日雇い労働者のつくりかた

*Intermission*

『日雇い労働者のつくりかた』の特徴を一つ述べよと言われたら、これがレクチャー形式で書かれているということにつきると僕は考えている。

「つくりかた」とあるように、このコンテンツはハウツーものを意識して書かれている。「日雇い労働」「寄せ場」「釜ヶ崎」「飯場」といったキーワードからは「社会問題」という言葉が連想されてくる。これは社会問題であるし、社会問題ではないと開き直ることは明らかな間違いであろう。しかし、これを社会問題化してのみ語ることに僕は抵抗感を覚える。

「社会問題だから無視するべきではない」などと声を荒げて訴えて、どれだけの人間がその問題について考えてくれるだろうか。社会問題が生み出される背景には、その問題への大きな無関心があり、無関心があるからこそ、それが社会問題として浮上するのである。そもそも社会問題として浮上してしまうほど無関心が焦点化するような事柄であることを認識すべきではないか。

僕は日雇い労働の中に面白さを見出している。日雇い労働は決して社会問題のみでできあがっているわけではない。日雇い労働を身につけていくことにも苦労と達成感があり、できなかったことができるようになった時に僕ははっとさせられる。また、わからなかったことがわかった時にも。

寄せ場とはどんなところなのか、飯場とはどんなところなのか。無知のままに、怖がられたり、反対に好奇の対象にされたりする。それが実はどんなものであるのか、好奇心と探究心を達成していくことの楽しさは誰にでも共通するものだと僕は思う。

社会問題の背景には無関心があると言ったが、もっと正確に言うと、発生した異常事態への無関心に警告を発し、異常事態の解消を企図するのが社会問題化である。だから、社会問題を訴えかけることにはそもそも意義がある。しかし、乗り越えなければならないのは無関心である。

そもそもが強固に無関心であるものに関心を持ってもらうことは難しいことだ。関心を持ってもらえたとしても、今度は「偏見」というとんでもない方向へ知識を与えてしまうかもしれない。知識のとらえ方はその当人に任せるべきで、期待はしても、強制や押しつけがあるべきではないと僕は思う。ところが、訴えかけたいあまり、受け止めてもらいたい方向へ行き着かざるをえないようなことをしてしまう。

もちろん、偏見をあおるような結果になっては本末転倒ではある。配慮は必要であろう。しかし、最終的にどう受け止められるかは自由であるし、受け止められ方は千差万別であろう。どうすれば期待するような結果が望めるかがわからないのが出発点である。だからこそさまざまなやり方が工夫されねばならないし、それが望むような結果をもたらさないとしても、それを理由に試みないべきではない(また、すぐに結果がわかるものでもない)。

といっても、僕は、「日雇い労働者のつくりかた」を通して、読者に社会問題に関心を持って欲しいわけではない。もしかすると僕は考現学や風俗研究のように、面白い文化を記述したいだけなのかもしれない。

ただ、対象が「面白いだけ」のものではない以上、面倒くさいことに配慮しながら書かなければならないと思う(こういう言い方は誠実に考現学や風俗研究をしている人にしてみれば憤懣ものかもしれない。結局、みいらかんすはどこかで、ある受け止められ方を期待しており、本当は「下心」を持っているくせに、訳知り顔をしている我慢のならない奴だとも考えられる)。

僕は寄せ場や飯場で出会った人たちが好きだし、彼らの生き方に魅力を感じている。それがどれだけ素敵なことかをわかる人にはわかってほしいというだけだ。

ただ、それをやるのにハウツーものというのはちょっとしんどかったかなと思っているところである。

2006年3月16日更新