怠け者の社会学
|
|||
第13回 使用者の認識と飯場労働者の実態のすれちがい ■普通とは何か 使用者の認識と飯場労働者の実態のすれちがいについて見ていきましょう。このような事例はいくつも思いつくのですが、どれから紹介するのがよいでしょうか。 まず、第5回で登場した水野さんの言葉に注目してみましょう。「日雇い稼業」についてレクチャーしてくれた水野さんは、働きながらその会社や仕事についていろいろコメントを添えてくれました。どれも印象深い面白いお話だったのですが、その中に使用者の認識の間違いを指摘するようなものがありました。 「河合建設の仕事はあまり来たくないんや」と水野さんが言う。水野さんによると「河合建設はダラダラ仕事をする」「決まり事がない」「人夫出しから人間が来ていることを知らない。そういう意識がない」「口答えしたらあかん」のだという。(2004年2月12日(木)のフィールドノート) 河合建設というこの日の派遣先の会社についての不満を水野さんは述べています。水野さんの発言のうち、ここで重要なのは「人夫出しから人間が来ていることを知らない。そういう意識がない」という部分です。彼が不満に思うようなことの原因はここから来ていることが暗に指摘されているとと考えられます。 「人夫出しから人間が来ていることを知らない」とは、そもそも「人夫出し飯場」というものがあることをよくわかっていないということだと思います。「飯場」という言葉を知らないし、知っていたとしてもその内実はわかっていないでしょう。せいぜい、我々が会社の「寮」に入っていて、「そこから現場に通ってきている者もいる」のだと受けとめている人はいたかもしれません。僕がこの時入っていたB建設という飯場を河合建設の人たちは「普通の」建設会社の一つだと思っているはずです。 ここで僕は「普通の」とかっこ付きで書きました。実はこの「普通」というのは中身のない言葉です。「普通とは何か」を定義することはとても難しいのです。もしかすると「普通」のもの、「普通」のことなど具体的には存在しないのかもしれません。誰しも、どんなものでも具体的に見ていけば一つや二つおかしなことが見えてくるはずです。ここで重要なのは、「普通」とは「『私とあなた(あるいは彼ら)は同じだ』と思うことができる」ということです。 「私とあなた(彼ら)は同じだ」と思うこと、思われることは大切なことです。「私とあなた(彼ら)は違う」ということになれば、一気に排除の理由になるかもしれません。仲間になれない、異質な人間・異質な集団を無理して受け入れることはないということになってしまうかもしれません。そうならないためには「同じだ」と考えてもらった方が都合がよいはずです。 ただし、ここで問題となるのは「同じだ」ということになると、実際にはある差異はないことになってしまうということです。もちろん、細かな差異があるのは当たり前ですから、ある程度の差異については配慮がなされ、許容されていきます。しかし、この差異が大きすぎると「配慮するには余りある」ということになってしまいます。 ■「普通」の境界 「普通」とはとらえどころのないものですが、しかし、相互行為の中では実際に人々を縛る力となります。とらえどころのないものではありますが、相互行為の中で共有されたり、共有することを前提として話を進められることで、「普通」というものの境界はその都度、ぼんやりとはしていますが引かれるものなのです。 では、飯場労働の現場で共有されている「普通」とはどのようなものでしょうか。これをおぼろげながらでもとらえようとするなら、やはり相互行為の場面を見ていかなければなりません。例えば次のような事例です。 仕事中、河合建設の江口さんに「休みの日は何しとるんや」「そろそろ給料日やないんか?」と聞かれる。月末給料日って…この人飯場のシステム知らないの?(2004年2月23日(月)のフィールドノート) 河合建設の江口さんのこのような質問に僕は答えようがなくて口ごもってしまいました。江口さんのこのような問いかけは「普通」の会社なら給料日は月末、25日前後という認識を前提としています。ご存知のように、飯場は実働の期間契約ですから、月単位の給料日などありません。10日契約なら仕事のなかった日を除いた実働の10日目が給料日で、この段階で飯場を出る人もいれば、契約を更新する人もいます。 もっとも飯場に長くいる、いわゆる固定層の人たちの場合、日給月給ではありますが、月末に給料日が便宜的に設けられていました。使用者にとって持続的な長い付き合いをするのは固定層なので、飯場労働者に関する認識も固定層についてのものが基本となっていくと思われます。したがって、江口さんの認識はまったくの間違いではありませんが、飯場労働者には固定層と流動層があり、流動層を活用することで需要と供給のバランスをとっているのが飯場です。飯場というシステムをまったく理解していないことが彼の発言から窺えます。 その他の事例も見てみましょう。河合建設の場合、飯場についてほとんど知識がないようでしたが、会社によってはもう少し事情に通じている場合もあります。 休憩中、中居さんと井上さんが現場での呼ばれ方について話していた。固定層の中居さんが流動層の井上さんに「自分より年上やと思ってましたもん」と打ち明け、井上さんが「ショッックや(笑)」と話していた。そのことを皮切りに「おっさん言われたら(仕事)やる気なくすなあ」と井上さんが話しだす。「土工さん」と呼ばれるのはまだいい。「土方」と言われると腹が立つ。名前が分からなくても会社名で「高木(建設)さん」「B(建設)さん」と呼ぶのが普通だ――と言う(高木建設はこの日の派遣先の会社。自分たちのB建設は飯場の名前)。 ここにはまた別の問題がありますが、ひとまず確認しておきたいのは高木建設は河合建設とは違って、飯場がどういうところか、人夫出しがどういうものかをある程度知っているということです。次の事例を見て下さい。 高木建設から迎えが来て、現場に向かう車の中で明日の日曜日に誰か出てくれと高木建設の社長が言うので、みんなの間になんとなく緊張する雰囲気が広がるのがわかった。井上さんが「1回満期にしたんですよ」とよくわからないことを言う。この場では誰が行くかは決まらなかった。 井上さんがこのようなアピールを行なえるのは、飯場が実働の期間契約であることを含めた飯場の実態について高木建設の人が知っており、ある程度理解してくれるものと期待できると考えているからでしょう。いずれにせよ、「普通」の境界がその都度引きなおされていることが分かるでしょうか。 ここでもう一つ問題を付け加えると、飯場を自分たちの境界内に受容していて、寛大さを持ちえているように見える高木建設ですが、やはりどこかで「普通」ではないものとの境界を引いています。高木建設の人とB建設の固定層の労働者とが流動層を含む休憩の場でこんな会話をしていました。僕と井上さんは最初、2人きりで作業していて、僕が大学院生であるということまでは行きがかり上話していました。 昼食休憩の時に僕が大学院生で、実は飯場や労働のことを研究するために働きにきていることを現場のみんなに知られた。高木建設の人に言われてみんなのコーヒーを買いに出る時、プレハブの中で「若いなあ」と話し始めるのが聞こえた。おそらく僕のことを話題にしているようなので、これは井上さん話しちゃうな、と思った。バイトのために来ているんだということで話を合わせてたら「研究でもしとるんかと思ったわ」と言われたので、実は研究なのだということも話した。高木建設の人に「俺たちはモルモットか!」と笑われる。井上さんは「俺のこと論文に載るかもしれんなあ」などと言って何やら喜んでいた。 高木建設の人にとって「土工」という仕事そのものの否定的側面が語られています。自分たちの仕事自体の理解と飯場理解とは何らかの親和性を持っているのかもしれません。しかし、一方で釜ヶ崎については「人の住むところじゃない」というように、明らかに「普通じゃない」場所として外部化して語られています。高木建設の人に異論なく同意しているふうな小川さんも、もともとは釜ヶ崎から飯場にやってきたはずだし、自分自身釜ヶ崎にいたがゆえに起こった事件を話題にしているにもかかわらず、自分は釜ヶ崎とは距離のある人間であるように語っています。 飯場について理解しているなら、飯場が釜ヶ崎からの求人で労働力の需要と供給のバランスをとっていることを知らないはずはありません。しかし、釜ヶ崎については「普通」の境界外への排除が行なわれています。そして、これは契約を終えれば釜ヶ崎へ帰っていくであろう井上さんの目の前で公然と行なわれたやりとりであるということも見逃せません。 ■排除と包摂と配慮 先ほど「別の問題がある」と言ったことについて今度は見ていきましょう。飯場労働者は自分が人夫出し飯場から来ていることを隠さなければならない場合があると認識していることを述べました。これがここでの問題です。 河合建設の場合も、飯場労働者を排除しているわけではありません。もちろん、飯場や飯場労働者について知らないために、自分たちとは異なる事情を持つものへの配慮は欠けていますが、配慮はないものの労働力として招き入れている時点で労働力としては包摂していると言えます。 しかし、河合建設で働く場合、飯場労働者は自分たちが人夫出し飯場から来ているという事実を隠さなければなりません。人夫出し飯場の労働者が抱える事情を語ったところで河合建設の現場では通らないし、理解を得られないことがわかっているからです。飯場労働者は河合建設のやり方に合わせることを一方的に求められる立場に置かれます。 河合建設の場合、労働力としての飯場労働者を排除はしていませんが、飯場労働者の事情やその存在形態などを潜在的に排除しているというふうに見ることができます。この意味で排除と包摂は裏表の関係にあると言えるかもしれません。相手の事情を無視した包摂は、「あなたがどういう人かは知らないが、われわれに合わせられないのであればこの場から去ってくれて構わない」という排除の圧力を暗にかけ続けることに他ならないというわけです。配慮のない包摂など、体のいい排除に過ぎないのではないでしょうか。 ■労働現場の中での相互行為 これまで見てきたように、程度の差こそあれ、人夫出し飯場や寄せ場は社会の中で労働力として日常的に活用されているにもかかわらず、公然と「あってはならない」ものであるという扱いをされているのです。 さて、このような扱いをされることで、実際の労働の場面ではどのような問題が起こるのでしょうか。次にこの点について見ていきたいと思います。 別に読まなくていい今回の独り言 1)2010年7月2日(金)に書き始める、と。 2)2010年7月3日(土)に書き終わる、と。思ったよりすらすら書けた、というより、思った以上に考察が深まったので面白かった。参与観察の難しいところは、疑問に思ったことがあってもそれについて深く追究することがなかなかできないということだ。「なぜ?」「どうして?」を聞けるか否かは現場での関係性いかんに関わってくる。関係が良好であるがゆえに聞けないことだってあるし、フィールドでの時間は進行形なので、深く話を聞くタイミングがつかめず、チャンスを逃してしまう場合だってある。もっと長く調査をしていれば、お願いして改めて聞き取りの場を設定することもできるかもしれない。しかし、飯場という人の出入りが激しく、ある意味で個人主義的な場所で聞き取りの場を設けるのはなかなか難しいと思う。今回もちいた事例はその時その時面白いと思って聞いていても、細部を聞き取ることも出来ず、「こんな断片的な情報だけ集めて果たして論文がかけるんだろうか」と不安を募らせていたのを覚えている。しかし、今回の分を書いていて、事例と事例をだぶらせて、重層的に記述を提示していけば解釈の幅を広げていくことができることがわかった。これがギアツの言う「厚い記述」にあたるものなのだろうか。今もう一度ギアツを読み返せば、今度はもっといろいろ読める部分があるかもしれない。 3)あと2回で終わりかな?第14回で労働現場での事例を扱って、第15回で考察して、最後に「おわりに」を書いて終わりと。やれやれー。どうせ誰も読んでないのになあ。 4)この「怠け者の社会学」もfactreeでの連載みたいに右にフレーム付けられたら格好いいし読みやすいんだけどなー。レイアウトだけでもよくするとぐっと読者が増えるように思うのだが。そんな難しい技術じゃなさそうなんだけど、なかなか独力ではできない。ホームページ作成講座とかあったら一度受講してみたい。 5)修正したけど、「高木建設の人にとって「土工」という仕事そのものの」から「公然と行なわれたやりとりであるということも重要である」の部分だけなぜかであるだ調になっていた。なぜだ。考察に入り込みすぎていたんだろうか。 |
|||