怠け者の社会学

第15回 労働の中の喜びや楽しみ

■労働の中の喜びや楽しみとは何か

 労働の中の喜びや楽しみとは何でしょうか。例えば職場で友だちができる。その仕事友だちと会うのが楽しい。一生懸命働いて汗を流すこと自体が喜びだとか、自分の仕事ぶりが評価されること、金銭的な対価を得ることなどが考えられます。

 「職は人なり」という言葉があるように、とにかく働くということは単なる生活手段以上の意味を持たされがちです。苦しい、辛いばかり言っていると「それは正面から仕事に向き合っていないからだ」と説教されてしまいそうです。「仕事とは自分で喜びを見出していくものだ」とか。

 しかし、これまで繰り返しいっているように、それは果たして労働・仕事だから得られるものなのでしょうか?知り合いができたり、達成感を味わったり、評価されたりといったことは、あらゆる社会生活の営み、他人との関わりの中で得られるものではないでしょうか。

 多分、喜びや楽しみを得ることの意味は、その人の社会的な地位や人間関係の在り方と関わってくる問題なのです。そして、労働や仕事という場面ではそれが色濃く表れるということだと思います。

■自分で考えてやりとげる喜び

 第4回で扱った「有能さへの志向」とは、要は達成感を得ることだと言えます。ここで重要なのは単に与えられた課題を処理するということではなく、少なからず自分でやり方を考えて、そのプランによって自分の力でやりとげるということです。

 しかし、仕事というのはある程度やるべきことややり方が決まっているもので、なかなか自分のやり方でやるというわけにはいきません。その中で残されている工夫の余地を見つけ出し、活用することで達成感を得るチャンスを作り出すことができます。

 よく「昔の職人の仕事には仕事の喜びがあった」とか、「機械化や合理化が進んで熟練が必要とされなくなると仕事は単調でつまらないものになった」とか言われます。これは熟練が必要だとされる作業には作業者自身の工夫の余地が多く含まれていたからでしょう。

 飯場労働者の仕事は「手元」仕事であり、建設労働の現場では工夫するチャンスがもっとも少ないポジションにあります。しかし、労働者たちはそのことに価値を見出し、チャンスをうかがっています。手元仕事の中でも自分で工夫したり、自分のやり方を生かす場面は残っています。

■自分の仕事を見出す二つの局面

 ところで「自分で工夫する」というと自発的な行為のように思えますが、自発的に仕事を見つけるよう促される場合があります。第14回で「やってもらいたいこと、やらせたいことがないにもかかわらず、何かをしていなければならない」という状況を紹介しました。そうしなければ労働者は怠け者扱いされてしまうのです。

 「やらせることがない」のは使用者の責任であるはずなのに、労働者がきちんと仕事をしていないような構図にはめ込まれてしまいます。そこで労働者は「勤勉」を装わなければなりません。

 しかし、ここで行なわれるのはあくまで便宜的な「勤勉」であり、労働者の方も適当に手を抜いています。ここで実質的には怠けることもできます。

 使用者が指示を出さないのは段取りがうまく組めていないからです。労働者に何をしてもらったらいいのかが使用者自身まだ見出せていないわけですが、だからと言って手を止められるとますますどうしたらいいかわからなくなってしまうので、労働者には「何かをしていてもらいたい」わけです。

■意味のない作業と意味のある作業

 この便宜的な「勤勉」は言ってしまえば意味のない作業です。しかし、意味のない作業なりに役に立っています。これは手を止めずに次の段取りへのスムーズな移行を準備する作業であり、段取りの欠陥から起こる作業ロスをうまく折り返すための潤滑油となっています。

 また、意味のない作業、その内実を無視されているものだからこそ、そこから意味を作り出していく余地があると言えるでしょう。この意味のない作業をやらなければならない状況というのは、仕事全体の進め方そのものが模索されている状態で、この事態を好転させる契機は飯場労働者がやらされている「意味のない」作業の中から見いだされるかもしれません。

 飯場労働者は仕事の進め方を考案する「構想」の部分から切り離された「実行」の部分を担う存在です。熟練の議論に見られるように、労働の意味の多くはよりよいやり方を構想する中から得られるものだとかんがえられます。こうすればうまくいくのではないかという構想の下で実行してみてこそ達成感が得られます。作業の意図も知らされず、ただ手足として実行を担わされるだけではこれは得にくいはずです。

 しかし、意味のない作業を迫られる状況においては、飯場労働者の側も、自分が置かれた立場を生かした形で構想を試みることができます。少なくともその余地は見い出しうる。

■労働の意味の終わりのない追求

 つまり、飯場労働者にも労働の意味を得るチャンスは残されているわけですが、ここで飯場労働者は労働の意味を追求していくべきなのでしょうか?結論から言えば、ここで労働者が労働の意味を追求していくことは、彼らが置かれた立場の構造的な矛盾を維持し、ますます見えなくしてしまいます(使用者の不手際を問う機会を自分から放り出してしまうわけですからね)。「怠け」は「怠け」のまま受け止めて、それ以上労働にのめり込むべきではないのではないでしょうか。「勤勉」でも「怠け」でもなく、労働から距離を置くことを考える必要があるように思います。

 「勤勉」と「怠け」は対立する概念で、前者は望ましく後者は望ましくないものと一般に考えられています。しかし、ここで見てきたように「怠け」は「勤勉」の中に混じり合っていて、それ自体で求められているものでもあります。

 労働から得なければならないのは意味ではなく、生きる糧であるはずで、生きる糧を得るための労働はそもそも苦痛であるという立場から「怠け者の社会学」は考えています。したがって、意味で苦痛を薄めるのではなく、苦痛である労働の絶対量を減らすことを提唱します。

 労働にでも喜びは見いだしうることは否定しませんが、何も労働の中で見いださなくてもいいのではないでしょうか。そもそもの根っこが苦痛であるものに執着するのはあまり賢いこととは思えません。

 少なからず迷走しながら書き進めた「怠け者の社会学」ですが、これにて終幕とします。(2010年12月21日(火)登録)



おわりに

別に読まなくていい今回の独り言

1)2010年7月10日。さーて、これまでの話の流れから言って今回が最終回にあたるのはまちがいないわけだが、うまく整理できていない部分が残っているような気がする。だからといって、もう1回分ふくらませて語るほどのことでもなさそうだ。視点のちょっとしたズレ程度の問題だと思うんだけど。

2)この論考では飯場労働者に固有の問題にこだわる意味があまりないのかもしれない。ひょっとして、飯場労働者に固有の問題というのは、構造上のポジションから来る解釈上の意義に過ぎないのかな?

3)その存在形態の特殊性に対する配慮を欠いたまま労働力化されることの問題性は何か。一人前扱いされてしまう?学生のアルバイトや主婦のパート、フリーターのような非正規労働であれば、その立場に対する配慮があるとは考えられないだろうか。彼/彼女らの労働形態は一時的で限定的なものだから、使用者の期待の上限や幅は限られているのではないだろうか。しかし、飯場労働者の場合、そういうふうには見られない。出来て当たり前だと思われる。建設労働の場合、重層下請構造の中で「下働き」的な働き方が当たり前になっている?……だったらこれは飯場労働者の問題というより産業の問題だと言った方が正しい。下働き的なポジションで、賃金も安くて日雇いであったとしても、もともと請け取りで仕事をしていたような人がいる場合もある。文字通り肉体しか資本を持たない人もいるが、いろいろ技術を身につけている人もいれば重機の免許を持っているような人もいる。建設労働では労働力が安く使われる?身分はそのままで高度なことを要求される。本来なら高い賃金をもらわねばならないことでも、手元と同じ賃金でやらされてしまう。多能工的土工が求められるのと通底する問題か。

4)考えてみれば派遣切りで問題になるような派遣労働の形態があって、そのような形態の派遣労働に就く労働者が相当数いるということは既におかしな状況を物語っていないか?

5)相互行為の中から生まれるもの。認知科学的な相互行為をリソースとして見る議論が使える。

6)あれ?そうなるとやっぱりそれは怠けているのかなあ?言われた以上のことをやるっていうのは対等な立場でこそ本人の得になることだろ?やっぱり怠けの意義っていうのはあるのかな?勤勉さを求められることには際限がない。問題は労働の中で自己実現することは自分の首を絞めることになるということ。でも、それだと対等な立場、労使関係を見直せばいいという話になってしまう?

7)労働の中の喜びや楽しみということで考えるとどうなる?必要以上の喜びはいらない。

8)「労働者の自発性にかけている」という展開に持っていくから苦しくなる。そこまでうがったことは言わなくていい。データがあるわけでもないし。