過去ログ
2020年2月


2020年2月29日(土)

 合評会の文字起こし読んだ。これに答えるの結構しんどいな。

 滅入った。

2020年2月28日(金)

■求人広告分析 #4

 とりあえずのデータ入力完了した。

 報告タイトル。「寄せ場労働者の集合的記憶───釜ヶ崎と都市のコモンズ」かなあ。

 距離を置くのはここでも同じか。

 先週は夜回りと「センターの日」を終わらせて、ようやく一息つけた週だった。18日(火)は研究会だった。19日の午後は授業参観。確定申告に着手したのもこの日。求人広告分析に着手したのが20日から? 大阪市立中央図書館は休みだった。金曜日当日の研究個室予約はできなかったので、土曜日の午前中を予約。22日(土)の帰り道は雨が降っていた。23日日曜日は寄り合い。24日(月)は振替休日で、ほとんど何もできなかった。

 そして今週。何となくやる気が出ない。たぶん風邪をひきはじめていた。

 単に体調が悪いのなら、気に病むことはない。夜回りに行くのをためらったのは体調不良のせい。iPad Proが壊れたので修理に行く。まあ、特段悪いことがあったわけではない。

 かみ合わないものはかみ合わない。距離を置く以外の対処法もない。体調悪いものは悪い。そういう時は気をつける。何かをまちがったわけではない。むしろもっと距離を置く必要があることを示している。

 疲れっぽい。この疲れっぽさを、時間に追われる強迫観念から逃れて、どうにか回避することを考えた方がいのかもしれない。

 内から力が湧いてくるように。

 できることしかできない。続けるうちにできるようになることもある。その力はもう授かっているのだから。

 めっちゃ疲れた。

2020年2月27日(木)

 後ろ向きな気持ちは体調のせいかな。

 頭のおかしい人に、どんなに冷静に話しても無駄だった。

2020年2月26日(水)

 また風邪気味か。月曜日のふるまいが良くなかったかな。

2020年2月25日(火)

 やる気なくてもできる作業を進めるしかないか。

2020年2月24日(月)

 今日寒い。

2020年2月23日(日)

 本読もう。

2020年2月22日(土)

■求人広告分析 #3

 「年末も含めたスポーツ新聞の分析」って、どういうことや。

 一年や数ヶ月分に目を通して、分析まで済ませるのは無理だろう。データ整理だけで時間切れ。求人広告市場の動向を見るだけなら、ネット求人の方がやりやすい? それは何を明らかにしたいかによるだろう。ネット広告の方が分析にかけられる情報量は多い。ネット広告で分析枠組みを作って、下敷きになる分析を済ませて、視界が開けたところで、スポーツ新聞の分析をするのが手順としては妥当なのではないか。

2020年2月21日(金)

 他人の要望を聞きながらだと、その意図が今ひとつ理解できず、やや迷走している。

 中途半端なことになって、結局はやり直さないといけなくなるかもしれないが、時間の限界もあるし、手っ取り早くアウトラインだけまとめてしまおう。アイデアだけまとめられていれば、後でいくらでもやり直しは利くだろう。

■求人広告分析 #2

 300以上もある求人データを分析するなんて途方もなさすぎるので、2月の第3週現在のタウンワーク求人だけで分析することにした。スポーツ新聞広告はどうしようかなあ……。昨年末がどうとか言ってたけど、何で昨年末?? 聞き取りしたのがその頃だったから?

 求人広告に一つひとつ目を通していると地味に面白い。2月第3週現在の59件分だけなら、何とか仮説を立てるくらいはできるかな? タウンワークで仮説を立てて、スポーツ新聞の求人広告についても作業仮説を立ててみたらいいかな。

 そもそもこういう求人広告の分析で何がどこまで明らかにできるものなのか、方法論として掘り下げてみたい気もある。

 ハローワークはまあ、そんなにはっちゃけたアピールは盛り込めないだろうし、寄せ場の求人だと手配師との対面のやり取りの中の中でしか見えてこないものが、求人広告から窺い知れるというのはなんか面白い。それこそ労働市場の分析という感じ。

 とりあえずリスト作りから。久しぶりだなこの作業。

 いろいろ面白そうな記載があるけど、これらをどう意味のある形で文章化できるかが課題になる。全体像を数量化して整理した上で、類型化して、類型ごとの傾向の把握、類型間の比較という形で進めるのがいいかな。完全に質的なテキストデータの分析やんか……。

■「センターの日」論文化 #1

 「センターの日」の分析も類型化、カテゴリー化から着手するのが必然だなあ。排除はそもそもカテゴリカルなプロセスなわけだから、カテゴリー化は基本的な手続きだ。それゆえにこそ、どのような視点でどのようなカテゴリーを設定し、カテゴリー間の相互作用を読み解いていくことが要になる。

 アルヴァックス『集合的記憶』。第2章「集合的記憶と時間」の「抽象的時間と現実の時間」から、いきなり面白くなってきたな。

2020年2月20日(木)

 やりたいこと、できることからやろう。

 読書に集中できない。手作業に当てた方が良さそうだ。そうするといったん帰宅するしかない。

 個人的持続、集合的時間。抽象的時間。

 メモしながら読むと納得できた。

■求人広告分析 #1

 自由記述を分析しようと思って、ワークシートを整形している。内容がめちゃくちゃ面白い。笑う。しかし、これを分析しようと思ったら、どんな視点で整理していくべきか。

 基本的には人手不足。どんな条件でどんな職種・仕事の求人広告が出ているのか。

 生活環境、待遇面での優遇、アピール。想定する求職者像。どんなことにこだわる、惹かれる人材だと思われているのか。

 釜ヶ崎で求人する場合でも、個室は大前提になっている。仕事をする時の道具類を用意してくれるのも、ほぼ常識。若ければ作業着から何から用意してくれる。

2020年2月19日(水)

 第3章 集合的記憶と時間。やはりベルクソンの影響ははっきりあるんだなあ。しかし、ここで時間について語りはじめるわけはなんだろう。

 源泉徴収票が1枚足りない……。

2020年2月18日(火)

「この街に帰ってくると肩の荷が降りたような、ほっとした気持ちになる」

 このような語りがセンターで聞かれることの意味。センターで語りかけられることの意味、センターで語られることの意味を記憶の社会学のアプローチで解きほぐすことはできる気がする。

 「センターの日」がどのようなものとして受け止められていたか。炊き出し的な受け止め方も一つにはあったろう。立ち寄る人たちは一様ではなかった。一人ひとりが釜ヶ崎での過ごし方を成していた。

 寒い。

■堀川三郎、2007「都市を記憶するのは誰か──『歴史的環境保存の社会学』へ向けてのスケッチ」三田哲學会『哲學』117: 177-218

 「記憶の貯蔵庫としての建築」「“建築がなければ記憶することができない”というテーゼが該当するのは誰なのか」という問い。「変化を否定し、変化する以前の都市を記憶する者とは誰なのか? 都市を一定の形で残そうとする人たちの動き、これを保存運動と呼ぶことにするなら、一体、保存を唱える人たちとは、誰なのだろうか」。

 よくわからん。この問いに何の意味があるんだろう。「誰なのだろうか?」って問いなの? 保存を唱える動機と保存対象の位置付けを検討するというなら、まだ分からなくはないけど、誰なのかを問うことに何の意味があるんだろうか。問うまでもなく自明なのでは。

 「社会学はいままでのところ、記憶が社会的に構成されると主張してきているにもかかわらず、十分にこのテーマについて語ってきていない」「社会学は建築と記憶について十全に語ってきてはいない」著者自身も結局、記憶について何も語っていないんじゃないの。

集合的記憶とは、内部から見られた集団のことであり、しかもその期間は、人間の生命のふつうの長さを超えることはなく、多くの場合、それよりはるかに短いのである。というのは、問題は過去に関することだからである。しかもそれを、集団がいつもその継起するイメージの中に自己を認めることができるような仕方で示すのである。集合的記憶とは類似の場面である。[アルヴァックス 1989: 98]

 真正な水準で構成されるものということかな。

■浜日出夫、2007「記憶の社会学・序説」三田哲學会『哲學』117: 1-11

 わかりやすい……

2020年2月17日(月)

 事務仕事を終わらせていきたい。

 まだ確定申告があった……。やってしまえば大した仕事ではないんだけど、妙に負担感がある作業の一つ。

 野宿者支援活動をする時の「路上」とは何だろうか。「支援者」は支援者としてふるまう時の記憶を持っている。記憶と記憶の接点として「路上」が生み出されている。

2020年2月16日(日)

 昨日の「センターの日」の記録は、思い出した細部を遡ってまで追記しないようにしてまとめた。書きながら思い出す、書きながら気づくことを重視した方がいい気がする。もちろん、あとで振り返って分析しようと思ったら、時系列を徹底しながらの網羅式の日記を書いた方がいいんだけど、正確で精緻な記録を作ろうとするあまり、かえって内容の理解が薄くなる、気づきが封じ込められてしまう反作用の方が問題に思える。

2020年2月15日(土)

 モーリス・アルヴァックス『集合的記憶』(行路社、1989年)を読みはじめる。

 個人的記憶と歴史的記憶(社会的記憶)。前者は記憶を想起する本人が体験したことであるのに対し、後者は必ずしも体験したものではない。また、他人と共有され、出来事の経緯によって独特の意味づけが創発的になされたものでもありうる。

 疲れた。長かった。

2020年2月14日(金)

 ふんだりけったりだな。

 木炭一つ買えやしない。

 もう「センターの日」も縮小していくしかないな。どんだけ手間ひまかけてるんだか。

 驕慢に陥らないように。

 飯場のフィールドワークとこのフィールドワークの違い。

 「センターの日」は僕個人の意思決定が大きく働いている。それ自体が僕の調査だったという見方もできる。僕の中に「センターの日」が目指す構想があり、それがうまくいかない不安やジレンマであふれていた。そういう視点で読みといた方がレンジは広くなる。

 エピソードがあり、物語がある。物語とは、それ自体は断片的なものでしかないエピソードを通して見えてくる構造と言い換えることができるだろう。

 こうしていれば力が盈ちてくると信じよう。不安、疑い、驕慢にとらわれず、自分の中から湧いてくる力が盈ちることを信じよう。

 支援とは。そんなところから問い直せるかもしれない。支援はいかにして成り立つか。何が支援なのか。どこからが支援なのか。

2020年2月13日(木)

 はー、疲れた。文章書いてばっかりやな。

 距離を置く……か。

 根本的に考え方を変えないといけない。そうすると、根本的に関わり方も変えないといけない。たとえばデータの取り方。もう記録をつけるのはやめてしまった方がいいのだろうか。記録をつけるのは基本的にものすごい負担を日常にかけるものだから、この分の負担を研究に振り分けるようにしないと、生活時間の振り分けのレベルで話にならない。

 夜回りと寄り合いと「センターの日」。簡単な覚え書きやメモで済ませるとしても、形式的な制限を意識的にかけないとどうにもならない。これらはどんな出来事なのか。

 大きな事件は起きない。細かな相互行為を分析するにも、あまり面白いものにはならないし、もうそういった記録の蓄積は十分だろう。何か大きな事件が起きた時に、少し詳細な記録をつけるのはありかもしれないが、何をもって「大きな事件」ととらえるのか。結局、何でもかんでも記録することになりかねない。

 こういった逡巡と内省を繰り返すことが、結果としては距離を取ることになっていくのかもしれないが……。

 「センターの日」でいえば、ビラの負担もある。これまではビラを通してコミュニケーションの可能性を探ったり、関係を構築しようする部分があった。だから、記述自体も一歩踏み込んで訴えかけるような書き方を積極的に採用してきた。

 そうか、あれはそういうスタンスでやってきたんだったな。まずは「センターの日」で、方法論的にのめり込んでいた部分を自覚していかなければいけない。

 「センターの日」のビラは、その回で上映する映画の情報と、次回の日程の告知、柱部分でのその回の目玉情報が表紙になっている。最初はA4両面印刷だったのが、途中からA3両面の見開き4ページになった。あれはいつからだろう?

 2019年の1月からだった。この時のビラに「都市のコモンズ」のことを書いている。ちょうど『アーバンカルチャーズ』の原稿を書き上げた頃だったからだろう。また、一年経って、未だ不安の多い「センターの日」への焦りもあったわけだ。『ビリケン』を上映している。映画をやるスタイルも実はようやく端緒についたところだった。2018年12月に『太陽の墓場』をやっている。その前の10月、11月の古本放出が好評だったんだなあ。僕自身が気にしていた「センターの日」の「型」も、理解の手掛かりになりそうだ。

 またA4両面くらいに戻していいだろう。片面でもいいくらいか。もうメッセージを送る必要もないかもしれない。というか、僕自身はもうそこから離れないといけない。この1ヶ月の事実経過をまとめて参照できる資料くらいの内容でいいかもしれない。

 つか、たとえばどうやったらやめれるんだろう、あれ。なんで続いてんの? 僕がやろうとしてるから?

 結局、今日もわりとちゃんと記録をつけてしまった。網羅式ではなく、基本は時系列でありながら、意味のある記述、考えたこと、気づいたことを融通をきかせながらまとめつつ、立ち返るくらいの書き方がいいかもしれない。気持ちに沿って書く方が負担が少ないし、そもそも気持ち(気付き)を書き込めていないとデータとして使いづらい。

 30分以内でまとめられる程度?

2020年2月12日(水)

 なんかボロボロ。

 ようやく答えが出た。長いフィールドワークだった。

 天の命ずるをこれ性と謂う。
 性に率うをこれ道と謂う。
 道を脩むるをこれ教と謂う。

 道なる者は、須臾も離るべからざるなり。
 離るべきは道に非ざるなり。

 是の故に君子は其の睹えざる所に戒慎し、其の聞こえざる所に恐懼す。隠れたるより見わるるは莫く、微かなるより顕かなるは莫し。

 故に君子は其の独りを慎むなり。

 深入りもせずに距離など置けるものか。深入りもせずに置いた距離で何を見出せるつもりなのか。

2020年2月11日(火)

 これが驕慢か!

2020年2月10日(月)

 最底辺とはこのことか。

 昨日の今日やで。

2020年2月9日(日)

 疲れた……。後悔はしていないが、疲れた。

 あー、もうとことん、どん底だ。アホだ。

 せっかく上向いてきたと思ってたのに、もうダメだ。

 厄年。

2020年2月7日(金)

 むなしい。

 意欲がなくなった時には、どのくらいの期間をどのように過ごせば回復するのだろうか。この一年を振り返っても特殊すぎて参考にならない。

 疲れた。愚かな選択をしてしまった。疲れた。

 何か思いついたのに忘れた。

2020年2月6日(木)

 メンタルの落ち込みはどうにもならない。

2020年2月5日(水)

 うーん、やっぱり風邪の前症状的なだるさがある。

 頭が回らない。クラクラする。

2020年2月4日(火)

 うーん、やる気が出ない。

 なんだこれ。

 本屋行ってくる。

 社会学のシラバス悩む。各論。うう。

 うーん。

 言葉にならない。

 社会学で何を教えるか。

 まさかの臨時休業だった。

 買えないけど別の本屋で教科書を何冊か見てみた。どれも似たり寄ったりの独特さがある。

 有斐閣の『社会学』でがんばってみる。

2020年2月3日(月)

 アンソニー・ギデンズ『モダニティと自己アイデンティティ──後期近代における自己と社会』(ハーベスト社、2005年)を読みはじめる。

 離婚の例から始まるのがギデンズらしい……のかな?

 なんか面白いな。

2020年2月2日(日)

 源泉徴収票だとたかをくくって開けていなかった封筒から返信しなければならないものがいくつも出てきた。

 この本はどの程度面白い本なのだろうか……。なぞ。

 『モビリティーズ』読み終わった。ほんまかいな。

2020年2月1日(土)

 釜ヶ崎の人情とは。

 ようやく忍者ホームページ復旧した。やれやれ。

 いよいよ「センターの日」の経験を解体していかなければならない時に来た。

 取り組む側からの懸念。これと場面を切り分けないといけない。取り組む側の懸念にもいくつかの階層があるはず。

 運営側の戦略はほとんど失敗しているのではないか。

 ビラに意味はあるのか。声かけのツール以上の意味があるのかよくわからない。もちろん、労働者の側からのリアクションはあるし、手渡すとその場でじっと目を通す姿はたびたび目にしてきた。映画から撮った画像は記憶に残るし、反応もある。

 「センターの日」の一番最初のお客さんは、あのおばさんだったんだなあ。「靴下ないか?」と何度も聞かれているので、何らかの支援の集まりだと思われていたんだろう。

 「何が応援かは、あなたたちが考えることだ」と語っていた人も面白い。

 勝手に仕切るおばさん。即席的な役割関係を作り、自分の居場所を作る。

 Mさんも初回から登場する。彼はすでに次回の日程を確認していた。

 センターがコモンズとして機能することをどうとらえればいいのか。それはセンターだけでいいのか。

 勝手に支援が集まると言う意味では、すでに自生的な「サービスハブ」になっている。

 都市のコモンズは、最初からいろんな権利を奪われた人びとがそれらを取り戻していくための階級闘争の場であると。支援が支援として機能するのも、その場が作られているからこそ。

 センターは現役の労働者、野宿者、生活保護受給者とが出会える場でもある。みんないつどこにいるかはわからない。センターが仲介する場所になっている。

 『ミラノの奇跡』面白い。

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