日雇い労働者のつくりかた

第3回 身体の使い方

■肉体労働への忌避感

僕は肉体労働と呼ばれるものを恐れていました。自分に肉体労働ができるわけがないと思っていました。肉体労働を馬鹿にしていたわけではありませんが、自分の職業にすることはありえないと思っていました。

どうしてそういうことになるかと言うと、僕は自分の身体を動かす能力に自信がなかったからです。身体を使うということにまったく自信のない僕にとって肉体労働というのはできない苦痛を味わい続ける苦行としてイメージされていました(大体、小学校の頃から体育は嫌いでしたし、高校の頃は体育の授業を受けるくらいなら苦手で嫌いな英語や数学の授業を増やされる方がましだと思っていました)。

■誰でもできる肉体労働

というわけで今回は身体を使うことに全く自信のない人間がどういうプロセスを経て肉体労働をこなすようになれるのかについて考えてみましょう。「誰でもできる肉体労働」みたいな感じでしょうか。

■スコップですくう

アスファルトの上にかき集められた砂利をスコップですくう。ただそれだけのことができません。何度やってもできない僕を見て一緒に働いている人が「こうや」と言ってやってみせてくれるのですが、何が「こうや」なのやらさっぱりです。僕がやるとどうしても砂利が残ってしまいます。すくうどころか散らかしてしまうということだってあります。

今ではスコップで砂利をきれいにすくうことができます。1度できたら2度目以降も簡単でした。かき集めた砂利をスコップですくって土嚢袋(註1)に入れる。チリトリもほうきも見当たらない。探しにいくのも面倒。ええいスコップですくってしまえ、残ったら残ったでいいや、という軽い気持ちでやるとすっとすくえてしまいました。

かき集めた砂利の手前でスコップを地面に突き、地面の上にある砂利をスコップの上に乗せ換える、ただそれだけのことです。驚いたことにうまくすくうコツというのを口で説明すると「すくうだけでいい」なのです。「難しいことを考えずにただすくえばいい」です。「すくうためにはすくえばいい」まで言うとバカにしているみたいですが、本当にそれだけです。

■肩にかつぐ

セメントの袋や鉄パイプなんかを肩にかつぐことができませんでした。セメントの袋を肩にかつぐと脇腹の筋肉をつりそうになります。鉄パイプを肩にかつぐと肩が痛くて仕方ありません。僕には無理です。

セメントの袋は両手で抱きかかえればいいし、鉄パイプだって両手でぶら下げていった方が楽です。しかしそんな運び方をしている人は現場に一人もいません。素人丸出しでとても恥ずかしいのですが無理なもんは無理ですし、本当に素人なんだから仕方ありません。

これも今は少しマシになりました。「すくうためにはすくえばいい」式の単純思考で、「かつぐ」ということを考えてみましょう。よく考えると僕のやっていることは「かつぐ」というより「のせる」に近いことに気付きました。

ただ「のせる」とは違う「かつぐ」とは何だろうか。自分にとって「肩にかつぐ」がきついのは「のせる」になっているからだとすれば「のせる」より楽な「かつぐ」があるのではないか。僕の「のせる」では肩が痛くて仕方ない、ではその痛みを軽減するにはどうするか。

そこで考えたのが肩じゃなくて背中も使って運んだらどうだろうかということでした。

やってみるとこれは割と楽です。僕は「肩」を首と腕の間の狭い部分に限定して考えていました。これを「狭い肩」としましょう。この狭い肩から肩甲骨の辺りまでを含めて「広い肩」としましょう。「肩甲骨」というくらいなのだから肩甲骨の辺りまでは肩なのです。「肩にかつぐ」は広い肩いっぱいに物をのせて運ぶことを指すのではないでしょうか。

狭い部分に重量を集中させれば痛いに決まっています。肩甲骨の辺りまでの「広い」肩を使うことで重量は分散し、また安定性が増します。バランスを崩しても即座に重心を落としてさらに安定性を増すことが容易です。

■砕く(石とか、土とか)

「こんな固いもん砕けるかい!」と思ったものでも結構砕けます。自分では思い切りどついているつもりでも実は思い切っていないのです。壊すつもりでやりましょう。壊しても構わないものです(多分、大体は)。

思い切りやっているつもりでもちゃんと振りかぶれていなかったりします。日常において腕を頭の上まで振りかぶって足下まで振り下ろすなどという動作はありえないので最初はできません。入力されていない動作はできないのです。思い切りやったつもりでもまだ思い切っていません。「思い」の範疇で思い切りを仮想しているに過ぎないのです。その思いをふっ切りましょう。思い付く範囲ではダメです。やけくそです。駄目元です。腹立つのでぶっ壊してやりましょう。相手は石とか土です。

非力だと思っていた自分にも実はこんな力があるという事実は感動ものです。力というのは筋力以前に多分に文化的に規定されているものなのかもしれません。

しかし思い切りやった結果怪我をしても僕は全然知りませんので怪我をしない程度には考えた方がいいと思います。

■まとめ

仕事をしていて自分が気付いた身体の使い方について3つばかり紹介しました。これらは僕が「できない」といったんへこんで、へこんだのちに「できた」と意識したことがはっきりしている事例です。

スコップで砂利をすくえるようになった時、僕は何を理解したのでしょう。どうしてすくえるようになったのでしょうか。すくえない時、何につまずいていたのでしょうか。

「慣れ」と言ってしまえばそれまでですが、これができた時の状況がよかったのだと思います。大きな現場で掃除をさせられている時で、近くに誰もいないし、急いでやる必要もない、失敗してもかまわないという状況でした。僕が最初に「できない自分」を意識させられたのはアスファルト舗装の現場でした。フィニッシャーという機械でアスファルトが敷かれていくのを追いかけながらの作業で休む間もありません。舗装という作業自体初めてでした。

仕事の段取りがわかっていること、周りの目を気にする必要がないこと、余裕があって初めてできるということだってあるのだからあまり「できない」ということを思い悩んでも仕方ありません。

肩には広い肩と狭い肩がありました。しかし肩甲骨がどうとかいう理屈は実はこれを書いていて気付いたことです。長いものを運ぶ場合、両手で抱えるより肩にかついだ方が合理的です。両手で抱えると身体をねじって歩かねばならないのに対し、肩にかつげば正面を向いて歩けます。合理的というのは楽ということでもあります。別に格好をつけて肩にかついでいるわけではないということに気付いたことから楽なかつぎ方を考えようという気が起きたのです。正面を向いたまま歩けることが合理性なのだからとにかく身体に対して垂直に鉄パイプを保持できればいい、そう思うことで「肩=狭い肩」の呪縛から解放される道が開けたのでしょう(註2)。

働いていてよく「楽をすることを考えろ」と言われます。怠けろという意味ではありません。使える道具を工夫しろというような意味です。身体というのが一番身近な道具かもしれません。

振りかぶるという動作は日常的にはありえない動作であると書きました。僕は単純な身体の使い方を知らないのです。「そんなやり方じゃあかん」と言われるとむっとします。じゃあどんなやり方があるというんだ、と思いますが、別にやり方に大きな違いはないのです。しかしやり方の小さな違いが結果として大きな違いをもたらします。

働いていて「土工はバカじゃできない」という言葉を何度となく聞きました。身体を使う頭の良さというのはあるのかもしれません。今はまだうまく言い表せないのですが、それって凄いことだと思います。次回はその身体の頭の良さについて、道具を応用するという面から見てみようと思います。

註1
どのうぶくろ。川の土手とかに積まれている土の入ったビニールで編まれた袋。「PP」とも言われる。「土嚢袋」なのだから土を入れるのが本当なのだろうが、ゴミ袋にならないことはない。

註2
しかし働いている最中に「合理性」とか「保持」とか面倒くさい言葉を使って説明することを考えているのがみいらかんすという人だ。相当重症だと思う。