過去ログ
2021年11月


2021年11月30日(火)

 気楽に行きたい。

 すべて未練は捨てて先へ進もう。それが思いを引き継ぐことでもある。

 もうこれまでのものを守ることに意味はない。でも、これからのために、今これまでのことを活かせなければ、これまでのことを裏切ることになる。

2021年11月29日(月)

 やはり酒飲んでる時に書いたことはつまらない。

2021年11月28日(日)

 なんだかよく分からないけど、橋本治が僕をここまで連れて来てくれたのかもしれない。

 「そんなこた知らねぇよ」と彼は言うだろうし、それはその通りなのだと僕は思う。

 橋本治とはそうした意志だったのだ。

2021年11月27日(土)

 翌日、しっかり熱が出た。

 過去をふりかえり掘り起こすことに意味がある時なのだろうか。

 なんかすごい一日だった。

2021年11月24日(水)

 熱が出なくてしんどい。

2021年11月23日(火)

 一角のものになど、なる必要はない。そんな人は本当は大していないのだから、意識するようなものでもない。

 可能性とはまたおかしな言葉だ。

 未来に価値を預けてしまっては発揮できるものも発揮できない。

2021年11月22日(月)

 明日休みも知らなかった。

2021年11月21日(日)

 やれやれ。

2021年11月20日(土)

 水曜日の朝から体調がやばかった。ごまかしごまかし木曜日を乗り切って、土日が潰れるので、月曜日の準備を金曜日に、やはりごまかしごまかし進めるしかなかった。

 書くことは物事を前に進めるためだけに行いたい。そういうものとして使っていきたい。

 とはいえ、何をどこから引き出せるかは分からないし、どんな方向に向かって行くのかも、いつそれを書き出せるのかも予測できない。

 書くことにはどんなメディアを使うかにもかかわりがある。誰に向けて書いているのか、対話の手段として書くことを用いているからだろう。

 どう考えたらいいのかな。それは研究なのか、もはや研究でないのか。そもそも何のための研究なのか。

 寄せ場にたどり着くのがどんな人たちで、どんな境遇に置かれているのかなんて、すでに明らかにされてきたことではないか。

 その上で今問われなければならないのは何なのか。

 変えなければならないのは世界観で、そのために明らかにしなければならないことは何なのか。

 語り得ないことについて語ること。抗いについて語ることではないのか。

 抗いもまた語り得ない。しかし、行為としての抗いは、語り得ないことを通してとらえることができる。語ろうにも語り得ないもどかしさ、語り得ない語りを聞くことはできる。語り得ない語りは、厚かましい聞き手が呼び起こす語りだ。

2021年11月17日(水)

■アーシュラ・K・ル=グウィン『ラウィーニア』河出書房出版、2009年

 ウェルギリウスの叙事詩『アエネーイス』で語られなかった後半の物語をル=グウィンがラウィーニアの視点を借りて引き継ごうとする。

 しかし、これは歴史小説ではない。ル=グウィンによる伝説であり、ラウィーニアは現代に伝説を成立させるために、ファンタジーに織り込まれている。ル=グウィンは何をやっていることになるのだろう?

 中立的な物語など存在しない。読者は作者の存在を忘れ、作者は読者の意識から逃れようとするのだとしても、作者が存在しないかのように仮定することは、物語ることの本質や可能性を狭めてしまう。

 エスノグラフィーは、物語ることの本質や可能性を学問の中で開こうとする営みであるのか。

 伝説とは、過去に起こったこととして語られることでありながら、歴史的に連続的なものとして現在につながっているわけではない。想念の中で、常に更新されうるものとして創られる過去であり、新しい要素が付け加えられたり、物語を構成する手法すら変わりうる。

 ル=グウィンはもはや伝説についての伝説の書き手となろうとしていて、ファンタジー作家とはそうしたものであるのか。

2021年11月16日(火)

 まだまだつまらぬことに囚われてしまう。けど、まだノート買ってから4日しか経ってない。

2021年11月15日(月)

 昨夜は飲まずに寝た。飲まない方が格段に良いが、飲まないだけで調子が良くなるわけでもないな。当たり前だけど。

2021年11月14日(日)

 今日も暮れていく。

2021年11月13日(土)

 離婚記念日終わってた。どうでもいいということだろう。

作家が持たなきゃならないのはね、紙と鉛筆。それで充分なの。作家がね、彼女が、彼女だけがその鉛筆の係なんだって、そしてその鉛筆が紙の上に書くことに責任があるのは彼女、彼女だけなんだってことがわかってればいいのよ。つまりね、彼女は自由ってことなの。完全に自由ってわけじゃないわ。そんなことは決してないわ。もしかしたらほんの一部分かもしれない。この一幕だけかもしれない。もしかしたら理性の湖で釣りをする、もの書く女としてのほんの一瞬、こうして座ってる間だけかもしれないわね。でもこの瞬間に対して責任があるの、この瞬間に自主性を持つの、この瞬間に自由なのよ[[アーシュラ・K・ル=グウィン『世界の果てでダンス ル=グウィン評論集』白水社、1997年、「漁婦の娘」、p.383]

2021年11月12日(金)

 僕はいつもそんな役回りをしている。

 それでもいい、それでいいとも思っていたけど、良くないのかもしれない。

 もはや、やり過ごせない不満を抱えてしまっている。

2021年11月11日(木)

 フィールドノート一冊がなかなか手に入らない。

2021年11月10日(水)

けれども未来を「征服する」ことは不可能です。なぜって未来に到達するなんて私たちにはできっこないからです。未来とは時空連続体の一部であり――肉体的にも通常の意識の状態からいっても――私たちはそこから排除されているのです。私たちには未来を見ることさえできません。肩越しにほんのちらりと垣間見ることを除いては。[アーシュラ・K・ル=グウィン『世界の果てでダンス ル=グウィン評論集』白水社、1997年、「サイエンス・フィクションと未来」、p.234]

 手繰り寄せなければならない。その端緒をつかむところまでは来れたのなら、いつまでも目を眩ませていないで、その術を編み出さなければ。

 いつまでも心を乱していないで。

2021年11月9日(火)

いずれの場合も、芸術家の役目は宇宙の断片をとりわけ巧みに選別することです。これらの断片は様々な出来事の抑制しがたい流れの中で、一貫性と持続性を持っているといった幻想を抱かせるよう選別され、配置されたこのうえなく有益で面白いものでなくてはなりません。[アーシュラ・K・ル=グウィン『世界の果てでダンス ル=グウィン評論集』白水社、1997年、「世界の創造」、p.82]
合理主義者のユートピアは一種の権力です。それは行政官の命令によって宣言され、意志の力によって維持されているひとつの神権政治です。その前提は経過ではなく、進歩ですので、人の住める現在はなく、未来時制でのみ語られます。そして最終的には、理性自体がそれを拒否しなければなりません。[前掲、「カリフォルニアを非ユークリッド的に見れば」、p.150]
私がみなさん、私の姉妹や娘たち、兄弟や息子たちすべての人々に望むことは、そこ、暗闇で生きていくことができますように、ということなのです。成功という私たちの合理的な文化が、追放の地、居住不可能な異国の地と呼び否定しているそんな土地で生きていくことを願っています。[前掲、「左ききの卒業式祝辞」、p.196]
私はみなさんが決して犠牲者になることなどないように望みますが、他の人々に対して権力を振るうこともありませんように。そして、みなさんが失敗したり、敗北したり、悲嘆にくれたり、暗がりに包まれたりしたとき、暗闇こそあなたの国、あなたが生活し、攻撃したり勝利を収めるべき戦争のないところ、しかし未来が存在するところなのです。どうして私たちは祝福を求めて天を仰いだりしたのでしょう――周囲や足下を見るのではなく? 私たちの抱いている希望はそこに横たわっています。ぐるぐる旋回するスパイの目や兵器でいっぱいの空にではなく、私たちが見下ろしてきた地面の中にあるのです。上からではなく下から。目をくらませる明りの中ではなく栄養物を与えてくれる闇の中で、人間は人間の魂を育むのです。[前掲、p.198]

 同じ言葉を使いながら、まったく別のことを語っている。それが分からない者の言葉にからめとられるのは、僕もまた、一方でその用法に縛られているからだろう。

 同じ場面で同じ言葉を使っていても勝ち目はない。まず、別のことを語る者には語りえないような場面でその言葉を使うこと。そして、別のことを語る者が使えないような言葉の組み合わせで語ること。そのためには、そのように語れる場所まで行くことだ。

2021年11月8日(月)

 世界を見ようとするには意志を持たぬ意志でなければならない。

 そこに見出されるものは己の意志ではないにもかかわらず、見ようとすることだけが、これを可能にする意志となる。

2021年11月7日(日)

 何かを目指せば、誰かは分からないけど、いずれ必ず誰かが犠牲になる。そして、誰かがその罪を背負う。

 何も目指さず、自分の生活を守っているだけでも誰かが犠牲になるが、自分が罪を背負うことは避けられる。

 それなら、それでもそこを超えていく世界観を持たなければならない。

 世界観というより、やはりコスモロジーか。予定調和でもある。

 犠牲を犠牲と思えることは、その世界観を構成するものでもあるし、世界観そのものを作り出すために犠牲となる者が見出される。

 誰しもが役割を持っている。自分一人で役割を担うことはできない。他者によって生かされていることを思えば、罪も犠牲も与えられたものであるかもしれない。

 そこに世界を見ようとする者がいなければ、向かう先も何もあったものじゃない。

 世界を見ようとする者は、意志を受け止める依代でなければならない。そこに立つ者は自分であって自分ではない。

 そこに立つしかなく、そこに立つ力量があるなら、その役割を引き受けることにも意味はある。世界を理解しようというどうしようもない欲求を満たすには望んだことではないか。

 自分を捨てられるだけ捨てた先に、ようやく意志を見出すつもりでいるくらいが、ちょうどいい。

 当たり前に機会が得られないことによって貶められた境遇が問題なのだとしたら、ともに抗う仲間となろう。

2021年11月6日(土)

 うーん、なかなか思うようにいかない……。

 思い詰めないことも知恵か。

2021年11月5日(金)

■原田隆司、2000『ボランティアという人間関係』世界思想社 #2

 位置付けがフィールドワークと被る。

「ボランティア」とよぶことによって、ひとつひとつの関係を一般的な意味の枠のなかに閉じ込めてしまうことがある。無償性、自発性、公共性というボランティアの説明は、個別の活動の違いを越えて、画一的な意味を与えてしまう。そのような「過剰な意味づけ」によって、ひとつひとつの具体的な活動すると、それに対して外側から与えられる意味との間に隔たりができてしまうことがあるのだ。[120]

 やはりそのような指摘はなされているようだ。

2021年11月4日(木)

■原田隆司、2000『ボランティアという人間関係』世界思想社

 読みやすくて面白そう。

 ボランティアの定義として語られる無償性、自発性、公共性。しかし、そもそもなぜボランティアを定義しないといけないのか。このようなものがボランティアとして定義することが、活動の幅を狭めたり、制限することもあるだろうし、ボランティアが語られること自体、本来備わっていたはずの領域が侵食されている裏返しでしかないのかもしれない。

2021年11月3日(水)

 『カムイ外伝』借りてみた。何で作者がこんなに説明するの?

2021年11月2日(火)

 ル=グウィンのエッセイめちゃくちゃ面白い。僕ももっと書くことに面白みをふくらませたい。

 〈現金〉について、これまでにはなかったような切り口で面白いことを書きたい。書けるんじゃないかという気がしている。まったく構想はないけれど、切り口は見つけられるのではないか。

 カフカの短編集に入っている「万里の長城」を読む。なんか中島敦みたい?

 文体というのは、要するに示したいことについての語り手をどのように位置付けるかに尽きるのだろうか。あるいは語れば語り手は同時に現れるのだから、その語り手の立場を再帰的に問うて、その統一性を気にするところに語り手が成立する。

2021年11月1日(月)

 世界観を変える。

ウォルター・オングは言う。「音は、それが消えようとするときにしか存在しない」。これは単純だけれども非常に複雑な陳述である。同じことを生について言うこともできるだろう。生は、それが消えようとするときにしか存在しない。(アーシュラ・K.ル=グウィン『ファンタジーと言葉』岩波書店、2006年、p.206)

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