過去ログ
2020年4月


2020年4月30日(木)

■「センターの日」論文化 #4

 着想のメモだけしておこう。

 「寄せ場労働者の複層的な生活構造」変なタイトル……。やっぱりあかんかも。

 釜ヶ崎の「労働者」を複層的にとらえ、生活構造としてすり合わせることでセンターの場所性を浮き彫りにする、みたいな話。

 まず世代の違いがある。次にライフステージの違い。ライフステージを移行するまで経験する意味世界とその変容。しかし、ライフステージを移行したとしても一貫してかかわりのあるセンターという場所。

 そのような寄せ場労働者たちの生活構造の重なり合いにおいて成立するセンターという場所の創発的な特性とは何か。

 センターという場所がそのように成立することで、根っからの寄せ場労働者、言うなれば「正統派の寄せ場労働者」でなくとも包摂するような特性が生まれる。なぜセンターに引きつけられるのか。

 これを浮き上がらせるには、やはり相互行為の分析が必要であるように思われる。

 ここはデータを読み込んでいくしかないのかな。「期待しつつ期待しない」ような生きる構えがある。なんかそういうこと扱った研究あるはずだよな。「不関与規範」? それを「不関与規範」と言ってしまうところで取りこぼしてしまうものがある。

 待てよ。コモンズってそもそもそういう場所なんじゃないのか? メンバーシップが固定されているわけではないが、実際はその場所を利用する可能性のある者はお互い意識できる程度には固定されている。しかし、そこに排他的なメンバーシップを持ち込まない。そうすることで成立するのがコモンズなんじゃないのか。

 これはテント村にも当てはまりそう。ただし、テント村の場合は行政権力による強制排除が強固に作用する。

 釜ヶ崎を都市のコモンズたらしめる行動様式が「不関与規範」などととらえられうるものであるところに、当事者たちには言語化の難しいジレンマがあるのかもしれない。コモンズをコモンズであると主張することはコモンズがコモンズであることに反することである、というような。

2020年4月29日(水)

 今日が終わる……。

2020年4月27日(月)

 眠たい。寝ればいいんだけど、すんなり寝れそうにもない。

2020年4月26日(日)

 またうだうだと……。

■デヴィッド・ハーヴェイ『ポストモダニティの条件』(2000年、青木書店) #2

 啓蒙書?


 ふふ、なんだこのモヤモヤ。

2020年4月25日(土)

 ようやく気が晴れた。

2020年4月24日(金)

 まだまだ見なければならない世界があるのか。

 どうやらこれは確信めいている。

 まだこの先を切り拓いていかないといけない。

 フィールドワーカーであるということと、これが学問であるということの実質を確保して行くことなのだ。

2020年4月22日(水)

 今日はあんまりやる気でないな。

2020年4月21日(火)

■デヴィッド・ハーヴェイ『ポストモダニティの条件』(2000年、青木書店) #1

 思っていたより難しくなさそう?

 特につっかかることもなく読み進められている。面白い。これまでハーヴェイのことを地理学者だと思っていたけど、ポストモダンや新自由主義の思想家だとでも考えた方が扱いやすいみたいだ。

 啓蒙主義に対するモダニズム。


 橋下はよくインテリを叩いてるけど、要は自分がインテリに成り代わりたいんだろうな。

 そうすることで、自分自身が特権的に判断できる立場に収まろうとしている。一人ひとりが専門家の意見を聴いて、自分で考える機会を潰してしまいたいのだろう。

2020年4月20日(月)

 「センターの日」で体調崩したな。寝てた。

■吉原直樹『コミュニティ・スタディーズ――災害と復興、復縁化、ポスト成長の中で、新たな共生社会を展望する』(作品社、2011年) #7

 ベルとニュービー、コミュニティにまつわる三つの意味(=要件)、近接性、ローカリティ、交感[220]。

 「センターの日」を基軸に、なぜみんながセンターを訪れるのかを類型化することはできるだろう。そこから「創発性」が生じてくる。

 「内発性」というのをどう理解して位置付ければいいのだろう。

つまり「内発性」では、「住むこと」=「根ざすこと」が人と人、人と自然との「あいだ」を一定領域内で完結する閉じた関係性に収斂させる「囲むこと」に深く繋留されているのにたいして、「創発性」では「住むこと」=「根ざすこと」が「囲むこと」に決して回収されていかないのである。そしてそのためには、何より「出会うこと」、そして人間が身体を通して異なる他者と同一平面上でつながっているという意識を持つことが重要となってくる。[223-224]。

 「センターの日」はすでに存在するセンターの「出会うこと」の構造の上に乗っかっているはずなんだ。それなら、そもそもセンターで繰り返され、積み重ねられてきたことのなかに、その土台を見出して「センターの日」とリンクさせるような形で議論を展開することができるかもしれない。

 アーリ[2006]が述べているという場所の議論は場所の空間とフローの空間をごちゃまぜにしているような気がするけど、どうなんだろうか。

 第8章は面白く読めた。だいぶ理解が追いついてきたのだろうか。

 第9章ゲーテッドコミュニティ。

 ジャカルタ。

 こんな覚え書きみたいなもん貼り付けられても……。

 バリ。

 さらにバリ。

 これだけでは何とも。

 終章。

 つか、この本のテーマって何だったっけ?

まず第I部では、ゆらぐコミュニティの諸相を多面的にとらえ、コミュニティを再審するための課題の抽出につとめる。[28]
続いて第II部では、グローバリゼーション・スタディーズの成果を部分的に活かしながら、しかも比較社会論的な視座に立って、コミュニティの転回の動向に光があてられる。そしてコミュニティを再審するための方向性をあぶりだす。[31]
最後に終章では、第1章から第11章までの展開を踏まえて、生活に根ざすことを共通の立ち上がりの契機としながらも、「囲むこと」に回収されていかない、すなわち〈領域〉としてではなく、人と人との対他的な複合的なつながり/協働態としてあるコミュニティを展望する。その際、議論の中心に据えられるのは、非線形的で常に生成(becoming)途上にある創発性の概念である。この概念を鍵概念としてコミュニティ・パラダイムの刷新をこころみる。[32]

 終章にゲーテッド・コミュニティの話もバリの話もまったく出てこんやん……。

 なんかよくわからないけど紆余曲折があってこういう形になったらしいことが、あとがきで描かれている。

2020年4月19日(土)

 体調が一段階悪い。のどが痛い。胸も。

2020年4月18日(土)

■吉原直樹『コミュニティ・スタディーズ――災害と復興、復縁化、ポスト成長の中で、新たな共生社会を展望する』(作品社、2011年) #6

 1時間くらい余裕があるから、少しでも読み進めるか。

 第6章は地域通貨か……。

 これ何か新しいこと言ってるのかな。よくわからん。

 「コミュニティ」を考えるためのいろんなトピックを並べることが目的の本なんだろうか。

 まちづくり。権力構造を批判せずにコミュニティを語ることに意味はあるのか。

 「境界」という視点は結構重要になるかもしれない。

 ハイデガーがよくわからん。

 「センターの日」盛り上がったけど疲れたなー。

2020年4月17日(金)

 風邪薬が効くということは、これは風邪だということだ。

 今日は進まない。

■吉原直樹『コミュニティ・スタディーズ――災害と復興、復縁化、ポスト成長の中で、新たな共生社会を展望する』(作品社、2011年) #5

 新たなものを見出そうとしながら、古くからあるものの再検討から始めてしまうのは何なんだ。

 次の章も町内会の話なの……。

 流し読み。自分の研究に関係あるところだけ読もう。

 防災なあ。

 これだと吉原さんの考えるコミュニティというのは、人と人とのつながりのあり方でしかないのでは。グローバリゼーションとモビリティとか言ってたのはどこに行ったのか。

2020年4月16日(木)

■吉原直樹『コミュニティ・スタディーズ――災害と復興、復縁化、ポスト成長の中で、新たな共生社会を展望する』(作品社、2011年) #4

 なかなか読み進められない。

 「反措定としてのコミュニティ」って何?

2020年4月15日(水)

 FTPのエラーでログが飛んだ。大したこと書いてなかったけど、最近のこの不具合はかなわんな。

 こまめにバックアップ取らないと危険。

■吉原直樹『コミュニティ・スタディーズ――災害と復興、復縁化、ポスト成長の中で、新たな共生社会を展望する』(作品社、2011年) #3

 第1章の4節から。

 「平成の大合併」もやはり新自由主義的な制度づくりの一端を担っていたのだろうか。

 交付税を削減しつつ、権限と財源の移譲といって自治体間の競争をあおるというわけだから。

 「生権力の専制によって誘われた共同体主義」[57]最近どっかでこんなことを読んだような……。ジジェクかな?

2020年4月13日(月)

 地下鉄を減便するくらいなら、完全に止めてしまう方がいいかもね。

 今日は雨はひどいし寒かった。生命活動が低下する。

 ああ、気持ち悪い。しかし、もともと今日はそんな波の日なのかもしれない。過剰に意味を読み込むのは良くない。

 禁煙セラピーに似てるな。

 ハーヴェイの『新自由主義』めちゃくちゃ面白いけど、もうこれ地理学関係ないよな。

2020年4月12日(日)

 「ヨーロッパ1951年」観た。バッドエンドやった。

■吉原直樹『コミュニティ・スタディーズ――災害と復興、復縁化、ポスト成長の中で、新たな共生社会を展望する』(作品社、2011年) #2

 東日本大震災を受けての研究だと思っていて、それにしては発行年が合わないなと気になっていたが、そうではなかった。「グローバリゼーション・スタディーズ」「モビリティ・スタディーズ」と合わせてコミュニティ・スタディーズを構想しようというものらしい。そういうことなら、わりと入りやすそう。

 「ローカル−ナショナル−グローバル」ないし「公−共−私」の関係構造。「共同性と公共性」「ガバメントとガバナンス」。こんな図式的なところから議論をはじめていいんだろうか。

 これらの概念は、相互連関するものとして位置付けられ、議論されることで、場所の固有性を無視するものとして機能してきたのではないだろうか。

 文字エンコードの罠。

 ろくに説明もないままにいろんな言葉が追加されていく……。「節合」って何? 「創発性」と「内発性」、「コミュニティ・スタディーズがグローバリゼーション・スタディーズと市民社会論を二本柱とする」、「非線形的思考」云々。

 こんなこと言ってたら、話がどんどん拡散しちゃうやん。そもそもコミュニティ・スタディーズって何?

 地道にメモ取りながら読むか。

 第1章 コミュニティへの多元的な問いかけ。

 ここでのコミュニティとは町内会のこと? それに対して網をかけようとするガバメント。

 どっかで見たカバー、どっかで見た組版の仕方だと思ったら、字面の印象はかなり違うけど、ハーヴェイの本をいっぱい出してる作品社だったか。

 読みながら「やっぱりハーヴェイの『新自由主義』が重要文献っぽいな」と思ってたら。

<。p>2020年4月10日(金)

■三浦倫平『共生の都市社会学――下北沢再開発問題のなかで考える』(2016年、新曜社) #5

 とりあえず読んでしまおう。

 読み終わった。

 「よそ者」の位置づけと「都市への権利」は参考になるかなと思った。

 結局どういう本だったのだろうか。

 下北沢再開発問題によって地域の中で生まれたあつれきをどう解消していけばいいのか、どうやって折り合いをつけていけばいいのかという問題だろう。

 問題が解消された理想的な状態ないし、理想的な解決へと向かうプロセスを「共生」と呼んでいる。

 そのような「共生」実現の可能性を探るための下調べはある程度なされていると思うけど、現状を打開するために必要なもの、あるいは現状打開を阻んでいるものについて、新たな知見をもたらせたかというと、どうだろうか。

 複数のアクターがそれぞれ抱えているジレンマやすれ違いの実態をつかむことはできていると思うけど、この膠着状態を解消する可能性を秘めた、第三の視点を提示することはできていないように思う。せいぜい、プロセスとしての「共生」を見る必要性を強調しているくらいで、そんなものは先行研究でも理解されていることだろう。

 あー、だから、先行研究の「共同性」の枠組みを批判的に書かないといけないのかな。しかし、「共生」という概念を新たに用いる意義がよくわからない。

 空間に拘っているようで、アプローチの方法が「意味世界」であり、「意味世界」に注目することで「空間」と「社会」をとらえられるというのもよくわからない。「社会的世界」という言葉との関連もよくわからない。

 「空間」に着目するのは、単に政治経済といった制度や数量化できる指標で見ていてはとらえられないもの、社会的カテゴリー間の関係を図式的にとらえても、とらえきれないものを浮き彫りにするためだろう。単に「空間」と言うだけでは、「未知のもの」「見えないもの」と言っているようなもので、それをどう実体化させるかが、腕の見せ所になる。

 「意味世界」というのも、その扱い方も含めて提示しなければ、どこまで行っても言葉の言い換えになってしまう。結局、きちんとした分析枠組みとセットで提示できなければ意味がない。

 こういう言葉を使う時の注意点と言ったようなものだろうか。たとえば「文化」とか、「排除」といった言葉も、分析枠組みとセットで定義を出さないと、ものすごい反感を買う。センシティブな概念で、関心を引きつけるだけに、扱い方に失敗すると全てが台無しになる危険がある。この辺をきっちりつめないといけないな。

 やはり、FTPをアプリでつなぎっぱなしにしているとサーバーとの接続が切れてしまうようだ。ちょっと前に比べると切れるまでの時間は長くなってるみたいだけど。これはアプリの問題なのか、サーバーの問題なのか、通信環境の問題なのか……。

 アプリ上で更新できないともどかしい。

■吉原直樹『コミュニティ・スタディーズ――災害と復興、復縁化、ポスト成長の中で、新たな共生社会を展望する』(作品社、2011年) #1

 この本も「共生」か。

 しょっぱなから「共的なもの」という言葉が出てくる。都市のコモンズを語るのに使える論点は出てくるだろうか。

2020年4月9日(木)

 また更新し忘れた。

 少し空き時間ができた。何をするか。

■三浦倫平『共生の都市社会学――下北沢再開発問題のなかで考える』(2016年、新曜社) #4

 読まないと次に行けないので読もう。

 結局、どの運動の役割も重要で、相補的なものであるという話なのだろうか。運動の展開を通して「共生」を論じようとしていたはずが、複数の運動の「共存」を指摘したその先があいまいになっている。第5章の結びは次の文章。

そして、2015年に入り、運動間の対立やズレが顕在化し始めている。運動間の「相互理解」というものがいかに進展し、こうした課題を乗り越えていくことができるのか、別の解決のあり方が生み出されていくのか。「共生」という社会形成の課題は不断に存在し続けている。[341]

 もはや何を明らかにしたいのかよくわからない。

 「何がアクティヴ・インタビューなんだろう」と思っていたら、第6章は、第5章のまとめをインフォーマントに読んでもらって、意見をもらうらしい。「第6章 研究対象者の視点から見た分析の課題」。

 インフォーマントに答えを出させるのか……。

 受け入れがたい。

 とりあえず最終の第7章を読み終えるまで、保留。

2020年4月7日(火)

 届いてる原稿ようやく全部目を通し終えた。結構やばいのでは。

2020年4月6日(月)

 今日もまた不調だ。

 やるべきことははっきりしているが、頭が回らない。

 自分自身がどういう目線で読み込むか、わかっていないせいだろうか。支援者目線というのもありだろうし、研究者としてはどうだろう。社会の問題として。漠然としてるなあ。

2020年4月5日(日)

■三浦倫平『共生の都市社会学――下北沢再開発問題のなかで考える』(2016年、新曜社) #3

 第3章読み終わった。結局は行政主導の「街づくり」でしかなく、開発から利益を得たい陣営が行政サイドに丸め込まれているという構図を批判的に検討することなしに、複数の共同性云々と議論していいのか。カステル批判は何だったんだ。

 第4章。

前章で見てきたように、いかなる共生が望ましいのかという点について、都市計画を契機に対立が表面化している。[198]

 対立しているのは、望ましい共生のあり方なのか?

 所詮まちづくりなどというものは、肝心なところで決して態度を変えようとしない、行政にからめとられていくのか。制度的な裏付けを持つ「行政」に対して、「地域」は統一的な実体を持たない。対抗的な論理を作り出す運動を結実させられるかどうかにかかっている。

 運動が結実されないからといって、行政がフリーハンドをふるっていいわけではない。そこに何らかの規制をかけることは考えうるかもしれない。

 「共生」という言葉を何か別の言葉に置き換えられないかな。ここで問題になっているのは共生ではない。地域の人たちが論じているのも共生のあり方ではない。

 行政が持ち出してきた都市計画に対し、地域から異論が出ている。その異論は、反対派はもちろん、推進派にも見られる。地域の人たちが抱く地域イメージはさまざまで、現状を肯定的にとらえ、まもるべきものとして位置付けるものもあれば、防災や生活環境の問題から、解決すべき課題として考える立場もある。しかし、これらは必ずしも相互に排他的であるとも思われない。さまざまな地域イメージ、生活課題を照らし合わせながら、都市インフラ整備のあり方を議論することはできそうだ。

 ということは、ここで問題となっているのは共生のあり方ではなく、都市計画のあり方なのではないだろうか。地域のあり方をめぐって、地域内で対立が表面化することを「共生の危機」ないし「共生の崩壊」ととらえるのだとすれば、対立の表面化以前には「共生」が成立していたと見ることになる。「かつて成立していた共生」を再帰的に評価することなしに、共生の何たるかを議論することができるのだろうか。

 本書では、「共生」を、「共存」とも「共棲」とも異なるものとして、とらえようとしている。しかし、「共生」というのは、せいぜい「異質なもの同士が空間的に近接しながら、地域生活が破綻しないでいる状態」というふうに、相対的に位置付けるしかないようなものではないだろうか(「安全」や「平和」と同じ)。

 「共生を可能にする条件」を探るのだとすれば、「破綻」することで事後的に発見されるものとしての「共生」を、「破綻の解消/解決」によって、取り戻されるものととらえることになる。また、「破綻の解消/解決」の向こうに、そもそも「破綻」を回避するために地域に蓄積されているものが何であり、その機能がどのようなものなのかを、読み取り、明らかにしていく必要がある。

 第5章がこの本の山場になるのかな。運動の戦略や展開過程の記述は面白い。「イベント型の運動は一時的な盛り上がりをもたらしただけだった」のか。何かその後につながっていくような収穫はあったのだろうけど。

 対話の前提がないがしろにされていることを問題視した裁判闘争をやっている時に、跡地利用について話し合うというのは、無理があるというのはわかる。ところで、ここでの「無理がある」とは、具体的にはどのようなものなのだろうか。

 話し合いに引きずられて、裁判闘争の理念が揺らいでしまうことにあるのだとすれば、きっちり切り離した形でそのよう議論ができる場を自分たちで作っていくというのはありかもしれない(そんなものが作れるのだとしたらの話だが)。

 5章長すぎ……。

2020年4月4日(土)

 レジリエンスはあるのか……って前にも考えたな。

 シンプルに考えれば、調子が悪けりゃ休めば良くなる。

 できないことをやろうとするのではなく、できることを組み合わせて問題を解決する。

 自分の力をコントロールできていないというか。

■三浦倫平『共生の都市社会学――下北沢再開発問題のなかで考える』(2016年、新曜社) #2

 続き。「意味世界」について[84]。

1)いかなる要因で「共生」が揺らいできているのか。2)いかなる「共生」が構想されてきたのか。3)いかにして「共生」を可能にする社会を作り出していくことができるのか、といった問題設定が重要となることをこれまで指摘してきた。[98]

 やはりこの前提から引っかかる。そもそも「共生」なんて実現されてきたのだろうか。

 ここで引っかかるから、何を論じようとしているのかもつかみにくくなってしまう。

 運動自体が被説明変数である社会運動論と、社会変革の動因として運動をとらえる住民運動論という対比はわかりやすい。しかし、そうなると、住民運動論は社会変革が為されなければ、分析対象として不完全なものになってしまうし、目標としての社会変革のあり方はどのように評価するのだろうか。

 空間で出てきた[109]

このように、似田貝自身は受動的主体が立ち上がる局面における、身体のニーズ、生きがいや連帯、といった「共約不可能な」価値、欲求を生み出すことが、公共性の最も基本的な原理であると主張している。[113]

 こういう方向に話が進むなら面白そう。

 結局どういうこと? 意味世界をとらえることで、複数の共同性をとらえることができる、複数の共同性が共存できる社会とはいかなる社会であり、そのような社会がいかにして実現されるのかを問いたいのかな? 「共生」とは「複数の共同性が共存できる社会」?

 堀川三郎について触れるところで場所と空間の話が出てくるけど、ここではこの部分が深められるわけではなかった。

 アクティヴ・インタビューの意義。それはつまり状況の分析ということではないのか。インタビューは調査者が被調査者から情報を引き出すもののようで、実際は両者相互の働きかけによって構築されたものととらえる。そのようなものとして語りをとらえたうえで、何を見ようとするかといえば、そのような語りが創出される状況の解釈であり、社会構造との接点を探ることだろう。しかし、これを可能にするためには、その語りが創出される場の継続的な観察が必要になる。この継続的な観察が地味で、あまり評価もされない作業だということ。

 p.133でまた空間が出てきた。これはどう回収されるんだ。

 この第2章の結びにルフェーヴルの空間論が検討されるけど、なんかよくわからなかった。空間の表象が設計主義的なもの(セルトーのいう固有の空間)だとして、表象の空間というのは、「生きられる経験」というように、空間の表象の反映として統制された部分と、設計から逃れた空間に所与の特性とがあって、それらがないまぜとなって実際の空間は生きられるという話じゃないのかな。そして、空間的実践というのは、空間の表象と、その統制からはみ出したものの総合として具現化する空間に対して、知覚されるものを主体的に読み換えて、空間の表象も表象の空間も同時に、別のものに変えてしまう側面を指しているように思われる。

 まあそれはさておき、ここから「意味世界」「社会的世界」という概念をルフェーヴルの『空間の生産』の概念に対応させていく流れがよくわからなかった。

 ルフェーヴルの『空間の生産』は、空間をとらえるための概念枠組みであって、個々の空間の特徴や種別を意識したものではなさそうだ。こだわらなければならない空間、守らなければならない空間があって、それがどのようなものか、どのような条件を必要とするのかを明らかにしようという以前のもので、これらの概念にこだわったところで、あまり得るものはないように思えた。

 第3章以降は事例の話になってしまうようなので、結局この本は「共生」の何を明らかにすることも目的にしているのかを確認しておこうと思って、序章に立ち返ったら、最初に目的が書かれていた。

本書は、現代都市における「共生」という問題を社会学的に捉えてゆくためには、どの様な認識や方法が重要になるのかを明らかにすることを目的にする。[9]

 認識や方法が議論の主眼なの?

 「共生」の定義っぽいものは以下か。

第一に、「異質な要素同士の共存から、相互理解などを経て、共に生きていくことを可能にする社会を新たに形成していく動き」として「共生」を捉える必要があるだろう。

 これでは、著者が検討した「何をもって抵抗(変革)と呼ぶのか」という抵抗論批判と同じ問題が当てはまってしまう。似田貝ー中野論争をステップにして続く、アクティヴ・インタビューの話は、その答えにはなっていないし、著者自身の立場を明確にしているとも思えない。

 第3章冒頭、推進派と反対派、どちらも「共生」の構想を持っているという[151]。

 調査概要を注に落としたらあかんやろ……。

2020年4月3日(金)

 今さらながら大変なことになったな……。

 何もかも吹っ飛んでしまうような状況で、一体何をしたらいいのだろうか。

2020年4月2日(木)

 本読もう。

■三浦倫平『共生の都市社会学――下北沢再開発問題のなかで考える』(2016年、新曜社) #1

 出てすぐ買ったはずなのにずいぶん寝かしていた。再開発の事例であるというところと、「共生」云々の部分に都市のコモンズ論に反映できる議論を得られるかというところが、読み進む上での留意点か。

 しかし、「共生」という概念に焦点化されているのだとすれば、あまり場所に関する議論にはつながらないのかもしれない。

 「共生」ってテーマとして、でかすぎないかな。

 カステルの批判的検討?

 共同性、コミュニティを論じるのと同じ問題を抱えてしまいそうな予感がする。期待概念を用いる際の政治性とでも言ったらいいのか。

なぜ現代において「共生」が揺らいでいるのかということについて論究できないのだ。[三浦 2016: 35]

 pp.39-43の「均質化」論批判。結局、「均質化」によって失われるもの、場所性の中身が経験的に実証されていないのが問題なのでは。

 「都市社会学の危機的状況」。場所と空間と資本?

 とりあえず第1章を読み終えた。カステルこんなこと言ってたんだなみたいな。

 カステルの言い出した「都市の意味」を共生の議論につなげて行きたいみたいだけど、まだよくわからない。

 意味世界を強調しすぎているような印象を受ける。どうなのか。

 というか、意味世界という言葉を持ってくるところで、すでに何か警戒してしまう。危うい感じがする。空間の実体的な暴力をとらえそこなったまま、共生の理念を論じることでお茶を濁してしまわないかと。

 参考文献を一覧した限りでは、都市下層研究はスルーされている。「意味世界といえば青木秀男」みたいな都市下層研究者の思い込みもあるだろうけど。

2020年4月1日(水)

 4月か。日付けを入力して初めて気づいた。

 繊細で丁寧な文章が読みたい。自分で書くのに疲れた。

 頭回ってなさすぎ。

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