フィールドワーク論
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第2回 『ストリート・コーナー・ソサエティ』を読む ◼︎参与観察を用いた社会学的研究 今回から数回に分けて、参与観察をベースとしたフィールドワークの成果をまとめた書籍を見ていきたいと思います。今回取り上げるのはウィリアム・F・ホワイトによる『ストリート・コーナー・ソサエティ』です。 フィールドワークによって行われた研究の成果がまとめられたものをエスノグラフィーという事があります。日本語で「民族誌」というように、ある民族——対象となる人びとの社会の全体像をとらえようとしたものを、特にエスノグラフィーと呼ぶのだと考えればよいでしょう。 社会学で参与観察をベースにしたエスノグラフィーと言えば、この本を外すわけにはいきません。私も、フィールドワークをはじめたばかりの頃に、フィールドワークの入門書を読んでいて、この本を知ったことを覚えています。 当時、社会学のゼミから人類学のゼミに移って、とにかく参与観察をして卒業論文を書くことだけは決めていた私でしたが、しかし、実際にどのようにデータを集めて、どのようにして論文を書けばいいのか、まったく分かりませんでした。そこで、実際に参与観察を用いて書かれた民族誌(エスノグラフィー)を読んでみたのでしょう。 人類学のゼミに移ったものの、正直なところ、人類学をやろうという気持ちはなかったと思います。ゆえに、参考にしようとしたエスノグラフィーも、人類学ではなく、社会学にくくられるものでした。 とは言っても、実はホワイトがこの調査をはじめる前に大学で専攻していたのは経済学だったようですし、方法論として意識していたのは社会人類学だったと述べています。その後、この本の元となった論文をもとに、シカゴ大学で社会学の博士号を取得したようですが、別に社会学の枠組みを意識してまとめたわけでもなさそうです。 幸いなことに、私がフィールドワークに携わっていた期間、スラム地区に関しての社会学的な文献について精通していなかった。だから私は社会人類学者として自分自身で考え、研究をスタートさせた。シカゴにおける2年間、私は社会学的文献にどっぷりとつかっていた。そしてそれらのほとんどが価値のない、誤解を与えるものだと確信した。私にとってそれは仕事の価値を減ずるもののように思われた。つまり、私は私のストーリーに入る前に、そういったつまらないものを一掃することを求められているかのようだった。[Whyte 1993=2000: 351] この文章は、原書の第三版以降に増補として採録されるようになった付録部分に書かれたものです。当時、新訳が出たばかりで、大学の図書館には旧訳しかなく、学部学生の時にはこの部分は読んでいなかったのかもしれません。 ◼︎読みにくい本 正直に言うと、私はこの本があまり好きではありませんでした。社会学的フィールドワークの古典にして名著という評価を見るにつけ、「そんなにいいもんか?」と思っていました。それにはいろんな理由があります。今回、新訳で読み直していて、当時の気持ちを思い出しました。 実は、学部学生の時に旧訳で読んだだけでなく、大学院の時にも新訳を一度は手に取っているはずです。うちに本があるし、付録の最初のページに付箋が挟んでありました。しかし、おそらく、ちゃんと読んでいません。 この本が好きでない理由として、まず、本文が二段組なうえに分厚く、文章も退屈で読むのが苦痛であるということがあります。 また、単に本が分厚くて文章が退屈だというだけでなく、本の構成上の読みにくさもあると思います。昔は、自分自身に論文を書く技術が備わっておらず、修行中の身でもあったので、自分の頭が悪いのだと思っていました。しかし、今になって読むと、この本ははっきり言って読みにくいです。 読みにくさの原因は、今の私の判断基準で想定されるような研究の前提となる情報が十分に提示されていないところにあります。ふつう、研究成果をまとめる際には、論文や著書のはじめに研究の目的をはっきり書いておく必要があります。研究の目的がはっきりしていないと、読者はその論稿をどのように理解していったら良いのか、分からないからです1)。 ◼︎本書の概要 この本は、コーナーヴィルと呼ばれるアメリカの都市のイタリア系移民の街の実態を明らかにした本です。ホワイトは4年近い年月、この街で住み込みの調査をしています。改まった形のインタビューはほとんどせず、この街の人びとと生活をともにして、まさに参与観察を通して得られたデータをもとにして、まとめられています。 ホワイトの基本的な視点は、人びとの相互行為的な状況の観察を通して、そこにある規範や秩序を明らかにしていくものです。相互行為的な状況の観察をする際に、いくつかの集団が取り上げられます。大きくは、10代、20代の若者たちを中心とする世界と、ヤクザや警察、政治家たちの世界とが対比され、二つの世界をすり合わせながら、コーナーヴィルという社会の構造、組織化の秩序やメカニズムが明らかにされます。 ホワイトは、いくつかの小集団のリーダーとの関係を作ることを入口にして、その集団の日常に入り込み、それぞれの世界について理解していきます。なかでも「ノートン団」という若者の仲間集団のリーダーであるドックは、ホワイトがこのフィールドワークを進めていく上で、大きな役割をはたしています。ドックの手引きは、単にコーナーヴィルに溶け込む手段ではなく、あるべき参与観察調査のスタイルを身につけることにもつながっていきました。 ◼︎ホワイトがしたかったこと 本書の目的は、大きく言えば「コーナーヴィルと呼ばれるアメリカの都市のイタリア系移民の街の実態を明らかにする」ことですが、これは「本当の目的」を果たすために導き出される背景として、副次的に明らかになる事柄だと言った方がいいと思います。 ホワイトが関心の中核としている、本書の本当の目的は、コーナーヴィルの底辺に生まれた人たちの上昇移動を阻む要因を、社会組織の維持・形成のメカニズムの解明を通して明らかにするところにあります。 当時のイタリア系移民は、アメリカ社会の中でのマイノリティであり、「厄介者」として差別されている存在です。コーナーヴィルは「スラム街」であり、秩序の乱れた「解体地域」だと思われています。ホワイトにとって、コーナーヴィルの実態を明らかにすること自体が、この偏見に対抗する社会変革につながるとの期待がありました。 「君は、このことについて何かを書きたいのか」。 これは、ホワイトとドックが初めて会った時の出来事として、ホワイトが後に付録に書き加えた場面です。 ホワイトが明らかにしたのは、コーナーヴィルの若者たちがどのように日々を生きており、仲間とのつながりが支えとなると同時に、現状の改善を妨げてしまう構造とメカニズムでした。 ◼︎大きな分析の枠組み ホワイトは、コーナーヴィルの若者たちを二つのタイプに分けて記述しています。一つは、すでに紹介したように、ドックをリーダーとする「ノートン団」に代表される「コーナー・ボーイズ」です。 もう一つは「カレッジ・ボーイズ」で、事例としては、チック・モレリが組織した「イタリア・コミュニティ・クラブ」が取り上げられます。「イタリア・コミュニティ・クラブ」の会長を務めるチックは、苦学の末にアイビー大学のロースクールに進学したという人物です。 「カレッジ・ボーイズ」という呼び名からうかがえるように、両者は大学教育ないし専門教育を受けた、ある意味「エリート」であるのに対し、「コーナー・ボーイズ」は低学歴の「ノンエリート」として対照的です。 それぞれの代表を「ノートン団」とドック、「イタリア・コミュニティ・クラブ」とチックと対比する構成は、コーナーヴィル出身の若者たちが、上昇移動をはたせるか否かを決定する要因を探るケーススタディとなっています。 ドックはチックの誘いで「イタリア・コミュニティ・クラブ」の活動にも加わっており、両者には交流があります。お互いに活動を同じくする場面を持つ者の間で明暗が分かれるのはなぜなのかを、両者が帰属意識を持つ社会組織の構造と合わせて解明していきます。 第1部はこうした若者たちの世界を解明するケーススタディです。続く第2部は、若者たちが出世するためにはいずれ関わっていかなければならない、大人の世界を扱っています。 第2部でも、主導的な役割をはたす人物に注目しながら、彼らが関係する社会組織を明らかにするケーススタディと言う手法は変わりません。具体的には、ヤクザの世界と政治の世界が取り上げられています。 第3部は第1部と第2部を総合した結論部分になっています。 社会組織は、一人ひとりの生活を支えてくれるものであり、なくてはならないものであると同時に、一人ひとりの行動に制限を加えるものでもあります。何をするにも社会組織の助けを借りなければいけないし、その際に、そういった行動制限との折り合いをつけていく必要があります。 ホワイトは、二つの異なる社会組織に帰属する若者たちを取り上げました。二つの社会組織は、相互の交流や人の行き来はあるものの、それぞれの組織を構成する成員のタイプは異なるし、その組織から受けられる恩恵や、そこで期待されるふるまい方なども異なります。 若者たちが入っていかなければいけない大人の世界も、同じようにそれぞれの構成要件があり、ルールがあります。若者たちは、上昇移動をはたすために、大人たちの社会組織には受け入れられ、適応していく必要があります。 若者たちの世界の実態、大人たちの世界の実態を、それぞれケーススタディを通して明らかにし、若者たちが上昇移動をするにはどうしなければならないか、なぜそれが出来ないのかが、二つの世界の対比から見えてきます。 ◼︎誰が上昇移動をはたすのか 結論から言えば、上昇移動をはたすのは「カレッジ・ボーイズ」であり、ドックではなく、チックということになります。そこで大きな役割をはたすのは、結局は学歴ということになるのですが、学歴を志向するような行動パターンは、子ども時分の割と早い時期には身につけられるものです。 そういった行動パターンは、それぞれの社会組織のあり方と地続きに発展していくものであり、それぞれの組織は異なった規範を持っています。その一つの例として、お金の使い方が象徴的なものとして説明されます。 カレッジ・ボーイズは金を貯蓄したり投資することに使うが、コーナー・ボーイズはお金を惜しまずに使うという行動パターンをとる。カレッジ・ボーイは、教育費を工面したり実業界に乗り出すために、金をたくわえなければならない。したがって、カレッジ・ボーイは中流階級の持つ倹約の美徳を陶冶することになる。それに対してコーナー・ボーイは、集団活動に参加するために、自分の金を仲間たちと共有しなければならない。もし彼に金があり友人にはないとしたら、二人分の金を出すのが当然のこととされる。[前掲: 121] これは両者の仲間意識に反映されます。 カレッジ・ボーイもコーナー・ボーイも出世を望んでいる。彼らのちがいがどこにあるかというと、カレッジ・ボーイの方は、親しい友人たちの集団に自分自身を縛りつけたりしないか、自分ほど早く出世しない人たちとの友情をいとも簡単に犠牲にしてしまう。それに対して、コーナー・ボーイの方は、そこから意図的に離れようとしないか、もしくは離れることのできない互恵的な義理関係によって、彼の所属する集団しっかりと縛りつけられている点である。[前掲: 122] ドックの知性や才能は、決してチックに劣るものではありませんでした。また、ドックにも社会的地位を上昇させるチャンスが舞い込んだことがありました。しかし、その時のドックは、彼自身の懐事情から、仲間の協力を得ようにも仲間に対して気前よくふるまうことができない状況にあり、そのチャンスを活かすよう行動できませんでした。 ドックは自分の帰属する社会組織における地位を築いていたし、ドックはその社会組織の顔役としてふさわしい人物として尊敬されていました。顔役となる人物はその社会組織のステータスとも直結する重要な存在であり、それはドック自身が持つ力でもあったでしょう。 社会組織は、一人ひとりの生活を支えてくれるものであり、なくてはならないものであると同時に、一人ひとりの行動に制限を加えるものでもあるとは、そういうことです。 ◼︎社会組織と社会構造 ここでは、若者たち、大人たちと書きましたが、ホワイトの本の中では「小物たち」「大物たち」と書き分けられています。 コーナーヴィルの人びとに言わせれば、社会は大物(big people)と小物(little people)で成り立っている……そのあいだのギャップを仲介者(intermediaries)が橋を架けて支えているということなのだ。コーナーヴィルにいる大多数は小物だ。彼らは大物に直接接触することはできないが、彼らのために仲立ちする人が必ずいる。彼らはこの媒介を得るために、仲介者の人びととのつながりを確立する。彼のためにサービスを提供し、そのために彼は義務を負うのだ。仲介者は大物に対しても同じ機能を果たす。大物と仲介者と小物とのあいだの相互作用は、相互の義務のシステムを基礎とした個人的関係のヒエラルヒーを形成している。[前掲: 279] 仲介者となるのは、ドックのような、それぞれの社会組織のリーダーたちであり、彼らは仲介にあたる際、自分たちの仲間の利害を代弁する役回りです。このように、社会組織の中にも上下関係があり、社会組織間にも上下関係があり、人びとはその力に守られつつも縛られることになります。 このように、社会組織の縛りを受け入れつつ、自分なりの生き方を実現していかなければならない難しさがあることに加えて、やはり望むと望まざるとにかかわらず、否応なく影響を及ぼしてくる社会構造からの縛りというものもあります。 イタリア系移民の人たちは、アメリカ社会の中で差別的な扱いを受けています。イタリア系移民社会は無秩序なコミュニティととらえられています。個人の努力による成功に価値を置くアメリカ社会において、イタリア系移民社会は、その努力に欠ける人びとと見なされており、そこから抜け出す意欲の有無を一方的に査定されます。 コーナーヴィルの人びとが出世するためには、ビジネスや政治、あるいはヤクザの世界に入っていかなければなりません。出世のあり方は、コーナーヴィルの外の大きな社会で成功者として認められるか、コーナーヴィルの中で認められるかの二つに分かれます。しかし、同じ成功でも、社会構想を視野に入れてみると、その意味は大きく異なります。 実際、一般の社会はコーナーヴィルへの忠誠をなくすことに報奨を与えるし、逆にコーナーヴィルにもっとも適応している者に罰則を課すのだ。同時に社会は、金銭や物質的な所有物といった魅力的な報奨を“成功者”に差し出すのだ。コーナーヴィルのほとんどの人びとにとってこれらの報酬は、ヤクザか政治の世界での出世を通してのみ入手可能なものだ。[前掲: 281] 成功するためには身近な社会組織の力を借りる必要があるにもかかわらず、アメリカという全体社会で成功者として認められることは、自分が帰属していた社会組織への裏切りを意味し、コーナーヴィルの中で認められることは、全体社会からは相変わらず低くみられるというジレンマに陥ることになるのです。 このように、ホワイトの『ストリート・コーナー・ソサエティ』は、コーナーヴィルの人びとが生きる社会について、社会組織の実態を通して明らかにするばかりでなく、イタリア移民社会とアメリカ社会の構造の接点で起こるジレンマをも明らかにした、一級のエスノグラフィーであると言えるでしょう。 ◼︎何の参考にもならない その1——無駄な記述が多過ぎる さて、このようにまとめてみると、なるほど『ストリート・コーナー・ソサエティ』は、社会学で参与観察をベースにしたエスノグラフィーを書きたいという人間にとっては、大変有益な先行研究だと言えそうだし、実際そうなのだろうなと思います。 しかし、こうしてまとめてみても、これを古典としてもてはやされても困るし、何をどう参考にしたらいいのか、さっぱり分からないというかつての自分の受け止め方も、理由のないことではないなと思いました。 大きな原因は、すでに述べたように、研究の目的がはっきりしておらず、そのために、論稿の構成が分かりにくいところにおります。 今回、私が「本書の概要」から「社会組織と社会構造」までにまとめたことを踏まえて理解すると、この本はぐっと読みやすくなると思います。このような整理を念頭に読み解けば、この本の価値はさらに深く理解できるかもしれません。 しかし、逆に言えば、この本は、そのままで読むには無駄な記述が多く、そのくせ必要な情報には欠けるというのが実際のところだと思います。 「無駄な記述」の部分が、読む人によっては「生き生きとしたエピソード」だとか、「現場のリアリティ」とも取れるかもしれませんが、そういうことを書き込めばいいというものではありません。 「現場のリアリティを伝えるのが、エスノグラフィーの魅力の一つだ」という立場もあるかもしれませんが、現場のリアリティが詰め込まれていればエスノグラフィーになるわけではありません。 ホワイトは改まった形でのインタビューはほとんどしていないと言っていますが、本文を読んでいると、ものすごい長さの語りが、頻繁に挿入されています。 別に長い語りがあっても構わないのですが、これらのエピソードはいちいち語りを直接参照するような形で提示しなければならないようなものなのかと、いささか疑問に思えます。 こういう「語り」がくどくどと長々しいものに感じられるのは、その位置付けがよく分からないからです 参与観察をベースとしたエスノグラフィーを志向する初学者が、そのノウハウを学ぼうとして読んだ場合、データの位置付けがよく分からない論稿というのは、ノウハウがはっきりしない、何の参考にもならない、読みにくい本でしかありません。 本の章立ても、はたしてこれでいいのかという疑問があります。私が整理したような目的の本だと考えると、この本はこのような章立てがふさわしいように思えます。 しかし、すでに述べたように「無駄な記述」が多く、話があちこち脱線するので、この章立てだと、説明不足や情報過多による、ちぐはぐな構成になってしまいます。結論部分になって、新たなデータが追加されるのは、構成が十分に練られていない証拠でしょう。 大まかな構成として、上昇移動で明暗の分かれる二つの若者集団、「大物」と「小物」の対比を意識する必要はあるでしょうが、全体社会からの働きかけであるセツルメント・ハウスについては、これらの記述とは切り分けて、別の章を設けた方が、混乱を避けつつ、論点を絞った展開ができるはずです。 ◼︎何の参考にもならない その2——必要な情報が盛り込まれていない 目的に即した枠組みの整理が不十分であることに起因するのでしょうが、説明しておかないといけない基本的な情報が圧倒的に不足しています。 たとえば、コーナーヴィルというのが、どれくらいの広さで、どれくらいの人口規模なのかといったことすら説明されていないので、全体像がイメージしづらくなっています。 また、アメリカ社会におけるイタリア系移民が置かれた状況についても、もう少しくわしい整理が最初に欲しいところです。第3部の結論部分では、こうした社会構造とからめた考察も重要な論点となる以上、おろそかにしてはいけないはずです。 さらに言えば、セツルメント・ハウスも含めた社会改良事業についての説明も、最初にあって然るべきだと思います。これもコーナーヴィル内部と外部の関係性を考察する際の手掛かりとなる部分なので、ここが不明瞭だと論証の切れが悪くなります。 もっとも、これらのことは当時の読者にすれば自明のことであったり、プライバシーに配慮してぼやかさざるをえなかったのかもしれません。 つまり、研究成果のまとめ方として、あまり手本にならないということなのですが、それとは別のこととして、これから調査・研究をしようという人間の参考にならないという意味では、調査の概要が説明されていないこと、ひいては調査者がどのような関わりを通して、これらのデータを得たのかが説明されていないことに、肩透かしをくらわされます。 ◼︎フィールドワーカーはどこにいるのか 最後に指摘した点については、ホワイト自身も後に自覚するようになったのだと思います。というのは、新訳版の付録(アペンディクスA)では、自分がなぜコーナーヴィルに興味を持ったのか、どのようにして調査を始めたのか、どのようにして調査を軌道に乗せることができたのか、どのような関わり方をしたのかといったことが、詳細に書き加えられているからです。 ホワイトは付録の冒頭で次のように書いています。 現在では、コミュニティや組織体に関するすぐれた印刷物がかなりあるが、しかし一般的に言ってこれらの印刷物は、調査がとり行われた実際のプロセスについて注意を向けることがほとんどない。調査の方法について、わずかな例外を除いて、それは論理観念的な基礎の議論に、集中している。[前掲: 286] 後学者のために、自分自身の調査概要、調査経験について語ることが有益であろうと判断したのでしょう。 書き出しは「個人的な背景」と題して、自分の出身階層のことや、小説執筆や社会改良に関心を抱いていたことなどに触れられています。これらの関心がコーナーヴィルでの調査につながっていったというわけです。 この付録には、すでに触れたように、ドックとの出会いの場面のほか、本編ともかかわるエピソードがふんだんに盛り込まれています。この付録自体がとても興味深いものだし、この付録を踏まえて読めば、この本から新たな発見が得られることでしょう。 しかし、それなら、これらの情報は本編に組み込まれるべきだったと思います。 ホワイトは、調査法を理解する参考になるだろうとの意図で、この付録を書いたようですが、分析の信頼性を高めるためには、調査概要の説明はあって然るべきだし、調査者がどのような関心を持って、どのような関わり方をしたのかは、場合によっては、データを解釈するために必要な情報です。 これは第1回で論じたことに関わる部分です。ホワイトは参与観察というアプローチならではのデータの特性をはっきり意識しているはずです。 座って、聞きながら、単にインタビュー・ベースだけで情報を得るなら思いつきもしない質問に対する回答を学んだ。私はもちろん質問をまったく放棄したわけではなかった。私が実際に学んだことは、質問が微妙でないかどうか、人びとと私の関係がどうかを判断することであった。[前掲: 307] 最初、私はコーナーヴィルに融合することに集中した。しかし、しばらくすると、私はどの程度地域の生活に浸ってよいかの問題に直面しなければならなかった。[前掲] フィールドワーカーがどのようなデータを得られるかは、フィールドワーカーがインフォーマントとどのような関係を持ち得たかによって変わります。また、安定した関係を持続するためには、自分自身のスタンスを示さねばならない場合もあります。つまり、主観的にどう考えていたかを示すことは、データの客観性を高めるために必要なことなのです。 また、ここでのフィールドワーカーの主観とは、決して恣意的なものではありません。自分がなぜそのようなことを言ったのか、なぜそのような態度をとるのかについて、フィールドワーカーは常に自問し、一貫性を持たせなければなりません。 私がまた学ばねばならなかったのは、フィールド・ワーカーはフィールドでの他者と、ともに生活することを学ぶだけで事足れりとしてはならないということである。フィールド・ワーカーは彼自身の生活を持続しなければならない。もし参与観察者自身が道徳に反すると考えられる行動に携わっていると気づいたならば、自分が結局のところどういう種類の人間であるか、考え始めようとするだろう。フィールド・ワーカーが道理にかなう持続した自画像をもちえないならば、おそらく困難な状態に陥ってしまうだろう。[前掲: 317-318] 第1回で述べたように、フィールドワーカーは自己と他者の境界を意識しなければ、伝えるということに向かえないし、それは何を伝えるのか、なぜ伝えるのか、誰に伝えるのかを問い、見定める過程でもあります。 ホワイトが書いた付録を読んで私は、やはり参与観察とはそういうものなのだと、深く感銘を受けると同時に、やはり『ストリート・コーナー・ソサエティ』は何の参考にもならないという思いを抱きました。 時代的な制約もあるし、先駆者であるホワイトに対して無い物ねだりであることは承知の上で言えば、こういうことを本編に組み込まず、「いい話」にしてしまっていること自体が、言いわけがましく感じられてしまいます。 結局、参与観察というのは「曖昧な部分を裏話として付け足さねばならない二級品なのだ」と自ら認めているようで、あまりいい気はしません。こんなところにとどまっていてはいけないのです2)。(2023年2月25日(土)更新) 参考文献 Whyte, W. F., 1993, Street Corner Society, 4th edition, The University of Chicago Press, Illinois, U.S.A. (奥田道大・有里典三訳、2000『ストリート・コーナー・ソサエティ』有斐閣) ■別に読まなくていい今回の独り言 1)悪口書くとか、画期的やな。ありえない。 2)このコンテンツ結構書くの大変だな。書評しつつ、フィールドワークの手法について批判的に検討して、内省もしなければならない。僕は何をこんな頑ななことを言っているのだろう。 |
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