日雇い労働者のつくりかた

第7回 土方になるとはどういうことか

『日雇い労働者のつくりかた』、後半の始まりです。『日雇い労働者のつくりかた』の後半では、みいらかんす個人の経験や感情を中心に、土方の世界の中で何がどのように起こるのかを解き明かすことを試みます。

今回は「みいらかんすは土方になったと言えるのか。言えるのだとすれば、どのようにしてなったのか」という問いについて考えてみようと思います。

みいらかんすはこれまで3度飯場に入寮し、2週間、1ヶ月半、2ヶ月の計3ヶ月の飯場労働(日雇い労働)を経験しています。そこでみいらかんすが従事したのは主に「土工」あるいは「土方」、「手元」と呼ばれるような仕事でした。これらをひっくるめて象徴的に「土方」と言っておきましょう。

3ヶ月間の日雇い労働を経て、みいらかんすは土方になったと言えるのでしょうか?

■土方になるとはどういうことか

みいらかんすが土方になったか否かを検討するためには、土方になるとはどういうことであるかをまず考えなければなりません。

夏の日差しの下、寒風の吹きすさぶ中で、みいらかんすと共に働いた飯場の労働者たちは、今日も日雇い労働者として生きていることでしょう。ところが、僕はどうでしょうか。

現在、みいらかんすは大阪の某公立大学大学院の学生です。土方というものを職業と考えるなら、職業人以前であるみいらかんすは土方ではありません。飯場での3ヶ月間にしても、大学院の社会学的研究という目的で過ごしている以上、やっていることは土方であったとしても、学生だったと言えます。

つまり、土方とは仕事の中味とその仕事をこなす人のことを指すと同時に、人々の肩書きの一つでもあることがわかります。

肩書きは状況的証拠を元にその人のものになります。これを他人から判断され、その肩書きに相当する人物だと自分のことを認識されたり、自分自身でもこれを自分に相応しいものと納得し、自称したりもします。

状況を判断するのは個々の人間ですから、みいらかんすが大学院生であることを知らず、みいらかんすが飯場に入寮し土方という仕事に従事しているのを見た人は、みいらかんすのことを充分に土方であると判断してくれたでしょう。この意味で、みいらかんすは土方であったと言えます。

では、本人の自覚(納得)としてはどうだったのでしょうか。これは一概には言えません。どんなに理屈を付けてもやはり僕は大学院生で、研究者であると自覚していたと思います。他の飯場の労働者と違って、僕には帰る家もあるし、飯場の仕事が無くなったからといって食べるのに困るようなことはありません。土方という仕事にまつわる切実さが異なります。

しかし、土方という仕事をするにあたって、僕が大学院生であるとか研究者であるとかいった自覚は何の役にも立ちません。そればかりか、時として邪魔なものとしても働きます。土方という仕事をこなすにはそういった無関係な自意識を忘れることが必要です。そして、土方という仕事をこなせるような態度を修得していかねばなりません。

「土方という仕事をこなす」ためには、そのための技術が必要となります。その技術を身につけることと関連して、土方という仕事をこなせるような「態度」というものが必要となります。「土方」という職業集団の中に入り、その仕事世界の住人が持つような態度の修得が必要となります。

みいらかんすが土方という仕事をこなせるようになるために、この態度の修得がやはり必要だったと考えられます。僕の中には修得された土方の態度がストックされています。この点を持って、みいらかんすは土方になったということができるでしょう。

僕の中には大学院生・研究者という態度があり、普段は大学院生・研究者であることを主要なこととしていますが、土方という態度も、その顕在度は低くても存在するのだといえます。

もちろん、それ以外にもいろんな態度をわれわれは身につけています。人間はいろんな場面を生きなければいけなくて、家庭だとか、趣味のサークル、恋人同士であることなどをこなせなければなりません。コンビニでマンガやお菓子を買うという普段は何の意識もせずに行なっていることも、われわれが「客」という態度を身につけているからこそ可能になることだといえます。われわれはさまざまな態度を身につけていて、さまざまな社会的な場面で適応するためにこれを働かせていると考えられます。

あることを可能にする態度の修得を、そのあるものになることを指すことだと捉えれば、みいらかんすは土方になったということができます。

■どのようにして土方になったのか

では、みいらかんすはどのようにして土方になったのでしょうか。

土方という態度を身につけるためには、土方という仕事の場に継続的に入り、訓練を受けなければなりません。訓練を受けると言ってもいわゆるOJT(On the Job Training)です。働きながら慣れていくしかありません。

働きながら慣れていくというのは実は大変なことです。働き始める時にはゼロの状態なのに、仕事の要求は実体を持って迫ってきます。これをある程度こなせなければ、明日から来なくていいと言われてしまい、訓練を受けるための条件である「仕事の場に継続的に入り」ということが不可能になってしまいます。

つまり、継続的に土方という仕事に参加することが可能であったわけで、それを可能にしたものが何であったかを考えることが一つにはあるでしょう。

次に、どのようにして土方という仕事をこなしていく技術を具体的に身につけていったか(熟練していったか)ということが考えられます。これを考えるためには、土方にはどのような技術が必要なものとしてあるのかを明らかにし、その一つ一つについての検討が必要でしょう。

最後に、肝心の「土方の態度」をどのようにして身につけていったのかを考えなければなりません。この「土方の態度」というフレームの中には、「土方の技術」が含まれています。言い換えると、「土方の技術」をどのように扱うのかが「土方の態度」の一つだといえます。

「土方の態度」に含まれるものに「土方の技術」の扱い方以外に何があるでしょうか。仕事というのは人間関係ですから、人間関係にどのように対処するのかということがあります。これを「人間関係の扱い方」と言っておきましょう。

■土方になるプロセス

土方になるプロセスを整理しておきましょう。

土方になるためには、まず、仕事に継続的に出なければなりません。そして、仕事に継続的に出続けながら、「土方の技術」を身につけなければなりません。また、この仕事に独特の「人間関係」を理解し、それへの対処方法を身につけなければなりません。

「土方の技術」「人間関係」の理解があり、さらに、それらが実際の仕事を遂行していく際に、どういう配置にあり、どういう関連を持ちながら、どのように動くものなのか、どのように動くことが適切であるかを理解し、自分がその中でどの位置にあり、何をしていけばよいのかを理解していきます。

これらは順番に覚えていくというようなものでは必ずしもないと思います。いろんなことが絡み合いながら起こる、相互作用がいろんなことを教えてくるのだと思います。その結果、土方の態度が身に付くのでしょう。

■もう一つの視点

しかし、これは「どのようにして土方になったのか」の外面的な事実にすぎません。

僕はどうしてこのようなプロセスを投げ出さずに我慢して(?)乗り越えられたのでしょうか。このようなプロセスの中にあって、肉体的・精神的に、いやなことやつらいこともたくさんあったと思われます。そういった面倒で苦痛なことのいちいちを僕はどうやって乗り越えていったのでしょうか。

次回は、「土方になるプロセス」を乗り越えていった僕の内面をとことん追ってみたいと思います。「日雇い労働者のつくりかた」という一般論からは逸脱していきますが、冒頭で述べたように、後半はみいらかんすの個人的な経験や感情に焦点が当てられます。

2006年7月4日更新