怠け者の社会学

第3回 使用者の基準

■手元仕事とか不熟練労働とか

 日雇い労働者を使おうという人たちは彼らにどんな期待をしているのでしょうか。

 前の「日雇い労働者のつくりかた」を読まれた方はすでにご存知のことかと思いますが、彼らが従事する日雇い労働(一般に「手元」仕事と呼ばれます)はそうそう簡単なものでもありません。

 「土工はバカではできない」と言われるように、工夫したり機転を利かせたりすることが求められます。「不熟練労働」という言葉からは「大したことのない仕事」というちょっとバカにするようなニュアンスが感じられます。

 実際はこの言葉にそんな意味は込められていないのでしょうが、「不熟練」というネーミングは「熟練」というものが「ない」ということですから、そこに「ある」ものを見えづらくさせる効果があるのかもしれません。そして「大したものはない」と思わせてしまうのではないでしょうか。

 仕事は「熟練」だけで出来上がっているわけではないし、「熟練」以外のものもあるはずだし、「熟練」がある仕事の「熟練」以外のものと、「熟練」がないとされる仕事の「熟練」以外のものの在り方は異なるはずです。

■手元に何をさせたいか

 「手元」という言葉には「補助的な役割」というニュアンスがあります。しかし、補助的な役割にもいろいろあって、「これを補助的な役割と言うのだろうか?」と疑問に思える仕事もあります。だから、僕は「日雇い労働=手元仕事」としたくありません。せいぜい「日雇い労働≒手元仕事」にしておきたいです。とはいえ「これは確かに補助的な役割だな」という仕事もあります。

 基本的に一日毎の契約労働者である日雇い労働者にとって「明日も来てくれ」というのは、明確な肯定的評価だと言えます。「明日も来てくれ」と言われることは、「お前は俺の期待に答えてくれた」「お前は有能だ」というメッセージでもあるわけです。ある意味一人前と認められたようなものですから、いつかこの言葉をかけられるようにがんばろうと最初の頃、僕は思っていました。

 ところが、割と早い時期に僕はこの言葉を聞くことができました。以前に書いた「飯場日記」の2003年8月21日のことになります。これは僕が初めて飯場に入って、働きはじめて2日目のことです。〈現金〉で働いた場合を合わせても日雇い労働を経験するのは4日目のことでした。そんな僕が一人前であろうはずがありません。さらに、「飯場日記」の14日間のうちだけで、僕はこの他に2つの会社の人からお呼びがかかっています。このことをどう考えればいいのでしょう。

 誰でも構わない仕事だから呼ばれたのでしょうか?もし誰でもよいのなら、わざわざ続けて呼ぶ必要はないはずです。「同じ仕事なら既に一度経験している者の方が都合がいいから」ということは考えられます。しかし、どうもそれだけではなさそうです。

 おっちゃんたちは「言ってもわからない」と社長は言う。扇風機を使えといっても絶対に使おうとしない。その挙句当然倒れてしまう。「使いにくくて仕方ない」「自分で自分の首を閉めているのに気付かない」のだと言う。その点僕はまだ言われたら改めるから「マシ」らしい。(「飯場日記」8月27日より)

 この会社の社長さんがおっしゃるには、経験豊富なおっちゃんたちより僕の方が使いやすいのだそうです。僕もいろいろ間違うようですが、間違いを正すよう言えば改めるぶん、使いやすいと言います。つまり、「きちんと言うことをきく」ことが手元の評価ポイントの最低ラインなのだと考えられます。

■僕は経験豊富なおっちゃんたちより有能か

 ということは、僕は経験豊富なおっちゃんたちより有能なのでしょうか。もちろんそんなことはないはずです。経験豊富なおっちゃんたちは経験豊富であるがゆえに言うことを聞かないのかもしれません。あくまでこの時の作業内容において、僕が使いやすかったというだけの話でしょう。

 では、僕はどういう意味で使いやすかったのでしょうか。飯場での仕事の中にはある程度の技術を要するものもあります。例えば、前の「日雇い労働者のつくりかた」の第8回と第9回で「整地」という作業を例に、「どうしてできないことができるようになるのか」ということを論じました。この「整地」という作業などはある程度の経験を積まねばなかなか出来るようなものではありませんでした。

 経験を積むと自分なりの判断ができるようになってきます。そして、自分なりのやり方を工夫するようになります。時には他人の指示より自分の判断の方が正しい場合もあります。そうした場合、経験豊富な労働者は自分の判断を優先してことをうまく運ばせようと企てます。

 これは単に作業を効率的に遂行できるという目的合理的な行為ではなく、自分で判断し自分で行動することから得られる満足感を重視したものです。自分でこうすると決めたことに対し、他人から口出しされるのはあまり愉快なことではありません。自分の判断が経験に裏打ちされたものであるという自負が強ければ、口出しされることへの抵抗感も強くなります。

 ただし、その判断が実際に正しいかどうかは別問題です。前述の事例で、おっちゃんはなぜ扇風機を使わなかったのでしょうか。その理由として例えば、わざわざ扇風機をセッティングするのが煩わしかったことや、それほどの暑さだと思わなかったこと、そして、自分自身の体力への自信などもあったのかもしれません。現場用の扇風機はいちいち組み立てなければならないし、発電機を回してドラムからコードを延ばしてといった面倒臭さがあります。また、発電機の音は結構うるさいのでストレスにもなります。体力への自信はともかく、僕自身、最初は扇風機を使わなかったのにもこのような理由がありました。

 では、言われたことを忠実にやるのがいい労働者なのでしょうか。実はこの「言われたことを忠実にやって欲しい」という期待には必然的に嘘がつきまといます。「言われたこと」がどういう意味なのかが、きちんと伝わるかどうか分からないからです。

 やるべきことをすべて言葉で言い尽くすことは不可能です。言葉を尽くして説明したところで相手にそれだけの理解力があるかどうかもわかりません。その点、経験者であれば「何をやるべきか」のモデルがあるので、使用者は少ない言葉で自分の期待を労働者に伝えることができます。

 しかし、繰り返しになりますが、いくら経験豊富な労働者に対してであっても、言葉で自分の期待を伝え切ることはやはり不可能です。「ここまでやってほしい」という期待値に達しない場合もあれば、労働者の気の利かせ過ぎ、がんばり過ぎで「そこまでやらなくていい」「そこまでやられるとかえって迷惑」というケースもあり得ます。

■ゲームのルールを決めるのは誰か

 よく言われることですが、同じものを大量生産する製造業と違って、建設業は同じ作業をするのであっても毎回現場が変わるし、設計図は現場ごとに違っていてその都度条件が異なります。特に、飯場労働者や日雇い労働者の場合これが毎日異なることもあり、予測不可能な事態は増えてきます。

 労働者の口からは「会社によってやり方が違う」という言葉がよく聞かれます。同じ作業でも使用者の期待値やその中身が異なることはよくあることなのです。

 何をどこまでやればよいかを決めるのは使用者です。そして、実はその合格ラインがどういうものであるかは明確ではありません。場合によっては使用者自身の中でその日の作業の方針が定まっておらず、手探りで進行していることも考えられるのです。何をどこまでやればよいかというルールを定めるのは使用者であり、しかも、使用者はこのルールをゲームの途中で変えてしまうこともできます。

 もっと言えば、ルールは「あるようでない」のかもしれません。労働者は「何々をしろ」という指示がなくても何かをしなければなりません。指示を待っている状態は「怠けている」あるいは「気が利かない」ものとしてマイナスの評価を受けることになりかねないからです。

 その日の作業の目的ないし内容は決まっていても、それをどのような手順で進めるかが決まっていない曖昧な状態があります。作業をどのような手順で進めるかを「段取り」という言葉で言い表します。「段取り八分」という言葉があるように、段取りが整わないことには作業が進みません。労働者はよく「この現場は段取りが悪い」と文句を言ったり、バカにしたりします。

 段取りが悪いと作業がしょっちゅう中断されたり、余計な手間がかかったりするので、働く側からするとストレスになります。段取りを決めるのは使用者で、労働者にはこの段取りを理解し、飲み込むことが求められるわけです。そもそも使用者と労働者は契約の上では対等なはずで、労働者は使用者が提示する段取り通りに働けばいいはずです。

 しかし、この段取りは多分に曖昧な部分を含むため、「段取り通りに働く」のはどこかで無理があるのです。段取りの曖昧な部分から生じる無理は労働者の側が負わされます。労働者は段取りの曖昧な部分から生じる「不測の事態」に対応するために、「説明されていない/指示されていない部分」を予測しつつ働かねばなりません。これをしない者やうまくできない者は「怠け者」「気が利かないやつ」と否定的な評価を下されるわけです。

■正当化の論理としての勤勉倫理

 段取りの曖昧な部分の責任は誰にあるというわけでもないのかもしれません。有能な使用者は曖昧な部分を排して「優れた段取り」を組むでしょうし、有能な労働者は曖昧な部分とそれへの対処法を予測しつつ働くでしょう。お互いの対等な恊働関係でこれを補っていけばいいはずです。しかし、その責任が労働者に負わされがちになるのはそこに労使間の権力関係があるからに他なりません。

 権力関係があるからといってあからさまに権力をふるって言うことを聞かせる(例えば、「代わりはいくらでもいる。嫌なら帰れ」と言うとか)ことはなかなか出来ません。権力の程度が強ければ(文字通り生殺与奪権を握られているような場合)それも可能でしょうが、権力の程度が弱ければ自分の主張をもっともらしく正当化するための論理をどこかから持ってこなければなりません。それが他人を怠け者と非難する勤勉倫理なのではないでしょうか。

 一般的に、勤勉であることは望ましく、怠惰であることは望ましくないことであると思われているので、勤勉倫理にのっかって立場の弱い者をコントロールするのは容易です。ここでのポイントは、コントロールする側も勤勉倫理をすでに受け入れているというところです。

 勤勉であることと段取りの曖昧さを解決する責任とは別問題のはずですが、これらが結びつけられてしまうのが実にやっかいです。これらが別問題であることは薄々わかっているのに、なぜ私たちは受け入れてしまうのでしょうか。

 次回からはこれらが結びつけられる際の具体的なやりとりに注目し、私たちが何に絡めとられているかを明らかにしていこうと思います。(2009年9月3日(木)更新)



第4回 勤勉倫理の論理

別に読まなくていい今回の独り言

1)研究合宿で3日間離れたらもうまったく書ける気がしなくなった。モチベーション回復させるのが手間。というか、こういう読み物は意識的に書こうとするのが難しいのかもしれない。なんか邪魔ばっかり入る。こんなこと書いてどうするのか。

2)どうでもいいけど熟練というのはそんなに大したものなのか。既得権益を守るための方便じゃないのか。熟練って何?仕事は熟練だけで出来上がってるわけじゃないでしょ。

3)おっちゃんたちは言うことを聞かないのだろうか?この時の社長のおっちゃんたちに対する評価はどういうふうに出てきたのだろうか。

4)「指示を待っている状態は『怠けている』あるいは『気が利かない』ものとしてマイナスの評価を受けることになりかねない」という部分は後でもう一度言及する必要があるな。

5)何となく面白い話になってきたけど、そんなこと明らかにできんのか?