2019年1月
31日(木)
体調微妙?
■シンポジウム
#4
レジュメのドラフトできた。40分で報告するにはつめこみすぎになってしまった。
レジュメだけで力つきそう。もしスライドを作るとしたら、これは別の報告をもう一つ考えるような手間になる。
2019年1月
30日(水)
■シンポジウム
#3
PMO体制下では、公園は観光客と消費者のためのものとして管理(経営)される。経済原理に添えば「お客さん」には最大限の配慮がなされる。一般市民も潜在的には「お客さん」と評価される部分もあるだろうが、これは二次的な配慮に過ぎない。公園は客寄せに有効な範囲で快適な場所として管理される。
考えてみれば大阪城公園も、PMO体制になってきらびやかな商業施設が演出されているにもかかわらず、そのすぐ裏はほったらかしだったり、ずさんな管理がなされている。
大阪で起きている政変は保守の分裂であり、「経済保守(新自由主義)」と「政治保守(ナショナリズム)」が「社会保守(コミュニティ/コモンズ?)」とせめぎあっているのだとする論がある(否決に終わった住民投票)。前者が基本的な支配原理であり、後者はその邪魔となるものでありつつ、完全に排除しきることもできない。それゆえ、前者も後者を装いつつ、懐柔する
戦略が取られる。
これは「大阪都構想」の中で唱えられる「強い広域自治体と優しい基礎自治体」のフレーズによく表れている。また、コストカッターでありながら、教育や福祉に手厚いイメージを振りまくことにも余念がない。しかし、実際の施策は再配分の否定であり、「次世代への投資」という形をとる。「貧者の優遇」は許されない(報復感情)。
資源ごみ回収規制のための条例改正は、地域活動協議会のご機嫌を取る形で唐突に行われた。「生活困窮者の生活手段であるアルミ缶は対象にしない」と一般質問での市長答弁は何を意味するのか(地域活動協議会がアルミ缶を集めていなかっただけかもしれない)。「持ち去り」だけでなく「譲り受け」も規制し、「犯罪者」を作り出すもの。対象外にされたところで、アルミ缶回収に対するまなざしは自ずと変化する。今は「金になる」古紙回収もいつ採算が合わなくなるかわからない。地域活動協議会は「もうからない」事業に特化した行政の下請けになりかねない。また、条例改正までに市民モニターアンケートの悪用があった。市民の意識など、尊重する気はない。
そして、西成特区構想。「西成が変われば大阪が変わる」「西成をえこひいきする」と言って、優遇するかのような体で強引な介入を開始した。特に「あいりん地区」に関しては「まちづくり」の手法が演出された。実質的な「釜ヶ崎潰し」だし、きらびやかな宣伝の裏で野宿者排除は粛々と進められている。センターの仮移転・建て替えも、労働者の実状はまったく顧みられないままスケジュールだけが切られていく。ここでもやたらと強調される「未来」。「未来」はいつまで経っても「未来」のまま、語りの中で繰り返される。
*
手段の導入が目的の充足をもたらすものと錯覚させられている。空間をめぐる階級闘争だと考えれば、大阪城公園でも貧者への報復感情を伴うジェントリフィケーションが起こっている。公共空間の商業化もまたジェントリフィケーションということだろう。資源ごみ回収規制は貧者と貧者を分断するためのものだとも言えるかもしれない(古紙をめぐっていがみ合うなんて悲しす
ぎる)。都市のコモンズ。よろずの実践。資源ごみというのもある意味コモンズそのものかもしれない。
なんとかまとまりそうな気配。
構成はどうしよう。目的は「大阪の公共空間の現在を、都市下層をとりまいて起きている出来事──具体的には、大阪城パークマネジメント事業、資源ごみ回収規制の条例化、西成特区構想の三つの検討を通して明らかにする」といったところかな。
その上で「それぞれの概要を整理したのち、詳細を検討しながら、大阪の公共空間の現在を読み解く枠組みを取り出す」。これで50分はゆうにしゃべれるだろう。
そういえば、シンポジウムの詳細がようやくウェブに掲載された。
理論はどうしよう。ハーヴェイの都市企業家主義の話とか。観光都市戦略。新しい公共性。ジェントリフィケーション? インフォーマリティ? あんま求められてないだろうけど。
*
特にひねらないタイトルは「大阪の公共空間の現在──都市下層をとりまく3つの事例から」かな。
*
最初に書いた住民無視のことがどこかへ行ってしまっている。「野宿者だから排除される」のか。誰でも同じように排除される。その排除がより浸透してきている。マイノリティ/マジョリティの構図は、排除する者とされ
る者との非対称的な関係として描かれる。しかし、これは本当なのだろうか。同じ排除の構造の中で、それが作動するかしないかの違いとしてとらえた方がいいように思える。もちろん、それが現に作動している立場にある人と、そのリスクから遠い人との違いはある。
自分には関係のないこと、「良くなった」と思っているうちに、どんどん不利な状況に追い込まれている。そういう認識を持つべきだし、それなら広い立場で共闘が可能になる。当事者(マイノリティ)を支援者(マジョリティ)が支えて社会を変えていく。そんな構図ではもはや現状に追いつけない。マイノリティもマジョリティもない。一緒にコモンズを作り出していく? 同じ社会で同じ問題に向き合う仲間だと考えるべきだ。
貧者が可視化しないようにされている一方で報復感情はすさまじい。そうして報復感情を抱いて競争原理を後押ししている人間ですら、決して例外的な特権階級ではない。
*
どういう準備をしていったらいいかなあ。レジュメはどのくらいのものを用意すればいいか。スライド使うかなあ。レジュメは報告の大筋を示すものにして、細かな資料はスライドに入れ込んでいくのがいいんじゃないかな。それと年表を資料として添付するくらい? 木曜日にレジュメと資料を完成させて、金曜日にスライドを作る。そんなところでどうだ。
2019年1月
29日(火)
■感情 #3
日付が変わってしまった。イライラの矛先を何かに向けても解決にはならないし、厄介ごとを招き寄せることになるというところまではわかっても、それでよりマシな方向がわかるわけでもない居心地の悪さ。それ自体がいらだちともなりかねない。
*
昨夜の派生的なイライラはすでに勘違いの産物であったことが明らかになった。
*
ペーパーテスト124人分の採点・入力に3時間あまり。
*
昼ごはんも食べずにぶっ続けで仕事していたら調子悪くなるに決まっている。その上スーパーに発泡トレイとペットボトルのリサイクルを出しに行って、ついでに夕飯の買い物もと欲張れば、些細なことでイライラするのは自明なことだ。イライラするのは他人が何か悪いことをしているのではなく、ただ自分がイライラしているだけだとわかる。
さっさと飯食って休めというのはともかく、ただ自分がイライラしているだけだとわかっていれば、何かのきっかけを他人が作ったとしてもそのイライラをぶつけないように抑えたり、静めたりできるのだろうか。イライラは飼い慣らせるのか。
*
レトルトカレー食べた。その前に昨日の出来事について記録を整理していたら後頭部の上の辺りがチリチリ痛い。風邪の気もあるのかもしれない。
考えてみれば昨夜は1時半過ぎくらいまで寝つけなかったのだから、睡眠時間も短いんだった。
■新聞 #3
昨日から通常国会が始まったということはわかった。そんなことテレビ見ててもわかるけど。
■シンポジウム
#2
今週の予定を考えると今日の夜やれるところまでやって、明日の夜に仕上げるという形になるだろうな。
*
翻訳のコメント返しする余裕がない。つらい。
採点がひとまず終わったのはよかった。
原稿の校正はギリギリにもう一回見直して提出することにしようか。
また書類作らないといけないなー。とりあえずシンポジウム終わってから。でも必然的に2月4日か5日になるのでは……。
*
もう15時前だ。
*
まるでやる気が出ない。
つらい。
語り口が見つからない。
*
今何を語るべきなのか。釜ヶ崎で起きていることと路上で起きていることとで共通する問題は何か。住民無視が維新の基本路線。いや、それは今に始まったことではない。昔からあるやり方がこれまでになく強くなぞられているに過ぎない。また、無視されてきたという意味では、寄せ場や路上はふつうの住民の比ではないだろう。
いや、寄せ場や路上は無視されているわけではない。むしろふつうの住民と同じように無視されていて、その上で対応が異なって見えるだけなのではないか。無視という言葉はちょっと違う。何者かの都合で一方的に奪われたり構われたりする。「ないがしろにされている」のは確かだが、無視されているわけではない。インフォーマリティの議論に似ている。「無視」もまた構築されている。
野宿者対策が自立支援であれ、強制排除であれ、どちらも選択的に作り出された状況だ。自立支援に乗らずに路上に留まる者の意思は「無視される」のだと、ついついとらえそうになるが、存在が無視されているわけではない。本当に無視されている存在があるとしたら、それはそもそも存在が気づかれていないことを指すはずだ。存在に気づかれていない場合であっても、何らかの存在として「誤って」とらえられているのかもしれない。
統治の方法として本質的な違いはないのだと考えてみる。その点、大阪城公園で市民から奪われているものを示すことはわりとやりやすい。商業施設から見た公園と、公園から見た商業施設を対比して、その落差から理解の枠組みを導き出せばいい。
行政では小回りが利かず、手続きが煩雑になるところを解決するものとして、「民間」の柔軟性が強調される。この柔軟性とは、市場原理によるサービスの最適化を指すものと考えた方がわかりやすいだろうか。大阪市がやるより、民間の管理下の方が、野宿者に対する統制の幅も広くなるのかもしれない。行政であれば公の責任として排除に踏み切るところを、「民間」による管理であれば、商売の妨げにならない限り、排除のコスト計算が先立って、「黙認」が成り立つのかもしれない(となれば、要所要所で公園事務所が登場することにも意味があるはずだ)。
■日常生活ノルマ
米を研いで炊飯器をセットするとか。
■忘れ物
ハンカチを忘れて玄関で引き返すことが多い。
■論文
論文は2月中に仕上げるつもりでやらないと無理な気がする。
■メモ
健康保険、旅行保険、引っ越し屋。
電気、ガス、電話(ネット)。
転送届け、住民票。
2019年1月
28日(月)
はー、毎日やることが山積みでなかなかやる気になれない。
そういえばまだ朝刊も読んでないんだった。はー。
車検の日程変更の電話を入れ、区役所に住民票を取りに来た。やり始めれば何ということもないことなのだが。
採点。レイアウト修正しつつやったから結構時間かかった。いいものも仕上がったので、来年度が楽しみだ。
もう一つの入力までここでしてしまうか。バッテリー保つかな。
一通り入力してた。遅れて提出した分だけ確認。
さっき採点した分は帰宅してから入力して、ペーパーテストの採点明日かなあ。
■新聞 #2
うーん。
目にとまる記事ととまらない記事があるのはなぜだろう。
もう一つだな。
他人事として読む、我が事として読む。「こんなことにニュースバリューがあるのか?」と思うような時は他人事だ。しかし、我が事として読むのはどんな場合だろうか。かなりグラデーションがありそうだ。
基本的に新聞に親しみは覚えないなあ。地方面は読まないとと思っているが、さほど情報量があるわけでもない。きちんとした地方紙があればそちらを取るのかもしれない。
*
なんかつらい。多分に気のせいではあるにしても。
■感情 #2
いつまでもつやらわからないが、自分や他人のイライラを、イライラしつつも距離を置いて見ている。
少し前の自分ならイライラによるマイナスの価値付与に流されていただろうなと気づく場面。しかし、それでイライラという感情のさざめきがなくなるわけではない。岸に打ち寄せる波は耳鳴りのように響く。
採点やその他の仕事にに追われているものの、授業が終わっていくらか余裕ができるのも確かなのだろう(しかし、それでこの程度にしか余裕ができないのかと思うとつらい)。
土日辺りは風邪気味で、治るほど休んでもいないはずだから、今も体調は悪いのかもしれない(もはや何を基準に良し悪しを判断したものか)。
話がそれた。
部屋が散らかりすぎて仕事をする気になれない。物が多すぎて出入りしにくい。どうしろというのか。
昔買ったけどさすがにもう使うこともなさそうなボロい本とか捨ててしまうか。
*
「本音っぽい発言」を狙うだけでいいのかもしれないな。
2019年1月
27日(日)
木田元と中山元をかんちがいして本を買って読んでいた。木田元で問題はなかったけど、読みながらなんか木田元みたいなこと言うなあと思って気づいた。
*
「大坂なおみさん」って言わないといけないっぽい。
■感情 #1
今日は大阪国際女子マラソン。コースにかかる大阪市内各所で交通規制が行われる。大阪城公園の中や外周もその対象になる。12時半に大阪城公園に行かなければならない用事があって、スタートが12時なので交通規制がされていても、徒歩で移動する分にはまだ移動に差し支えはないはずだけど、確証はない。
そろそろ出かけないとと子どもに声をかけた時には12時になっていたか。娘が着替えてもいないのでイラッと来る。とはいえ、すでに遅刻確定の時間を過ぎているので、娘のせいで遅刻というわけでもない。
JR環状線の森ノ宮駅下車のところ、うっかりしていて乗り過ごしてしまった。一番前の車両で前を見たいというので3つくらい車両を移動したところで、疲れてしまった。ふだんは逆に一つ前の玉造駅で降りそうになるくらいなのに。
外回りで戻るのがいいのか、大阪城公園駅で降りて歩くのが早いのかわからない。さいわい2分程度で電車が来るようだったので、外回りの電車に乗った。
乗り過ごした時にすでに車窓からランナーの姿が見えた。玉造筋は渡りにくいだろうから、地下鉄の通路を経由することにした。しかし、ふだんそんな使い方をしないので思ったようなところに出られない。角の広々としたところから出たかったのに、児童公園の裏の出口まで迂回しなければならなかった。
この外周寄りの歩道と噴水広場はマラソンのコースになっているはずなので、すでに13時近くなって渡れるかどうかわからない。もし渡れなければ、地下鉄の通路で中央大通りのキューズモール側までまわって歩道橋を渡れば最悪目的地にたどり着けるだろうという目算はあるにしても、とりあえず目の前の道を渡れるか確認しなければならない。
結果として、コース沿いにロープやバリケードが設置されていたものの、隙間から難なく渡ることができた。しかし、渡れるかどうかわからないほんの1分、2分の時間がたまらなくイライラして、子どもに八つ当たりしそうだった。
これは僕がイライラするパターンの一つを物語るエピソードだと思ったので記録しておく。
■ジークハルト・ネッケル『地位と羞恥──社会的不平等の象徴的再生産』(岡原正幸訳、1999年、法政大学出版局)
とりあえず序章を読んでみた。単に羞恥感情が引き起こされるメカニズムを解明するというわけではなく、そこから社会構造の分析をするところまで念頭にあるらしいことはわかった。
すごく面白い本のような気もするし、僕の関心とはまったく交わらないような気もする。羞恥感情を「不当性の感覚」と置き換えてみた場合はどうだろう。
僕は排除を読み解くための起点として「不当性の感覚」に注目する。しかし、「不当性の感覚」そのものを(それこそ感情社会学的に)理論化しようという気はないと思う。
「どのような場合に人は不当性の感覚を抱くのか」「不当性の感覚はどのような社会的位置付けを与えられているのか」を問うことにあまり意味があるようには思えない。もちろん「排除の不当性」を理論化する必要はあるにしても、「不当性の感覚」にその根拠が求められるわけではないように思う。
このようなことを意識しつつ、とりあえず読み進めていくのが良いだろうか。
2019年1月
26日(土)
風呂も入らず着替えもせずに寝た。
体調も今ひとつだし、疲れもたまる。
追試の対応しないといけなくなった。
*
月曜日のメールにようやく回答することができた。今日中に追
試の対応まで済ませられたらいいのだが。
*
一応済ませた。
けだるい一日であったことがうかがえる。
2019年1月
25日(金)
■家売るオンナの逆襲 #1
相変わらず面白い。「逆襲って何だ?」と思っていたが、いずれ留守堂謙治にやり込められて、クライマックスでやり返す(逆襲する)という見通しなのだろう。
「どうして留守堂さんはそんなに僕に良くしてくれるんですか?」という足立の質問に留守堂は「三軒家さんの気を引きたいからかな。僕、三軒家万智研究家だから」と答えている。物語の展開を暗示しなければならない
都合があるのかもしれなきが、「三軒家万智に接近するためにお前を利用しているだけだ」と聞こえるようなことを留守堂に言わせてしまっていいのだろうか。それとも、こういうことを言ってしまうことも留守堂のキャラクターに織り込み済みなのだろうか。
■自己管理
一回書いたのに消えた。要するに体調が悪いのに「何か調子悪い」としか言い表せない。「調子悪い」の実体をつかめないでいる。
■原付自転車
空気抜けただけかとも思ったがパンクしてた。近場の自転車屋で空気だけ入れてもらうか、反対方向のバイク屋に直接行くか迷ったが、読み勝った。
修理後の引き取りは夕方以降になってしまった。これは想定外。
■日常生活ノルマ
仕事ではなくて、1日にしなければならない「日常生活ノルマ」の量に疲弊した感覚を抱くことがある。
よくあるのがようやくほっと一息つけるかという時に「まだ洗濯物干してなかった」と気づいたり、ゆったりして出かけようとした時に「まだ読んでなかった」と郵便受けの中の新聞に気づいたりといったパターン。
夕食後の食器類がテーブルの上に放置されたままだったり、シンクやに洗い物が満載だったり、浴槽の掃除はおろか、残り湯を捨ててすらいなかったりと、枚挙にいとまがない。
いとまがないと言いつつ考えうる限り枚挙してみるとして、もう布団を敷いて寝たいというのにたたんでいない洗濯物の山があるというのもうんざりさせられるケースの一つだ。食器乾燥棚に溜まったジップロックやタッ
パーを片付けたり、リサイクルのペットボトルや発泡トレイをまとめたりするのも面倒くさい。
子どもたちを風呂に入れたり、学校の宿題、公文の宿題をやらせたり、歯磨きをさせたり、薬を飲ませたりというのも、細かいところまで見ていくとさらに増えるだろう。
三角コーナーの生ゴミの処理もある。
バカどもが散らかし放題にした上着やカバン、日用品を片付けるのも面倒くさい(むろん片付けさせるのも面倒くさい)。
■新聞 #1
自民党の第三会派はとにかく竹下派であるということだけはわかった。
昨夜の理解の話でいえば、人間は何かをわかることで前進する生き物であり、どのようにしてかはともかくわかる能力を備えている。しかし、まちがった理解、現実への対処にそぐわない理解というのもある。「短絡」という言葉があるように、わかればいいというものではない。しかし、その結果、知れば知るほど、どのように理解すべきかなかなかつかめなくなるという側面もあ
る。
*
わかることに意味はなく、ただそこに理解が訪れるのみである。
*
どのように理解すればわからない物事について蓋然性のある理解の枠組みを提供するということはありうる。
しかし、と続けたいような続けるのはためらわれるようなためらいを感じる。議論を急げば「しかし、そのような知識は借り物でしかなく……」と続けたくなるが、理解の枠組みの共有というのは、それ自体慎重な理解が必要なことだと思う。
■仕事のノルマ
急がなければならないとわかっていることを先延ばしにしている焦りというのもある。
先延ばしになるのは仕方ないと思いつつも。
助走をとって必要なエネルギーを出し切れるだけのまとまった時間が必要だし、エネルギーも必要。
*
原付を修理に出している場合なのか、とか。
そして、釜合労の申し入れがあるらしいのでセンターへ行く。
「こんなんじゃ全然足りない」はあるけど、「これだけやれば
十分」はない。
*
この手詰まりなぎこちない感じも今の空気なのかもしれない。
2019年1月24日(木)
耳を刺すような寒さ。
明日は明日で用事ができた。なかなか休まらない。
*
なんかあって、行くのはいいんだけど、そのあと記録を付けないといけないのがしんどい。
*
体調微妙。クラクラする。
ちょっとやそっと休んでも楽になる気がしない。
しかし、そういう時こそきちんと休めば良くなるのに高をくくって休まない罠の可能性も意識する。
早めに来てゆっくり本読むなりなんなりしようと思っていても、あまりそういう気にならない。
薬も効かないなあ。
後にミッションが控えていて落ち着けるはずがない。
静かになって少し落ち着いた。でも耳鳴りは治らないな。
*
神戸から休みもせず混みこみの電車で帰ってきて、スーパーで買い物をして、子どもの迎えもやったうえで、ソファでスマホいじってた人のために夕飯を並べるところまでやらないとご飯の時間にならないんですか?
*
自分がご飯食べなきゃ茶碗も洗わない、みそ汁はマグカップ。むちゃくちゃやな。
疲れた。疲れてる。さっさと寝るが吉。
■さんすう
「10が5こ、1が9こで◯」の答えは59。では「10が◯こ、1が◯こで27」は?
答えは2と7で、数字の桁の概念を教える意図で出題されている問題だということはわかる。しかし、これをわからないという子にどう理解させたらいいのかは僕にはわからない。
いくつも同じような問題を解かせながら本人に何となく理解が訪れるのを待つほかないように思われる。
理解とは何か。教えるということは、何かと何かを組み合わせ
て意図した通りのものを相手の中に作り出す行為というより、理解が訪れると期待される状況を用意して相手の中でその意図したものが身を結ぶのを待つようなものだと思うことがある。
たとえば、意味はわからなくてもとにかくパターンとして処理するように強要するやり方がある。容易には理解をもたらすことができないので、後から理解が訪れることを願いつつ、とりあえず差し迫った状況に対処するため、結果を出せるようにしておく。これを「教え込む」というわけだから、教えることのバリエーションの一つではあるのだろう。
そういえば「日雇い労働者のつくりかた」の「おわりに」で僕はこんなことを書いている。
成長や理解には道筋があり、それなりの時間がかかるものです。また、成長や理解は人によって個別のものであり、人が変われば必要となる成長や理解も、そして、かかる時間も異なるのが当たり前です。ちょっと放っておいてくれれば素直に訪れるものを、なぜいっしょくたに塗りつぶそうとするのでしょう。
「どうしてできるようになるのか」の前後編もずいぶんこだわって書いた。『飯場へ』の第8章で書いた「下っ端の視界不良」の話とか結構好きなんだけど、そういう話を深める機会には今のところ恵まれていない。
一つ一つは取るに足らないけど「こういうことってあるよね」というエピソードを書き留めて形にすること自体にも意義はあるのだろう。しかし、「わかる人にはわかる」的な共感を超えて、「なぜこれがわかってもらえないのか」を告発するところまできかなくて研究者がそれを扱う意味があるのだろうか。別に扱ったっていいんだけど、そこがゴールではないと思う。責任を負う覚悟が問われている。
「誰にでもできること」だからこそ、とことんやり抜いてこその研究の意義があるのではないか。
さんすう関係ないな。
2019年1月23日(水)
■Apple製
品
ツイートもしたけど_、ツイートだと今ひとつ考えがまとまらない。
2003年にWindowsからMacに乗り換えた時は、OSが安定していて、段違いに使い勝手が良かった。Windowsはしょっちゅうフリーズしていた。
フリーズしないというのは大きなメリットだった。しかし、最近はMacも固まることが多い。変なエラーもしょっちゅうだし、少しずつおかしくなってもう取り繕えなくなっているように感じる。
OS
Xのアップデートも毎年毎年しなくてもいいのに、iOSのアップデートがiPhoneを売るためには必要なアピールになってしまっていて、それと合わせてMacのOSもアップデートしなくちゃならない、みたいな悪循環に陥っているように思う。
■頭が回らない時
経理のバイトをしてる時に「これお願い」と言われて頭が回らない時がよくある。オーダーに対してインデックスの検索がはじまらない。シークバーがノロノロと動いてるんだか止まってるんだかみたいな状態になる。
あと膨大な量のレポートを採点している時もCPUに負担かかりすぎてパソコンがものすごく熱くなってファンが回りっぱなしみたいな状態になることがある。
レポートの場合、きちんと締め切り通り出さなかったり、書式を全然守らずに変な用紙で出してきたりといった他人のルーズさに起因するつじつま合わせでいっぱいいっぱいになることでそういうことが起こる。
経理の方も基本的にはルーズさのつじつま合わせの問題みたいなのはある気がするけど、ルーチン処理のはずのものが、たまに振られると未だに一瞬わからなくなる。
*
レポート採点と経理は分けて考えた方がいい気がする。でも共通する部分ももちろんある。
広い作業台の上に必要な資料を並べたままにしておけるならそんなに大変なことではない気がする。いったん中断してしまうと、どこまでやっていたのか、どんな留意事項がいくつあって、どう処理しなければいけないのかがわからなくなってしまう。
薄く広く必要な配慮が途切れてしまうそうになる時にかかる摩擦のようなものなのかな。
うーん。スペースが確保できないとなると、手数を増やさざるをえなくなる。手数が増えるというのは、出したり入れたりといった手間が増えるということ。手間が増えると作業が煩雑になる。
判断を保留にしたままにしてでも、とりあえず全体の作業を可能なところまで終わらせてしまわないといけない。判断を保留にしたままにする箇所が増えていくと、感覚的なイメージでバランスをとらなければいけなくなる。問題解決を抽象的に組み立てながらとなると、やらないといけないことはそんなに難しくないのに、やりきるとなるとバカみたいに大変なことになってしま
う。
作業を中断しなければならない時に、中断しても構わないような目印をつけておけばいいんだろうけど、それをするにはあらかじめの準備が必要になるだろう。
たとえばレポートを学籍番号順に並べ直す時、学籍番号の記載された箇所がバラバラだとすごく大変なので、並べ直しながら決まった箇所に番号を書き入れていく(学籍番号と氏名を記載する箇所を指定しておけばいいような話だが、3割も守ってこないと思う)とか。
あんまりいいアイデア出ないな。
*
『はじめアルゴリズム』で内田先生が、数学の問題を解くための体力がなくなって挫折を感じたことを追憶する場面がある。
エスノグラフィー(こういう時にはエスノグラフィーという言葉を使うのは不誠実だと思うけど、不誠実ながら使っておく)を書くための想像力をひねり出す力も同じようにいずれ衰えるのかもしれない。エスノグラフィーというか、記述的な方法を用いつつ、社会構造とそのメカニズムを描こうとする試みは、いろんな判断を保留した上でつじつまの合う物語を作り上げるようなことなので、集中力が弱まれば弱まった範囲の物語しかとらえられなくなると思われる。それとも、そこを何とか乗り越える工夫などというものもありうるのだろうか。
*
そんなに難しいことではないはずなのに、いざやろうとすると、とにかく外から見えないような労力がかかる仕事があるということだろうか。
「労力がかかる」って言う? 「お金がかかる」「時間がかかる」の「かかる」だよね?
2019年1月22日(火)
■オートエスノグラフィー #1
オートエスノグラフィーというのもあれわかるようでわからないんだけど、調査者自身の感想レベルのものを思い切って事実として分析に乗っけてしまって、喫緊の課題をとりあえず形にしていこうという戦略的なものだと考えるとわからないでもないかもしれない。
しかし、やはり論文としての完成度を担保しておかなければ、大した影響力は持てないように思う。
*
そういうものがオートエスノグラフィーなのだとしたら、僕はオートエスノグラフィーはやってないなあ。
*
「感想レベルのものを思い切って事実として分析に乗せる」といっても、本当はそう簡単なことではないし、安易にやろうとするわけでもないのだろうが、安易な試みと思われがちだし、出来不出来がシビアに評価されるという意味でやはりいばら道だと思う。代替手段があるならあえてオートエスノグラフィーでやる必要はない。
■シンポジウム
#1
やはり資源ごみ回収規制条例の話_もからませたほうがいいか。
*
頭痛い。仕事も終わらない。
2019年1月21日(月)
■日をまたぐ
更新していたら日をまたいでしまった。毎日更新楽しいな。html の世界に戻ってきたよ!
なるほどブログは便利なものだった。htmlでウェブサイトを作る作業のなんと原始的なことか。しかし、コンテンツを自分の手の内でコントロールしている感じはブログにはないことだ。大したスキルがあるわけではないが、工夫して中身を充実させていくことが楽しい。
以前までのようにFTPの仕組みを知らずにやっていた時はわからなかったが、なるほどウェブサイトを作るというのはこんなにシンプルなことだったんだなあ。
ブログで一つ一つの記事を編集しながらだったらこんなことを書こうという気になれない。手書きの良さがある。そんな感じだ。
*
Twitterだとフォロワー数だとか、どう受け止められるかとか気になってしまって、思うようにつぶやけない。特に面白くもないことをつらつらと連投していたらリムられたり、フォロワーの誰かに呆れられたりするのは思考の妨げとなる。クライアントを立ち上げてタイムラインを眺めている人の目にはリアルタイムで否応無く触れるというのがよくない。
その点ウェブサイトだと、わざわざ見に来ないといけないし、いつどれくらい更新されるかもわからない。それくらいほっとかれるのがちょうどいい。
コモンズも「そこそこ放置された土地」だからこそ、共有の仕組みが生まれてくるものなのだとすれば、関係のあり方を規定する空間の条件は、不自由であるがゆえに豊かなものをもたらすということがあるのではないか。
*
「怠け者の社会学」も、htmlで作るウェブ空間の制約に触発される創造性を利用したものだったのかもしれない。
昔のウェブサイトには必ずと言っていいほど付いていたBBSも、いずれはサービスとしてなくなってしまってもおかしくない。しかし、昔はわざわざこんなものをつけなければサイト管理者と交流するのが難しかった。
mixiが登場して、SNSが当たり前になって、しかし、そのどれも僕はTwitterほどには積極的になれなかった。
インターネットに振り回されている人はたくさんいるだろう
な。
*
記録集のファイルの移行と、記録集・ロジョー・miirakansu:notesそれぞれのジオシティーズページからの転送設定をした。面倒くさかった。これでもうやり残したことはあるまい。あー、バックアップとっとかないと。
■論文とシンポジウム
3月末締め切りの論文について考えよう。
と思ったけど、2月2日のシンポジウムのネタを整理する方が先かなあ。
こないだ谷町線の都島駅から初めて乗車して「ここが都島駅か(いつも名前だけ見る谷町線の終着駅なんだな)」と感慨深かった。
論文のタイトルは仮に「野宿者にとっての都市空間の場所性」にしてある。ある雑誌で組まれる「ホームレス」をテーマとする特集号で、野宿者支援・野宿者運動における「拠点」を考察する論考で構成される予定(査読も入るので落とされたら載りません)。
査読で的外れなこと言われたら腹立つので今回はお利口さんな論文に仕上げたい。そのためには理論的な筋をスマートに通しておいた方がいいんだろうなと思う。どんな事例を用いて、どういう現状認識の中に位置付けるのかということは大方決まっているし、大阪における野宿者運動のまとめをするだけでも結構長くなるので、ネタが不足することはなさそう。こういう状況なの
で、あとはどんな理論をあてがうのかが残された課題と言える。
シンポジウムの方は日本寄せ場学会の2018年度総会・シンポジウム。ネット上にはまだ情報が出ていないっぽいなあ。もうすぐだけど。紙のニューズレターが手元にないから内部文書かもしれないけど引用してしまえ。
2018年度総会・シンポジウム
今回は、東京-大阪を貫通する形で、この10年ほどの間に寄せ場と路上で何が起こってきているのか(労働市場として
の寄せ場の収縮・変質、公園・路上等からの排除の進展)を共有するとともに、それらの背後にあって共通する変化の構造等について議論を深める。
なお、今回は(再開発と排除など)空間をめぐる論点が中心になることが予想されるが、これは、労働再編/建設産業の変化といった論点を放棄するということではない。ただ、議論が拡散するのを防ぐため、今回は空間に軸心を置き、労働に関する論点については、今度の(2018年度の)総会での議論をふまえたうえで、その次の(2019年度の)総会の中心テーマに据える。
なるほど……。
「自由に報告してくれ」と言われているが、何にどこまで踏み込んだらいいのか難しいな(丸投げですな)。
「寄せ場と路上で何が起こってきているのか」を「今回は空間に軸を置」いて考える。「労働に関する論点については」来年度の総会の中心テーマに据えると。寄せ場と路上の両方を視角に収めた議論にした方がいいのかな。
このシンポジウムの報告内容も次の年報に書くことになるので、論文で書こうとしていることと被らないように気をつけないといけない(むしろ、来年のシンポジウムは何の話をすればいいのやら)。
寄せ場と路上を同時に扱う視点として、大阪の統治体制の変容
を語らないわけにはいかない。これは結局論文の方でも扱うことなので、それぞれでうまく切り分けて語る路線を見出すことを目指すか。
野宿者をめぐる大阪の統治体制、野宿者運動の展開、どちらもきちんとまとめたことがない。論文を仕上げるためにはこの作業が必須になる。それならシンポジウムにかこつけてこの作業を2月2日までにやってしまえたら都合がいい(空間の話じゃなくなるな)
僕よりくわしい人なんていくらでもいるし、手持ちの資料も少ないのに、こんなことやっても大丈夫かな。まあ、逆に現場の情報収集のためにシンポジウムを利用するという立ち位置もありうるか。
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手持ちの一次資料もあるが、ひとまず先行研究としてまとめられたものを探して整理してみよう。たぶん、論文の方はよろずの部分をふくらせたものになる。
逆にシンポジウムの方は生データは要らないんだろうか。エピソード記述式の論考は要らないかもしれない。「センターの日」にふれつつ、大状況を整理することにしようか。ジェントリフィケーションと都市のコモンズの話を理論的な大筋として、大阪のホームレス行政と野宿者運動の推移と現状を切りわける(ええんちゃう)。
生データで書けることって今はまだ固まっていない。論文で書こうとしていることを、さらに発展させたものが一つありうる。「センターの日」を軸としてまちづくり検討会議、西成特区構想を批判して、公共性、公共空間にまつわる議論をする。よろずの活動と「センターの日」の二本立てで一冊の本にまとめる方向で構想を固めていきたい(あれやな、パークマネジメントについて批判する論論文もいる。労働面に関しては科研でやったテーマの延長で扱ったらいいのかな。これはこの構想に入ってくるのだろうか? めちゃくちゃやることあるやん)。
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うーん、違うな。シンポジウムで期待されているのはやはり現在のことであって、歴史の整理ではないだろう。
現在を語るとしたら、パークマネジメントと西成特区構想の話かなあ。パークマネジメントの流れと西成特区構想に通底する意図を、空間論的に読み解いて紹介するようなものが望ましいのか。
まちづくりの中で、理想論が語られつつ、空間的な排除が進行しているのに、これを問題視する議論が出てこない。切り離されてしまう。
パークマネジメントの中でも、きらびやかなアピールの裏で切り捨てられているものが見えない構造が作られている。
ここから大阪市政全体を貫くイデオロギーを取り出すみたいなこともできるのかもしれないが、あんまり僕の芸風ではないなあ。
まちづくりとパークマネジメントに通底するものとは。
公共性をめぐる議論かな? プライバタイゼーションが新しい公共性と取り違えられていく現象といえばすっきりするけど、もう少し複雑な気がする。
プライバタイゼーションといえばプライバタイゼーションなのだが、プライバタイゼーションという言葉を解釈しなおして概念を腑分けする作業が必要だ。
■エスノグラフィー
猫も杓子もエスノグラフィーでエスノグラフィーって何やねんと白け気分の今日この頃だったが、そもそも論文を書くスタイルとして根本的に手続きが異なるのだとしたら、そのスタイルに則って書かれたものをエスノグラフィーと呼ぶのは許せるかもしれないと思った。
それじゃあそのスタイルって何なのという話になるが、それはいわゆる論文がどのように書かれるものなのか(どのように書かれるべきだということになっているか)との対比でまずは語りはじめないといけないだろう。
これはフィールドワークをどのようにとらえるかにもかかわる問題かもしれない。どちらもフィールドワークを行なっているにもかかわらず、一方はエスノグラフィーで、一方はエスノグラフィーではない(論文である)ということが起こる。つまり、エスノグラフィーという言葉をめぐる混乱の前にはフィールドワークという言葉にまつわる思い込みがあるということだ。
「はじめに解明すべき問い(目的)があり、その目的を達成するのにふさわしいと思われる対象があり、最後にその対象を加工する手続き(方法)がある」──これがいわゆる論文の書き方である。もちろん、エスノグラフィーも結局はこの書き方になぞらえて完成されなければ、まともな研究として扱われない。「研究=論文」である以上、エスノグラフィーも最終的には論文として完成されなければ、それは学術研究ではないのだ。
「そんなものは旧態依然たる業界の約束事に過ぎない。そのような旧弊が研究の裾野を狭めているのだ」と熱く語りたい気もするが、それぞれが好き勝手に書き散らしたもの(あるいは研究の裾野を広げんとする意欲的な実験的試み)をエスノグラフィーと銘打って「研究=論文」のなかに加えろ(「研究=論文 or エスノグラフィー」にしろ)と叫んでも無視されるだけだろう。
ここは無駄な手間だとわかっていても、「研究=論文」のスタイルに落とし込んで、まずは学術的な評価を獲得しなければならない。
しかし、単にスタイルを擬装するだけでは、単に敵の支配体制に屈したのと変わりない。問題提起するとしたら、「研究=論文」としての評価を獲得した上で、実はこれは論文と同じに見えるし、論文としての手続きも踏んでいるが、研究であることを担保する論文とは異なるスタイルで作られたもので、この論文の発見はそのスタイルと不可分なものなのだと、内実を暴露する形でなければならない。
すでに言われていることだと思うが、フィールドワークにもとづく研究は、それが方法であるにもかかわらず、目的・対象・方法の順に展開するとは限らない。フィールドワークではこの三つが同時に現れると言ってもいいし、むしろ、最終的な成果物を完成させるギリギリまで、どれもあやふやなままだと言った方が正確かもしれない。
単なる現地視察程度のことや社会調査一般が慣用的にフィールドワークと呼ばれているために議論がかみ合わなくなるといった問題もある。たとえば学生や希望する社会人を現地案内することもしばしばフィールドワークと呼ばれる(もちろんそれはフィールドワークの始まりでもあるのだが)
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こんなところで込み入った議論を展開する余裕はないので、覚え書き程度に結論を整理しておくと、エスノグラフィーとは「研究=論文」の擬装が成功した文学作品と言えるのかもしれない。もちろん、文学作品としてのスタイルは別に議論の余地があるものの、この点を必要条件と考えるとわかりやすい。エスノグラフィーは文学と科学の中間に位置するようなことも言われているが、中間に位置するというより、どちらでもあるほどの完成度がなければ、エスノグラフィーとは呼べないように思う。
このような言明は、エスノグラファーのあいだに党派主義を持ち込み、無用な分断を生む愚かな行為かもしれない。完成度というのはそもそも相対的なもので、同じ作品に対して「これは十分な完成度を持っている」と評価する人もいれば、「完成度が低すぎる」と評価する人もいるかもしれない。エスノグラフィーを名乗るのは自由だし、その作品を評価する基準も、あるようでない。
言うなれば、エスノグラフィーとは研究業界における階級闘争のようなものかもしれない。エスノグラフィーの多くがマイノリティの生活のリアリティをすくい取ろうとするものだと考えれば、そもそも現実世界の階級闘争を研究者が引き受けた時に現れるスタイルがエスノグラフィーであると言ってもよい。
なるほどマイノリティの生活のリアリティをすくい取ろうという意気や良し。しかし、そこで自らエスノグラフィー/エスノグラファーを名乗ったところで、宣戦布告のような意味はあるかもしれないが、争えるほどの実質を備えていなければ何の意味もないし、むしろ闘争の形骸化を招くだけだろう。
エスノグラフィーはまちがいなくいばら道なのだから、無駄口を叩かずただ越えていく道を行くだけではないか。
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もちろん、自分を鼓舞するために用いたり、連帯の旗印としたりといった副次的な効果はあるだろう。
なんかこれ文章書くのすごい楽しいんだけど。たぶんスマホで更新できるからだろうなあ。
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やっぱりベルクソンだな。
■メモ
電気シェーバーを充電した。
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今日ここまでで5,600字くらい書いている。
ブログはきちんと結論のあることを書かないといけない気になるのでよくない。
2019年1月
20日(日)
■今夜もまた
なかなか落ち着けない。今夜もまた課題が山積みだ。
仮眠したらうなされるほど眠りが浅くて驚いた。こんな状態から三つも仕事片付けられない。
言ってみただけ。
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いや、もうがんばらなくていいか。優先度の範囲で処理しよう。がんばりすぎても身体を壊すだけだ。
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がんばらないでできる範囲の補足をしてみたら、12月頭時点の報告のザル具合にびっくり。これで20,000字までふくらませられるだろうかと少し不安だったが、書こうと思ったら書かないといけないことはいくらで
もあることがわかった。
理論的な位置付けもきちんとしないといけない。これではもったいない。どこを一番の売りにするかをうまく絞り込めればいいのだが。
2019年1月
19日(土)
クソリプうざい。
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2019年1月18日(金)
■フィールドノート
たかだか2時間の夜回りの記録をまとめるのに1時間半くらいかかる。
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耳鳴り。
金曜の授業の後に仮眠すると泥沼にはまり込んだかのように眠い。
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やらなければならないことに対して準備する時間が不足している。しっかり準備する時間が取れれば、ここまで負担にならないのにと思うようなことが多すぎる。時間がかけられるなら一つ一つが充実感をともなった実りある経験になってもおかしくないのに。
■iPad ProとApple Pencil
iPad ProのKeynoteでスライドを作って、Apple Pencilで書き込みをしながら授業をするのが、とてもやりやすい。
スライド使うのあまり好きではなかったけど、その理由の一つは
軌道修正ができないところだった。プレゼンならそれでもいい、その方がいいということもあるだろうが、授業の場合、授業をしながら説明不足に気づいたり、エピソードを追加したいと感じる時がある。そういう時にApple Pencilで書き込めるとすごく便利だ。
また、スライドで授業をすると時間の調整がしにくかった。スライドをめくるだけで済むぶん、恐ろしく早く終わってしまって困ることが起こりがち。その点、書き込みができると脱線しやすいし、時間が足りなくなればざっくりした説明に切り替えて流すこともできる。
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また、それ以外の効用としては、書き込みながらしゃべること自体が僕には合っているというところ。もともと手を動かすとそこから思考が広がったり、整理されていったりするたちなので、授業をしながらの創造性が触発される。できる限りこのやり方をスタンダードとして取り入れていきたい。
■座席指定
これまで授業での座席指定はしてこなかった。内容に関わりのないところで権力を行使するのは学習効率を下げてしまうように思えて避けてきた。
しかしもう10年近く授業をしてきて、この数年はいろいろ実験的な取り組みもやってみたうえで、そういう工夫ではもうどうにもならないと、さすがに限界を感じてしまった。精根尽き果てたというと大げさに感じられるにしても、かなりうんざりしてしまった。
今年の後期は、iPad ProとApple Pencilの組み合わせでKeynoteを使うようにしたことと、座席指定をしたことの2点がこれまでとの大きな違いだった。結論から言うと、座席指定はした方がいいと思うようになった。コミュニケーションカードを読んでいても、授業をきちんと受けている割合は増えているように思われる。ムダ以外の何物でもないおしゃべりも抑制される。
座席指定への反発もなくはないが、事前に座席表を貼り出しておけば、わりとすんなりと学生は席に着く。考えてみればこの10年くらいのあいだに多くの授業で座席指定が当たり前になっているのだろう。座席指定に対して怒りに満ちた感情的な反発もあった。しかし、何しに教室に来ているのかとかえって白けてしまった。
■ペーパーテスト
今年は大人数の講義での各論の授業も受け持ったので、レポート評価というわけにもいかず、久しぶりにペーパーテストを試験にした。
作るのは大変だが、授業全体の構成を意識しながら試験問題を作ると、ふだんの講義の位置付けもはっきりしてくる。暗記的に知識を詰め込むような授業にはしたくないという思いもあって、別の授業ではレポート課題にしてきたが、ペーパーテストにして授業内容についてじっくり考えるようにしてもらった方がいいかもしれないし、そういうことも可能だなと感じた。授業の構成を練り直さなければならないのは大変だけど、そうした方が授業のやりやすさにもつながるように思われる。この点も改善していきたい。
2019年1月17日(木)
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朝一で大阪地裁へ。
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下手な授業をした後の疲労感。
もう少し準備時間が欲しかった。
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夜回り。
2019年1月
16日(水)
■ジオシティーズから忍者ホームページへ移行
2019年3月いっぱいでジオシティーズがなくなるということで、忍者ホームページに移行を試みて、どうやら成功した。
ジオシティーズのファイルマネージャーを使っていたからFTPというのが何のことやらまったくわかってなかった。
基本中の基本やないか。無知って恐ろしい。
FTPというのを使えばiPhoneのアプリからでも手軽に更新できるようだ。また更新しようかな。
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更新しやすい。
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