過去ログ
2019年9月


2019年9月30日(月)

 どうするかな。

 『響』の12巻買ったのに読まなかった。

2019年9月29日(日)

■原稿3 #6

 ファミレスで午前三時まで書いてなんとか初稿が完成した。眠い。

2019年9月28日(土)

 うーん、なんか踏み外したかなあ。

 まだ見えていないものがあるか。

 そこまで深刻になるようなことではない。疲れのせいもあるだろう。うかつといえばうかつでもある。それだけのこと。

■原稿3 #5

 間が空きすぎて、エンジンかけるのにまた時間がかかりそう。勢いでいったん書き上げてしまいたかった……。

 現時点で文字化できている範囲で、全体の構成を整理してみよう。

 1)まず西成特区構想とジェントリフィケーションの関係を整理する必要がある。2)その次に大阪城公園での出来事を入れるかどうか。ここは全体の文字数とのバランスで判断すればいいか。3)センター建て替え、閉鎖スケジュールの確定というターニングポイントと、「介入」に向けた課題について。4)実際の「介入」の戦略について。そして、5)「まちづくり」がどのような意味でジェントリフィケーションに組み込まれているのか、そこから取り出せる課題は何か。

 5)を論じようとすれば、2)があった方がわかりやすいかもしれないなあ。今の原稿では1)が無駄に長いから最小限まで切りつめていいだろう。2)もかなり余計な要素が入っているが、ここは逆にまだ盛り込まないといけないこともあるかもしれない。

2019年9月27日(金)

 プラグマティズムに活路はある? 

 なかなか読み進められないが、デューイの考えていることが少しずつわかってきた。それは、生き方だけでなく、学問のあり方も問い直す。

 眠い。さすがに燃料切れだ。

 単に眠いだけの時にわざわざ苦しまなくていい。

 この力の使い方を上手くなりたいんじゃなかったのか。

 まちがったことをすれば痛い目にあえばいい。そこから学べばいい。

2019年9月26日(木)

 レジュメの手直ししながらスライド作ったら3時間かかった。今年も結構しんどいサイクルになりそうだ。

 飲まない方がいいとわかっていながら飲んでしまう。

■原稿2 #6

 昨夜はあることをきっかけに原稿3の書き出しが固まり、とりあえず完成までこぎつけられそうな手応えを得た。

 それと同時に、原稿3を論文の形式に書き直せば原稿2に必要なボリュームと内容を満たせるのではないかと思った。原稿2はエッセイのようなものなので、根拠を提示していないエピソードの部分を参考文献で補強しながら、枠組みを固めれば原稿3は書けるのではないかというわけだ。

 それにしても、論文であるためにはデータに依拠しなければならない部分が必要になる。どうなんだろう。データというか、他人の研究成果に依拠して論を進める構成が必要だということか。

 こういう文献だけでまとめる論文って、僕はこれまで書いたことなかったし、どう書けばそれが論文ということになるのか、他人が書いたものを読んでもピンとこなかったのだが、なるほど、文献を整理しながら新たな知見を導き出すような書き方もあるのかな。

 ちょっと違うのは、やはり調査の知見に依拠している部分がやはりあるということかなあ。しかし、ここで用いる調査の知見の提示の仕方も、これまで僕がやってきたものとは異なる。生データを証拠にするというよりは、その調査の狙いや性質そのものを論拠にした構成を練る必要がある。

 「下層労働のゆくえ」というテーマを設定した上で、出来事の経緯を読み解きながら、その解答を導き出すということか。そのためには「下層労働のゆくえ」というテーマをどう組み立てるかが重要だ。

 都市空間に可視化した下層労働の集積場であった寄せ場を、寄せ場の衰退がさまざまに取り沙汰されるようになった現在において、どのように評価するか。第一に寄せ場がどのような場所であったのか、第二に寄せ場の衰退は何を意味するのか、第三に衰退する寄せ場を取り巻く現象から下層労働について示唆されることは何か。この三点、この三段階だろうか。

 苦しみに苦しみ抜いた果てに得られた力があるようだ。僕はこの力の使い方を上手くなりたい。

 なんか調子悪い。サーバーの問題なのか、アプリの問題なのか。

 なんとも嫌な状況に巻き込まれる。しかし、問題の本質はつまりこれなのかもしれない。

 それならまだ活路は見出せそうだ。

2019年9月25日(水)

 光が見えてきた。

 疲れた時の自信喪失感とうまく折り合いを付けられるようにならないとなあ。

2019年9月24日(火)

 希望を失うことなどない。

 この思いが広がって滲み入れば何とかなる。

 疲れた……。

2019年9月23日(月)

 フィールドワーカーの主体も協同関係によって新たに構築されているのだとすれば、彼は何をとらえ、何を記述していくのか。それは何のためなのか。

 違う。そんなことじゃないな。フィールドのなかの主体が新たに創出されたものであれば、記述する時の主体もまた新たに創出されるものなれど、それはフィールドのなかで協同関係によって構築されるものとは異なる。フィールドで創出された主体をとらえながらも、また別の視角を持つものでなければならない。それは書くものの役割だ。

 研究以前の問題だ。掘り下げるべきことを掘り下げる。そうしないのは研究者のおごり。しかし、そうしてもうまみはない。

 センターについて書くことがどうしてこんなに難しいのか。

 むちゃくちゃ時間かかりそう。牛歩の歩みだ。

 センターがどのような場所であるかを語るのがなぜ難しいのかを語るのが難しいのは、センターがどんな場所であるかを語るのが難しいからにほかならないわけだ。

 うう、苦しい。この現状にはりめぐらされた排除の構造をどのような言葉で語ればいいのかわからない。

 まちづくりが労働の領域を排除してしまっているということをうまく説明できないか。まちづくりとは何か。よくわからない。この辺の批判は前の原稿で大体やってしまった。

 頭で考えてはいけない。あくまでエピソードから事実を解きほぐすように進めなければいけない。釜ヶ崎の外からの介入。外部からの介入を拒む「まちづくり」の構造。

 なぜ釜ヶ崎のジェントリフィケーションに抗しなければならないのか。何だかんだいっても対抗的な拠点としての釜ヶ崎の存在感はバカにならないということだろう。大阪の野宿者運動のルーツをたどれば釜ヶ崎の存在を無視するわけにはいかないし、野宿者支援を行おうとすれば、結局は釜ヶ崎にある仕組みを利用せざるを得ないところもある。釜ヶ崎を利用したことがなかったり、関わり合いのない場所として距離を置きたがる野宿者がいる一方で、やはり釜ヶ崎との連続性を持つ人も少なくない。好むと好まざるとは別にして、釜ヶ崎は都市下層の人びとにとって、手放してはならない場所であることは確かだ。

 やはりこの原稿は「なぜ「センターの日」をはじめたのか」に絞って書かないといけないようだ。

 でも、どこから書き始めるのかというところが難しい。僕は何者としてどこから書き始めればいいのか。この位置取りをまちがうと書かないといけないことが書けなくなってしまう。

2019年9月22日(日)

 これまでにないダメージを受けている。イタリアから帰ってから、やはりこれまでにないような嫌なこと辛いことを、かなり大きなものも何とか乗り越えて、これより大変なことはそうはないだろうと思って、あとは辛くてもどうにかこうにかやりながら道を切り開いていこうくらいに思っていたのに、僕だけにかけられた呪いのようにどこまでも付きまとってくる。

 洗濯物を干していたら、日陰から日向に出たように平常心に近い心持ちになる。

 金曜の夕刊からたまった新聞を処理しようと読みはじめたら、この間、頭を悩ませている原稿など、そんなに大変なものなのだろうかという気もしてくる。前の原稿の時も、程度の差はあれ、こんな行ったり来たりはあったな。

 近づきすぎて見えなくなっている。距離を置いて冷静に全体像を分析していければ、そう難しい話でもないのだろうか。ごく単純化すれば研究者というのはちょっと引いた立場で、わかり切ったことをもっともらしく言うようなところもある。

 千葉県の災害後の対応に追われる知事が森田健作であることを見て、子どもの頃、小学生くらいの感覚でいえば、選挙の候補者がテレビに出ているタレントであれば、テレビという手の届かないところにいる人がいきなり身近なところに現れたようで、お得感があったように思う。もちろんこれは錯覚なのだが、政治とテレビ、二つの「遠さ」がどう混じり合えば「近さ」に錯覚されてしまうのだろう。

 そんなことない。つらいよ。

 曲芸のようなものかもしれない。

 どうやって平常心を取り戻すのか。どうやってダメージから回復するのか。

 可視性と持続性と固有の場所性とが合わさって協同関係によって新たな主題が構築されるのだとすれば、フィールドワーカーの、研究者の主体も新たに構築されているのかもしれない。

 そうか、フィールドワークの進展のなかでフィールドワーカーの主体も新たに創出され、変化していっている。ここに自覚的に分析の可能性を見出せればやりようはあるかもしれない。

 物わかりのいいことは言えても、そこに踏み込むつもりがあるわけでもなければ、そうした経験を理解しているわけでもない。

 見たことのないもの、読んだことのないものを理解させるには、それを形にして見せるしかない。それがどんな道なのかも僕は知っている。

2019年9月21日(土)

 今までやってきたことも、今やっていることも全否定されたような気持ちになる。何も得られず、何かを失ったわけでもないのに、喪失感だけを抱え込む。

 実際には何も得られないことのために、無い時間を切りつめて、ギリギリの労力を絞り出してやったことは無駄になっているわけだから、何も失っていないわけではない。しかし、これを投資ととらえて、投資が回収できなかったなどという話としても片付けられない。

 自分が何者でもない不定形な状態でどれだけ出ているのかもわからない力をふりしぼっている。

 思えば取るに足らぬこと。ちっぽけなことに囚われている。

 進むか戻るのかを選ぶのだとすれば、もうもっと先まで進むことを選ぶところまで来たのかもしれない。何かを得るために別のものを失うのだとしても、その何かを得ることに価値を置こう。

 そんな簡単にはいかない。忌々しい。

 取るに足らぬこと、ちっぽけなことであるのは確かである。

2019年9月20日(金)

 明日もまた己の屍を越えてこの身を捧げねばならないのか。

2019年9月19日(木)

 広島。たまらなく眠い。

2019年9月18日(水)

■原稿3 #4

 釜ヶ崎の場合、ダイレクトに差別の問題がからんでくる。地域への差別的なまなざしの払拭自体が西成特区構想のなかで語られるようなねじれがある。

 ここで問題となっていることは何か。そうか、差別そのものは解消されていないということかな。釜ヶ崎に対する差別とは何だったか。差別の内実は実は問題ではなくて、排除の構造とメカニズムとしてとらえて解説する路線かな。

 存在そのものを無視したり、また引き合いに出したりする排除のメカニズム。労働力として都合よく活用しようという排除の構造。

 1980年代からジェントリフィケーションは進行していたと考えた方がいいのだろうか。それを当時の釜ヶ崎の状況と合わせてどう提示するのか。そうか、排除の構造のなかに労働力としての位置付けがからんでるんだな。

 これまでのジェントリフィケーションが都市空間の開発にまつわるものとして語られていたところに、労働市場の再編と合わせて議論するというのは面白いかもしれない。

 日雇雇用保険を利用しにくくしたり、相対紹介を無くそうとしたり、明らかに労働力をどう管理するかという動きと連動している。

 釜ヶ崎の労働団体のあいだでの対立。反排除が叩かれる構図。

 長居のことも、ジェントリフィケーションをとりあえずの補助線にすれば整理の仕方が見えてくるかもしれない。アート、表現、若者と労働市場の問題だ。

 自分の立ち位置というものも、逃れられぬものでもあり、活かせれば力ともなるものか。都市と労働のあいだを行き来して居心地の悪さを感じてきた経験は、現代社会を読み解くうえで必然だったのかもしれない。

 『市政研究』204号の松本創の記事を読む。基本的には問題提起の記事なんだろうけど、維新支持ではない「僕たち」というのは何なんだろうと思った。

 そのような主体を作ることと、そのような主体が支持する理想とを同時に作り出さねばならず、それは政治だけを考えていては不可能なのではないか。

 仮想敵を作り出すことによって自己正当化して支持を得る維新のフィクションが、検証されることもないまま、マスメディアを通して定着してしまった。基本的には排除型の維新の手法は、包摂と一体になっている。しかし、その包摂とは多数派への包摂でしかない。

 排除の対義語としての包摂ではなく、反排除による共存を形にすることが一つの路線ではあるのだろうけど……。

 頭の痛いことばかりだ。

 これはもう小手先の技では勝てない。

2019年9月17日(火)

■原稿2 #5

 どっちの原稿のために読んでいるのかだんだんわからなくなってきたが、午前1時半過ぎまでかけてようやく目を通し終えた。

■原稿3 #3

 ことが後先になってしまうが、労働現場における寄せ場労働者、飯場労働者の排除の構造とメカニズムを例にあげつつ、まちづくりにおけるジェントリフィケーションの作用を読み解く──という構成にするとわかりやすいかもしれない。労働の領域からは生活の側面が排除され、消費空間化される都市という生活の領域では、労働の側面が排除される。

 鈴木亘の著書をはじめ、有識者のなかには労働者や野宿者、生活保護受給者といった釜ヶ崎の住人の目線から語る言葉が無いことも指摘してもいいかもしれない。西成特区構想のまちづくりを取りまく構造的背景を、シンプルなコントラストとして提示することで問題を浮き彫りにする──という構成が6,000字程度の原稿ではちょうど収まりが良さそうだ。

 ジェントリフィケーションが告発の言葉であるとして、告発の言葉そのものをジェントリファイすることで、告発の無効化が試みられる。

2019年9月16日(月)

 寄り合い終わったら時間のなさが実感されてきて焦りが湧いてきた予感。無理……。

 ぼちぼち授業もはじまるし、介護職初任者研修もはじまり、「センターの日」や寄せ場交流会もある。また怒涛のような生活が再開され、さらに今回は過酷な締め切りが同時につきまとっている。死ぬ。

■原稿2 #4

 西成特区構想のなかでのセンターの扱いからはじめて、潜在的な労働者層に触れて飯場の話へ……という順序になるかな。

2019年9月15日(日)

 環状線で一駅乗り過ごした。調子悪いな。

2019年9月14日(土)

 平凡な暮らしを送っていても僕たちは大きな流れのなかにいる。それを可視化していくのが言わずもがなの社会科学の役割であるはずだ。

 多様性は創発性を高める。それは異質なものがぶつかり合う、混じり合うことでしか現れない主体を創出するからだろう。多様性が創発性を高める側面はあるにしても、ぶつかり合い、混じり合うことは対立や矛盾を抱え込むことだから、決して穏やかなものではない。穏やかに過ごしたければ似た者同士でまったりしていればいい。

 頭痛い。労働社会学、産業社会学もしっかり勉強していかないといけないな。武器の一つとして、使えないようでは話にならない。

■原稿2 #3

 西成労働福祉センターの求人業者と求人広告の業者の照会と、求人広告の情報の分析。釜ヶ崎を念頭に下層労働市場の規模感を把握する──みたいな方向か。

2019年9月13日(金)

 僕たちも大きな流れのなかでもがいている。このもがきがつながってはじめて力になるのだろうが……。

2019年9月12日(木)

■原稿3 #2

 ジェントリフィケーションという言葉が骨抜きにされていて、告発が無効化されているからこそ、なぜ今ジェントリフィケーションという言葉による告発が必要になるのかを説明する。主題はここだろう。

 そうだな、締め切りの順番にかかわりなく、先々のスケジュール進行を考えると、こっちの原稿を先に仕上げてしまうべきだろう。

■原稿2 #2

  潜在化している建設日雇労働力をさぐることは課題の一つとしてもいいかもしれない。

 これは今回の原稿だけの話ではない。「現代日本の建設下層労働」くらいのでかいテーマで取り組むつもりでやってみて、今回はまとめられる範囲内でまとめる。今後のための作業をはじめよう。

 結局書き出そうというモチベーションが高まるところまで行けないと書けないんだな。

 求人広告をベースに日当や宿舎代の比較もありかな。

 楽しみが見出せないとなかなか進まないよなあ。

 学会賞みたいなものは、学会のなかで認めてもらえていなければもらえない。評価の基準は学会のなかにあり、学会のなかにあるということは、学会における人間関係のあり方と、その人間関係のなかで蓄積されたやりとりの文脈から形成されるもの。どこかに、具体的な人間関係から離れた評価基準があるわけではない。そして、これは学会にのみ言えることではないだろう。

 そういうものに対し、市場原理、競争原理によって突出したものの方にしがらみを超えた価値を見出そうという考えも分からなくはない。しかし、こちらにはこちらで別のしがらみがあるということはあまり考えられないのだろう。

2019年9月11日(水)

 あー、何してんだろ。

 ビラ作って寝たい。

 ほんま不愉快な。

 しかし、まあフィールドは面白い。痛みも傷も誰も代われない。

2019年9月10日(火)

 まあ疲れてやる気なくしても無理からぬタイミングではある。どん底からの原稿執筆・完成、学会、別の原稿の修正、年に一度の研究会と仕事量もバリエーションもあるものが連続して重なりあって、一つ一つの出来事のカタルシスもあるのかもしれないが、相互に打ち消し合ってしまっているような感じがする。

 「身を切る改革」。「身を切る」ことは改革の中身を何も説明していないし、「改革」をしているのかどうかも怪しいのに、改革しているように思い込ませる。給与をカットして「身を切る改革」と言えば、つらい改革に取り組んでいるように思い込ませられるのか。

2019年9月9日(月)

 はー。

 眠い。飲みすぎ。

■原稿2 #1

 今週から次の原稿について考えはじめねばならない。どうしよう。西成特区構想とからめた話なのか。僕の守備範囲で何をどこまで書けるかを考えた方がよさそう。

 センターのデータとの照合はした方がいいかな。地図化はどうかなあ……。ちょっと調べて簡単にできそうならやってもいいけど、それで何が言えるかを考えてからにした方がいいだろう。

■原稿3 #1

 さらにもう一つの原稿についても考え出しておいた方がいい。話としては原稿1とかぶるのだが、少し切り口は変えねばなるまい。

 ジェントリフィケーションという言葉をめぐる混乱を中心に解説するとテーマはすっきりしそうだ。

 絶対おいしくないのに飲んでしまう。

2019年9月8日(日)

 なんかイライラしているな。

2019年9月7日(土)

■論文 #23

 最後の修正をしてしまわなければならないがやる気が起きない。

 やった。わりとすっきりとはまったが、基本的には同じ路線だなあ……。構造的な部分を理論的に詰めていく作業が必要だ。

 しかし、なんかもうこういう浮き沈みを、原稿を仕上げながら自分のなかで繰り返し繰り返して、特に吐き出せるところもないのが、不健康な感じがする。

 ポジショナリティがどうとか。著者の記述の上で提示するポジションを読者が許容するかどうかという問題ではないか。

 どのようなポジションをどのように提示するか、それが受容されるか否か、どのような人たちにどのように受容されるかを計算しながら書くというのは、客観性をめぐる高度に政治的な行為といってよいのではないか。「高度に政治的」というのは「政治的な行為であるにもかかわらず、政治的な行為と感じ取られないように仕込む」という意味だが。

 しかし、客観性なんて所詮その程度のもので、客観性を損なうリスクを回避するためには遠目に眺めるスタンスが無難だというだけの話なのではないか。

2019年9月6日(金)

 寝ただけだった。新しい以外は本当にただのカプセルホテルだった。

 帰る。

 ちょっとゆっくりしたい気がしたので新幹線の予約を20分遅らせてみたが、大して変わらない。

 やはり耐えがたい。

2019年9月5日(木)

 結局子どもを寝かせるところまで行かないと安眠はない。

2019年9月4日(水)

 まあ単純に寝不足だよ。

2019年9月3日(火)

■原稿1 #10

 プリントアウトして赤を入れてみたらたくさん直すところがあった。

 タイトルはこれでいいのかなあ……。

2019年9月2日(月)

 何をやけになっているのか。

 気持ちの整理なんてしたくねーんだよ!

 一日二日の出来事で一喜一憂してても仕方ない。地道に積み上げて段階的に何かを手に入れていけるように。

 つらいのは前に進んでいるからだ。

 わかやまとおい。

 もう少し想像力を働かせないとダメだよな。

 独りよがり。

 少し前向きに。

 わかった。

 考えようとしてみれば単純な話だった。

 今置かれている状況があって判断していることと、僕が置かれた状況とは関係なく判断していること。今置かれている状況があるがゆえに、判断はできても決められないことというのもあるか。

 僕はただ判断もできなければ決められもしない状況に苦しんでいるだけなのかもしれない。

 また同じ答えを出す。プラグマティズムだ。

 良き行為、良き習慣が良き関係を作る。良き場所を作る。即効性のない愚かなやり方。

 ハタハタでつぼ抜き初体験。10匹くらいやって最後のあたりでようやくずっと抜けるようになった。

 あー、やはりエラと一緒に抜かなあかんのか。

しかし、このような道徳は、行動が問題の解決に勇気をもって、知的に向けられる形で、われわれに問題を言明させるのを可能にさせる。このような道徳は、われわれに失敗のないことを保証はしないが、それは、失敗を教育の元にするであろう。それは、将来同じような重大な道徳的困難が出現したときに、われわれを守ってくれるわけではないが、われわれが明らかに失敗したとき──われわれは、失敗し続けるであろう──でも、その行為に重要な価値を加えてくれる知識を育てる元手とともに、つねに繰り返される困難に近づくことを、われわれに可能にさせるであろう。(Dewey 1922=1995: 25)
徳も悪徳も、個人の性質が寄与する要素と、外的世界の提供する要素の相互作用に他ならない。それらは、生理学的機能と同じように客観的に研究できるのであり、また、個人的要素か社会的要素のいずれかの変化によって変更できるものなのである。(Dewey 1922=1995: 29-30)

 このとらえ方は相互行為的な場面の価値を分析するのに使えるのでは。


Dewey, J., 1922, Human Nature and Conduct: An Introduction to Social Philosophyx New York Henry Holt and Company. (河村望訳、1995、『人間性と行為』人間の科学社) 

2019年9月1日(日)

 飲んでも飲んでももう一つ。

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