怠け者の社会学

第10回 それでは何を考えるべきか

■『怠ける権利』を読んでみた。

 前回、『怠ける権利』は絶版だと書きましたが、平凡社から昨年復刻されていたようです。注目が高まっているということなのでしょうか。

 また、僕はこの本を読んでないと書きましたが、何カ所か付せんが挟まっているところを見ると一応読んでいたようです。読んだことすら忘れていたくらいですから、きっと読み解き方が分からなかったのだと思います。

 今回、自分なりに考えをまとめてから読んでみると、結局ラファルグが言っていることも自分が考えたこととそう変わらないのだということが分かりました。むしろ、19世紀には既にこういうことを考えていた人がいて、しかし、21世紀になっても同じようなことが課題となっているということに驚きました。労働概念をめぐっていろいろ難しい本が出ているけど、既にラファルグの時点で答えが出ていたようです。

 この『怠ける権利』という小論には当時の人名や出来事などが多数出てきて、それらについての知識が無いために多少読みづらい感じはしますが、当時の時代状況を踏まえてラファルグが「今言うべきこと」を言ったのだと考えると、材料を変えて今僕らも同じことを言えばいいんだなと思えます。

 何も難しいことはないのです。

■それはそれとして、何を考えるべきか

 自分には理論的な部分が欠けているなと思って、いきなり理論について考えはじめてしまったのですが、よく考えてみると、これまで僕がしてきた議論というのは「勤勉と怠けは虚構である」ということで、理論化という営みの対極にあるようなことです。

 僕の立場からだと「『怠けとは何か』と考えること自体に意味がない」と言っているようなものです。「理論化しようということ自体あんまり意味ないよ」という話をしてきたくせに、「理論的な部分が欠けているから考えよう」というのは何ともうかつな話です。

 しかし、漠然と「理論的な部分が欠けている」という実感はあって、考えてみようとはするわけですから、何か欠けているものがあるにはあるのでしょう。そもそも「理論的な」ものとは何なんでしょうね。

 僕が第8回までかけてやってきたのは「勤勉」「怠け」というカテゴリーが便宜的に用いられて現場で排除が行なわれるメカニズムを明らかにすることでした。そういうメカニズムを明らかにしたところで、「じゃあ僕たちはこの問題にどう取り組んでいけばいいの?」ということが次の課題となると思うのです。

 僕たちの最終的な目的を「1日3時間だけ働く権利を獲得すること」だとしましょう。これを達成するのにまず必要なのは、働きすぎようとする自分をやめにすることです。なぜ働こうとしてしまうのか。そういえば、ただでさえ日本はサービス残業が多い国だと言われています。会社人間だったお父さんが退職後に生きがいを喪失してしまう「ぬれ落ち葉」現象だとか、休日にやることがなくて会社に行ってしまう男たちの話などもあります。

 僕たちはなぜ働きすぎてしまうのでしょうか。食べていくために最低限の収入が必要だということはあるでしょうから、貧しいほど「出来るだけ働いておこう」という計算が働くということはありえます。また、誰かより劣っていることを理由に職場から排除される可能性が考えられる場合、ほんの一歩二歩でも他人より勝っているようにアピールしておく必要があるでしょう。これは僕がこれまでしてきた議論と重なります。同じように、何か物事を成し遂げる達成感を味わいたいとか、自分自身の有能さというアイデンティティに関わる問題もあるように思います。

■戦略的怠業について

 監督者の見ていないところでは怠けるということがあります。これを戦略的怠業と呼びましょう。人は怠けられるところでは怠けるのです。がんばっても評価されない部分でがんばっても仕方ありません。

 怠けられるところで最大限怠けるというのは、僕たちの目的を達成するための消極的戦術として使えるかもしれません。依然として労働の中にあるとしても、働くことから距離を置くことはできるからです。

 しかし、やはりこれはラファルグの言う「怠ける」こととは別物でしょう。ここでの「怠ける」は仕事のペースを落とすことで、自分にとって完全に自由な時間ではありません。バレるとクビになったり、何らかのペナルティをくらう危険があります。また、実際よくある話なのですが、下手に仕事を遅らせると長時間の残業がついてきて、結局労働時間が長くなってしまうということがあります。

 残業になったら残業代がもらえるからいいじゃないかと思われるかもしれません。しかし、現場で働いている人間の実感としては残業は全くありがたくありません。残業になって疲れて、しかも休息時間が減るとなれば、翌日の仕事にひびいてきます。これが積み重なれば体を壊して仕事を休まねばならなくなることも考えられます。そうなると結果としてマイナスになります。

 そうなると「戦略的怠業の意義を考察する」という方向も僕にはあまり意味のあるものとは思われないのです。

■結局は事例研究か

 「働きすぎてはいけない。怠ける権利を獲得しよう」と言われても、実際にはなかなか怠けられない状況があるわけですよね。

 また、うっかりすると労働の中に楽しみとか喜びを発見して働きすぎてしまっているということもあります。

 僕たちは働く中でいったい何をしているのかを考え直してみた方がいいのかなあと思います。労働時間の中にいろんなものが入っていて、これが労働時間内に起こるがために「労働」のタグを付けていますが、それはあまりに大雑把ではないでしょうか。

 働くことは苦役で、苦役は苦役として必要なのだから、妙なことを考えるのが間違いの始まりです。いらんこと考えるから使用者にだまされるのです。

 前回、僕はこのようなことを書いています。「労働は苦役である」――ということは、苦役でないものは労働ではありません。この前提に立って労働と労働ではないものを区分けしてみましょう。

 理論的云々言っておいて僕の話は結局事例研究になってしまうようなところで、第2部の始まりです。(2009年10月19日(月)更新)



第11回 苦役と苦役でないもの

別に読まなくていい今回の独り言

1)毎回どこに落とすかで次回書かねばならないことが決まるので自然と慎重に筆を進めることになる。

2)この読み物だと僕はやたら改行する。何故か。まあ、レイアウト的に考えて改行しないとパラグラフが長くなりすぎて読みづらいということがある。しかし、この「読みづらい」というのは何か。僕はこれを論文に直す時には内容はほぼそのままで、ごそっと改行を減らす。論文の場合はある程度ボリュームのある文章を飲み込んでいって欲しいからだ。一方、この読み物の場合、あまり考え込んで欲しくないというところがある。文意を読み込みすぎて、想像力の枝葉をそぎ落として欲しくないと思う。何より僕自身があまり議論の方向を絞りたくないというのがある。そもそもよく分からないことについて書いているのだから、下手に絞ると議論が行き詰まるのが見え見えだからだ。論文に直す段階ではもう主張したい方向ははっきりしているわけだから、議論が絞れていかないと困る。うん、だから改行は気にせずした方がよい。

3)「日雇い労働者のつくりかた」形式のいいところは普通言われていることを無視してとっぴょうしもないことにいきなり取り組んでも構わないところかもしれない(もっとうまい言い表し方がありそうだな)。