橋下ワクチン開発室

ワクチン1 橋下ツイッターを読み解く【実践】

はじめに

先日「橋下ツイッターを読み解くコツ」を書いた。内容について評価していただいたが「それでもなお腹立つ」という意見も見られ、痛み止め程度にしかなっていないようだと分かった。橋下ツイッターに騙されない免疫を作るワクチンへの道はなかなか遠い。今回は痛み止めから一歩進んで解毒剤くらいを目指したい。

このエントリーでは2011年6月12日(日)13時35分から翌13日(月)9時29分にかけてポストされた大阪維新の会代表・橋下徹氏による計17回のツイートを読み解いていきたい(参照ツイートをはっきりさせるため、ツイートには通し番号を付し、かっこ内に記した。通し番号付きのツイートはこの記事に収録)。

エントリー自体長いので最初から最後まで読むのはしんどいと感じられるかもしれないが、区切りごとに興味のあるテーマだけ読んでも意味はあると思う。

この一連のツイートは毎日新聞の「記者の目」というコラムの批判に端を発している。橋下氏は「大阪維新の会が6月議会で成立させた君が代起立斉唱条例に関して、毎日新聞が記者の目という記事で『教育現場に強制はなじまない』との主張をしていました」(1)と述べ、教育は強制に他ならないという主張を繰り広げる。

1 毎日新聞はそんな主張はしていない

まずおかしいのが、問題の毎日新聞の記事を確認すると、橋下氏が繰り広げるような「教育現場では強制はなじまない」などという主張は一切されていない(参考)。そもそも「強制」という言葉が出てくるのは一番最初の見出しで「学校に強制はなじまない」と書かれている部分のみであり、記事の本筋は大阪維新の会の君が代起立斉唱条例の強引な採決への批判なのだ。

問題提起の発端から彼はありもしない毎日新聞の記事を印象操作で作り上げている。

2 価値観の問題は論理ではない?

次のツイートは「価値観の問題ですら論理ではありません」(2)から始まるが、意味が分からない。このツイートは「社会のルールを教えるというのは強制そのもの」と結ばれる。おそらく「社会のルールは価値意識と対立するものだ」というようなことが言いたいのだろうが、価値観が論理的でないわけがない。価値意識を論理的に説明したのが価値観で、価値意識は感情的なものだが、それを説明する価値観が「論理ではない」というのはおかしい。

3 しつけと教育と規律を混同

続くツイート(3〜5)ではあいさつや排便、マナーなど家庭内のしつけの話になる。そして家庭内のしつけと公務員の規律を同レベルで語り始める。

子どもにしつけが必要なのは社会に出る前に一般的な習慣や考え方を身につけておかなければ他人との共生が危うくなるからだ。一般的な習慣や考え方には時代遅れなものや間違っているものもある。しかし、それが社会的な強制力を持っている以上、便宜的にでも理解し、合わせる知恵を身につけさせる必要がある。そして、社会に出てからは逆におかしなルールはおかしいと主張していく責任がある(後述)。

橋下氏は「毎日新聞は公務員の規律と教育現場の話しを混同」(5)と述べているが、この主張も意味が分からない。

しつけは強制だが、教育は強制ではない。もっとも、初等教育においては教育現場にも「しつけ」の部分が残っているため、強制の要素も見られるかもしれないが、教育は考える力を育むものであって、自発的な学習意欲を伸ばしていく工夫が求められるもの。したがって強制は逆効果にしかならない。

誰も「公務員の規律と教育現場の話しを混同」してなどいない。「公務員の規律」(職務規定)は当然守られている。しかし、前述したように、おかしなルールには問題提起し、議論を通して変えていく責任が大人にはある。それが民主主義のルールであり、責任だろう。

何かを混同しているのは橋下氏で、しかも、混同している要素は彼が批判する毎日新聞より彼自身の方が1つ多い。

4 しつけの責任の放棄を高らかに宣言

このように橋下氏の混同が明らかになったところでその後のツイート(6〜8)を読むと、もはや相手にする価値がないことが見えてくる。

「教育は強制ではないと、何を綺麗ごとを!」(6)と吠えるのはむしろ彼自身の考えの浅さを露呈している。「人間の本能のままに生きられる人はごく一握りの才能ある特殊人間」(同)と述べているが、誰もが本能的な欲求を社会のルールと調整しながら生きている。ルールのおかしさへの問題提起の方法、表 現の仕方が様々であるというだけの話である

「教育は強制ではないとバカな綺麗ごとを言う者が、メディアや評論家に増えてきて、教育現場もそれに流され始めたから、社会のストレスに耐えられない大人が増産されてきているのではないか」(8)との見解を示しているが、むしろ問題なのはしつけと教育の区別を理解せず、家庭でのしつけを疎かにする大人がいることだろう。そして、この責任を放棄してきたことを橋下氏はカミングアウトし始め、あろうことか家庭でのしつけの責任を学校や社会に転嫁する(9)。

5 政治家としての責務の放棄

最後はいつものマネジメント論を繰り返す(10〜17)。

橋下氏肝入りの民間人から登用された校長のブログ記事を例に、教師がいかに腐敗しているかを語り、腐敗した教師を糾すために校長の職務命令を強化する必要を説く。

しかし、リンクされたブログ記事で問題にされているのは、授業の質についてであり、君が代起立斉唱云々とは何の関係もない。

授業の質が低ければ改善を求める指導が必要だし、改善が可能であるにもかかわらず改善を怠るような者がいればこれは問題である。

しかし、実際に授業の質を高めるには教師個人の努力だけでは難しい面もある。例えば授業以外の日常業務が多すぎて授業が疎かになってしまう場合。教員数が少なければこのような問題が起こってしまう。授業そのものについて考えてみても、一学級あたりの生徒数が多すぎると必然的に教育の質は落ちる。また、場合によっては教育能力向上のための研修を受ける機会が必要かもしれない。

このように、マネジメントよりむしろ制度面での改革が必要だし、政治家の仕事は制度を整えて、現場の努力ではどうにもならない問題を解消していくところにある。ところがこれまで橋下氏が府知事として取り組んできた教育改革は、競争を煽り、マネジメントの名の下に問題を現場に押し付けるようなものばかりだ。

「僕は教育のプロではない。だから教育委員会ややる気のある校長の判断を信じる」と述べているが、上記の制度レベルの改善の重要性は半ば常識レベルのことであり、教育のプロではない橋下氏が現場のプロや有識者の意見に耳を傾けているかどうかはかなり疑わしい(そもそもプロ云々を言うなら「民間人校長」は教育のプロではない。営利組織のマネジメントと教育現場に必要な配慮を橋下氏は混同している)。

橋下氏は「校長に権威を持たせる」と述べているが、権威とは、強制しなくとも人々が自然に尊敬の念を抱く特性のことであり、ここで彼が権威と言っているのは権力のことに他ならない。

橋下氏は言葉を正確に使うことができないまま持論を並べ立てるので、読者は「何となく腹が立つがどこがおかしいのか分からない」状態に陥りがちである 。

6 人権意識の怪しさ

最後に、ところどころに見られる橋下氏の人権意識への疑念を指摘しておきたい。

自分の子どもが家に友だちを連れてきた場合を例に「その子が、思想良心の自由によっておじさんに挨拶はしません!と言っても許しません」(5)と橋下氏は述べているが、思想良心の自由とは「嫌いな相手には挨拶しなくてよい権利」あるいは「挨拶したくない気分の時に挨拶しないでよい権利」か何かなのだろうか?思想良心の自由は社会的背景が密接に関係するものであり、個人の感情の問題に矮小化するのはおかしい。仮に宗教的な規律に従って一般的な慣習と違ったことをしようものなら橋下家からは追放されるということか(そんな家には誰も寄り付かなくなるだろうが)。

「教育の政治的中立性というお題目の下、教育現場が治外法権となっている」(12)といっているが、不当な介入を行なって治外法権を押し通そうとしているのはむしろ自分の方だろう。

「君が代起立斉唱条例を、思想良心の自由の問題でしか語れない人はあまりにも世間知らず」(15)とのことだが、君が代起立斉唱の問題をマネジメントの問題にしてしまう法律家はあまりにも不勉強だろう。

「日弁連は、国家機関からの監督を受けない独自の自治権を有し、弁護士の品位を保持し、弁護士事務の改善進歩を図るため、全ての弁護士及び52弁護士会を指導・連絡・監督する唯一最高の機関」(参考)ということだが、このような妄言を吐く弁護士を放置している日弁連は、橋下流に言えばマネジメントに問題がある。懲戒権を強化して権威を高めるべきだろう。

7 議論がなりたたないのは橋下徹が論理的でないから

一番始めのツイートで橋下氏は毎日新聞と自分は「180度価値観が違うので論理的な論争とはならない」と言っているが、論争にならないのは価値観が違うからではなく橋下氏が論理的でないからである。

基本的に橋下氏は批判対象のソースを曖昧にし、ウェブ上に情報があってもリンクを貼らない。確認されるとバレるようなレトリックを用いている自覚があるのだろう。最初の嘘を見抜けば後の主張はすべて簡単に崩れ落ちるので、まず最初だけでも冷静に読み解いておかしなところを発見して欲しい。大丈夫、彼の主張はいつも変だ。

⇒他のワクチンを読む

追記「しつけも強制ではない」(110615)

本文の中で僕は「しつけは強制だが、教育は強制では成り立たない」と述べたが、Twitterで紹介されていた以下の記事を読み、しつけも強制では成り立たないことを理解した。

森岡孝二の連続講座 – 第89回 大阪府知事の教育論は百パーセント間違っています

例えば、排便のしつけだが、強制でできるだろうか?便意がいつ訪れるかなど本人にすら分からない。「一方的に子どもをトイレに連れ込み排便を強いる」など滑稽なことだ。おしっこについても同様で、定期的にトイレに誘ってみる工夫は必要だが、これは強制ではない。子どもが便意なり尿意なりをもよおしているか確認するように親が心掛け、おしっこやうんちはトイレで行なうこと、もよおした時は申告してくれるように条件づけることが必要なのだ。

どちらかと言えばしつけは「条件づけ」と言った方が正しいように思う。作家の橋下治氏が「教育とは洗脳である」と述べているのを読んで、なるほどと思ったことがある。『宗教なんかこわくない!』(筑摩書房)で、教育は洗脳だが、その洗脳からの逃げ道を用意しておかなければならないと橋本氏は書いている。

「強制」という言葉はもっと慎重に運用する必要がありそうだ。森岡氏の記事を紹介して下さったフォロワーさんが、橋下氏の「強制」という言葉は独特の意味がありそうだと言われていた。橋下氏にかかるとルールに則ってスポーツすることさえ「強制」になってしまうのではないかという。

ここで「スポーツのルールも強制じゃないか」と思われる方もいるかもしれない。重要なのは、様々な解釈が可能な言葉だからこそ「強制」という言葉を軽々しく使うべきではないということだ。


解題(2019年3月3日)

 長いよ……。何が長いって、元の橋下のツイートも長いし、橋下のツイートの中で言及されている中原徹のブログも読まないといけないし、きちんと批判しようと思うとワクチンそのものも長くなる。それに今読むとやはりロジックが甘いし、たとえ話もやや疑問に感じる。

 とはいえ、ワクチンの第1弾だと思って大目に見て欲しい。僕が「痛み止め」とこれを描くまでは、橋下はツイッターで言いっ放しで、真正面からの反論は存在しなかったし、誰もやっていなかった。橋下のツイートは言ってることがコロコロ変わるから、話を飛躍させている部分を見落とすと反論として筋が通らなくなる。全体を通して受け止めているうちに、違和感があるのに丸め込まれてしまうやっかいなレトリックを用いている。まずはそうしたレトリックの全体像を把握するところからはじめなければならなかった。

 とはいえ、ここですでに橋下のトリックの一つがあらわにされている。橋下は元の記事、元の発言をほとんど無視して勝手なことを大声でふれまわる。橋下がもっともらしく提示しているだけで「実際には存在しない不心得者に対する反論」があたかも正論のように受け止められてしまう。歯切れの良い「正論」にみんな騙されていく。タネがわかればバカバカしいトリックだが、扇情的な話術に翻弄されて、なかなか検証まで行き着かない。

 ところで、橋下のツイートを改めて読み直してみると、酔っ払いがクダを巻いている程度の主張なので驚く。まあ、こういう素人教育論みたいなものに納得して恐れ入ってしまう人もいるだろうなとは思うが、これをまともな議論の場で素面で口にすれば恥をかくだけだろう。

 それでも、知事という立場の人間が権力をふるいながらリアルタイムで実害を出していく状況にあっては、なかなか冷静ではいられないし、対抗する側も後手に回るのは仕方のないことだと思う。




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