日雇い労働者のつくりかた

「日雇い労働者のつくりかた」はもともと、みいらかんすが修士論文を書くにあたって、論文を書く前段階の、考えをまとめる作業を何らかの形で活かせないものかと考えてスタートしたものです。また、論文からはこぼれおちてしまうエピソードを拾い上げたいという思いもありました。

結果的に、修士論文の役にはあまり立ちませんでしたが、「日雇い労働者のつくりかた」を書くことを通して、いくつもの重要なことに気付くことができました。連載のスペースをあたえてくれたWebマガジンfactreeに感謝します。



*intermission*でも述べたように、何かができるようになること、わかるようになることを楽しみながら、実感をともなって社会と自分との関わりをつかんでいくことが大切なのだと僕は考えています。

実感をないがしろにして押しつけられたお題目など、どんなに立派で真っ当なものであろうとも僕はご免です。そして、それを押しつけようとする人が僕は嫌いだし、どんなにバカだと思われても従いたくありません。

成長や理解には道筋があり、それなりの時間がかかるものです。また、成長や理解は人によって個別のものであり、人が変われば必要となる成長や理解も、そして、かかる時間も異なるのが当たり前です。ちょっと放っておいてくれれば素直に訪れるものを、なぜいっしょくたに塗りつぶそうとするのでしょう。



「日雇い労働者のつくりかた」は、「自分が知り得たことを自分の中でどのように消化していけばいいのか」ということと、「自分が知り得たことを他人にどのように伝えていけばいいのか(どのように伝えたいのか)」ということとの2つを行き来しながら書いたものになりました。

どちらも自分自身の関心に執着した課題であり、そんな個人的なものが他人に受け入れられるのか、面白いと思ってもらえるのかと不安な部分もありました。しかし、「日雇い労働者のつくりかた」や「飯場日記」に向けて張られたリンクから、一部でご好評いただいていたことを知り、大変うれしく思っています。

「日雇い労働者のつくりかた」はこれで終わりです。お付き合いいただきありがとうございました。

2007年2月1日更新