フィールドワーク論

第1回 フィールドワークはどこを目指すのか

◼︎自己と他者

 序文の結びに「どうせ誰も読んでいないのに」などと、自虐的なことを書いてしまいましたが、「どうせ誰も読んでいない」にもかかわらず、誰かが読む前提で書くというところに、「日雇い労働者のつくりかた」形式のコンテンツの核心があるのだと思います。また、これはフィールドワークの核心でもあるのかもしれません。

 最近、僕が授業の導入でよく使う三者関係の図式があります。三者とは、フィールドワーカーとインフォーマント、そして、フィールドワーカーの報告を受ける人たちです。ここには少なくとも二つの世界があります。まず、フィールドとなる世界があり、報告を受ける人たちの生きる世界があります。報告を受ける人たちの世界とは、もともとフィールドワーカーが生きている世界、フィールドへと旅立ち、フィールドから帰還する世界ということになります。

 地理的、空間的に離れた場所がフィールドである場合、「旅立ち」そして「帰還」という往還は自明のものとして成り立つかもしれません。しかし、フィールドと日常生活を送る世界が近い場合、あるいはフィールドと日常が地続きである場合、その境界は曖昧になります。もっとも「地続き」であるようで、どこかで線引きはなされるはずです。

 この線引きの究極的な境界の単位は自己と他者ということになるでしょう。自己と他者という単位はあまりに当たり前で、つまらないものに思われるかもしれません。私たちはふつう、自分というものがあると思っているし、自分のことは自分だと思って生きているはずです。自分以外は他人、つまり、他者なので、こんな根本的な大前提からスタートしなければならないのは、あまりに回りくどい話だと思われるかもしれません。

◼︎異文化とは何か

 ところで、異文化とは何でしょうか。異文化の対義語となるのは自文化でしょう。どちらも「文化」として括られるものであることには違いがありません。自文化とは、自分たちの文化であるとすれば、異文化とは自分たちとは異なる他者たちの文化ということになります。

 では、文化とは何でしょうか。文化とは何かを考えはじめると、また大きな議論になってしまうので、その中身には立ち入らないようにしておきます。いずれにせよ、「異文化」とは「自文化」との対比で成り立つ言葉であり、それ自体としてとらえることはできないものです。

 実は、文化というもの自体が「異文化」と「自文化」の対比がなければ成り立たない言葉です。「文化」としてすくいとれるような何かが、私たちの生活ないし、私たちの社会にあるのだとして、なぜそんなものをすくいとらなければならないのでしょうか。

 それは、すくいとれるような何かがあると気づいたからでしょうし、これをすくいとる必要があると感じたからでしょう。そして、その気づきや必要性を感じさせるきっかけは「自分たち」とは異なる「誰か」の存在を意識するところにあります。

◼︎「私」と「自分たち」

 文化とは集合的なものです。「私」しか存在しないところに文化は成立しません。また、「私」という存在自体、「他者」がいなければ成立しないものです。なぜなら、私しかいなければ、私を意識する必要などないからです。

 もっとも、私しか存在しない世界というのは原理的にはありえません。私が生物個体として誕生するためには、私以前の他者が存在しなければならないからです。もちろん、ある時点で自分以外の他者が死に絶えてしまうという状況はありえますが、ある程度、自活できるようになるまで育ててくれる他者がいなければ、その時まで生きていること自体ができないはずなので、自己の形成が他者の存在を前提としたものであることを否定はできないでしょう1)

 フィールドとなる世界ともともとフィールドワーカーが生きている世界の線引きの究極的な境界の単位は自己と他者であると述べました。しかし、そもそもフィールドワーカーが生きている世界自体、自己と他者の集合としてしか成り立たないものなのです。

 そして、実は自己と他者というのは、そんなにきれいに切り分けられるものではありません。生活する上で、誰かに助けてもらっている部分があるものだし、自分の考え方、自分の感情だと思っていることも、実際は過去に誰かから影響を受けて形成されたものであったり、直接的な影響を受けたわけではなかったとしても、他者は他者として思い思いに生きていて形成された外部環境において私の経験が可能になっているからです2)

 つまり、「私」と「他者」の厳密な切り分けは、独立した身体機能を持つ個体とその個体に宿る精神を前提とする限りで可能なものであり、「私」というもの自体、「他者」と「私」とを含む「私たち(自分たち)」を意識しなければ成り立たないものなのです。

 そして、文化とは集合的なものですから、「私たち」のものとして意識される必要がありますし、「私たち」を意識するためには「私たちとは違う誰か」を発見する、あるいは作り出す必要があります。

◼︎排除の産物としての文化

 ここまで書いていて、とても嫌なことに思い至りました。それは、見出しにも書いたように、文化とはすなわち排除の産物であるということです3)

 突きつめて考えると自他を厳密に切り分けることはできないのだとしても、誰しもが自分は自分だと思っているという意味で自分と他者とは別物であり、誰にとっても認識の主体としての自己は絶対的なものであることも確かなのです。しかし、絶対的なものである自己にわざわざ他者を含め、「自分たち」などという不確かなまとまりを作る操作をするのはなぜなのでしょうか。

 それは「自分たち」に含めたくない「誰か」がいるからです。もともと一人ひとり異なる人間なのだから、お互いの違いを認め合って生きていればいいようなものです。しかし、実際には一人ひとりには能力の差があったり、持てる者と持たざる者との間に格差が生じることもあるでしょう。それでも、ともに生きる仲間と思って、助け合えればいいのかもしれません。

 さて今、さも当たり前のように「ともに生きる仲間」などと言いました。これはすでに「自分たち」と言えるような集合なのではないでしょうか。もちろん、そうだと思います。しかし、これが「自分たち」として意識されるのは、やはりそこに、可能性としてではあれ、排除が内包されているがゆえなのだと思います。

 「ともに生きる仲間」などという意識が芽生えるためには、「ともに生きる」ことから脱落しそうになる者がいるからです。脱落しそうになるところを、脱落させないような配慮がなされるがゆえに、私たちは「ともに生きる仲間」なのでしょう。しかし、そもそも私たちは助け合って生きていかなければならないのでしょうか。

 もちろん、私たちは助け合って生きていかねばなりません。誰に強いられるでもなく、誰かを助けようとするのが人間なのだと素朴に言ってもいいでしょう。あるいは、私たちは「ある程度、自活できるようになるまで育ててくれる他者がいなければ、その時まで生きていること自体ができない」ような存在であることを思い出してみるのもいいでしょう。

 しかし、このことは、私たちが常に、いかなる場合も他者を助けなければならないことを意味しません。相手を助けない理由は「気に食わないから」でも十分だし、自分と利害関係にあるのなら、むしろ助けない方がいいでしょう。

 「自分たち」が意識されないところにも助け合いは存在します。しかし、その助け合いには、どこかでほころびが生じます。そのほころびを縫い合わせようとするときに、「ともに生きる仲間」というまとまりが意識されます。ほころびとは脱落しそうになる者が出ることで、縫い合わせようとするのは、それを望ましくないと認識するからです。つまり、これは「助け合うべき」という規範であり、「自分たち」という仲間意識は規範をともなって成立するものなのです。

 仲間意識とは包摂の規範だと言ってもいいでしょう。しかし、包摂が意識される時には、可能性としてであれ、排除という選択肢が用意されることになります。

◼︎二通りの他者

 「自分たち(私たち)」という意識が、包摂の規範とともに成立し、それは排除という選択肢をともなうものなのだとして、「文化とは排除の産物である」と言うには、まだ飛躍がある気がします。

 「私」を意識するには「他者」が必要だし、「私たち」を意識するところには二通りの「他者」が存在します。それは「私」とともに「私たち」に含まれる「他者」であり、「私たち」に含まれない「他者」です。

 「ともに生きる仲間」である「私たち」が形成される時には、「私たち」から脱落しそうになる「誰か」の存在が問題となっています。その「誰か」を取りこぼすまいとする意志が「私たち」という認識に込められています。しかし、「誰か」を取りこぼさないことが課題になるということは、現実には取りこぼされることがありうるということだし、何らかの利害がからめば、むしろ取りこぼす方向へ傾くこともありえます。

 「こいつとは気が合わない」「こいつは自分たちとは違う」と複数の人たちが思った時に、その違いを強調するために「私たち」というまとまりが意識され、その「誰か」は「私たち」とは違うものとして扱われます。「私たち」には「私たち」のやり方や考え方があるのに「あいつ」は、それに合わせようとしない、その意味を分かっていないのです。そこに「私たちのやり方、考え方」という共通のパターンが想定され、そのようなパターンが「文化」と呼ばれるようになります。

 あるいは、そうやって「私たちの文化」を作り出すのではなく、「他者(たち)の文化」を作り出すこともあります。「あいつらとは文化が違う」と言った時に、「あいつら」と名指された「誰か」は、「自分たち」という意識を持っていないかもしれません。しかし、「あいつら」扱いされ、差異を強調されることで、その人は「別の文化」を持つ人びとの一員であることにされてしまいます。

 そこに「別の文化」とされるような共通のパターンが存在するかどうかは、あまり重要ではありません。それは、「あいつら」扱いする側にとって「私たちとは違う」と感じられるようなものであれば何でも構わないからです。

 これには逆のベクトルも考えられます。「私たちの文化」というためには、ある程度「私たち」に共通のパターンであると同時に、それが「誰か」には当てはまらないものである必要があります。

 もっとも、そういうものは、実際にはなかなかありえないはずです。何事にも例外はあるでしょうし、「私たち」の中にも独特の考え方をする人がいれば、「変わったやつ」として、とりあえずやり過ごしておく必要があります。そうでなければ、「私たち」の根拠が揺らいでしまいます。

 「私たち」の根拠も「あいつら」の根拠も、突きつめていけば曖昧なところが出てきてしまいます。それは、自他を厳密に切り分けられないということにも関わっているし、「他者」を二通りに使い分けているところに、そもそも無理があるからです。

◼︎とらえようとする文化のスケール

 それでも、「あの人たちと私たちは文化が違う」と、はっきりと意識される場合はあるはずです。東洋文化と西洋文化の違いは、漠然としたものであっても、その違いははっきり意識されます。もっとも東洋文化と言っても、中国と韓国・朝鮮、日本とでは、やっぱりはっきりと意識される程度には異なっているので、一括りにしようとした時に曖昧さが残ったり、無理が出てくるのは仕方ありません。

 そのような曖昧さがあったとしても、漠然としたままで違いを語ることができるくらい、違いが大きければ、文化を語ることはできます。たとえば、かつての人類学のフィールドがそうであったように、自文化と他文化の違いのスケールが大きければ、曖昧さを視野に入れずとも、漠然としているとも感じさせずに、はっきりと異文化を語ることができたでしょう。もちろん、人類学も今では、そんなふうに素朴に異文化を語ることはできなくなっているにしても、これはとらえようとする文化のスケールの問題です。

 一方、社会学は「自分たち(私たち)」の社会のメカニズムの解明を課題としています。「私たち」の社会に共通のパターンに注目し、「私たち」の社会が抱える問題の解決に寄与することが、社会学の使命なのだと言っても良いでしょう。

 しかし、「私たち(自分たち)」の根拠は、突きつめていけば曖昧になるし、二通りにある「他者」をどのように振り分けていくかで、がんじがらめになってしまいかねません。これもまた、とらえようとする文化のスケールの問題だと言って良いでしょう。

◼︎対象との距離の取り方

 このような問題に巻き込まれないために、多くの場合、何らかの手段によって対象との距離が取られます。例えば、自他の境界など意識されないスケールで分析枠組みを作ってデータを収集し、抽象的に処理するということもあります。また、突きつめて考えると実態とのずれがあるのだとしても、自他の境界の曖昧さを排した区分を便宜的に設けて、その範囲内での「異文化」として扱ってしまうこともできます。

 研究には客観的な視点が必要だと言われます。客観的とは、主観的ではないということです。客観的な視点とは、誰が確かめても同じ結論を導き出せるような根拠を示して説明しようする姿勢だと言えば良いでしょう。自分の中だけで納得して済ませているのは客観的とは言えません。

 このコンテンツのテーマとしているフィールドワークは、参与観察を大前提としたものです。今でこそ、参与観察も研究の手法としてだいぶ市民権を得てきた感がありますが、私がフィールドワークをはじめた頃は、参与観察だけで論文を書くことは、あまり現実的ではないと思われていたと思います。フィールドワークをするとしても、ライフ・ヒストリー法(インタビュー調査)をメインとして、参与観察はフィールドについての基礎知識を得るための、予備調査的な位置付けにされていて、決して主役を張るものではありませんでした。

 その原因の一つとして、対象との距離の取りにくさがあったのだと思います。インタビュー調査であれば、語り手と聞き手を切り分ければ、相手の語ったことを分析者の主観から切り離された事実として、すんなり理解できてしまいます。一方、参与観察をしている際の普通の会話だけでは、十分な解釈が可能になる語りのデータになりません。

 その代わり、参与観察はそうした会話がなされる状況そのものをデータにすることができます。その場に居合わせた人たちの間で、誰が誰にどのような働きかけをしたか、あるいはしなかったかといった、言葉にならないことの意味もとらえていくことができます。

 しかし、そのような分析をする根拠となるデータは、フィールドワーカー自身が書き起こす必要があります。何に注目して、どこまで書き起こすかは、フィールドワーカー自身の判断によって変わってくるし、とても重要なことが行われていても気付けないかもしれません。そして、そのようにして書き起こされたデータは「調査者の主観に過ぎない」と、低く見られがちです。

 もっとも、インタビューにしても、質問項目を十分に吟味していなかったり、ぼんやりして聞き流してしまうといったことは起こりうるでしょう。とはいえ、会話を録音しておけば後で振り返ることが可能だし、あとで追加でインタビューすることもできます。

 実際には、インタビューの場における聞き手の立ち位置を問題とする議論もあります。しかし、これは「あえて」そういう議論に立ち入っているものだし、インタビューという調査法においては、副次的な視点にならざるを得ないでしょう。

 いずれにせよ、参与観察は対象との距離が近すぎるし、データの性質上、自他の切り分けができないと思われているのです。

◼︎客観性とは何か

 では、参与観察は客観的な方法にはなりえないのでしょうか。ここには「客観性」についての素朴な思い込みがあるのだと思います。

 そもそも計量的な調査に対して、質的調査法は客観性が低いなどと言われます。また、そもそも社会科学は自然科学に対して客観性が低いと言われることもあります。その理由として、自然科学と違って、社会科学では、実験室のような環境を作って観察をすることができないし、実験結果を再現できないといったことが挙げられます4)

 確かに、そういう意味では客観性は「低い」のだと思います。しかし、客観性が「低い」ことは、「客観性がない」ことを意味するわけではありません。観察の視点にはいくらでも抜け落ちていることはあるでしょうし、新たな発見があれば、それ以前の実験結果はすべて再検証が必要となる場合もあるわけですから、完全に客観的な方法というのはありえません。つまり、客観性というのは、高められるところまで高めることが求められるものであり、そうして高められたうえで客観性が「低い」からといって、それはその研究の価値が低いことを意味しません。

 その上で、参与観察法が低く見られるのだとすれば、それは客観性を高めるための手続きが不十分であるためでしょう。そして、その手続きは参与観察であるがゆえに要求されるものです。

 インタビュー調査法においても、聞き手の立ち位置を問題とする議論があることに触れました。そして、これはあえて問題としなくても済んでしまうことでもありました。インタビュー調査法では、発話主体によって自他の切り分けが便宜的にできてしまうからです。

 これに対し、参与観察の場合、データそのものがフィールドワーカーの手によるものであり、便宜的な切り分けができないために、客観性の怪しい調査法だと思われています。しかし、客観性とは、高められるところまで高めることが求められるものでした。客観性に疑義を差し挟まれるのは、その努力が不足していると感じられているということです。

◼︎フィールドワーカーに求められるもの

 では、参与観察に不足している努力とは何でしょうか。それは、観察者であるフィールドワーカー自身の位置付けです。

 参与観察では、調査をしているのも自分、データを書き起こしているのも自分なので、観察者である自分がどういう人間であるのかをはっきりさせておく必要があります。どういうつもりで自分はその調査をしているのか、どんな態度でフィールドの人びとと接しているのかを、読者に対して示さなければなりません。

 読者は、調査者であるフィールドワーカーの視点に自分を重ね合わせて、データを読み解いていかなければならないので、そのためにはフィールドワーカーがどのような人間であるのか、理解しておく必要があります。

 参与観察で得られたデータを客観性を持ったものとして提示するためには、このような手続きが必要となります。フィールドワーカーにはそのための自己分析が求められます。また、フィールドに向き合う自分の姿勢を統制する必要もあります。フィールドにおいて自分がやるべきこと、やってはいけないことに自覚的でなければならないし、禁欲的である必要があります。

 もっとも、これが完璧にできることはないでしょう。それでも、こういった操作を自分自身に対して仕掛けておく必要があるし、たとえ前面に出すことはないとしても、記述に際しては、どこに一貫性が確保できているのかを意識しておく必要があります。

◼︎自己と他者の境界

 フィールドワーカーは、厳密には切り分けることのできない自己と他者の境界を意識しなければなりません。そんな境界を普遍的、恒常的なものとして設けることはできません。どこまでいってもそれは便宜的なものです。しかし、その便宜的なものを作り出せるか否かが、フィールドワークの成否の分かれ目であり、フィールドワークのすべてでもあります。

 フィールドワーカーは自己と他者の境界を意識しなければならないし、それはフィールドワークを通して知り得たことを誰かに伝えるためです。

 その「誰か」が、他者であることはまちがいありません。しかし、その伝えるべき「他者」とは誰なのでしょうか。素朴に考えれば、報告を受ける人たちとは、もともとフィールドワーカーが生きている世界、フィールドへと旅立ち、フィールドから帰還する世界に生きる人たちです。

 しかし、そのような「私たち」のことを、私たちは実はよく分かっていません。「私たち」の中にも「他者」がいて、フィールドにおいても「他者」がいます。フィールドワーカーは文化を意識しながら、自己と他者の境界を探り続ける存在であり、その先にフィールドワークの目指すものがあることになります。

 伝えようとするからフィールドワークがあります。しかし、なぜ伝えなければならないのでしょうか。言ってみれば、フィールドワーカーとは「世界を見ようとする意志」なのだと思います。このような意志はなぜ生まれてくるのでしょうか。どこから、何のために生まれてくるのでしょう。

 できることなら、その答えも探してみたいと思います。(2023年2月19日(日)更新)

第2回 『ストリート・コーナー・ソサエティ』を読む

 

■別に読まなくていい今回の独り言

1)な、なんか、何も考えずに書きはじめたのに、結構、本質的な話になってきたな。恐ろしい。

2)私の「経験」か。「経験」は私がするものだったな。

3)面白いけど、こういうことを思いつきで書き連ねていいのかな。よく言えば直観的に。でも、結局、それがもう一つの科学のあり方にほかならないのだろうけど。

4)これはもう内容のつめこみ具合では授業1回分の分量を越えているな。