日雇い労働者のつくりかた

第9回 どうしてできるようになるのか/後編

というわけで後編です。コナンでいったら問題解決編ですか。

■それがなぜできるようになるのか

僕は「何をするのか」まではわかっていました。しかし、「そのためにどうすればよいか」が不完全にしかわかっていなかった。スコップとレイキを使うことや、目印に合わせることなどは断片的に知ってはいました。砕石の山を広げていくこともわかっていましたが、「平面になっているかどうか」の判断がつきませんでした。どうすれば砕石の凹凸が見えて来るのでしょう。

僕の答えは、「完全に平らになどできない」です。考えてみれば、怒られながら言われる通りに直してプレートで固められた整地には、なだらかに凹凸が見られました。「偉そうなことを言って、口ほどにもないじゃないか」と腹を立てれば僕にも凹凸が見えるようです。かなり習熟した人間ばかりが集まってやらない限り凹凸はできるでしょうし、習熟した人間がやっても完全には凹凸は無くならないのではないでしょうか。そもそも、最終的にはコンクリを打つのですから、少々の凹凸は目をつぶってもいいのです。ある程度でいいんです。きっと。

しかし、「ある程度」であれ「平面」になっていなければならないし、自分自身納得できなければ、「できた」とは言えません。「ある程度の平面」になっていることを保証するのは何かと言えば、「目印を中心にして、角スコップで放射状に平面を広げて、目印と目印を繋ぐ」という動作です。目印を守って、「放射状に平面を広げる」ことをわりかし正確にやっている以上、そこそこ平面にはなっているはずです。ここが平面を作る「基点」となる動作であり、この動作が押さえられていれば平面は生まれてきます。逆に言えば、この動作をきちんと押さえること以上に平面を保証するものは無いのです。このことを認識することで、僕は作業全体が理解でき、どうやって作業を完成させるのかが納得できました。

■自分ができるようになる難しさ

誰かが成しているすでにある何かを自分ができるようになる難しさは、その何かを成すために必要となる道具や動作・操作がすでに洗練されており、完成されているために、解釈が入り込む隙が無いために起こるのだと考えられます。

「状況」と「使い分け」の主従関係について先に書きました。これを「目的」と「手段」と言い換えてもよいでしょう。完成された作業を見ていると「手段」ばかりが目に入ってきて、何のためにその「手段」が用いられるのかという「目的」に沿った動作の意味が見えてきません。もっと正確に言うと「目的」を達成するために、どういった動作をどう組み合わせていくかという段取りの組み立てがスマートに完成されているがゆえに、よどみない作業工程の内からは「手段」の転換点をしか特徴として捕まえられないという事態が生じます。

誰かが既に成していてある程度完成されたことを身につけるためには、「真似」をして断片的な情報を蓄積することが必要になります。これを<見習い段階>といってもよいでしょう。断片的な情報の蓄積だけでは何もできるようになりません。むしろ断片的な情報に振り回されて勘違いばかりしてしまいます。この<見習い段階>を過ごすうちに、次第に作業の「目的」が見えてきます。正確に言うと目的がよりシンプルに理解できるようになります。ここで、「目的を達成するにはどうすればよいのか」を考える準備ができます。

次に、目的を把握した上で、目的と断片的な情報とを対照しながら理解ができたりできなかったりする段階がやってきます。目的がわかってもそれだけではダメで、肝心な達成のための基点となる部分がどこなのかを知らねばなりません。整地の例で見たように、基点がどこなのかをわかることで、「できる」という確信が持てるし、事実「できる」ようになります。これを<一端の職人の段階>といっておきましょう。

<一端の職人の段階>はまだまだ修行中の身です。「これで自分も一端の職人の仲間入りをしました」という言い方がありますが、「一端(いっぱし)」というのは「端っこ」という意味で、これはまだ技術者集団の最末端になんとか入ることができたという意味です。今後、自分の技術を洗練し、完成に近づけ、<名人の段階>に至ることを目指さねばなりません。

■ごまかされていたこと

ごまかされていたがゆえに、よっぽど難しい何かがあるのかと思いましたが、何かができるようになるプロセスというのはかようなメカニズムになっているようです。

できるようになるプロセスの中には、断片的な情報の集積が必要です。断片的な情報の中から、基点となる動作を含んだ情報を掴むことから、断片的だったその他の情報の全てを作業の流れにそって適宜に再配置することが可能になります。

基点となる動作を含んだ情報を掴むことが「できる」ようになる大きな転換点ですが、それ以外の情報は「できる」ようになることにとって価値の低いものであるかというと、そうではありません。その他の情報は大転換以降に再配置され、全体としての作業を構成していきます。つまり、基点となる動作を含んだ情報のみをピックアップして伝授したとしても、その他の構成要素となる情報を欠いていては作業全体が可能にはならないのです。

それでは、その他の断片的な情報も同じように伝授すればよいと考えられるかもしれませんが、その他の断片的な情報が一体いくつあるのかはよくわかりません。丹念に事例を解析していけば数えることもできるかもしれません。しかし、解析して明らかになったそれらを「こういう時にはこれを行なう」とマニュアル的に教え込むことが本末転倒であることは既に述べた通りです。ある程度のマニュアル化は可能であるとしても、マニュアルを用いた教育を行なうより、状況に埋め込まれた学習の場に学習者を置く方が遥かに効率がいいし、そうでなければ思考様式という形で技術が身に付かない。さらに、マニュアル的・教科書的な教育を個々人にそのつど施すよりも、既にできる人間の手元として、断片的な作業を指示してやらせておく方が、現場の現実的な都合に合理的であるということもあるでしょう。

■なぜみいらかんすはこんなことを考えるのか

第3回「身体の使い方」の冒頭でも書いたように、僕は肉体労働を恐れていたし、身体を動かす能力にあまり自信がありませんでした(今もそんなにはないかもしれません)。

実はことは身体の使い方だけでなく、僕はありとあらゆることができなかったり、わからなかったりすることが嫌で嫌で仕方ありません。自分ができないことを他人がいとも簡単にこなすのを見てどうせ僕なんてとうじうじしてしまいます。

「今できなくてもいつかできるようになればいい」とはポジティブな励ましの言葉ですが、もしかしたら他人には可能でも自分には本質的に不可能なことであるかもしれないと僕は思ってしまいます。しかし、僕は努力を続けていればいつかはできるようになるという思想を信じたい人間でもあります。

そのために僕は「人はなぜできるようになるのか」という問いに執着するのだと思います。できるようになるメカニズムがわかっていれば、努力が(いつかはわからないが)いつかは実を結ぶのだと信じることができます。わからない・できないという苦痛の中でどうしようもないという状態もゴールへの道のりの一部(断片的な情報の集積の段階)だと信じたいのだというわけです。

僕が学問をするのも飯場に入るのも、できないことができるようになり、わからないことがわかるようになりたいからです。できないがためにあきらめ、よくわからないままにやらされた結果が不愉快極まりないことになったという過去のいくつもの経験に僕はうんざりして、そうならないで済むような社会であって欲しいし、そうならないで済むような自分でありたいと願うようになりました。そのために、言葉で物事を明らかにしていく論理の力にかけたいと思い、そして、僕は学問をしたいと思うようになりました。

そうして学問をしていても、もしかすると僕は本質的に学問ができないやつなんじゃないだろうかという不安を今さらながら抱きます。このような根源的な不安を踏みつぶすために、今回の「どうしてできるようになるのか」が書かれねばなりませんでした。無駄なことなんてないのだ。

2006年10月19日更新