怠け者の社会学

第14回 労働現場の中での相互行為

■「10のうち、8か9やってくれればいい」?

 というわけで、いよいよ労働現場で実際に働いている時に労使間でどのような行為と意味づけがなされているかを見ていきましょう。

 「第3回 使用者の基準」で僕は具体的な事例抜きでさらっと「何をどこまでやればよいかというルールを定めるのは使用者であり、しかも、使用者はこのルールをゲームの途中で変えてしまうこともできる」と述べていますが、ここでは第3回で述べたことを事例をもとに改めて考えてみようと思います。

 ここでもどの事例から入ればいいのか迷うのですが、手始めに次の事例から見ていきましょう。

 午前10時の休憩時間、プレハブで休んでいたら軽トラで休んでいた監督も入ってきた。「難しいことは要求しとらんのやで。10のうち11も12もやれとは言わん。10のうち8か9やってくれたらええんや。5じゃ困るけどな。2人呼ばんといかんやろ」と僕たちに向かって語りだす。なるほどと適当に相づちをうちながら聞いていたが、他の2人は聞き流していた。(2004年6月30日(水)のフィールドノート)

 この日、僕は「〈現金〉を呼びすぎたから」という理由で「食い抜き」(宿泊費・食費などの飯代無料ということ)の休みにされていました。しかし、この現場に配属されていた労働者のうちの1人が仕事が始まってすぐに怒って帰ってしまい、代わりの人間をよこすよう注文を受けたということで、急遽休みだった僕が出勤することになったのです。

 監督のこの発言はその帰ってしまった人の態度を問題にしてのものだと思われます。「自分は過分な要求はしていない。いくらか余裕のある範囲で頼んでいるはずなのに、それで怒って帰ってしまうのはわがままだ」と言いたかったのでしょう。

 そんなことは本人に言ってもらいたいものですが、八つ当たりないしうっぷんばらし含みではあるものの、彼は同じ集団に所属する者たちに対して仕事のモラルを説いていたわけです。彼の飯場労働者への期待を表現する言葉だと言えます。

 「10のうち11も12もやれとは言わん。10のうち8か9やってくれたらいい」というのは寛大な言葉のようにも思えますが、そもそもその10というのはどういう規準からはかったものなのでしょうか。規準によってはその10というのはそもそも12くらいのものかもしれません。

 交代要員として配属された僕が最初に指示されたのは整地という作業で、帰ってしまった人がやらされるはずだった作業はこれだったのだと思われます。しかし、僕は整地の経験がほとんどなかったので、結果的にもう1人の人にやってもらうことになりました。

 現場について、プレハブで準備をして外に出る。社員の人が怒られている。監督「帰るようなやつよこすな。ちゃんと働く奴よこせ」とユンボの上から くどくど文句を言い、社員の人はひたすら謝っていた。

 ユンボで砕石を撒きながら後退していく後からついていって、高さを合わせながらならしていくように言われる。普通、レベルという器械で何ヶ所かポイントを決めて規準となる高さを出して、そのポイントとポイントをつなぐようにならしていくのだが、ここの現場ではオートレベルという器械を使っていた。僕はオートレベルというのを初めて見た。使い方が分からない。平田さんという長期の人が教えてくれる。一定の高さに固定された発信器のようなものがあって、その高さに来ると反応する受信器を持たされる。その受信器を使って自分でポイントを作りながらならしていけという。

 言っていることはわかるが、これまで使ったことのない器械だし、整地自体あまり経験がない。戸惑っていたら「砕石ならしやったことないんか」とユンボの上の監督から言われる。素直に認めると、「やったことないもんやったらあかんわ、代わってもらえ」というので、離れた場所でハリ(建物の基礎のために地面を成型したもの)にビニールフィルム敷いてガムテープで止める作業をしていたもう1人の人に代わってもらう。その人もあまり自信はないようで、「わし遅いけど」と監督に言っていたが、「ゆっくりでええから」と言われてこなしていた。簡単で楽そうな仕事と代わってもらうのは申し訳なかったが仕方ない。いつできるようになるだろう。  交代した作業を始めるが、すぐ休憩になった。10時だ。(2004年6月30日(水)のフィールドノート)

 この時にはわからなかったのですが、これから何年か経って僕も経験を積んで整地ができるようになりました。これについては「日雇い労働者のつくりかた」の第8回と第9回「どうしてできるようになるのか 前後編」で詳しく触れています。整地というのは言ってしまえば「地面を平らにならすだけ」ですが、言うほど簡単なものではありません。

 この時、この監督が要求していた「10のうち8か9」の中身を検討してみましょう。

■整地作業の何が大変か

 まず、整地を1人でやるのは大変です。ユンボで大雑把にまかれた砕石をふりわけていくだけで大変です。また、平らになっているかどうかを見極めるのも神経を使います。平らにするにはそれなりの経験と技術が必要です。やっかいなのは、どの程度平らにすればよいのかは個々人の判断によって異なってくるということがあります。

 整地というのは、コンクリートを打つ前の下ごしらえの作業です。コンクリートはそのまま基礎になりますから本当の意味できちんと平らに打たなければなりませんが、逆に言えばコンクリートを打つ仕上げの段階でちゃんと平らになっていればいいので、整地の時点ではそれほど厳密に平らにする必要はないのです。

 とはいえ、「ある程度」平らにする必要はあるわけですが、これが「どの程度」なのかは使用者個人の几帳面さや仕上がりへのこだわり、全体の作業の進み具合などによって左右されます。労働者の側にはその辺の事情は分かりませんから、適当に判断しながら作業しなければなりません。雑すぎれば怒られるし、丁寧にやりすぎても注意されます。つまり、使用者の合格点を探ること自体に神経を使わねばならないわけです。

 この現場の場合、使用者と1対1でこの作業をやらされるという点でまた神経を使います。使用者に対して複数人でやる場合、作業者全体の能力の平均値が決まってくるので「この程度まではやれる」というレベルは自ずと定まります。1人でやる場合だと、作業の負荷と作業者の能力や努力の度合が釣り合っているのかどうかが見えづらく、作業者が「怠けている」ように見えがちになってしまいます。例えば、複数人でやっていればお互いに一息つきながらやることもできますが、1人では単にサボっているように見えてしまいますし、そのように見られてしまうことを意識させられます。

 監督は「ゆっくりでいい」と言ってます。監督が砕石を撒いた後で淡々と整地していけばいいなら、もしかしてそれでもいいのかもしれませんが、監督の砂利撒きの見積もりが悪かった場合、砕石を足してもらったり、取り除いてもらったりを頼まなければなりません。両者がやることは切り離されているわけではないので、どうしてもユンボに引っ張られるような形の作業になります。これも神経を使います(そして、こういうことは「やらせる側」にはあまり分からないことのようです)。

 しかもポイントを出す作業までオートレベルで随時やれというのは結構うんざりします。砕石を撒いてならす作業とレベルを出す作業は全く違う次元のもので、これらをとっかえひっかえやらなければならないのはやはり負担なのです。オートレベルの受信器には棒がくくりつけられていて、発信器の信号に反応したところでその棒が地面と垂直になるように調整して、砕石が少なければ砕石を足し、垂直になる前に地面にあたってしまうようなら砕石を掘って取り除かねばなりません。宙ぶらりんの受信器を規準に地面との垂直をはかるなんてどれだけ面倒くさいことか(この辺りの記述を読むことの面倒くささはそのままこの作業の面倒くささを反映していると言えますね)。

 この時の作業範囲は小型のユンボ1台のアームが左右に振れる範囲内ということでしたが、これを延々と何十メートルと要求されました。こんな作業をオートレベルでやらされてはかないません。普通、測量の作業は2人一組で行ないます。器械を覗いて高さを測る人間と、高さを出す地点でスケールを持って実際のポイントをつけていく人間がいます。この作業自体がちょっと手間のかかるものなので、ある程度の範囲で高さを出し終えたあとで整地作業にかかります。2つの作業は工程としても分かれているわけです。

 オートレベルも2つの工程として作業を分けてやらせてくれるならそう悪くはないと思います。監督からすれば、オートレベルは1人で使えるもので、整地も1人でやるには広すぎるというほどでもない範囲(使用者の考える10)であり、ゆっくり進めてくれてもいい(8か9)のだから、これを嫌がるのはわがままだという理屈になるのでしょう。

 技術革新による労働強化というのはこのように進展するのですねえ……。そりゃキレるわ。

■飯場労働者に固有の問題

 一つ目の事例が思いのほか長くなってしまいましたね。そもそも要求する水準が高すぎることに使用者が気づいていないということがわかりました。もっとも、これだけではどのような労働にも起こりうる問題です。飯場労働者に固有の問題について、次に見てまいりましょう。

 前回の最後のところで「人夫出し飯場や寄せ場は社会の中で労働力として日常的に活用されているにもかかわらず、公然と『あってはならない』ものであるという扱いをされている」と述べました。ここでの問題も結局はこれに関わってくることです。

 前回、「人夫出しから人間が来ていることを知らない」という水野さんの言葉を紹介しました。僕の「飯場日記」を読んでもらえばわかるように、ずぶの素人でも飯場に入ることができます。もちろん経験者であることが望ましいし、高齢者や傷病者は敬遠されます。「若い」ということは一つの価値を持っており、「若さで乗り切れるだろう」という期待をかけられます。

 この結果、飯場の労働者それぞれの持つ経験や技術はかなりまばらなものになります。水野さんのように日雇い稼業に就いて20年前後という人もいれば、飯場に入るのは初めてだという人もめずらしくはありません。もともとなんらかの建設労働に従事していたという人でも、飯場労働者の土工仕事の勝手はなかなかわからないものであるようです。

 もう何度となく触れていることですが、飯場労働者の仕事は多様であり、これは「何でもやらなければならない」とか「土工は汚れてなんぼ」(とにかくがむしゃらに取り組めという姿勢を求めていることを表現した言葉だと思われます)などと言われるようなものです。飯場労働者は補助的な労働力として活用されます。補助的な労働力として活用されるということは、ある工事について最初から最後まで継続的に関わる機会が少ないということを意味します。特別労働力を必要とされるタイミングで現場に投入され、その作業が終わってしまえばお役御免となります。したがって、特定の作業を反復的に習得する機会を得ることが難しいのです。

 また、飯場労働の経験の長い人であっても初めてやる作業に出くわす場合があります。例えば、高木建設の人と小川さんの以下のようなやりとりがありました。

 高木建設の人が土工仕事についてアドバイスをくれる。「土工は難しいで。昔はただスコップが使えりゃよかったけどな。今は何でもやらにゃいかん」という。「新しいこと増えてわしでもよう分からん時あるわ」と冗談まじりに言って笑った。高木建設の人が「何度やっても覚えんやつおるな」と言うと、小川さんが「アホなやつは何度やっても覚えん」とコメントした。

 土工の仕事の多様さは使用者自身が認めるようなところでもあります。しかし、いかに多様であってもある程度のパターンはあると思われます。また、配属先の会社に定番のやり方や定番の作業というのもあるはずで、一つの飯場に定着し、その飯場が抱える配属先の会社をまんべんなく経験した労働者は、その飯場にいる限りでは「オールラウンダー」に成長していくはずです。飯場を変われば配属先の会社も変わり、やり方や作業内容も変わってくるので、彼も万能ではなくなりますが、その飯場にいる限りでは「ベテラン」と言えるでしょう。

 前回述べたように、使用者の飯場労働者に関する認識は固定層についてのものが基本となっていくと思われます。かといって、使用者が期待するような「能力がない」ことを責められるいわれも飯場労働者の側にはないのです。飯場労働者間では「最初は出来ないのが当たり前」だという認識は共有されていますし、やったことがないことや自信のないことについては「言われたことをやっていればいい」という形で自分の能力外であることをきっぱり認めます。

 しかし、飯場労働者のそのような事情を知らない使用者は容赦がありません。「人夫出しから人間が来ていることを知らない」会社である河合建設の事例を見てみましょう。

 外壁の裏の斜面をユンボが掘削してならしていく。そうすると大きめの石がこぼれ落ちてきて、ユンボのアームが届かないところまで来るので、スコップですくってアームが届くところまで投げ返してやらなければならない。別の現場で他の人がそういうふうにしていたので、やらなければという意識はあった。しかし、ユンボが豪快に稼働している中で手を出していいものかどうか、どの程度の大きさの石まで取るべきなのか、ある程度石がたまってからやった方がいいのではないかなどと思案しているうちに、角谷さん(この現場での河合建設の責任者)にやはりこの作業をするように指示されたので、やりはじめた。

 実際のところ、こういう作業は必ずやらなければならないことではない。ユンボが掘削を始めたものの、この日の作業が具体的に何なのか僕たちは教えられていなかった。ユンボの補助をするべきなのか、それとも別の作業を指示されるのか分からないまま、宙ぶらりんの状態で放置されていたとも言える。しかし、指示されるまで石を投げ返す作業をしなかったことで、角谷さんには僕たちが「気が利かない」という印象を与えることになったようだった。

 ユンボの掘削が一段落した後もなかなか指示がなかった。何もせずにぼーっとしていては居心地が悪いので、とりあえず斜面に残った凹凸を踏み固めて平らにする作業を自主的に始めた。しかし、そもそも斜面を丁寧にならす必要があるのかどうかも分からない。もしかしたら、無駄なことかもしれないと思うと今ひとつ力が入らないでいた。角谷さんはユンボから降りた江口さんと打ち合わせをしていたが、僕の作業の仕方を見とがめて「ならしてくれるんなら道具使ってやれ」と言ってレイキを持ってきた。僕のレイキの使い方が気に入らなかったようで、僕の手からレイキを取り上げて「やる時は力入れてさっさとやらんかい」と言って実演した。「(こんなこと)平らにならそういう気があったらできることやない?」と嫌味を言った。

 「○○くん(筆者)はあまり土工はやったことないんか?」と角谷さんに聞かれた。角谷さんはさらに「この2人は土工の経験ないんか?」と江口さんに尋ねた(この場にいたのは僕と〈現金〉で来た田崎さんで、田崎さんも土工は経験がないと後で聞いたが、今日たまたま来ただけの田崎さんについて江口さんが知っているはずがない)。

 しばらくして、この日の仕事は排水パイプと排水口の設置であることがわかった。何をやるかを教えてもらえれば迷うこともない。しかし、この時点で僕は「初心者で仕事ができない」「使えない」という位置づけにされてしまっていて、作業しながらもいちいち角谷「しっかりやらんとどこの現場にも呼んでもらえんようになるぞ」「その辺の女の子の方がまだ力あるんと違うか」、江口「先輩のやることよう見てちゃんと覚えいよ」などと嫌味を言われた。(2004年2月27日(金)のフィールドノート)

 この事例については解釈が難しいところがあります。怒られたのは僕自身の思い切りの悪さ、要領の悪さの問題ではないかと思われるかもしれません。しかし、問題としたいのは飯場労働者が置かれる状況です。結局、この日の作業は排水パイプと排水口の設置でした。しかし、このことは実際に作業に取り掛かる直前までわれわれに伝えられることはありませんでした。実際の作業に取り掛かるまでのユンボでの掘削作業は何もしないでいると手持ち無沙汰であるくらいには長いものでした。おそらく、この間僕たちにやってもらいたいこと、やらせたいことは無かったのです。待ち時間にやってもらう作業を考えて指示する方が手間だったでしょう。

 しかし、だからといって何もせずに休んでいればいいというわけではないのです。僕たちに特別やらせることがない場合でも、使用者は僕たちが「気を利かせて」勝手に何か「適当なこと」をやってくれることを期待しています。何が「適当」であるかまでは使用者自身考えていませんし、これはその時の状況や背景と経験的な過去の作業の文脈とが呼応して明らかになるようなものです。そして、経験はともかく、状況や背景については労働者は常に使用者より情報が少ない状態に置かれます。

 話が少し横道にそれました。ここでは第3回で触れた「何をどこまでやればよいかというルールを定めるのは使用者であり、しかも、使用者はこのルールをゲームの途中で変えてしまうこともできる」ことを、具体的な事例を通して考察しました。しかし、今回重要なのは、経験が少ないことを飯場労働者が責められるいわれは無いということです。

■それでも労働は素晴らしいものか

 人夫出し飯場を理解していない河合建設は「普通の建設会社の労働者ならこれくらいは出来て当たり前」という立場から飯場労働者のことを見ています。しかし、飯場は「普通の建設会社」ではありません。

 経験が少ない労働者も含めて、緊急的な労働力需要に応えるのが人夫出し飯場の機能です。したがって、「労働者の質が悪い」と文句を言うのはもともと筋違いなのですが、「一般的な社会認識」からは人夫出し飯場や寄せ場のような存在は既に抜け落ちているのが実状で、筋違いであると主張すること自体難しくなっています。飯場労働者はその存在形態を「一般的な社会認識」からは排除されつつ、労働力としては包摂されており、この認識と実態のズレから生じる問題は飯場労働者が労働現場で背負わされることになっています。つまり、飯場労働者にシステムの矛盾を補完させるような権力作用がここに働いているのです。

 それでも、搾取を生み出すような労使関係を見直すことで、労働は「望ましいもの」になるという見方は拭えないかもしれません。僕は労使関係を権力関係として見ています。使用者は労働者に「言うことをきかせる」ことができるのです。そして、労働者は使用者の想定の範囲外で起こっている労働の負荷を背負わされがちです。

 ところで「望ましい労働」とはなんでしょうか。「望ましい労働」を主張することは、労働者は労働の中に喜びや楽しみを見出していて、誤った労使関係が無ければ、人々はこの喜びや楽しみだけを純粋に享受できると想定しているということではないでしょうか。

 次回、最後に労働の中の喜びや楽しみといったことについて考えてみましょう。(2010年7月9日(金)更新)





第15回 労働の中の喜びや楽しみ

別に読まなくていい今回の独り言

1)2010年7月7日更新開始。

2)重要なことを忘れていた。「労使関係を改善すれば望ましい労働が手に入る」わけではないことを言わなければならないのに、このままでは「労使関係を改善すればいい」という結論にまっしぐらの議論をしている気がする。しかし、問題は労使関係というより、やはり社会構造ではないか。

3)うーん、具体的な中身に入って解説しだすと書いていてぐっと面白みが出るなあ。ミクロな分析のうま味を使いこなせるようになりたい。

4)ミクロでマクロを引っくり返す。ミクロでマクロを引っくり返せる臨界点までミクロな記述を敷き詰めていく。

5)「厚い記述」って何だろうな。事例の数が多いということではなさそうだ。一つの事例を細かく解きほぐしていって、綿密に記述することを「厚い記述」と言うように思う。

6)「一つの事例でこんなに語って、がめついやっちゃ」と思われるかもしれませんが、一つの事例を細かく分析できるのは汗水流したフィールドワークをトータルに経過した上での気付きなんですよ!データが薄いとか少ないとかいうやつは死ねばいいのに。えーと、直接言われたことはないかもしれませんが。

7)解釈を厚くするのはいいんだけど、ある意味「不要」な解釈もあるはずだ。「不要」な解釈の記述をどうやって見極めてどうやって取り除いていけばいいのか。とりあえず書き上げてみないとどれが「不要」かもわからんかな。

8)解釈学的なアプローチもライフストーリーを基本としているベルトーの見解とはずれてくる。ギアツも方法論的に詰めて語るような人ではない。この辺を整理する余地は残されているかもしれない。一番近いのは箕浦康子の「マイクロエスノグラフィー」なのかと思うが、まだちゃんと読めていない。鯨岡峻の「エピソード記述」に言及するべきか否か、するとしたらどういうふうにどこまで言及するか。エピソード記述に特徴的なのは、調査者自身の視点がデータの記述に含まれているところ。しかし、これは現象学的な心理学だからすんなり許容されることかもしれない。社会学に応用することを納得させるにはちょっと工夫が必要になる。悩ましい。

9)何も言われない状態で自分で仕事を見つけてこなすというのは、なかなか難しい。下手なことをすると逆に怒られる危険がある。自信が持てないなら手を出さない方が無難なのだ。

10)その社会の構成員全体にとってどの程度の富の蓄積が必要かの合意が必要となるか。

11)下からルールを作っていく必要があるか?

12)労働の中に楽しみや喜びを見出すことがあるのはともかく、それを追いかけてしまってはヤバい。「気づかないうちにわざわざ引き受けてしまっている」危険があるんだ。労働者自身が気づいていないのだから、知らず知らずのうちにそれが労働強化につながり、気づいたら檻の中ということは充分に起こりうる。だから、労働の中に主観的な価値を見出してありがたがるべきではないんだ。