2019年3月31日(日)
■イタリア #6
センター閉鎖の動向が気になる。
*
タバコまっず……。
2019年3月30日(土)
■イタリア #5
更新忘れてた。昨日はコインランドリーで洗濯をしてケバブを食べた。おいしかった。
*
朝から一人で散歩させてもらった。カルロ・アルベルト広場でニーチェの記念碑を見ることができたポルテ市場の泥棒市を見学。ローマ門やトリノ宮の公園も行った。
広場や公園、公共施設の裏口など、野宿者の姿がちらほらみられた。
2019年3月28日(木)
■イタリア #4
昨日からトリノに来た。1人になって考察を深めて更新する時間など気づいたらまるでないな。
*
今日もハードだった……。
2019年3月27日(水)
■イタリア #3
20時くらいに寝たけど3時頃には目がさめる。
2019年3月26日(火)
■イタリア #2
疲れはあるのに時差で1時間ごとに目がさめる。途中からは目が冴えて3時間くらいしか眠れなかったな。
*
バチカン美術館が拷問のようだった。出口まで行かないと帰れないお化け屋敷か。
2019年3月25日(月)
■イタリア #1
まずは仁川へ。
*
イタリアついた。日本では26日の4:25だが、現地時間では3月25日の20:35と。時差初体験だ。
2019年3月24日(日)
子連れでは満足に買い出しもできん。
2019年3月23日(土)
iPhoneのテザリングで家中のインターネット機器につないでいる。iMacでPOPメールの受信が半日経っても終わらない。
2019年3月22日(金)
■子ども
面倒くさい。戸の開け閉めもきちんとできないくせにマイペースで生きやがってといらだつ。身の回りのことができるようになってから一人前の口を聞けみたいな。
親目線から理不尽なことを言っている気はするが、息子の事情を斟酌する余裕がない。
■感情 #15
「電源つけっぱなしだったよ」って何だ?
6時にオンタイマーでついたものの、電波の受信状態が悪くて映像と音声が出ていなかった。それを昨夜からつけっぱなしだったかのようにとらえたというのが実際だった。それをなぜわざわざ僕の過失とも取れるような言い方をするのか。明らかに問い方がおかしい。
それを言えばまた「事実を指摘しただけ」などと言うのだろう。しかし、事実を指摘しているわけでもない。最初から事実誤認を含んでいるのだから。
まず他人が悪いかのように発想するのか。あるいは自分でなければ他人が悪いと思うのか。まあ後者と考えた方が自然か。
そう考えればさほど悪意はないということになりそうだが、それでもなおムカつくのはなぜか。
■新聞 #18
囲碁、将棋、短歌、俳句、文学、書道といったものに社会的な居場所が与えられているのが新聞紙面というものだなあと思う。
2019年3月21日(木)
■感情 #14
今日は普通ごみの日であることを告げる。すると昨日、ペットボトルだけじゃなく、瓶や缶も出していたので出したと言ってくる。
瓶も缶も大した量がなかったから出さなかっただけなのに、認識を間違えているかのように指摘してきたと思って苛立つ。プラごみとペットボトルは別の日に出さなければならないが、別に瓶や缶を出してはいけないと言った覚えもない。
自分が何かをする判断基準の修正として言ってくれば別に腹も立たないが、他人の行動の修正として言及してくるからいちいち苛立つ。僕にすれば自他の境界を曖昧にして語られると気持ちが悪いのだろう。
2019年3月20日(水)
もうどうでもいい。休みたい。
2019年3月19日(火)
結局体調不良のままシンポジウムへ。
遠くなった駅まで歩いたら身体が熱くなった。
2019年3月18日(月)
こんな体調で車検とか。
2019年3月17日(日)
まんまと風邪をひいた。つらい。
2019年3月16日(土)
皮膚の薄いところがつらい。くちびるがひりひりする。
2019年3月15日(金)
■引越し #9
昨夜は夜回りのあと、いくらか荷ほどきをした。横倒しに並べられた本棚を片付けないと寝るスペースがなかった。
今日くらいしか髪を切りに行く暇がないので、予約を入れていた。引越し先で足りないものを買い足すためにコーナンに行く。疲れた。論文執筆に入れるわけがない。締め切り延びて良かった。
*
引っ越してすぐにエアコンやネットが使えるように手配してはずなのに、雑なリフォームがことごとくあだになっている。ガスファンヒーターや電気ストーブで埋め合わせをするから電気代もガス代もすごいことになるなあ。
このタイミングで石油ファンヒーターは壊れかけるしなあ。
2019年3月14日(木)
■引越し #8
本番。たぶん段ボール足りないな。
2019年3月13日(水)
■新聞 #17
ここ数日新聞読むのが面倒くさく感じられて仕方ない。どうすれば最短でポイントだけ押さえて読む終えたことになるかを考えはじめる。
一つには、自分がそれでも読みたいと思える記事はないかと拾っていくやり方があるかもしれない。逆に言えば、見出しはチェックしつつも、読む気にならない記事は読まない。
2019年3月12日(火)
しんどいわ。
■新聞 #16
維新のパフォーマンスのせいで毎日毎日首長選挙関連の記事でスクラップするのがアホらしい。
夕刊で扱った記事が結局朝刊にも載っている。夕刊いらんやん。夕刊は文化面・特集面のプラスアルファで速報的にニュースが載るようなものなんだろうか。
■英語
多読を3年くらいやっていて、簡単な英文ならわりと自然に突っかからずに読めるようになった。しかし、それをしゃべったり作文したりするために使おうとするとほとんど自然に表現が出てくるということがない。これは読む時にも別の意識付けが必要なのかもしれない。
やる気がしない。
2019年3月11日(月)
雨が降り続く。
■翻訳
海外の読者にも下層労働についてわかりやすいようにと言われてもなあ。グローバリゼーションと繋げにくい。ああ、日本の場合、公式には移民を認めず、日本国内で間に合わせきたという歴史があって、しかし、1980年代以降は外国人労働者をバックドアから受け入れ始めたという話を入れたらいいのかな。組頭制度がアジアに特有のものらしいことや、若者が非正規化したことなど。
■感情 #13
怒りとは何だろう。不当性に対する拒否感が怒りなのだとしたら、他者への共感としての怒りを支えているのは、不当性を読み解くことへの執着にほかならないかもしれない。
2019年3月10日(日)
ビラ書くの時間かかる。気づいたら1時近くになっていた。アプリ使っててもルビふるの大変。
■論文 #12
全然進まない。やる時間がない。この期に及んで優先順位の下位にまわさねばならないとは。
社会空間の生産の側面をを明らかにするとして、これをどういう問題提起に繋げれば良いのか。問題は、都市空間が階級闘争の主戦場になっているということか。ジェントリフィケーションが公園をめぐって巻き起されている。
この話をするには、現在の大阪市政の動向も盛り込んでおく必要があるなあ。野宿者対策の進展と野宿者数の推移、それらと統治構造の変容を重ね合わせつつ、過去と現在の連続性をいかにとらえるか。
大体の筋道は固まってきたが、問題はいつどれくらい時間が取れるのか、また、現実的にどれくらいの時間内で書き上げねばならないのか。今日は英文のチェックをしなければならないし、明日は午後からお付き合いに出なければならない。13日(水)締め切りのレジュメがあるので、12日はその吟味で潰れるだろう。13日はバイト、14日は引越しと夜回り。15日(金)はかろうじて何かできるかもしれない。16日は「センターの日」、17日は寄り合い、18日は車検だけ。19日は研究会で報告。20日はまたバイトか。うげ、21日の催しのためのスライド作りをしなければならないから、これを15日か18日にしなければならない。24日はさすがに旅行の準備をしなければならないだろうから、22日(土)、23日(日)くらいしか書く時無いよ。
徹夜でがーっと書けるとしたら、21日の夜から23日の夜にかけてか。
2本作らねばならないスライドの1本目は12日にやってしまいたい(できれば2本とも)。2本目は15日か18日ということになるか。このどちらも次の日の予定を考えれば徹夜モードでの執筆活動は難しい。日中に何とかやる気をひねり出さねばならない。ここで少しでも余裕を作っておいて、21日夜から23日にかけての作業をする。アブストラクトはもう飛行機の中ででも考えるか〜……。
今月の寄り合いはアルコールを控えるように気をつけよう。
*
つか、引越しの作業はいつやるんだよ……。
もうこんな時間。13時半。死ぬ。書類書くだけでも時間とられる。
2019年3月9日(土)
「センターの日」のまとめを書いてしまわなければ。
書いた。出来事のまとめだけでいろいろ書くことあったな。
■論文 #11
もう一度ふりかえってみる。「包摂のステップ」言説と「社会変革」言説が分断されていく原因として、当事者性のとらえ方の違いがあるものと考えられる。「社会変革」言説にかかわる、理解されにくい当事者性の実態を解明するのがこの研究の目的と言えるだろう。こうした当事者性にこだわる意味を強調することで、ネオリベラリズムへの共振に対する問題提起ないし対抗言説を作り上げていくことが可能となる。
「包摂のステップ」言説をはっきりと批判する形で書かれていれば違和感はなかったかもしれない。しかし、それならそこの議論を最後にきっちりして欲しかった(してるのかな?)。
高谷幸による書評も読み直してみた。この書評はちょっと外している気がする。言いたいことはわかるが、後半は書評の分量の半分を費やしてまで追及するような論点だろうか。それに、こうした論点が扱われていないとも思えない。
仁平はこのように、既存の秩序や関係性から逸脱した〈他者〉を外部に置く事が、様々な共振問題を構成すると指摘する。そのため理論的には〈他者〉を取り込む協同の論理が生成されれば、共振問題はクリアされることになる。(26)
「協同の論理の生成=共振問題はクリア」という前提に立っているから、協同の論理を追究することに終始するわけか。
『ホームレス・スタディーズ』の論文にあった地域とのかかわりの記述は本には入っていないようだ。
ネオリベラリズムへの共振問題はしっかり批判して欲しかったなあ。良心的な人たちが協同にこだわっているというだけでは、いい話で終わってしまう。
2019年3月8日(金)
■論文 #10
■ 山北輝裕、2014年『路の上の仲間たち──野宿者支援・運動の社会誌』ハーベスト社
この本もきちんと読み直しておこう。出版された時は、個々の論文を嫌というほど読んでいたので、本としてきちんと読めていなかった。
第1章。出来事のまとめは便利だなあ。
真崎克彦のいう「外部条件」の“社会的条件”へのスライドは適当なのかな。「根本的な矛盾」(12)についてはこれ以降どう扱われるのか。
「社会変革」(15)という言葉も。
運動の混乱は当事者の分断へと繋がる。「包摂のステップ」、「社会変革」というふたつの言説は、ともに野宿者のためを思って発せられたものである。にもかかわらずそれらが、当の野宿者を、意図せざる結果として、支援(運動)という文脈のもとで分け隔ててしまうものであるとしたら……。運動において「当事者性」(ニーズの表出と決定)をなによりも重視していたにもかかわらず、野宿者を孤立させるものであるとしたら……。
支援(運動)という文脈における、このような包摂をめぐる意図せざる排除を見据えた場合、野宿者と支援者の協同の過程そのものに着目し、 協同の観点から 「当事者性」の発露を再考する 必要があるのではないだろうか。(18)
ルビふるの面倒くさい上にきれいにいかない。多分ここがこの本の中核的な関心を示す箇所なんだろうけど、話が飛躍している感じがする。何が問題だといっているの? 「意図せざる排除」? 誰が排除されているの? 「社会変革」志向の反排除の運動体の排除と、「包摂のステップ」に乗らない野宿者の排除という二つの側面があるとして、それを支援者と野宿者の協同と「当事者性」の発露を再考することで解決可能であるように語る論理の筋道が見えない。
*
「“ノイズ”に向き合う支援者などの苦悩(22)。
「包摂のステップ」と「変革」の意図せざる衝突(25)。
ネオリベラリズムとの共振問題? それが協同と当事者性で乗り越えられる?
*
第2章。エッセイ形式。懐かしい。これ山北さんに初めて会ったA研の報告だった。引越しの片付けしていたらこの時のレジュメが出てきて、こんな書き方していたのかと今さら驚いたので、この本をきちんと読み直さないとと思った。
ここでのおにぎりに対する拒否を見ると、「センターの日」でコーヒーをメインにしているのは意味がありそう。
*
昨日の研修で排除の対義語は包摂だと思われているが、排除の反対は反排除だと思う」という話をした。こういう発想は何か哲学から来ているなと感じていた。これはシュタイナーの人智学の本にある。「火の反対は……」みたいな話を書いていたはず。
*
「支援者」というポジションにたつことは、支援される人々との信頼関係という──全く綺麗ごとではない──過酷な支援の論理のもと、その支援の引責の限定性を引き受けるという、矛盾する経験を積み重寝ざるをえない。しかし、支援者の「代行」の蓄積が、野宿者からの信頼を得ることもまた少なからず根本さんの経験は物語っている。(58)
信頼関係の形成という話としてはいいと思う。
第3章。懐かしい。ソシオグラフィ。本もらった。
この章は前章の話を自分の経験をもとにたどり直したという感じ。
第4章。
野宿者の側からすれば毎週まわってくる支援者たちや、月に何度かある炊き出しは日常に組み込まれていると考えられるため、それらの活動を通した集合的心性の醸成をみていく必要がある。すなわち野宿者と支援者の日常的接触による組織化の動きがある点で、かつての「不可視な共同体」の自然発生的なメカニズムと日常活動に裏付けられた「仲間」の集合的心性生成のメカニズムは決定的に異なると思われる(92)
「特措法体制以後」(118)という枠組みが基礎にあるんだな。「ネオリベラリズムとの共振」というのも、こうした制度上の変化があってこそ起こるものだと考えれば、問題は当事者性云々ではなく、運動の基本姿勢にかかわる話で、運動の基本姿勢は当事者との向き合い方と切り離すことはできない。
「ネオリベラリズムとの共振」に対して、支援者と当事者の関係性をいくら問うたところで、共振する人は共振していくだろうし、それを止めることはできないように思われる。いかに対抗的な言説を作り出していくかが重要で、そのヒントが支援者と当事者の関係性にあることは確かだとしても、それだけではない。
しかし、運動と生活を連続させる動きと同時に、人々は運動と生活の連続性のなかにおいてもなお、非連続性を、生活において蓄積し、集う可能性(運動へと昇華)もまたあるのであった。それこそが、隘路のなかで当事者運動を成立させると(人々が集う)、抵抗の条件となるだろう。
どうしてそこまで当事者運動にこだわるのか、というところでやはり引っかかる。
第5章。
「尊厳の村」の話は評論掲載時にはなかったなあ。
これもまた時代的なずれなのか。2000年〜2007年はまだ当事者運動に希望が持てた時期だったのかもしれない。今思えば短い夢だったということになるのかもしれないが。
というか、やはり僕がなかなか支援に入って行けなかったことと、長居公園テント村があり、靱公園・大阪城公園の代執行があったことは、それなりに意味があるのかもしれない。
しかしそうした状況において、支援者は気の合わない野宿者の媒介となり、場を共有していくことになる。そのため支援者は差異を維持しながらも、当事者の共通のリアリティに到達することか求められるのである。(145)
第6章。「依存する自立」の話は良いと思う。しかし、これが全体の議論のなかでどう位置付けられるのか。「見守りの支援」のスタンスから見た第3章を野宿者側からとらえ直したのが第6章ということになるのではないか。
第7章。第2章は当事者運動ではなく、あくまで代行を主とする支援の話だったのか。
こうした支援の日々を送るなかで、なおも野宿で留まる人々への見守りは長期の“つきあい”への移行する(ここではコミュニケーションをとることが難しい人々との“つきあい”も含む)。(179)
〈拠点〉云々の話とどう繋げていくか。ああ、そうか。路上にある権利は路上で語られねばならないし、路上にある権利が語られる路上とは、単に野宿するために選ばれた場所なのではなく、語られるうる社会空間として生産されなければならない。これだ。
〈差異の連鎖〉構造(184)ってなんやっけ?
社会空間の生産はいいとして、運動はその先どこへ向かうのか。支援者と当事者の関係ではなく、何かの当事者としての支援者に視点をスライドさせるべきであることを書き添える? そんなんいるかな。
第7章のまとめはちょっと、ちゃんと読まないとわからない。各章の議論を読み直して検証しながらでないとなんとも言えない。
これだけのボリュームで一冊を読み通すと、ユニークな、面白い研究であることは疑いないように思われるが、全体の筋がうまく回収しきれているのかよくわからない。「ネオリベラリズムとの共振」の問題はどう乗り越えられたのか。「変革」志向の運動、制度に乗らない野宿者の排除の問題を解消する糸口はどこにあったのか。
野宿者運動における当事者性をめぐる困難についてはよく掘り下げられていると思うが、「変革」志向の運動が劣勢になり、野宿者が選別されていく趨勢に対して、当事者性をめぐる議論から有効な処方箋を導き出したとは言えないし、こうした排除の問題の原因を野宿者運動の中で起こる当事者性の問題に矮小化してしまいかねない危うさも感じる。どうしてこんなことになるのか。
*
あとは、周辺的な情報をどこまで論文に盛り込むかのバランスの問題かなあ。
2019年3月7日(木)
■フィールドスタディツアー
朝のセンターを見学したいということなので、ガイド役として出かける。
約束は6時10分だけど、シャッターが開く前のセンターの様子を見たかったので4時半くらいに現地に行ったらいろいろ面白かった。
5時オープンなのにすでに何人か入っている喫茶店と、小洒落た内装だけど、まだガラガラで少しシャッターが降りている喫茶店が隣り合っている。
人が多い方に入って話を聞いていると、となりは手配師の溜まり場っぽい。そんな棲み分けがあるのかと面白かった。
■新聞 #15
毎日スクラップしているといろんな気づきや発見があって面白い。スクラップでもしていないとここまできちんと読み込まなかっただろうという記事も多い。分量が多いので紙面のまま読んでいると、どうしても流し読みになって頭に入っていない。スクラップは面白いし、意義があると思うが、これは調査をしているのと変わらないくらい労力がかかる。まあ、研究者でなくてよ も実際は生活の中で調査みたいなことをしていることがあるということかなあと思った。スクラップする人なんてどれくらいいるか知らないが、スクラップ文化のようなものはあるかもしれない。
夕刊と同じことが薄めて朝刊に掲載されていることもある。籠池氏のことが一面と社会面、両方に大きく乗っていたが、内容は大差なかった。
2019年3月6日(水)
■引越し #7
引越し初日。午前午後と一回ずつ運んだ。大変だった。まだまだ残ってる。
2019年3月5日(火)
■論文 #9
リストを作りながらよろずのビラを整理した。日付けはあっても作成年が書かれていないものが多くて、時系列に並べ直すのに苦労した。頭痛くなった。
僕がかかわる前の数年について理解が進んだが、空白期間がどんな様子だったのかまったくわからん。どっかにビラ残ってるかなあ……。
んー、でも〈拠点〉の喪失という意味では、やはりテント村が失われていったことが大きい。長居のテント村は本当に「最後の砦」という感じが僕の中にもあった。
一方で、現在まで続く道筋もすでに現れているように思う。長居の1年前に行政代執行を経験した大阪城公園では、その年から定期的な夜回りがはじまっている。僕が復帰するまでの7年の間も途切れること続いていた。よろずだけが確かにそこに存在し続けていた。
2013年のよろずのテントの撤去があって、2016年頭の東屋の閉鎖がさらなる追い討ちをかけるような出来事だったんだなあ。
2002年〜2008年を振り返ってみて、なるほど僕は現場の動きをほとんど把握できていなかったんだなとわかる。今なら当たり前に飲み込めるであろう出来事に触れられるようなかかわりをしていなかった。
また、この時期は野宿者運動が一番輝いていたのであろうこともひしひしと感じさせられる。一番輝いていた時期でありながら、しかし、あとで振り返ればじわじわと手足をもがれていくような負け戦を闘っている。
この時期に第一線で活動していた人たちは充実感があっただろうなと思うとともに、僕自身はやはりこの時期に野宿者運動にかかわっていてものめり込みはしなかっただろうとも思う。今だから関わりを深めようと思うし、今でこそ見えてくるであろうものを解き明かすことに惹かれている。それは、結局その始まりからの僕自身の長い関わりにおいて変わらずに続いているのだろう。こういう形で野宿者運動を野宿者運動として再評価できるのは僕だけのはずだ。
*
青木(2010)の続き。
青木さんは枠組み作りが好きな人なんだよな。
『寄せ場労働者の生と死』でもそうだったが、闘争のシンボルの移行みたいな構図を描くことにどんな意味があるのか。理念型ということはわかるが。
社会運動論の文脈で何か議論できそうな気はする。
ここの運動類型とは別に、あくまで釜ヶ崎に拠点を置くか、釜ヶ崎の外に問題を見出すのかの違い、そして、釜ヶ崎とは別の文脈でシステムとして入ってくる第三の担い手という分類を意識した方がいいと思う。
*
NPO釜ヶ崎への言及長い。
*
平川(2004)の「路上の権利」は、福祉へのスムースな移行のための緩衝地帯程度にとらえられているように思う。それを山北や室田は〈路上コミュニティ〉に包含されるものとして扱っているようだが、これはちょっと飛躍があるのではないだろうか。
*
東京圏の野宿者運動の分析もするって書いてあるぞ。
■ 青木秀男、2005年「どこ行けいうんや!──公園野宿者の占拠と排除」『日本都市社会学会年報』23: 57-73。
これも読み直しておくか。これも当時はどう読んだらいいものかさっぱりわからなかったものだ。
「公共空間をめぐる『排除と抵抗』を介した都市構築の一端をみる」(57)というところには何か面白そうな響きがある。
このざっくりした整理。
読み終わった。何だろう。この時期の整理としては貴重なもののような気もする。
■ 山北輝裕、2010年「野宿者と支援者の協同──『見守り』の懊悩の超克に向けて」青木秀男編著『ホームレス・スタディーズ──排除と包摂のリアリティ』ミネルヴァ書房、262-284。
「路上の権利」をどう組み込んだのかを確認する。
サブタイトルには「『見守り』の懊悩の超克に向けて」とある。山北さんのテーマはやはりここにある。時代的な関心もあるのかもしれないが。
「路上コミュニティ」という言葉は現場で使われ始めた言葉なんだっけ?
「社会変革」の必要性を訴えるもの。
こうした活動は、野宿をめぐるスティグマ、解釈、コミュニケーションの社会的パターンに根ざす不公正を是正するために、対抗的な表象を積極的に打ち出していく。現に野宿で生きる人々がいるからこそできる、「野宿者をなくす」、「野宿はいけないもの」という自明視された発想が持つ陥穽を指摘するかたちで、さまざまな活動が模索されてきた。(263)
対象は野宿者運動で、その中での困難を扱っているということなんだなあ。
当事者主権をめぐる議論における野宿者運動にしかない見出せない特徴はあるのだろうか。
あー、これ去年ゼミでも読んだな。
平川茂出てきました。「見守り」の前提条件としての「路上の権利」。
変革を他人任せにしてしまっていいのだろうか。路上生活を支えることと「社会変革」を目指すこととは、もちろん地続きではあるけど、そこだけに収まるものでもないはず。
「見守り」と「代行」、二つの局面。
何かこの辺に違和感があるのかな。「見守り」と「代行」は、見返りを求めないまでも当事者運動を闘ってくれることを期待した奉仕活動なのだろうか。支援者はただ路上生活を肯定して、野宿者との関係を作っていけばよくて、当事者運動は支援者が「社会変革」を模索する際の可能性の一つではあっても、必要条件ではないように思う。「社会変革」の主体としての支援者の当事者性という視点が欠けている。
「見放し」にしても、理想と現実のずれは常につきまとう。何ができるのか、できないのかというずれに苦しみながら何を目指すのかを問うことが「社会変革」に向かう社会構想を引き寄せる。どうにもならないこともある。
「黒子」に徹することができないところが、野宿者運動にしか見出せない当事者性にかかわる特徴か。
最後に地域が出てくる意味が全くわからない。要するに「路上の権利」を浸透させていくということか。「路上の権利」を浸透させていく手段としての「路上コミュニティ」ということになる。
本章が提示する「路上コミュニティ」とは、具体的には、集団で暮らす野宿者の生活の場を中心とした野宿者および支援者などの緩やかなネットワークを指す。(276)
地域が、いわゆる野宿者の〈他者性〉だけを注視し、そして支援者が、「運動」に連続する生活のみに注視するだけだとすれば、野宿者を軸とした〈対話〉は不可能であろう。この連続/非連続に向き合うこと、これこそが「見守り」の懊悩をめぐるさらなる深部である。(278)
やっぱり地域が出てくる意味がもう一つわからない。「路上の権利」の理解と地域的な「見守り」がどうしてこの話の結論になるのか。支援者だけでやるのは限界だから、地域住民を巻き込もうというのは……結局、何がやりたいのかわからなくなる。野宿者運動が目指す「社会変革」ってそういうことなんだろうか。「路上の権利」は一つのアイデアだろうけど、そこまでコミュニティ作りに重きを置かなくてもいいだろう。それに、この戦略は路上に野宿者がいなければ成り立たない。野宿者は「路上の権利」啓発運動の道具ではないし、問われるべきなのは「路上の権利」なのだろうか。「路上の権利」自体、めざす理想へ向かうための一つの手段でしかないように思う。
この議論は運動として後退してしまっている気がする。何かを勝ち取る側面が削ぎ落とされてしまっているし、最後には勝ち取る主体としての野宿者の当事者性もどこかへ行ってしまった。奪われていることへの怒り、権利の主張を脇に置いて、地域との協働みたいなことを語り出すのはちょっとおめでたい。
*
平川の「路上の権利」、山北の「路上コミュニティ」、室田の〈路上〉は切り分けて扱った方が良さそうだ。
*
青木(2005)が物足りないのは、野宿者運動や野宿者の実態全体を位置づけるには話が薄っぺらいせいだろう。しかし、本当なら野宿者問題総体を都市の統治構造に位置付けて論じるような視点が研究の中に欲しい。むしろ青木(2005)があるだけまだマシというか。釜ヶ崎の存亡が危ぶまれる現在だからこそ、そうした広い視野での問題把握が求められるようになったのか。
*
山北の研究はどこかで研究の中立性みたいなものが邪魔をしている気もする。「社会変革」という価値判断の領域には立ち入らないようにしている。この辺の禁欲が変に作用しているような。
■新聞 #14
全然読む気しない。
と書かないと読む気がしない。
*
スクラップ候補がたくさんあると面倒くさくて、少し選別しようかと思うが、面倒くさいと思いながら切り貼りする時間に気づくこともあるだろうと考えた。
候補記事が裏表で被っていたので片方をあきらめた。もともとそんなに気になる記事でもなかった。
スクラップしていると偶然気づくことがある。「紙面編集 誰々」と名前が書いてあったり、社説の下には小さく日付が書いてあるなとか。スクラップされることを意識しているのかな。
はさみを入れている間にいろいろ考えるし、スクラップする以上、内容は理解しておかないとと読み返すこともある。時間とは何か。
「'19統一地方選」 は幸い毎日掲載ではなかった。
2019年3月4日(月)
■新聞 #13
昨日あたりからやたら福島の話が掲載されるようになったと思ったら、3月11日が近いからか。
*
夕刊。大阪・茨木の父殺害疑いと山形の父殺害疑いが並べて記事になるのは何か意図があってのことだろうか。介護疲れと看病疲れが匂わされている。昔からこういう個々の殺人事件ってどうしてニュースになるんだろうという疑問がある。すべての殺人事件が記事になるのだろうか。
「'19統一地方選」という連載が始まるっぽい。一応スクラップしたけど、4月7日まで毎日これスクラップする意味あるのだろうか。
大正区のひき逃げ容疑の記事も迷った。これも、ひき逃げというひき逃げが必ず記事になるのかも気になる。いろんな出来事や事件のあるなかで、取捨選択が行われているはずで、その判断基準がグレイなところが読者の目には不可解に映るようなことがあるのではないか。
一面は大阪府知事・大阪市長の入れ替えダブル選挙について。こんな形で辞職する知事がいること自体、大阪以外ではありえないことだし、どこでも理解されないだろう。
■論文 #8
よろずの活動初期のビラを読み直してみる。
2002年頃にはもう国際人権規約の居住権を根拠にしてたんだなあ。僕は2006年のカウンタレポートから関わったから、その前段を意識したことがなかった。
■メンテナンス #2
100均で買った虫ゴムを使っていたが、それがいかんのかもしれん。しょっちゅう交換してる気がする。
誰でも立ち寄れる、洗濯もできるし、シャワーも浴びられる、もちろん無料の「ドロップ・イン・センター」。これはいいなあ。
2019年3月3日(日)
橋下ワクチンを少しずつ復旧。
*
またアップロードが終わらないうちにキャンセルしてデータが消えてしまった。こまめにバックアップするようにしていたので復旧はしやすかったけど、やばいな。
■引越し #6
本の詰まった段ボールを下ろして運んでは上げてを繰り返し腕がやばい。
↑
2019年3月2日(土)
■論文 #7
平川茂、2004「『路上の権利』と『見守りの支援』」『市大社会学』5: 53-67 。
2004年の平川論文は「見守りの支援」だけでなく「路上の権利」にも言及していた。
なんかこの論文きちんと読んでなかったし、今読んでもなんとなく違和感がある。
ここでいう「ホームレス生活者にも自分の居場所を決める権利があるという考え」から、「ホームレス生活
者が公園や路上で野宿することは認められるべきだという考え」が出てくる。こうした考えを、本稿では「路上の権利」と呼ぶことにする。(平川
2004: 61)
路上の権利とはすなわち居場所を決める権利?
労働による自立と結びついている。まあ路上で生活を続ける権利か
ここで使われる権利という言葉は異議申し立ての手段であり、そうした生き方を認め、支えるような社会的な方策、合意のあ
り方はこれといったスタンダードがあるものではなく、具体的に模索していこうという提案の下にある。
実践していくことを宣言する言葉としては意味があるものの、言葉そのものが何かを保証するわけではない。そういう意味で
ジェントリフィケーションという言葉と似ている。
そして「見守りの支援」。
以上の提案は、いずれも〈逃避〉タイプに属する人達が現に野宿生活をしており、今後もそれを続けたいと
願っているということを充分に認めた上で、その願いが損なわれることがないようにするにはどういう支援が必要かという観点から考えられたものである。その
意味で、ここで提案した施策を「見守りの支援」と呼ぶことはそれほど的外れではないだろう。(63)
「路上の権利」については注にもう少し補足がある。19世紀中頃のパリの「路上で商売することを獲得した権利」
(66)。とはいえ、ここでは「路上の権利」概念を発展させようという志向はなさそうだ。
これだと「路上の権利」はやはり「自己決定の尊重」という話になるのだろうか。
なんかすごく素朴な立論なんだよな。
うーん。
ホームレスにならざるを得ないという不利、路上からの排除の圧力。路上の権利を主張する根拠として、そもそも野宿者が
「奪われた者」であるということがある。ホームレスにならざる得ない不利を背負わされた者が、その結果としての路上生活から排除されてはならない、しか
し、路上生活自体は奪われた結果であり、奪われたものの回復を目指すなら、路上生活そのものは権利と言えるようなものではない。それでも路上生活から奪わ
れたものの回復は行われねばならない。
違うなあ。奪われたものの回復なんてろくになされない。奪われたものの回復に向けた運動の形成もおぼつかない。しかし、
そこで生きる人がいて初めて、何が奪われているかのかを可視化されうる。その可視化を支えるのは路上で形成される関係であり、その関係形成がなされる場所
の確保が何らかの方法でなされているからだろう。
何かをあえて語らないようにしないとうまく立論できないのかもしれない。「見守り」だとか「支援」だとか、関係論ではな
く、場所にかかわる話──空間論を意識して「〈路上コミュニティ〉を形成して社会運動へと接続する」みたいなストーリーに巻き込まれないようにすべき?
空間論にするためには、どういう仕掛けが必要なのか。いや、そもそも空間論なのか?
そこに止まらざるをえない人がいるなら、その人の事情を理解しなければならない。困っている人がいれば誰かが相談に乗
る。そのためには出会う場所が必要となる。場所が先なのか出会いが先なのか。そこは同時なのだろうが、出会いも、作り出されなければ、場所を用意しない。
出会える前から出会いを予見した場所作りが行われている。たまたま出会った場所が自動的にそのような場所になるわけでは
ない。
〈拠点〉というテーマとのかかわりでまとめると、野宿できる場所、テント村のような空間の占有はもちろん大きな力になる
けど、出会いを意識した空間の利用がなければ、そこは〈拠点〉とはならない。単なる運動のベース(基地)ではない。これをベースだと考えると「ベースが作
れない以上、路上からの運動に先はない」のだから、撤退の道しかないことになる。しかし、それは〈拠点〉が発展した形態の一つであって、〈拠点〉の核は占有スペースの相対的な安定性にあるわけではない。
*
ということは、これを仮想敵に逆順に構成を考えればいいのかな。
空間が作り変えられるということは、出会いを意識した空間の利用のあり方を制限することでもある。野宿者が減り(野外から排除され)、商業化され、監視が強められる。空間は均質化する(こないだ読んだ小野塚(2014)に出てきた整理があったな)。
大阪の政治状況。市民運動の動向。一般市民と野宿者とで共有できる「守るべきもの」を見出すことはできないのか。まさしく「公共空間」である固有の場所のあり方をめぐって協働することが、公共性の構築につながる「公共空間」を実際的な形で実現するのではないかと考えるのは理想主義的にすぎるのだろうか。
*
■結城翼、2018年「社会的排除と公共性──山谷における野宿者支援の実践にみる『参入』の契機」『寄せ場』29:
45-64
社会的排除/包摂論の問題点、山谷の野宿者運動、その役割。
西澤(2010)は「社会的排除の議論を、公共性をめぐる議論へと接近する可能性をしめしている」(48)と。
公共性の三つの次元。「見棄てられた境遇」。
共同炊事と抗議行動。「主体」と「主役」。「意思の尊重」と「支配関係の否定」。
長居のテント村でならこんな議論もできたのかもしれない。
親密圏として機能。
交渉によって勝ち取っているものがある。
しかしながら、そのような留保をつけた上で、本節で取り上げた事例を紹介野宿者が野宿者のまま公共圏に
参入する契機として解釈することは、彼氏/彼女らの存在と、その政治的次元での参入という課題が社会的排除/包摂の議論において見えづらい位置に置かれて
きたことを明らかにする意味があることは強調しておきたい。
この辺がこの論文の結論かな。
社会的排除/包摂論の整理としてはユニークなのかもしれないが、事例から取り出していることはそんなに目新しさはないかなあ。野宿者支援というのはまあこういうもので、特に何か社会の新しい側面に光を当てたという感じはしない。理論的な机上の議論としては上手に組み立てているとは思うが……。
■ 青木秀男、2010年「権力と社会運動──野宿者運動の問い」『理論と動態』3: 87-106
改めてこの論文がどんな論文だったのかを読み返してみるか。僕自身の立ち位置もその時々で変わってきているし。
「ヘゲモニー闘争の塹壕」とか。
頭に入ってこない……。
なんか、方法論を語りたがるよな。
2000年代の動向はここにまとめられている通りで、僕が細々と書く必要はないな。
*
「1980年代の釜ヶ崎は仕事がいくらでもあった。20万円くらいいつもポケットに入ってたから、毎日働こうなんて気にならなかった」という話はどこで聞いたんだっけ? 読んだんだっけ?(2月のセンターだよりだった)
■新聞 #12
スクラップも、大阪の話だからといって児童虐待や殺人事件の記事まで追い続けることはないかなと思った。
2019年3月1日(金)
うーん、そうか、3月か。
■引越し #5
ようやく荷物を運びはじめられる。ハーフサイズの本棚から先に出してスペースを作っていくべきだと昨日辺りから気づい
た。
「行方不明だったこれここにあったのか!」的なイベントはまだあまり発生していない。生協のバンドを外す鍵くらい。
物多い。少しでも捨てる。
*
引越し先の電気とガスをどうしたらいいかわからないので大阪ガスに電話する。ガスと同時開通なら電気も電話で受け付けら
れるというので、まだガスはいらないけど開通してもらった。
トイレにウォシュレットの機械が備え付けられていて、手動で流せない。水道は来ているのに。
■論文 #6
窓口の待ち時間でも室田論文を読み進めよう。
*
「生活保護制度の利用がすすむなかで」から話がはじまるんだな。
〈路上コミュニティ〉って、どこまで具体的に論じられているのかな。山北の研究は「依存する自立」と「見守りの支援」と
いうように、当事者と支援者の「協同」として当事者運動を扱うものだった。「運動」のフィルターがかかった上での〈路上コミュニティ〉という感じがする。
「自己決定できる主体として野宿者を想定している」(10)。丸山「周囲の人びとと取り結ぶ関係性に依りながら、日々変
化していく状況に対応する過程であらわれていくような、行為遂行的な生活実践」云々。
〈路上〉の寛容さ。共感。「一般的にみて我慢が足りない人、片付けができない人、知的・精神障害を抱えた人などこの社会
にうまくなじめない人も〈路上〉では生きている」(12)。〈路上〉でしか生きられない仲間。
〈路上〉は寛容なのかな? 〈自立〉〈保護〉とか、山かっこわりと使われる。
「2.4
〈見守り〉の再検討」。ここだな。あくまで野宿者との当事者運動として闘う道にこだわる。ここに違和感があるというか、僕はもうそういうものとして見てい
ない。しかし、これは今回の論文では、わき道にそれる話だなあ。
そして、共同炊事。炊き出しが成り立っているところが大きい。規模としても、力量としても。
*
昨日の「いや、違うな」と思ったのは何だったか。「コミュニティ」の話じゃないんだよな。路上生活を選ぶことの意味。実
際には選んでいるわけでもない。引き受けざるを得ないし、引き受けたからといって特に得られるものもない。ただ「自分の人生を投げ出していない」というだ
け。「自己決定」といえるほどのものでもない。
ここには何か当事者性をめぐる錯覚があるように思える。他人に当事者性を背負わせたり、他人の当事者性に期待したりする
者はいかなる意味でも当事者ではないのか。必死なようでのんきに他人の当事者性ばかり気にしているというのはどうなのか。野宿者と支援者が同じ意味で当事
者たることはないのか。
上野千鶴子の当事者性の議論でも、当事者性は当人が自覚的に選びとって初めて成立するものと位置付けられていた。しか
し、だから何だと言うのか。
当事者運動の意義や可能性はもちろんあるにしても、当事者運動たらねば何事も成し得ないかのような思い込みに陥る必要は
ない。
問われているのは権利なのだとしたら、権利とはなんなのか、権利を問うとはどのような行為なのかに議論をシフトさせなけ
ればならない。
権利とは、獲得目標ではなく、生き方を探る指標のようなものではないか。手段ともまた違う。「路上の権利」という時に問
題となっているのは何だろうか。圧倒的に不利益な境遇であるにもかかわらず、同時に排除が正当化されるような状況にあって、社会のあり方を告発するための
言葉が「権利」なのだろうか。
ちょっと違うな。
*
事例から論を組み立てるべきだ。拒みながらでなければ主張ができない。そこで作り出されているのは何だろう。そこが路上
であることは確かだ。しかし、それはたまたま路上であるだけで、しかし、たまたまそうであるに過ぎない場所が固有の意味を持つところに何か見落とされてい
るものがあるんだろうな。この辺は事例を詰めながら考察を進めた方が良さそうだ……。
*
室田論文を読み終えてしまおう。
〈仕切り〉は何のために論じられてるんだっけ。場の秩序?
のじれんの資料から引用してこれるのはいいよなあ。
「寛容な場としての〈路上〉をまもるための抵抗、社会運動へと接続」(19)という話なわけだなあ。
〈共同炊事〉と呼ばれる炊き出しでは、野宿者と支援者が作業をともにすることで会話が生まれ、野宿者同
士および野宿者と支援者がつながることが目指されている。それはつながりのなかで〈路上〉が縮小される危機(襲撃、排除、再開発)が共有され、その問題意
識が時として抵抗・社会運動へと接続するからである。(19)
こういうことが言えるのはやっぱりまだ炊き出しがやれてるからだなあ。もっともよろずは炊き出しをやっていたことなどな
いし、釜ヶ崎ではもちろん炊き出しが行われてはいるが。
とりあえず室田論文と被ることはないな。
■メンテナンス #1
1月25日に原付の後輪のパンク修理。バイク屋まで転がしていく過程で中のチューブ類は巻き込まれてズタズタになってし
まう。4000円くらいかかった?
今日は自転車の後輪がパンクしていた。結構前から抜けやすくなっていて、空気を入れて区役所まで行ったのだが、出る時に
はぺしゃんこになっていた。自転車屋に行くと、前輪もよく見たらタイヤがズタズタ。交換どきになっていた。タイヤを交換するときは大体チューブも傷んでい
るので、同時に交換するものらしい。4000円くらいかかると言われた。後輪の方が単なるパンクなら500円だが、どうなることか。後輪は前にタイヤ交換
した記憶がある。あれはまたいつだったかなあ。
後輪は虫ゴムがダメになっていただけだった。虫ゴムも自分で交換してること多いんどけどなあ。しめて4700円。
■家売るオンナの逆襲 #4
北川景子の演技がなんかうるうるしてるな。
すごい演技力だ。
留守堂謙治とはこじれるのか。伏線がすごいな。
そうか。生き方を変えるとはそういうことか。
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