フィールドワーク論

第4回 『大衆演劇への旅』を読む

■あらためて『大衆演劇への旅』を読む

 参与観察をベースとして書かれたフィールドワークの成果を見ていく第3回目は、鵜飼正樹さんの『大衆演劇への旅——南條まさきの1年2ヶ月』です。

 前回の『残響のハーレム』についてまとめていて、単に一人称で書かれているということを扱うだけなら、大衆演劇への旅』は取り上げなくてもいいかなと思いかけていたのですが、最後まで書き上げてみると、やっぱりちゃんとやっておこうと思い直しました。

 一人称で書かれていると言っても、両書は全然違う構成で書かれているし、『残響のハーレム』は内容がややこしくて、語り切れないことがたくさん残ってしまった気がします。

 また、前回の最後に書いた「エスノグラフィーという言葉への思い入れ」云々についても、『残響のハーレム』からは出版年を20年以上さかのぼるこの本を通して、考えてみたいと思いました。

■大衆演劇の世界へのいざない

 まずは、この本の概要を整理していきたいと思います。

 当時、京都大学大学院の修士過程の学生だった鵜飼さんは、たまたま見かけた新聞記事をきっかけにして、大衆演劇の劇場に足を運んだと言います。日記に入る前に、そうしたプロローグからこの本ははじまります。

 大衆演劇に強い関心があったわけでもなく、実際に当日の舞台を観ても、さほど感銘を受けた様子もありません。

 帰りかけた頃、若い観客がいることに興味を惹かれたのか、劇団の責任者らしい役者から声をかけられ、楽屋に誘われて話をすることになります。

 あれこれお話を聞いて、さあお暇しようかというタイミングで次のような問いかけを受けます。

「ところできみら、こんなこと聞いていったいどうするつもりや」
 ぼくは、そのうち論文にでも書こうと思う、と気軽に答えた。
「論文に書くのはいいけれど、こういう団体生活は、外から見るだけじゃわからないよ。それより、一ヶ月でもいいから、一緒に生活して、同じもん食べて、街風呂へでも一緒に行ったら、団体生活のよさも、また悪さもわかる。役者さんの世界というのは、ほんとうに人情味のあるあたたかい世界。もし私が病気で入院でもしたら、それこそ全国から見舞いに来てくれるような世界よ。それに実際に触れてみて、見たこと、聞いたこと、感じたことを記録にでもつけながら、やってみたらいいと思うよ」[鵜飼 1994: 7-8]

 このような誘いを受け、鵜飼さんはその場で大衆演劇の参与観察調査をすることを決意したようです。

 それから、1982年4月から1983年の6月まで、大衆演劇の役者の一人として舞台に立ち、修行の日々を過ごします。その1年2ヶ月の日々が、日記形式でつづられています。

 日記の上段三分の一ほどのスペースは、本文の註釈や写真資料が入っています。1983年6月19日、劇団を去る日の記録の後は、すぐにあとがきです。本の末尾には、いくつかの図表が付けられています。

 あとがきは、本をまとめるまでの10年の間の後日譚であるとともに、調査経験を反省的に振り返る、事実上のまとめともなっています。

■日記形式の「私エスノグラフィー」

 さて、このような構成になっている鵜飼さんの本ですが、これといった知見が示されているわけではありません。

 また、基本的な情報がまとめられている章もありません。その代わり、註釈の中に、大衆演劇一般にまつわる解説も盛り込まれています。

 とはいえ、前知識がなかったとしても、そもそも大衆演劇についてほとんど知識のない鵜飼さん自身が、その世界に入っていって見たこと、知ったことが、その経験に沿って記述されているので、理解するのに必要な情報は自ずと得られるはずです。

 鵜飼さんは「この本は、ようやく到達したら私なりのエスノグラフィーである」[前掲: 345]と言っています。また、別のところで「自分の経験をまるごと表現した「私エスノグラフィー」」[鵜飼 1996: 36]という言い方もしています。

 日記形式ではありますが、これは文字通りの日記ではありません。意図的に日記という形式が選択され、その形式を活かす形でデータを再構成したものです。

 日記というのは、その日その日の時点で書かれるものです。基本的にはその日あったことをふりかえり、その日の経験をそれ以前の経験と関連させて思ったこと、気づいたことをつづるものです。

 前回「エピソードの中の自己は、未来の出来事を知らない、その時点での自己を仮定して書かれている」と述べたように、その時点の日記における自分は、翌日以降起きることを知りません。

 ゆえに、日記形式の記述を順を追って読めば、日記の書き手の変化をとらえることができます。何をきっかけにして、どのような変化があったかをとらえれば、どんなことにどんな意味があるのかをとらえていくことができます。

 重要なのはこの変化の過程なので、時系列で物事を把握することは、方法論的にも重要なのです。特に、それを個人の経験としてとらえていくことは、ふだん当たり前にやっているけれども、いざ説明しようとすると難しいことを解き明かしていくことでもあります。

 また、文字通りの日記ではないという意味では、これはリアルタイムで書かれたものを、そのまま採録したわけではないことも認識しておく必要があるでしょう。

 この本を読んでいると、大衆演劇の劇団の生活が、ほとんど休みがなく、肉体的にも負荷の強いものだと分かります。そんな生活をしながら、ここまで詳細で長い日記は書けないはずです。

 実際、鵜飼さんはこのように書いています。

それから、1日の舞台が終わり、夜、寝床に入る前には、必ずその日1日の記録をノートにつけた。詳しい記録というより、多くは日誌、心覚え程度のメモだったが、それでも後から充分に再現できるものである。[前掲: 35]
まるごと自分を表現するには、劇団との出会いから最後の舞台まで、時系列に沿った記述が最善だと考えて、調査当時つけていたノートにもとづいた日記体を本文の文体とした。[前掲: 36]1)

 あとがきで鵜飼さんは次のように書いています。

エスノグラフィーでもなければ、ルポルタージュでもない。ただの日記じゃないか、こんなもの。しかも十年以上前の。こう言われてしまえばそれまでである。[鵜飼 1994: 345]

 しかし、そもそもこの本は日記形式の文体、「日記体」を意識的に採用して書かれたもので、「ただの日記」ではないのです。

 フィールドワークに入る前日譚であるプロローグは日記ではありません。また、時系列が入り混じった書き方になっています。

なぜぼくはこんなところにいるのだろう。[前掲: 1]
話はひと月前にさかのぼる。[前掲]
そして今日、ぼくは後輩のN君を誘ってこの寿座までやってきたのである。昭和五十七年二月十三日、「下町の玉三郎」こと梅沢富美男が有名になるまだ少し前のことだった。[前掲: 2]

 劇場を訪れた時点の「現在」から語り出し、その「ひと月前」を振り返り、また「今日」に戻ってくるのですが、その「現在」ではまだ起こっていないことにも言及されていることが分かります。

 このように文章というものは、わりと自由自在に現在と過去、未来を行き来できてしまうものなので、現在の連続体として日記形式で書くことは、意識的になされねばならないことなのです。

■日記だけでは物足りない

 見てきたように、この本は明確な意図や狙いがあって、このような形式でまとめられたものなのですが、研究である以上、これだけでは物足りないという気もしてしまいます。

 実は、鵜飼さんはこの本以前、以後にも、いくつかの論稿をまとめておられます。オーソドックスな研究論文も書いた上で、なお必要性を感じて書かれたのがこの本なのです。

 たとえば、大衆演劇の劇団を社会集団として類型的に整理した論文もあれば、大衆演劇のパフォーマンスのあり方、習得過程を明らかにしたものもあります[鵜飼 1985; 1988; 1995]。

 鵜飼さんはこのフィールドワークを「担い手論、観客論、パフォーマンス論」の三つの視角からまとめていきたいようなことを言ってます[鵜飼 1985]。しかし、このうち、私の知る限りでは、観客論については現在に至るまでまとめられてはいないようです。

 私は鵜飼さんのこの本に大きな影響を受けています。ある時期までの鵜飼さんが書いたものは短いものも含めて、ほとんどすべてに目を通しているはずです。その上で、やはり物足りなさを感じていました。というのも、やはり鵜飼さんの真似をするだけでは、自分なりの研究成果をまとめることはできないからです。

 ここでの「成果」というのは、卒業論文、修士論文、博士論文といった学位論文を念頭においたものです。

 鵜飼さんがまとめたものは、大衆演劇の世界を説明するものではあっても、大衆演劇の世界が私たちの社会にとってどのような意味を持つかを明らかにしたものになっていないのです。

 実際、鵜飼さん自身も、修士論文として提出したのは、この本のようなものではなかったようです。

■社会構造との接点

 今回、このようなデータがあったとして、自分だったらどのような論文を書くだろうかと考えながら読み進めました。

 まずは、自分自身が大衆演劇の劇団にどのように適応していったのか、どのように受け入れられていったのかに注目すると思います。どんなことで褒められ、どんなことで叱られたのか。自分が嬉しかったこと、悔しかったこと、腹が立ったことなどに注目しながら、それが、新参者が受け入れられていく過程でどのような意味を持つのかを分析していきます。

 日記を読んでいると、明らかに理不尽な要求がなされている場面があります。こういった理不尽な要求は、表向きは理屈がつけられていても、実は要求する側の虫の居所が悪かっただけかもしれません。しかし、表向きの理屈自体が無意味なわけではありません。理不尽な要求が理不尽であるのは、同時に満たすことのできない複数の規範を突きつけられているからです。裏返せば、複数の規範をとらえ、またそれが重なって現れる状況を理解するチャンスでもあります。

 鵜飼さんの論稿は、いかに演じるか、それをどうやって身につけていくのかといった、「芸」にまつわることの説明は多いのですが、劇団の人間関係への適応過程については、もっと分析を深める余地があると思います。

 また、劇団の人間関係への適応過程を明らかにすることは、劇団員たちの間で働く規範がどのようなもので、その規範がどのように作り出されているかを明らかにすることでもあります。そして、劇団員たちの間で働く規範を理解するためには、お客さんの存在を意識する必要があります。

 大衆演劇はお客さんに喜んでもらわなければ、商売が成り立ちません。お客さんは劇場に観劇料を払うほかに、「ハナ」と呼ばれる現金をひいきの役者にくれることがあります。これは役者個人の副収入になります。これは役者一人ひとりにとって、芸を磨くモチベーションになるでしょう。師匠が弟子に芸を仕込んだり、評価する際にも、お客さんの反応は意識されるはずです。

 そういう意味では、観客についても論じる必要があります。お客さんは役者に何を期待しており、それに役者はどう応えるのかを見る必要があります。そのような期待を抱くのはなぜなのか、お客さんは普段、どのような生活をしている人たちなのか。役者はお客さんはどのような存在として理解しているのかを明らかにしていく必要があるでしょう。

 言ってみれば、観客というのは大衆演劇というコンテンツと社会との接点であり、観客論が欠けていては、大衆演劇の社会的位置づけを明らかにしていくことができません。

■鵜飼さんがしたかったこと

 しかし、鵜飼さんは、このような「大衆演劇のフィールドワークを通した現代社会論」が書きたかったわけではないと思います。あくまで大衆演劇の世界の魅力を研究成果としてまとめたかったはずです。鵜飼さんが構想していた「観客論」も、私が言うようなものではないでしょう。

 また、フィールドワークをはじめる以前に、大衆演劇に強い関心を抱いていたということもないはずです。このことは、プロローグからも明らかです。そのことを隠す気もなさそうです。

 鵜飼さんは、とにかくフィールドワーク、それも生活まるごと入り込むような参与観察調査がしたかったのでしょう。

 楽屋で思ってもいなかった誘いを受け、鵜飼さんは「ぼくは「やらなあかん、やらなあかん」と、それだけを繰り返していた」[前掲: 8]、「どこまでやれるかわからないが、やってみよう。この機会をのがしたらもうあとがない」[前掲: 10]と自分に言い聞かせるようにして、大衆演劇の世界へ飛び込んだようです。

 あとがきには、次のような告白も見られます。

何かにハマっていきたい、無我夢中になりたい、そうできればもっと楽になる、こう何度思ったことだろう。参与観察とかフィールドワークということばは、そんな私には充分に魅力的だった。

 社会学で参与観察による本格的なエスノグラフィーといったら、『ストリート・コーナー・ソサエティ』くらいのものだったようです。

長期間の参与観察、およびそれにもとづいて書かれたエスノグラフィーは、残念ながら、今日までわが国の社会調査の歴史にしっかりと根づくことはなかったし、正当に評価されてきたともいいがたい。社会調査法をうたった著作の中でも、参与観察調査に関しては申し訳程度にしかふれられていないものがほとんどである。また、そこで紹介されているのも、おきまりのW.F.ホワイト『ストリート・コーナー・ソサエティ』など、海外の事例ばかりだ。そして、だれもきちんと実際にやったことなどないくせに、「対象をいきいきと描くという長所はあるが、データ収集や解釈が主観的になりやすい」といった評価だけは下されている。[鵜飼 1996: 31]

 参考にするものがほとんどない状況で、このような調査をして、研究成果をまとめるのは大変なことだったと思います。

■エスノグラフィーへのこだわり

 言ってみれば、鵜飼さんは「自分を変えたい」という理由でフィールドワークにチャレンジしたわけです。

 研究の目的をはっきりさせず、分析枠組みや見通しも立てないまま調査に入れば、まとめる段階になって苦労するのは当たり前です。しかし、フィールドワークのきっかけが「妙に気になったから」「魅力を感じたから」という素朴なものであっても、いけないわけではありません。

 気になるとか、魅力を感じる時点で、何か自分の中に引っかかるものがあるはずです。それが何なのかを突きつめていけば、なぜその対象を扱わねばならないのか、どんな視点で理解していけばいいのかは見えてくるのが道理です。

 しかし、実は、こうした志向は批判されやすいことでもあります。たとえば、フィールドワークの対象となる人びとにとって、興味本位で自分たちの生活に入り込んで欲しくないし、好奇の目を向けられたくないといったことが考えられます。鵜飼さんの場合、劇団の責任者の方から「論文を書きたいなら、劇団に入ってみたら?」と誘われているので、この点は問題にならなかったのかもしれません。それでも、劇団の関係者からは「暴露本扱いを受けた」とあとがきに書かれています。

 トラブルを避ける意味でも、研究の目的をはっきりさせておいて、インフォーマントの了解をえておくことは大切です。「何のためにここにいるのか」が曖昧だと、「こいつは何をしに来たのか」と怪しまれる原因になってしまいます。

 また、目的がはっきりしていれば、何を調べるべきかも自ずと導き出されます。鵜飼さんの日記には聞き取りすらうまくできないジレンマが語られています。

聞くことは部外者のすることなのだろうか。見、学び、体験するとき、聞くことはかえってさまたげになりかねないのだろうか。その場から自分を浮かせるだけなのだろうか。[鵜飼 1994: 65]

 劇団員の一人として生活しながらの参与観察調査では、聞き取り調査では当たり前にできる問いかけも「根掘り葉掘り聞く」「他人の腹を探る」ような行為になってしまうので、鵜飼さんは知りたいことがあっても直接的に訊ねることができませんでした。また、徒弟修行の中では、訊ねごとをすること自体が「ひとに訊く前に自分で考えろ!」と叱られることになりかねないことでした。

 しかし、参与観察調査では「訊ねることが難しい」状況という自体がデータとなるので、それを嘆いているのは本末転倒です。

 参与観察をする目的の一つは、自分の知らない世界について、深く理解したいという欲求を満たすことです。鵜飼さんは大衆演劇に強い関心があったわけではありませんでした。劇場に足を運んだきっかけは、たまたま目にした新聞記事でした。これは大衆演劇の世界が、鵜飼さんがそれまで暮らしてきた世界とは遠いものであることを意味しています。

 また、鵜飼さんは「何かにハマっていきたい、無我夢中になりたい、そうできればもっと楽になる、こう何度思ったことだろう。参与観察とかフィールドワークということばは、そんな私には充分に魅力的だった」と書いています。大衆演劇を知ったのは偶然だったとしても、その世界を深く理解してみたいという欲求は強くあったのです。

 その思いはエスノグラフィーであることへのこだわりにも現れています。ホワイトや中村さんがそうだったように、対象となる人びとの生きる世界を、ある程度独立したものと見なして、その世界について深い理解をしたいという欲求、そして、それを、その世界を知らない多くの人たちに読んでもらえるような著作物にしたいという思いが結実したものが、エスノグラフィーであると言ってよいでしょう。

 つまり、エスノグラフィーがエスノグラフィーである条件の一つとして、調査者である自分をどのように位置付けるのかを考える必要があるように思われます。

 鵜飼さんの「私エスノグラフィー」には、研究者としての自分が前面には出てきません。プロローグも、あくまで大衆演劇の参与観察に入る経緯を説明するために、自分自身の体験をふりかえって紹介するものであり、そこにいるのは大衆演劇の世界を一歩引いて分析する存在ではありません。註釈の中には、本文中の「ぼく」に対して、分析する「私」が出てきますが、註釈の分析はあくまで舞台裏に「添えられた」ものです。

 また、あとがきでは、このような形で研究成果をまとめた自分に対する割り切れないさが現れています。正確には、自分が形にしたものに対して、割り切れない思いがありつつも、割り切って開き直ろうとする姿が現れています。

 これは『残響のハーレム』のあとがきにも見られたことでした。エスノグラフィーならエスノグラフィーだと言い切ってしまえばいいのに、わざわざ言い切ることへのためらいを表沙汰にするのです。あるいは、エスノグラフィーであることなど、言う必要もないのに、言わざるにおれない事情があるようです。なぜでしょうか。

 これはつまり、エスノグラフィーをエスノグラフィーたらしめる条件が曖昧であるためだと思います。そして、その条件は調査者である自分をどのように位置付けるのかにかかわっているのではないでしょうか。エスノグラフィーであることへのこだわりとためらいは、このことを照射しているように思われます。(2023年3月14日(火)更新)

参考文献

鵜飼正樹、1985「大衆演劇における人間関係——市川H劇団の事例」『ソシオロジ』31(1): 95-124。

鵜飼正樹、1988「大衆演劇はいかに演じられたか——大衆演劇におけるパフォーマンスと型について」『季刊人類学』19(3): 115-204。

鵜飼正樹、1994『大衆演劇への旅——南條まさきの一年二ヵ月』未来社。

鵜飼正樹、1995「大衆演劇における芸能身体的の形成」福島真人編『身体の構築学——社会的に学習過程としての身体技法』ひつじ書房: 297-355。

鵜飼正樹、1996「大衆演劇の参与観察」『フィールドワークを歩く——文化系研究者の知識と経験』嵯峨野書院: 31-38。

第5回 『介助現場の社会学』を読む

 

■別に読まなくていい今回の独り言

1)文体の問題がすでに出ているな。