怠け者の社会学

第11回 苦役と苦役でないもの

■僕はいったい何を考えようとしたのか

 現在、2010年の6月11日です。だいぶ時間が空いたので、なぜ僕が「苦役と苦役でないものを区分けしてみる」などと考えたのかまったくわかりません。苦し紛れに適当なことを言っただけだったのでしょうか。

 当初の課題だった論文を書き上げ、出版に向けた修正作業をしているうちに時が過ぎ、その他の原稿や非常勤の講義などに追われているうちに『怠け者の社会学』の更新はとんざしてしまいましたが、その間に考えていたことはここでの議論に連動しています。

 「僕たちは働く中でいったい何をしているのかを考え直して」みるというのは、「労働とは何か」という問いに言い換えることができます。ことは労働概念にまつわる問題なのです。これまで何冊か労働概念の再考にとりくんだ文献を読んできたのですが、これらの議論には労使関係の視点がすっぽり抜け落ちていることに気づきました。

 労働環境の変化や技術革新と関連した労働への意味づけの変容を考察する議論があります。この議論の中では働くことそのものは望ましいことであるという前提があって、労働をいかに価値のあるものにするかが追究されていきます。労働とは富を生み出すものであったり、自己実現に不可欠なものとしてとらえられているのです。

 労使関係に注目した議論においても、労働が搾取されている限りにおいて労働は苦役であり、搾取を生み出す労使関係を見直せば「望ましい労働」が手に入るのだという前提に立っているようでした。搾取されなければ労働は苦役ではなく、喜びのみをもたらすとは、僕にはとても思えません。第9回で述べたように、われわれは「やらざるをえないことだけど、ぎりぎり切り詰めて3時間までしかやらない」くらいで済ませたいものが労働だという立場に立たねばなりません。

 そして、おそらく、その上で苦役に拍車をかけるのが労使関係なのではないでしょうか。

■苦役でないものとは何なのか

 搾取を生み出す労使関係を見直せば「望ましい労働」が手に入るのだと考える背景には「実際にわれわれは労働の中で喜びを見いだしている場合があるではないか」と考えるからだと思われます。ここで問題なのは、果たしてそれは労働に固有の喜びなのかということです。それが本当に喜びであるなら、何も労働という枠内で営まなくともよいはずです。

■労働に価値はあるのか

 人間が自然に対して働きかけ、自分(たち)の生活を豊かにする。だから、労働には価値がある、価値を生み出すものだから労働には価値があるというわけです。

 しかし、これは後づけの定義です。ある行為と行為の結果に価値を見いだすのは、それを評価する社会的な背景があってのことです。もっと具体的に言えば、個人が所属する社会集団の中で価値があると認められ、個々人の考えはどうあれ、その集団のために必要とされたものが労働だということです。

 この時点で労働とは集団に強いられるものであり、苦役となる要素を持ちます。しかし、その労働の成果が自分自身にとって充分得るものがあると感じられるなら苦役とは言えないかもしれません。毎日のつらいトレーニングに耐えて、最終的に勝利を手にするというゲーム的な楽しみもあるでしょう。

■ゲームは成立するのか

 しかし、これだけ社会が複雑になり、分業が進むと、利益と苦役のバランスが取れているのかどうか実感としてよくわかりません。苦役を楽しみに転化するゲームの論理も、どこからどこまでがゲームなのか不透明になるとモチベーションが上がりません。ゲームの勝利が大した価値を持たなくなったり、ゲームに勝利しても約束されたものが手に入らないようになれば、もはや苦役がふくれあがるばかりです。

 かといって、ゲームから降りて我が道を歩もうにも、この社会ではすでに生活の糧はゲームの中からしか得られなくなっていて、仕方がないのでなんとかしてゲームにのめり込めるような解釈を工夫しなければなりません。

 そう考えると、何をゲームとするかは個人単位まで切り詰められていて、「自己実現」とか「やりたいこと」探しというのは、どう考えても苦役としか思えないものを我慢する工夫を自分でしろというむちゃくちゃなことになっているのが現状のように思えてきますね。

■労使関係の中へ

 ところで、本当にゲームから降りる道はないのでしょうか。

 社会があまりに大きすぎるので、僕たちはそう信じ込んでいるだけなのかもしれません。

 本心ではいやだいやだと思いつつ、実際には引き受けなくてもいいことを気づかないうちにわざわざ引き受けてしまっているということだって考えられます。この「気づかないうちにわざわざ引き受けてしまっている」ことを自覚するところに活路が見出せる気がします。

 実際の労働の中では出来事があまりにミクロで、その場その場で熟考する余裕もないので気づけないままになっていることがあります。こうしたことはマクロな構図からみれば明らかだったりするのですが、マクロな構図がミクロな場面のどこにどのように働いているのかということが、僕らには案外わからないのです。

 ご存知のように僕はミクロなちまちました状況を分析して議論するタイプの研究者なので、具体的な労働の現場に注目し、特に労使関係をひっくるめて実際の行為や行為への意味づけ、人々のやりとりなどを分析して、われわれがどこで何にどのようにからめとられているのかを明らかにしていきたいと思います。

 そして、これは「日雇い労働者のつくりかた」なので、あくまで事例は日雇い労働者、今回の場合は引き続き飯場労働者を事例として進めていきます。(2010年6月18日(金)更新)



第12回 飯場労働の労使関係

別に読まなくていい今回の独り言

1)書き始めてから書き終えるまで一週間かかっている。時間が取れない。つらい。しかも、どうしてもこのやり方は時間がかかる。どれくらい時間がかかるかも読めない。

2)わりと理論編っぽいことがまとまっているな。

3)飯場労働者の事例に特有なことをはっきりさせるという課題がまだ残っている。これがなかなか見えてこない。大規模な分業体系の最末端に位置づけられているというのは特徴の一つだとは言えそうだが、これだけでは不十分だな。もっと議論を深められるはずだ。