日雇い労働者のつくりかた

第12回 役割を引き受けていくということ

最終回です。

連載の前半がレクチャー形式であったのに対し、後半は、「みいらかんすの個人的な経験や感情に焦点」をあててアプローチしました。

アプローチして、それで結局何がわかったのかを最終回で整理したいと思います。

■人が何かになるとは

第7回「土方になるとはどういうことか」で僕は、「土方になるプロセスをどうして乗り越えることができたのか」という問題設定をしています。

人が何かになるというのは、その役割を引き受けていくということなのだと思います。その役割のある場所にいかなければ人はそれそのものに出会えないし、その役割を与えてもらえなければ人はそれになるチャンスを得られず、その役割をこなすことができなければ、そこに留まることができません。

チャンスを与えられ、それを引き受けることで人は何かになっていきます。「何を当たり前のことを」と思われるかもしれません。しかし、当たり前のことだからこそ、人は知らず知らずのうちに何かになってしまうということだってあります。

最初は、わけもわからないままに目の前のことを必死にこなしているだけだったり、さして困難でないことを何気なく処理しているだけだったりするのかもしれません(最初にわけもわからない目の前のことができなくて、挫折してそれっきりということもありますが)。

同じ事を何度も繰り返し、慣れてくると、効率のよいやり方を考えるようになり、そうして出来た余裕から、他にできることがないかを探し始めます。あるいは、できることを見込まれて何か別のことをやるように迫られるかもしれません。それを積極的に引き受けていく場合と、例えば生活のために、仕方なく引き受けていく場合とがあるでしょう(もちろん、何気なく引き受けるということもあります)。

他人に与えられる・迫られるのであれ、自分で見出すのであれ、何かであろうとするのに、その場で自分に可能な選択肢は無限にあるわけではありません。人はその場で希望する何かになれるのかもしれないし、なりたくなくてもならざるをえないのかもしれないし、知らないうちになってしまうのかもしれません。

■「つくりかた」と「なりかた」・「つくられかた」

人は役割を引き受けることで何かになるのだとすれば、役割を与える側から見れば、これは「日雇い労働者のつくりかた」であり、役割を引き受ける側から見れば、「日雇い労働者のなりかた」ないし、「日雇い労働者のつくられかた」ということになります。

役割を獲得するためには、場所、チャンス、能力の3つのレベルがありました。これらにはそれぞれ、個人が望んで手に入る場合、望んでもいないのに手に入る場合、望んでもいないのに受け入れなければならない場合の3つがあります。

役割を獲得するための「場所」「チャンス」「能力」が平等に分配されていることなどありえません。また、それを受け入れるか受け入れないかが選択できるかどうかという問題もあります。また、ひとつの役割には、人間関係や危険、評価など、多くのものが付随してきます。さらに、ひとつの役割にはまた別の役割が付随してくるということもあるでしょう。

ひとたびスコップを握れば、あれもこれもやらなければならなくなり、いつのまにやら「怪我をしても一日働ききるのがプロ」などという態度すら引き受けていることにもなります。もちろん、これは労働者の主体的な選択なのだということも出来ます。労働者が労働の中で身に着けていった態度がとても格好いいものに見えることもあるし、これは格好いいんだといってもよいでしょう。

しかし、ここで立ち止まって考えてみることがあってもいいのではないかと僕は思います。別に考えてみなくたっていいんですが、おおむねうまくいっていても「こんなはずでは(こんなつもりでは)なかったんだけど」とふとよぎる思いや、「なんだかわからないけど、そっちにはいきたくないんだ」という煮え切らない格好悪い思いを、僕はどうしても捨て去ることができない人間です。

■立ち止まって考えてみること

釜ヶ崎という街は、資本にとって都合のよい日雇い労働力をプールしておくために私たちの社会が作り出した街です。そして、釜ヶ崎で働く日雇い労働者も私たちの社会は作り出しています。自分で望むと望まざるとに拘らず、社会というものは圧倒的な力で人を縛り、囲い込むものなのです。

それとも、彼らは怠惰で努力を怠ったから、あるいは、気ままな生活を望むから、釜ヶ崎の日雇い労働者なのでしょうか。「酒好きで、ギャンブルに溺れ、そのために借金を重ねたから」、「将来のことを考えて職業訓練を受けて自分を磨く努力を怠った」から、「西成のアンコ」になったのであり、日雇い仕事にあぶれて野宿することになったとしても、それは自業自得なのでしょうか。

ここで思い出してほしいのが、人は役割を引き受けることで何かになることができるということ、そして、ひとつの役割にはいろんなものが付随してくるということです。食べていくため、生きていくために引き受けなければならない役割があったとして、そうすることで彼はそれに付随するさまざまなものに取り囲まれ、意識しなくともそれらを受け入れ、前向きに困難を乗り越えていっているのかもしれません。

社会が悪いのか、個人が悪いのか、僕はこの場でその答えを出すつもりはありません。ただ、知らなければわからない領域があることを知り、時には立ち止まって考えることも必要かもしれないと感じてもらえたらいいなあと思っています。あなたの周りにも、あなたが引き受けてきた役割に付随したものが溢れていて、あなたを取り囲んでいるはずです。

■第7回は何だったのか

最後に、今さら蛇足の感もありますが、僕が「土方になるプロセスをどうして乗り越えることができたのか」という問いを一応整理しておこうと思います。

この答えを端的に言えば、役割を引き受けるための、場所、チャンス、能力の3つが僕にあったということです。若ければ仕事はあるし、雇った以上は雇用主は働かせようとするし、それなりに体力と器用さもあったということでしょう。

「土方になるプロセス」については、第8回から第11回までを通して描くことができたと思います。このプロセスを乗り越えることができたのは、何やら「研究のモチベーション」のようなものがあったからでしょう。これについては、第9回の最後に触れています。

モチベーションがどうあれ、役割を引き受けるうちに、「怪我をしても一日働ききるのがプロ」という態度も身につけています。なるほど、僕は僕なりの動機を持ち、仕事をこなすうちに、出発点はともあれ、ちゃんと土方になっていったんですね。

第7回というのは書いている本人が何を書けばいいのかよくわからなかった回で、この連載中で一番面白くない回ではないかと思います。この回で読むのをやめた人もいたかもしれないと思うと悔いが残ります。しかし、こうしてみると第7回は、この最終回を含めた連載後半全体の中身と流れを予言し、整除するものとなっており、きっと必要な回だったのでしょう。

2007年2月1日更新