怠け者の社会学

第1回 怠け者とは何か

■なぜ怠け者について考えるのか

 この「日雇い労働者のつくりかた」というのを書くにあたって、毎回書き出しをどうするのかということが課題になります。これだと思える書き出しを思いつければあとはすらすらと半ば自動筆記のように書き進められます。しかし、この書き出しが決まらないばかりにいつまで経っても書き出せず、何ヶ月も過ぎてしまうということがありました。本来1年くらいで終わる予定の連載が足掛け3年もかかったのはそういうわけです。

 しかし、今回はそんなに悠長にやっている場合ではありません。というのは、今回の「日雇い労働者のつくりかた」は具体的な論文作成のためのものだからです。

 前の時も「修士論文執筆の準備作業として」とか「修士論文からこぼれ落ちるエピソードを拾い上げるため」といった目的があるにはあったのですが、あまり実際の論文執筆の役には立ちませんでした。今回はすでに締め切りが差し迫っている論文執筆のためにこれを書いています。

 すでに締め切りが差し迫っている論文のためにこんなことをしているのはすでに悠長なのではないかという気もしますが、何しろ僕は今スランプまっさかりで、こうでもしないと突破口が見出せないような心持ちでいるのです。

 そして、今回の論文のテーマに「怠け者」ということが関係しています。この論文は「社会的排除」をテーマにした本の一部になる予定で、「排除のリアリティ」を伝えるようなものを書くことを求められています。

 「社会的排除」というのがそもそもなんのこっちゃという感じですが、要は誰かが誰かを排除する背景とか仕組みを明らかにするということで、僕は「怠け者を排除する」ということについて考えてみようと思ったわけです。

■怠け者は排除されるのか

 「怠け者を排除するということについて考える」と自分で言っておいてなんですが、はたして怠け者は排除されるのでしょうか。

 怠け者は排除されるというより淘汰されるという感じがします。前提とされているのは努力を積み重ねることでよりよい身分や状況が得られるという競争原理で、努力を怠(おこた)る者はそうでない者に比べて不利な身分や状況におかれても仕方がないという考え方です。

 これはいわゆる「自業自得」という考え方ですね。がんばればがんばった分だけ誰だって報われるのに、がんばらなかったのだから、どんな状況に陥ってもそれは自分の責任だというわけです。

 しかし、「がんばればがんばった分だけ誰だって報われる」というのは本当でしょうか。確かにそういう面はあるのでしょうが、「誰もが等しく報われる」とは言えません。そもそも生まれ持った能力が異なるし、生育環境も異なります。「ものすごい努力家だが、要領が悪くてなかなか報われない」という人もいれば、「大した努力はしていないが、とても要領がいいので労少なくして得るものは多い」という人もいるでしょう。

 とはいえ、仮に同じ条件の者同士を比較した場合には「努力は報われる」ということは言えそうです。

なぜ努力をしなければならないのか

 ところでそもそもなぜ努力をしなければならないのでしょうか。

 「努力をすればするほどいい暮らしができるから」でしょうか。しかし、そこそこ暮らしていければ、別にいい暮らしなんてできなくていいという考え方もあるはずです。もっとも、そこそこの暮らしを送るためにはある程度の努力は必要になるのかもしれません。そう考えると、多かれ少なかれ私たちは努力しながら暮らしているということになります。

 「努力をすればするほどいい暮らしができるから」という考え方は「努力を怠ると落伍者になる(だから努力が必要だ)」の裏返しでもあります。「落伍者」というのは集団から落ちこぼれた人間で、「集団が求める水準に達しないがゆえに見捨てられた人間」、「見捨てられても仕方のない人間」ということです。

 ここに来て、「集団が求める水準」というものが登場します。ある集団の一員であるためには、その集団の目的を達成するために寄与する能力を一定以上の水準で持っていることが求められます。そして、一定以上の水準の能力を維持するための努力が求められます。

 集団が求める水準が定められていて、これが努力することで誰にでもクリア可能なものだとすれば、努力を怠った者が集団から淘汰されるのは仕方のないことだと言えそうです。平等な条件と平等なルールに則って能力を測った結果、水準以下として切り捨てられるのを排除とは言わないはずです。学校のテストで60点未満が落第だとして、59点以下の人が「合格から排除された」とは普通考えません。

■排除とは何か

 ということは、正当な基準以外の理由で、ある人から集団の成員の資格を奪う場合は「排除」だと言えるのではないでしょうか。

 例えば集団に定員があって、集団が求める水準ギリギリのところで並びあっている人間が何人かいる場合、定員オーバーの人間を切り捨てなければなりません。集団の生産力には限界があって、一定以上は人員が増えても生産力が上がらないという場合が考えられます。集団を維持するためには定員オーバーの人員を切り捨てなければならないのですが、集団が求める水準ギリギリのところで人材が横並びになっている場合はどうやって切り捨てる人間を選べばいいのでしょうか。

 このような状況になって初めて「排除」という視点からの議論が可能になります。例えば、年齢を理由に切り捨てる場合や性別が理由になる場合があるかもしれません。「将来性の有無」なんてものもあるかもしれないし、「日頃から努力する姿勢が見られるか否か」とか「素直に言うことをきくかどうか」などといった性格面に立ち入った判断が下されるかもしれません。

 そして、僕が問題にしたいのも、この最後のあたりのことということになりそうです。「怠け者」には「怠け者は淘汰される」という自然淘汰的な扱われ方と、「怠け者は切り捨てられても当然だ」という排除を正当化する論理としての用法とがあるわけです。

 前者と後者では「怠け者」の中身が異なります。前者が物事の道理を述べているに過ぎないのに対し、後者は「怠け者はいけない」という価値判断を含んでいます。怠け者はなぜ「いけない」のでしょうか?

■怠け者はなぜ「いけない」のか

 イントロダクションで「本文の記述自体は相変わらず実際的な文章でつづりたい」と言ったくせに、理屈ばかりの第1回になってしまいました。結構長くなってしまったので、ここでいったん切りたいと思います。

 「怠け者はなぜ『いけない』のか」を考えるためには、「怠け者とはどういう人間のことなのか」を考えなければなりません。この一つの答えは、すでに述べたように「努力を怠る者」のことです。しかし、これを排除という視点から見る場合、この定義だけでは現象を説明できません。

 そこで次回からは「怠け者」がどういう人間を指すのかについて、飯場労働者の事例をもとに検討していきたいと思います。

第2回 誰が怠け者か

別に読まなくていい今回の独り言

1)集団には必ず「求める水準」があるような書き方をしているが、これは利益集団の場合で、共同体の場合は必ずしもそうではないな。共同体内でも利益を追求する側面はある。しかし、水準を満たさないからといって切り捨てていいと単純には考えないのが共同体のはずだ。それも何だか本当かどうかわからんけど。ゲマインシャフト(共同社会)とゲゼルシャフト(利益社会)というのは古い考えだけど、この概念を用いる意義はどこにあるのだろうか。テンニースがこの概念を用いて指摘したかったことは、この2つの対立関係だったのだろうか?

2)だから情意考課というどうとでも解釈できる人事考課があるのかな。

3)切り捨てる資格を持っているのは「集団の求める水準を高いレベルで満たしている者」ということになる。「集団の求めるもの」にはいろんなものがあるのだろうけど、誰かを切り捨てる、排除する「権力」を持てるのは質的ないし量的に集団にとって必要なものを持っている者だ。

4)正直言ってこの第1回はしんどいぞ。論点の整理という意味では必要な気がするが、論点の整理としても不十分に思える。あるいは結構しんどいテーマを取り扱っているということか。怠け者であることを理由に誰かを切り捨てることが、排除ではなく正当なことだと思われているメカニズムを明らかにしなければならない。この辺がややこしくて、僕は論文を書けないでいるのだろう。「このテーマだったら1回分は書けるな」と思えるテーマを1回1回クリアしていた前の「日雇い労働者のつくりかた」とはもう全然違うな。ゴールへの道筋がどうなっていて、道程がどれくらいかが分からないまま、手探りで書いていかなければならないということになる。