与えたまえ。

2020年10月31日(土)

 手を合わせている時も踊っているのだと考えれば、それは自分の身内から力を高めることだろう。

 しがらみはすべて僕に気づくべきことを教えてくれる糧になるのだと思えば、思い迷わされることもない。

2020年10月30日(金)

 眠い、だるい。こういうものが無くなるか、気にならなくなればいいのに。

 力はいつも自分の中にある。

2020年10月29日(木)

 やはり僕は力を求めているらしい。力は自分の中にある。それを高めてどこへ注ぐのかを見極めていこう。

 あるのは超える道だけだと思え。

2020年10月26日(月)

 早起きしてお寺参りをはじめる。

 僕が集合的記憶を扱うなら、心理学的な記憶も分析に引き込むべきなのかもしれない。

 「センターの日」で見出される記憶の構造と、まちづくりの場や行動委員会によって構築される記憶とは異なるものだとすれば、その比較をすればいいのかもしれない。

2020年10月23日(金)

 エーリッヒ・フロム『疑惑と行動――マルクスとフロイトとわたくし』(東京創元社、1965年)を読んでいる。

2020年10月22日(木)

 持つこととあることについて、もう一度考えてみたくなった。

2020年10月19日(月)

 はっ。またしばらく存在を忘れ去っていた。忙しすぎて手を休める暇がない。

2020年10月15日(木)

 敷きパッド買ったらめちゃくちゃ暖かくなった。買ってよかった。

2020年10月13日(火)

 寝起きがすっきりしない毎日。

 コロナ体制がじわじわ効いてくる。

2020年10月12日(月)

 いくらやっても仕事はきりがない。

2020年10月11日(日)

 何か変わったか。

 二日酔いと体調不良もあるけど、たぶん準備期間が終わって、これが当たり前のものとして始まったのかもしれない。

2020年10月10日(土)

 体調悪いなー。

2020年10月9日(金)

 あっという間に金曜日だ。

 読み終わった。

2020年10月6日(火)

 M.スコット・ペック『平気で嘘をつく人たち――虚偽と邪悪の心理学』(森英明訳、1996年、草思社)を読みはじめる。

2020年10月5日(月)

 結局、書くことで解決していくしかないのかもしれない。

 燃えたぎる苦しさ。そういうものは無くなったけど、別の苦しさに捕われている。慣れるに任せられるかと思っていたが、少しずつでも切り分けていった方がいいかもしれない。

 コメントに目を通す余裕なんて無いよ……。デジタル疲れるよ。

2020年10月4日(日)

 仕事しかしてない。熟睡できない。

2020年10月2日(金)

 更新したいという気がまったくなく、更新することを思い出しもしない。

2020年9月26日(土)

 ようやく読み終わった。

2020年9月25日(金)

 眠たい。

 風邪ひきかけている。

2020年9月24日(木)

 はー、授業どうしよう。

 なんかめちゃくちゃ疲れた……。

 疲れは取れる。痛みは薄れる。うろたえないこともできるのが人間性か。

2020年9月23日(水)

 読んでみればたいした本ではなかったな。

 「センターの日」は失敗しているところに意味が現れる。波立たないことが逆に意味を際立たせる。そのように読み解いていくことができるのではないか。

2020年9月22日(火)

 今朝、ふと思い立って、ポール・ラビノー『異文化の理解――モロッコのフィールドワークから』(岩波現代選書、1980年)を読みはじめる。読みやすい。しかし、これは人類学者しか面白くないエッセイみたいなものではないか。

 訳者あとがきを読む。やはりこの本はB面的な位置づけか。

2020年9月21日(月)

 眠い。頭痛い。さすがに休肝日にしようか。

 顔に出てる……。

2020年9月20日(日)

 どうも更新を忘れる。残り1、2分で更新。

2020年9月19日(土)

 良くなったこと、失ったもの、得たもの。

 どちらにせよ変わらないものもある。大変さ、苦しさの変わらないものもある。そういうものに引きずられて悲観的になるのは愚かなこと。

2020年9月15日(火)

 なんかやる気しないな。疲れてるのかもしれない。飲み過ぎもあるけど。

2020年9月14日(月)

 痛みもなくたどり着ける場所なんてない。

 釜ヶ崎のなかではみんなリラックスしている。自分の家のなかで家族や友人に知り合いに話しかけるように路上で見知らぬ人に話しかける。

 このような人間関係はもちろん釜ヶ崎にだけあるものではなく、同質性が保たれた地域の範囲でなら成立しうるものなのだろう。

 しかし、これはある範囲を超えても、下回っても成立しえないものだ。その場についての社会的合意が背後にある。

 コモンズをコントロール可能なものと想定する議論には疑問がわいてしまう。

2020年9月12日(土)

 何か捻り出せ。

 何かが共有されている。手伝う。もらう。

 運命を共にすること。災害ユートピア? 何も共有しないものたちの共同体?

 そこでしか形成されない関係の意味、その実体をつかむ。

2020年9月11日(金)

 体調悪くて更新忘れてた。今日は引っ越し。

2020年9月8日(火)

 表でも作るか。

 「センターの日」は成功してなくてもいいのかもしれない。というか、「センターの日」に成功も失敗もないのか。

 かなりうんざりするな。ご立派なことだ。

 「センターの日」について説明できないというところにすでに意味はあるのでは。

2020年9月7日(月)

 行きつ戻りつ進んではいるのだろうけど。

2020年9月6日(日)

■五十嵐敬喜・小川明雄『都市計画――利権の構図を超えて』(1993年岩波新書)

 「総合設計制度」「ビル建設の際に敷地内にミニ公園などをつくれば、高さや容積率の規制を緩和するという制度」[7]。京都市では1988年に導入。京都ホテル。

 京都駅のケース。「特定街区制度」「いくつかのビル群の建設をめぐって公園など一定の公共的なスペースを提供する、高層化されても交通混雑をおこさないなどの条件を満たせば、指定されている用途地域の容積率、建ぺい率、高さなどの規制を大幅に緩和する制度」[9]。

 「区画整理法」。

 久しぶりにグサっと来たなあ。いらんこと訊いた。

 またつらい。結局そこか。

 落ち込むことのない人生などないだろうが……。

 あーあ。荒れてるなあ……。

 何と目まぐるしい日々なのだろう。

2020年9月5日(土)

 昨日は本読めたけど、今日はあまり読めない。

 後半は事例紹介ないしエッセイレベル。

 出発点では革新的なことを言っていても、裾野を広げていくと似通ったものになってしまう。

2020年9月4日(金)

■「センターの日」論文化 #8

 この見出しはあまり良くないな。力みが出てしまう。

 どこをとっかかりにすべきか。「センターの日」の展開そのものに沿って、というのでもいいと思うけど。

 エピソード記述は調査者自身の経験の暗黙知を言語化しているのだろうか。

 福島真人『暗黙知の解剖――認知と社会のインターフェイス』(2001年、金子書房)読み終わった。面白かった。

■鳥越皓之『環境社会学の理論と実践』(1997年、有斐閣)

 環境社会学はすでに都市のコモンズをとらえる視角を持っていたということか。

 環境権とは狭義には都市への権利でもあるのかもしれない。

 何が言えるかは先行研究をもっと読み込まないと見えてこないし、それは大した問題ではない。

 大切なことはなんだろう。それは政治的な状況でもある。

2020年9月3日(木)

■「センターの日」論文化 #7

 「センターの日」をもっと深掘りしないといけない。

 答えは自分の中にしかない。

 本当のはじまりについて考えてみる。

 考えた。

2020年9月2日(水)

 酒が抜けないな。

2020年9月1日(火)

 つらい。

2020年8月31日(月)

 この燃えたぎる苦しさは明日も続くのか。

 もう明日死んでも構わない。

 自分で作ったチャンス、自分で選んだチャンスを無駄にしていいわけがない。

 身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ。

2020年8月30日(日)

■シャロン・ズーキン『都市はなぜ魂を失ったか――ジェイコブズ後のニューヨーク論』(講談社、2013年) #5

 何も書くほど読まなかった。

 胸が押し潰されそうにつらい。

2020年8月29日(土)

■シャロン・ズーキン『都市はなぜ魂を失ったか――ジェイコブズ後のニューヨーク論』(講談社、2013年) #4

 第一章の続き。人が集まるということはとにかく力になるんだな。

 もしそうであるなら、人が集まらなくなれば、その場所は資本や入り込んでくる人たちのモノになるのだろうか。しかし、そこに排除の意図があるなら、抗う余地はある。

 今の釜ヶ崎にどれほど都市下層にとっての場所を主張する根拠を見出せるのか。その必要性を浮き彫りにするためのツールとしてコモンズ論がある。

 「ゴミや危機までをも、新しい文化的な商品の一部に変えてしまえような象徴的な経済の能力」[77]。

 だー、なかなか吹っ切れるもんでもないな。苦しい。

 外からやってきた人たちが守ろうとする釜ヶ崎像。

 反排除と占拠を特徴とする?

 第二章「ハーレムはなぜ「ゲットー」を脱したのか」[94]。

 どのようなコモンズであるのか。人が集まることでコモンズが形成される。自然と人との関わりがコモンズだという立場がある。都市における自然とは何か。利用できるもの。資源。

 根本のところに立ち返ってみれば、問題としているのはセンターということになる。なぜセンターが問題なのか。建て替えるにしても、どのようなものに建て替えられるかはもちろん問題だし、建て替えられるあいだに代替地がなければいけない。それを保障するような対話と移行過程があって然るべきだが、そもそもセンターがどのような場所であるかがとらえきれていない。

 もっと根本に立ち返ればどうなる? 釜ヶ崎という場所の象徴的な意味があるのか。象徴的な存在感? センターが建っているうちはまだ大丈夫だろうという甘い見通しがあった? センターがあれば人は集まってくるだろうという期待? やはりセンターはそこに異質な場所、釜ヶ崎があるということを如実に物語る存在感があるし、釜ヶ崎の住人に利用されている場所でもある。

 そこに収められている施設の機能に対して、床面積の広大さも特徴の一つだろう。それは寄せ場として大勢の人を集めなければならなかったからだ。

 深夜から早朝の求人の時間帯を外せば、がらんとした建物に見えるのも特徴の一つか。その間は自由な利用ができる。もしかすると、センター以前の本来の青空労働市場としての寄せ場では、このようなことにはならなかったかもしれない。

 問わねばならないことは何か。危機感の中身はどのようなものだったか。他人事ではない。やはり外からの関心。外からかかわりつつ、内部との接点を作り出そうとしていた。本当は見つけ出そうとしていたものは、自分たちの中にあったのか。

 外からでも守らなければならないものがあるとすれば、それは何なのか。見えない……。まだ見えてこない。

 危機感の中身。センターのような場所。なぜセンターを守らなければならないのかが見えれば、僕たちが守らなければならないことの全体が見えてくるかもしれない。

 あー。西成特区構想とまちづくり。都市の統治の論理。その排除の構造を象徴的に読み取ろうとしている。何が排除されようとしているのか。それはどのようにして作られてきたものなのか。それは釜ヶ崎以外にもあるものなのだろうけど、その成立条件は何か。僕たちは何を守らないといけないのか。どうすればそれを守れるのか。

 奪われているものの裏返しでもある。奪われたものをどうすれば取り戻せるのか。持ちえないものをどうすれば得られるのか。それを都市の中で手に入れるために、都市をどのように使えるのか。どうすれば都市をコモンズにできるのか。

 資源は発見されるものだし、活用されるもの。発見され、活用されることで資源となる。その資源は専有されない。開かれているし、共有されることで資源となりうるようなところがある。

 共有地があって、共同で管理する仕組みがあればコモンズであるという見方は方向が逆なんだな。

 えー? じゃあどういうことになるの? 何を奪われているのか。仕事を奪われているし、寝る場所を奪われているし、ただ身を休める場所を奪われている。出会いを奪われている。語る相手を奪われている。

 センターにいる人たちの生活は釜ヶ崎を超えている。都市のなかに使える資源を見つけ出そうとしている。

 単にセンターを守ればいいという話ではない。守らなければならないものを理解したうえで、センターも守らなければならない。守るものも見えていなければ、たとえ建物が守れたとしても、守るべきものは守れないかもしれない。

 コモニングの議論もこの点が転倒しているように思う。拠点作りが目的になっている。奪われたところ、足りないところからの補填だと考えれば、コモンズがあることをさほど強調すべきではない。

 奪われているもの、失っているものは何なのか。それは可能性としてしか語れないのかもしれない。新しいものをありがたがっていいのかどうかを疑うことも必要だろう。

 つらい。やっぱりつらい。

 オーセンティシティという言葉がこんなに当たり前に使われているのだろうか。何のために? この言葉を使うことでどんな満足感が得られるのだろう。

 第3章「イーストビレッジで「地元」に住む」[138]。

 「反対運動」[140]という形でかろうじて、もう一方のオーセンティシティが語られるのか?

■「センターの日」論文化 #6

 結論は何なんだろうか。

 結論は結局、問い次第だろう。

 『理論と動態』12号の論文では「本稿の目的は、現代日本の都市空間において、ジェントリフィケーションに抗する 主体と場所が形成される可能性を、大阪城公園よろず相談の野宿者運動の事例を通して明らかにするところにある」とした。これも何か無理やりな感じがするけど、とりあえずこんなんでもいいんだろうか。

 階級闘争としてのジェントリフィケーション。都市のコモンズをめぐる闘争。

 コモンズとは何か。まず共有地のことであり、資源管理の仕組み。

 都市のコモンズとは。まちづくりや共有施設の自治的な管理の仕組みとして検討されるケース。

 「コモニング」の議論。ハーヴェイ、フォルニエ。その場を生み出し、維持する社会関係としてコモンズをとらえる立場。資本主義に対抗する拠点的な位置づけ。

 確かにオルタナティブな社会の可能性を秘めている言えなくはないが、社会運動の実践的な力が弱い日本社会の文脈では、もう一つリアリティに欠ける。

 対抗的な価値をアプリオリに設定するよりも、まずはコモンズとは何か、なぜコモンズが形成されるのかを問うべき。

 そもそもコモンズとは何か。コモンズは構築されるもの。資源は発見されるもの。あるところでは資源とみなされるものが、別のところでは資源とみなされなかったり、必ずしも共有地として管理されるわけでもない。社会的な文脈において、なぜその場所がコモンズとなったのか、どのような資源を共有しているのかを問わなければならない。

 伝統的コモンズ(自然資源)をめぐる議論では、資源が資源であることは自明視されてしまう。もともとそこに自然資源として存在するものであり、枯渇しないように維持すること(管理の仕組み)に関心が偏りがち。

 都市のコモンズといった場合、自然資源に対して所有権の在り方がシビア。また、道路であれ、建物であれ、「第二の自然」としての都市は、まずは都市生活のインフラたるべく目的を持って造られたものであるということ(ある意味、公共物として最初から共有を前提として造られたものであるし、「社会的共通資本」の概念はこの前提に立って社会的なインフラをとらえようとするもの)。

 しかし、コモニングの議論がとらえようとするコモンズは占有(スクウォット)によって獲得されるものであり、何らかのカテゴリー間の非対称的な関係を前提としている。

 伝統的コモンズの議論に立ち返れば、何らかの不足を埋めるものとして、発見されるからこそ、身近な自然環境の中から資源が発見される。また、そのような資源は専有が難しくする何らかの制限がある。それゆえに、独特のバランスを保って管理される必要がある。

 都市のコモンズも同じような視角からとらえられるべき。あるカテゴリーの人びとにとって、生活上の不足ないし、欠落を補うために、都市の中で発見され、専有の難しさを条件としながら、共同で利用され、維持・管理される。

 都市の統治の論理の変容。プライバタイゼーションの二つの側面(公共領域の民間団体への分与と地域自治の推奨)。商業化(観光化、消費空間化)する都市、その一つの趨勢としてのジェントリフィケーション。

 都市のコモンズがなぜ重要なのか。都市のコモンズは何を意味するのか。

 ポピュリズム政治の勢いにのって、二つのプライバタイゼーションが表裏一体となって、商業化が推進される大阪市。

 大阪城パークマネジメント事業、てんしば、日本型BIDと言われる大阪市エリアマネジメント条例。

 あるカテゴリーの人びとによる都市空間の占有としての釜ヶ崎と野宿者。2000年代に進行したテント村潰しとその後に来た都市空間の商業化、釜ヶ崎を直接ターゲットとした西成特区構想(西成特区構想はジェントリフィケーションとの関連で語られ、それ以前から釜ヶ崎とその周辺は観光化が進行していた。また西成特区構想はまちづくりとして実体化している)

 その釜ヶ崎における都市のコモンズの事例としてあいりん総合センターがある。

 あいりん総合センターを事例に、現在の都市の統治の論理の下に存在する都市のコモンズはいかなるものなのか、どのような社会的な意味を持つのかを明らかにする。

 結論的なところ。見えなくなる都市下層の人びと。都市を資源として活用する条件が損なわれている。今まだかろうじて生き延びている釜ヶ崎の何を守らなければならないのか。

 そもそも当たり前のものを奪われている人びとが多少なりともまともな暮らしを取り戻すための場所であり、共同が行われている場所が釜ヶ崎(であり、路上やテント村)。

 まちづくりが取りこぼしてしまっているもの。未来に結論を投影したプロジェクトでしかなく、社会過程として展開されていない点(なぜセンターが必要なのかを理解し、代替地を用意した上で、新しいセンターがどういうものでなければならないかを考案するといったプロセスになっていない)。そういう意味では、地域自治すらも道具として取り込んでいる都市企業家主義(ハーヴェイ)的な都市の統治の論理に対して、どう対抗しうるかをきちんと考える必要がある。

 あとは中身かなあ。

 「センターの日」というアプローチ。語りえないもの、センターの日常をとらえるための仕掛けとして。

 「センターの日」をはじめたきっかけと問題関心。「釜ヶ崎のことは釜ヶ崎でやればいい」という認識から、センターの建て替えの動きが実際はじまるとなると、釜ヶ崎が決定的に変容してしまう局面であるという認識へ。「釜ヶ崎のことは釜ヶ崎だけの問題ではない」という認識の芽生え。

 勝手に自分語りをはじめる人びと。

 労働者としてのアイデンティティをつなぎ止めるための場所。

 偶然で有益な出会いを生み出す可能性を持つ場所。

2020年8月28日(金)

 つらい。耐え続けるつらさと乗り越えるつらさとどちらがマシなのか。

 胸に穴が空いたような苦しみと胸が張り裂けそうな苦しみとはどちらがマシなのか。

 苦しみもつらさも無い方が良いに決まっている。

 自分を信じて、守りに入らずに力を高めていく方向に向かうしかないのか。

 もとよりそのような覚悟で決めてきたのではないか。もう悩む時期は過ぎ去ったととらえて踏み切るほかないだろう。

 大車、頑丈とも言われていたし、火天大有を意識して振り切るしかない。もう賭けてしまっているのだから。

 立ち止まらない、振り返らない構えをとっていけるように切り替えていくことが今の僕がやることだ。

■シャロン・ズーキン『都市はなぜ魂を失ったか――ジェイコブズ後のニューヨーク論』(講談社、2013年) #3

 一週間以上読めずにいた。

 オーセンティシティの構築過程とその比較分析みたいな話なのかな。

 真正性という言葉を用いながら、明らかにこれは構築的なものとして語られているし、対立的なものでもある。重要な分析概念として放り込まれている。

 今の釜ヶ崎で起きていることは、関わるものを誰一人として部外者にしない。大きな構造的な潮流に、それぞれがそれぞれの意図を持って乗り込んでいる。

 そこで僕は僕の立ち位置を主観的でありながら客観的につかまえなければいけない。

 しかしまあ読みづらい。

 第一章「ブルックリンはどのようにして「クールな」場所になったか」[54]。メディアに踊らされているのかな。メディアの役割、というか機能は無視できない。メディアが勘違いを生む。勘違いを現実に繋留するものは何だろう。それはさまざまな期待外れな出来事という形でしか確かめられないのかもしれない。

 うーん、やっぱりいったん文字にしないと理解が深まらないんだな。いったん文字にししまえばどうとでもなるということでもあるんだろうけど……。不器用なのか器用なのかわからん。

 それならとにかく一度はそれをやらんとあかんから、それをやるのにかかる時間を考慮して、そのための時間をいかに確保するかを考えるしかない。

2020年8月27日(木)

 めちゃくちゃつらい。

 強くならないといけない。強くならなければ苦しいだけだ。

2020年8月26日(水)

 つらい。

 ものすごい死にたい気分。それでもあるのは越える道だけなのか。

2020年8月25日(火)

 毎日が落ち着かない。

 今日は十分に疲れているはずなのに……。

2020年8月24日(月)

 朝更新した時保存失敗していたようだ。何書いたっけ?

 課題設定が拙くても何か作業してもらった方が話の切り口が見つかっていいな。

2020年8月23日(日)

 つらい。自分で自分を苦しめている。愚か。

 もちろん簡単なことではないということなのだろう。

 眠れない夜か。

2020年8月22日(土)

 まだつらい。これから見えてくる問題もあるのだろう。

 考えてみれば今週の出来事。こんなことが続いていれば、ストレスはどれほどのものか。

2020年8月21日(金)

 夏バテ気味。

2020年8月20日(木)

■藤村美穂「自然を巡る「公」と「私」の境界」鳥越皓之編『試みとしての環境民俗学――琵琶湖のフィールドワークから』(雄山閣出版、1994年、pp.147-166)

つまり、老人たちに昔の自然のようすを尋ねようとしても、答えとして返ってくるのはそれにまつわる人物の話なのである。[149]
このことは、彼女らの距離にたいする感覚は、長さや時間を計る尺度にもとづくのではなく、自分との結びつきの程度にもとづいているということを示している。[149]
つまり耕作や薪の生産という活動がおこなわれるときは「私」の意味をもっていた空間が、魚や落ち葉を利用するときには「公」の空間になるのである。[156]
つまり、「私」有度の強弱は、生業活動の種類自体が決定するのではなく、単一の生業活動においても、その空間に対する働きかけの程度に応じて差が出るのである。[160]
このことからは、「私」有度の濃淡というものが、視覚的な印象にもとづいていることが推察できる。すなわち、働きかけは、直接目に見える形で表現され、それが周囲から見られることによって社会的に認知されるものなのである。[164]

 継続性と可視性。

人と自然とのあいだには、境界線ではなく、関係の濃淡のみが入り込めるのである。[166]

■シャロン・ズーキン『都市はなぜ魂を失ったか――ジェイコブズ後のニューヨーク論』(講談社、2013年) #2

 「序章 都市はなぜ魂を失ったか」[10]。

2020年8月19日(水)

■菅豊「川の景観――大川郷にみるコモンズとしての川」鳥越皓之編『講座 人間と環境 第4巻 景観の創造――』(昭和堂、1999年、pp.92-117)

 これもどうして読もうと思ったのか忘れた……。

 コモンズというキーワードでコモンズそのものが発見され、定義される。

 コモンズをめぐって争いが起こる。この争いことがコモンズを読み解く鍵となるのではないか。争いとは価値とその価値の分配をめぐって起こるものだ。そもそもその価値とは何かを問うところからだろう。

 「コモンズ性が付与されてきた」[104]。コモンズ性という言葉。コモンズ性というようなものがあるのだとして、それはどこからやってくるのか。やはり言葉の性質としてコミュニティとか、共同性に似ている。期待概念である部分と実態概念である部分、分析概念とを意識的に使い分ける必要がある。

 関係か。関係と利用、場所性。

 占有を可能にするのは関係がその場所を押さえているから。しかし、それは排他的な専有ではない。

 関係による占有がなされる場所は、排他的な専有が不可能であったり、望ましくなかったり、また、割りに合わなかったりといった、何らかの「不可能性」が資源利用の可能性とセットになっているのではないだろうか。マイナー・サブシステンスが気になるのは、こことかかわるからかもしれない。生業とするには制約が多すぎるというわけだ。

 「景観としてのコモンズ」という視点に関心を引かれただけだったかな。

■松井健「マイナー・サブシステンスの世界――民俗世界における労働・自然・身体」篠原徹編『現代民俗学の視点1 民俗の技術』(朝倉書店、1998年、pp.247-268)

 あー、なんだ。これ同じやつか。その後、単著に再録したんやな。

■菅豊「深い遊び――マイナー・サブシステンスの伝承論」篠原徹編『現代民俗学の視点1 民俗の技術』(朝倉書店、1998年、pp.217-246)

 マイナー・サブシステンスの議論は、オーセンティシティの議論につながっているのかな。

 野宿できる場所も、ある種の可能性と不可能性がうまく絡み合った場所だと思うのだけれど。

 空間の管理は排除と隣り合わせになっている。管理は支配関係を通して非対称的に行使される。それに対抗するには、関係の力が組織されなければならない。その実践を理念的に表したのが都市への権利というものなのか。

 缶拾いにも「楽しみ」の要素があるのだろうか。

■シャロン・ズーキン『都市はなぜ魂を失ったか――ジェイコブズ後のニューヨーク論』(講談社、2013年) #1

 オーセンティシティに留意しつつ、あまり時間をかけずにさらっと読んでおきたい。

 ですます調で訳したところを見ると、そんなお硬い本ではないのかな。

それは、我々の手では制御できない民主主義というものをあきらめるつもりでいることを意味します。[4]

 民主主義は生活の中にあることも語らなければならない。

2020年8月18日(火)

 行きつ戻りつとは、結局行くことなのだ。そして、浮きつ沈みつ。

2020年8月17日(月)

 はー、ストレス。しかし、このストレスな日々を終わらせるためだ。

 ああ、苦しい。しかし、この苦しみは通り抜けなければならない苦しみなんだ。

■葉山アツコ「熱帯林の憂鬱――森林の共同管理は可能か」秋道智彌編『講座 人間と環境 第1巻 自然はだれのものか――「コモンズの悲劇」を超えて』(昭和堂、1999年)

 これは何が面白かったのかな。

 コモンズという言葉に着目している点は共通していても、問題意識の出発点はさまざまだな。

 自然の荒廃。都市でも自然破壊は問題となるかもしれないが、農山村とは異なる。

 価値と所有権の問題なのかな?

資源について所有と利用を区別するばあい、どのような所有形態が望ましいかは、資源の利用者がおかれている社会的状況によって異なる。[182]

 この辺が引かれていたのかな?

 都市のコモンズを扱う際は所有権をいったん忘れる必要がある。「みんなのもの」の「みんな」の範疇が何なのか。

 パブリックとコモンのあいだが埋められていない。パブリックを解体する必要があるのかもしれない。パブリックそのものがフィクションであり、どのようなフィクションであるのかを問う。

 多分そんなに難しいことではない。思い込みをぶっ壊して、当たり前の真実に回帰するだけ。

■矢作弘「都市再生と公共空間のガバナンス――新自由主義的都市経営の両義性」西山八重子『分断社会とガバナンス』(日本経済評論社、2011年、pp.124-157)

都会暮らしをする米国人にとって公園は大切な公共空間(public space)であり、公園が日々の生活にしっかり根付いていることを知る貴重な機会になった。[124]

 提案される公共空間はいかなる意味で合意を得ているのか。

荒廃した公共空間の甦生が都市再生の焦眉の課題となっている。[125]

 こうなると公共空間とは、都市に作られた自然のようなものだ。

 都市政府対BID(民間)は擬似的な問題のはず。最初から何の問題解決にもなっていなかった。

しかし、疑似不動産収入にできる限り依存しないBID経営というのは、BIDの本性に反している。[144]
BIDがガバナンスするようになった都市公園(公共空間)で開催されるイベントがなぜ、来園者に無料なのか。それは魅力的なアメニティを通じて高い集客力を達成するためである。なぜ、大勢のひとがやって来ることが必要なのか。それは環視の眼を密集させ高いセキュリティを達成するためである。なぜ、高いセキュリティが大切なのか。それは不都合者たちを排除し「同質性の集積効果」を通じて公園周辺にある不動産の資料を引き上げることができると考えられているからである。[154]

 めちゃ面白かった。

 「センターの日」って、大したことをしていないし、とらえどころのないものであるようで、実は他に例のない取り組みかもしれない。そういう意味では「センターの日」を対象化していく作業も必要か。

■松井健「マイナー・サブシステンス――民俗世界における労働・自然・身体」『文化学の脱=構築』(榕樹書房、1998年、pp.137-171)

 さて、何やら面白そうな感じのするマイナー・サブシステンスの話をどう理解していけるのか。

 ああ(読む前に書くというのも変だが)、センターで行われていることがマイナー・サブシステンスでありながら、釜ヶ崎において重要な意味を持つと直観しているからだな。

 僕、生態人類学の論文を自分の研究に直接役立てるために参照するのって初めてなんちゃうか……。

 「センターの日」が何を提供していたかだな。釜ヶ崎の住人にとって、マイナー・サブシステンスとして満たされているものを、「センターの日」を媒介として推量する。

これらの生業活動は、たとえ消滅したところで、その集団にとっても、当の生計を共にする単位世帯にとっても、たいした経済的影響をおよぼさないにもかかわらず、当事者たちの意外なほどの情熱によって継承されてきたものである。[139]

 (労働者であることがマイナー・サブシステンスになってしまっているのだとしたら、ちょっと笑えないな)。

 身体性……[168]。

 つらい。

2020年8月16日(日)

 当たり前のことのために頭を使おう。

 意図せざること。信じてきたこと。当たり前に付き合うということ。

 何を信じてきた?

「自己呈示とそれを承認する他者の調達」

 僕たちは何をやってきたのだろう。僕たちは何故それをするのだろう。

 「何も共有していない者たちの共同体」

 根源的なところから生ずるものをどうやって形にするのか。そのための参与観察ではないのか。

 フィールドワーカーの「生きる構え」。

 何も共有していなくとも、僕たちが持つ「生きる構え」は共有以前に共振するものとして抱かれている。

 そうじゃないな。はからずも共振してしまう。それくらい当たり前のことなんだ。何かを選ぶ前からそのように生まれ落ちている。

 共振として現れるか否かは、出会いのあり方に左右されてしまう。出会いは偶然かもしれない。しかし、偶然を可能にすることに場所の特性がかかわっている。

 場所をどうとらえるか。そのような場所、コモンズはどのようにして成立するのか。

 フィールドワーカーはあるがままの世界に入り込む。あるがままの世界から学ぶことを否定しない。これは単なる前提条件に過ぎない。しかし、人として生きるうえで当たり前の前提条件を、研究の中に地続きで持ち込むためにフィールドワークがある。少なくとも、そのように構えられる可能性はフィールドワーカーでなければ持つことができない。

 ならば人は生まれながらにフィールドワーカーであることもまた真であるのかもしれない。人はフィールドワーカーであることを忘れてしまうのだ。

2020年8月15日(土)

 データの穴は自分のかっこ悪い姿で埋めていく。自分のかっこ悪いところを見せて、伝えるべきものを伝えられるなら、それでいい。そういうことなのだ。

 それなら、今回さらけ出すところはどこなのか、見定めるのはそこなのかもしれない。

 自分がどう思っていたのかなんて、自分のかっこ悪さに触れずに語ることはできない。

 何故そう思ったのか。思い上がり、勘違い、うぬぼれが必ず紛れ込んでいる。それらを引っくるめてでも語るべきことがあるなら、そうすることが方法となる。

 ああ、そうか、なるべくさらけ出さなくて済むように、抑えめに書く。淡々とした記述に徹する。うまいことやっているようで、実は一番まずいやり方なのかもしれない。感情に振り回されないように適度に感情をコントロールしながら記述しようとする。そうすればするほど気持ちをつかみにくくなるし、かえって傷を深くしてしまうのかもしれない。

2020年8月14日(金)

 つらい。どう転んでもつらい。

 根本的な問題やな……。

 正規雇用でないとまともに暮らせない社会なんだな。

2020年8月13日(木)

 「私」たちそれぞれが様々な関係の総和であること。

2020年8月11日(火)

 何かマシになってるのかな。

 去年は去年でしんどかったし、かなり苦しんで耐えながらがんばったと思うのに、今とどっちがしんどいのかと比べてしまう。

2020年8月10日(月)

 自分がなさけない。

2020年8月9日(日)

 「これは何をするものなの?」だったかな?

 うろたえても意味がないことに気づくのが遅い。本質は変わっていないけれど、そこで落ち着く勇気くらいは持てたのか。

 落ち着くだけでいいのかな。落ち着くことと自分を信じることか。

 一つひとつ乗り越えれば成長できることばかりのはずだ。

 この夏もまた試練の夏だなあ。

 あるのは越えていく道だけか。

 もうずっと何のためにがんばっているのかわからない。

 しかし、がんばろうという気持ちが湧いてくるうちはやる以外の道なんてない。

2020年8月7日(金)

 これは何をするためなの?

2020年8月6日(木)

 体調悪いし、落ち着けない。

 金曜日は休んで土日に今週までの採点を済ませようか。

 ようやく風邪を治せる。

2020年8月5日(水)

何かを始めよう ここから出て行くために 何かを捨てよう大きなものを手にするために(THE BOOM『思春期』より)

 こういう言い方に昔はピンと来なかった。大切なものは捨てるべきではない。大切なものを守りながら新しいものも得られる道を模索すべきだと、そんな生き方を目指すべきだと思っていた。しかし、何かを得るためには大切なものでも捨てなければならない時があるのだと、今はよくわかる。

2020年8月4日(火)

 のど痛い。風邪ひいた。

2020年8月2日(日)

 なんだか落ち着かないが、まさに昨日の今日なのだから当たり前だ。

2020年8月1日(土)

 これで、火天大有が真実味を帯びてきたのでは。

 この力を、積み重ねてきたことを力に変えて、すべてを還せるように。

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